商工会議所と商工会って、どうちがうの?
渋澤栄一って、とってもすごい人だった

平成19年4月、私は、小規模企業係というところの係長になった。
商工会議所と商工会に補助金を出す仕事だ。
「商工会議所と商工会どう違うの?」という表題は、私が今度の仕事を請け負った4年間で、一番多く聞かれた質問である。
平成19年、私はこの2種類の団体のサポートをする仕事に就いた。

実のところ東京都側から見ると、「商工会議所」と「商工会」の担っている役割はほとんど同じだ。共に小規模事業所の経営改善の仕事をしている。
とはいえ両団体の生い立ちは大きく違う。
商工“会議所”は、国家に対する意見を商工業者が述べるための政策提言装置だった。
一方、商工会は、小さな商工業者が助け合うための互助組織から育ってきたもので、いわば草の根団体だった。

この2団体が、同じような役割を担うことになったのは、昭和35年に国が「小規模企業」経営指導業務を両団体に担わせたことに起因する。
それまでの小規模企業(たとえば、町中の八百屋、魚屋、よろず屋、本屋など)の経営は、自分達の個人の生活と融合していた。国は、こうした小規模企業の経営と、生活経済とを分離させようとし、帳簿の記帳などの指導を進めた。
その主体が、商工会議所や商工会だった。

さらに『マル経』と呼ばれる融資事業)(昭和48年)が、両団体の同質化を進めた。
マル経とは、「小規模事業者経営改善資金」の通称。無担保・保証人不要だが、商工会議所・商工会の指導を受けていることが条件となっている。
この融資制度が誕生したのはちょうどドルショックの時期だ。
為替レートが円高にシフトしてことによって、国内の輸出産業は大打撃を受けた。
そのころの輸出産業といえば、象徴的にはクリスマスツリーの電飾を作るような小零細企業である。
そこで国は、商工会議所・商工会の経営指導を半年間受けることを前提に、こうした小規模企業の経営改善に乗り出した。
そのためのカンフル剤が「マル経」融資だった。

商工会議所・商工会は、この融資制度をきっかけにして、小規模な会社の中に浸透していった。
その前から、商工会議所は各区に支部を作り地域の浸透を図っていた。一方、商工会は「隣近所の相談相手」といった地域未着型の団体から脱皮し、より広域的な影響力を強めていった。
結果、両団体の違いが縮まった。

仕事をするには人が必要。人を雇うには人件費が必要。その人件費を補助するのが、私たちの仕事だった(もちろん事業費も補助対象だが、比率的に言えば人件費が大部分を占めていた)。

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最初にできた商工会議所は、いわずとしれた「東京商工会議所」である。
そして、それを作ったのが、渋澤栄一という人物である。

当時、日本は諸国列強から、「商工業の世論を結集する代表機関がなく、世論を論拠とした明治政府の主張は虚構にすぎない」との批判を受けていた。
このため、政府は外国貿易振興のための商工業者の機関を必要とした。
明治11年、東京商工会議所の前身・東京商法会議所が設立されたが、これは、伊藤博文、大隈重信が、渋澤栄一に商工業者の世論機関の設立を働きかけたためと言われている。

もし、NHKさんが大河ドラマの主人公の人選に窮したなら、是非とも渋澤栄一を選んで欲しい。この人の人生、実に面白い。
関係者には叱られそうだが、私から見ると渋澤に一番近い人物は、高度成長期のスクリーンを闊歩した植木等演じる『日本一・・・』シリーズのサラリーマンだ。

渋澤は、何度もピンチに立たされ、やけくそになり、「えいやっ」と思い切った決断をするのだが、これがまた「超ラッキ~~」な結果となり、大人物へと成長していく。そこがそっくりだ。

偏った見方で解説するとこうだ。

  1. 江戸時代末期、農家に生まれたが、すでに身分制度はがたがたで、すんなり武士の身分を手に入れる。おかげで居合抜きの達人となる。
  2. 地元の役人からいじめを受け、それを根に持つ。そのため藩を転覆させようと思う。
  3. 転覆計画の直前で、説得され、関西に逃げる。計画は失敗し、荷担した仲間は死ぬ。でも、関西(=当時の商業の中心地)に逃げたことで、商業実務を学ぶ。
  4. あちこち流浪するうちに、無名だった徳川慶喜に雇われる。つまり、転覆させようとした幕府の一員になる。しかも、その才能を高く評価される。
  5. 藩の財政を立て直すために、静岡に日本で初めての株式会社を作る(1869年、明治2年)。これが当たる。
  6. 主君の徳川慶喜が、巡り合わせから幕府最後の将軍に昇進する。
    渋澤も幕府の要職に取り立てられる。
  7. 将軍の弟の随行で、27歳の渋澤は、パリの万博を見聞するために派遣される。そこで西洋の商業制度(=国際的な商業ルール)をいろいろと学ぶ。
    その間、徳川幕府が倒れる。渋澤の弟など、知人の多くがこの戦で命を失う。
  8. 帰ってきたら、敵方の明治政府に取り立てられる。
  9. ここで、渋澤は「四民平等」などの施策を起案する。
    「『(明治三年)八月二十八日 是より先、改正掛穢多非人等を廃して平民籍に編入す可き事等の布告案を起草す。是日太政官として交付せらる。』これが栄一の主宰する改正掛によって取上げられ起案されたことを知る人は少ない(渋沢栄一近代の創造 山本七平 祥伝社) 」 かつて武士にいじめられた経験が生きているのだと、私は思う。
  10. 大久保利通とけんかする。理由は、「きちんとした予算制度が必要だ」と主張したことが否定されたため。そこで、仕事に嫌気がさし、退職。そのときまだ30代そこそこ。
    憂さ晴らしに政府に「意見書」を残す。
  11. ところが、一連のいざこざに興味を持った新聞が、意見書を報道。一躍、世間から喝采を浴びる。
  12. 気がつくと、第一銀行の幹部になっている。
  13. 王子に製紙工場を作る(お札つながりか?)。
  14. そのほか、たくさんの会社の経営に関係し、その数は500を超えると言われている。
    しかも、その多くが次々と成功し、大企業として成長した。今でも、日本を代表する企業として活躍している会社は、渋澤と縁があるところが多い。とはいえ、自分の名前が残っているのは「渋澤倉庫」くらい。
  15. 晩年は、民間外交のための活動をする。
    日米間に暗雲が立ちこめる中で、「人形」の交換を通じて文化交流しようと努力した。「青い目をしてお人形は・・・」とは、その頃のことらしい。
  16. なんだかんだ言って90歳くらいまで生きた。その子、孫、ひ孫、は相当な数に及ぶ。
  17. 天寿を全うした後に、日米開戦となる。王子の邸宅は空襲で焼ける。
    その様子を、あの世から見聞する。
    運良く空襲から逃れた渋澤の書斎(晩香廬ばんこうろ=バンガローのしゃれではないかという説あり)などは現存し、記念館が飛鳥山に建てられている。
桜の時期にでも、王子・飛鳥山に行ってみてほしい。

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