突然、新しい仕事が降ってきた。
「経営力向上TOKYOプロジェクト」と呼ばれるその仕事は、当初、漠然としたものだった。 ・東京の中小企業の経営基盤の底上げをする
・そのため専門家(その大半は中小企業診断士)を、企業訪問させる
・その対象は、初年度は年間2,000社とする
・経営向上のためのツール(マニュアルや参考資料のようなもの)を用意する
・実施にあたっては、複数の中小企業支援団体の横断的な協力体制を構築する
・スタートのための『大会』を大々的に開催し、一大ムーブメントにする
ということだけ決まっていた。 私は、商工会議所や商工会の担当(小規模企業係)だったから、なりゆきで事業主体は私の係になったが、「小規模企業」の大半は商店であり、どちらかというと中堅の工業を対象とするこの事業には違和感があった。一度は断ったが、しぶしぶ受け入れた。
乗り気にならなかった理由はこうだ。
◎本事業では、専門家は原則1回しか、企業訪問しない。
そんな程度で、“中小企業の経営向上”なんてものが実現するのか?
確かに部外者からの意見を聞くことは貴重だが、「いくらなんでも1回じゃぁ・・・」。企業の『経営』をなめているんじゃないか。
◎年間2,000社なんか、とても回りきれない。
そもそも中小企業の事業主は、他人から「あーだの、こーだの」言われたくない。それだけじゃ、うまみがない。それでいて、そんな高いノルマをこなすことはムリだ。
◎ツールを作るといって、一体誰がそれを作るのか。
商業とサービス業、建設業と製造業では、教科書はまったく違ってくるし、コンパクトな統合版を作ることなど不可能だという。
◎各種支援団体の協力は得られても、どこかで利害対立に繋がる危険はある。したがって、“ゆるやかな”協力体制でないと足並みが揃わない。とすれば、強力な事務局が必要。
◎一大ムーブメントにするための大会を開くとなると、失敗は許されないが、本当にそんなことできるのか?
「商工会議所と商工会の参加をお願いしてほしい」と言われ、しかたなく、私から参加をお願いした。
検討会議の資料に「オブザーバー」という名称で私の名が載った。
その後、うかつにも「まさか、1回の企業訪問、100くらいの質問に答えるだけで、企業の経営が改善できるとは、誰も思ってませんよね」と、担当に尋ねてしまった。
次回の会議には、呼ばれなかった。
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いろいろあったが、苦労して、結果的には、「よくまぁ、ここまでやってきたもんだ」という出来になった。
最終的に、初期目標の2,000社の企業訪問は達成した。
それが、個々の企業にどれだけ貢献できたかわからないが、その後(というより抜き打ち的に)立ち上がった展示会への出展補助事業への橋渡しになったことは事実だ。
たしかに経済的利益がつけば、希望者が殺到する。
個人的には、「金で釣る」というのもいかがかな、と思ったのだが
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隠れた効果として、すでに経営が危険水域に達している企業に警告を発した点が挙げられる。
小さな企業の経営者は、自分の会社の安泰に不安を抱いているものの、他人からそれを指摘されても認めようとはしない。
本事業のように「経営をアップしますよ」という名目で企業へ出向き、「ここが危ないですよ」と助言することは、そうした頑固な経営者に対して有効である。
経営支援団体の多くは、行政からの要請を受け、「セーフティネット事業」も担当している。しかし、その担当者の多くは、こういって嘆く。
「もう1年早く、せめて半年早く相談に来てくれたなら、もっといい対応ができた。会社は潰れるのは避けられなかったとしても、もっといい潰れ方を選択できた。その差は大きい。」
「あなたの会社は危ない。助言します」と言っても、中小企業のオヤジは受入はしない。しかし、「あなたの企業は、厳しい中、よく頑張っている。でも、こういうところを改善すべきた」と言えば、ワンマンな社長であっても、心を開く。
企業経営者は、社会経済がどんなに悪くなっても、自分の会社が傾くことはないと固く信じているからだ。
反対に、「あなたの会社の経営力をアップさせます」というアプローチだと、経営者は素直に受け止めてくれる。
訪問した診断員との信頼関係が築ければ、彼らの苦言も受け入れてもらえる。
そういう機会をつくることは、無意味ではない
派遣した中小企業診断士は、「別の道を選んだ方がいい」という手厳しい助言をすることもある。
その意見に経営者が素直に従ったかどうかは定かではないが、少なくとも、企業経営の危機をいち早く知ることは、その後のダメージを小さくする上で、大切なことだと思う
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さて、経営力向上TOKYOプロジェクトの大会は平成21年6月10日(水)に東京商工会議所ホールで開催された。
基調講演は、堺屋太一氏にお願いした。講演テーマは私が命名した。
都側のトップは就任早々の佐藤副知事(前産業労働局長)だった。
500人収容の東商ホールは、立ち見が出るほどのすごい盛況だった
あまりの人の多さで、私たちは会場に入れない。
裏の廊下で中の様子を窺っていると、東商幹部のN部長が「津田さん。さて、今日の参加者は何人くらいと公表したらいいでしょうかねぇ」と聞く。
「消防法に抵触しないくらいにしておいてくださいよ」と、答えた。
それくらいの盛況だった。大満足だ。
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しかし、まぁ、準備は大変だった。
何が大変かというと、来賓の対応だ。選挙前の微妙な時期だった。
まず、誰に招待状を出すのか。席はどういう配置にするのか(〇〇党と、△△党の議員は隣同士にできない、云々)。
当日、お車で来るのか、交通機関で来るのか。車となると駐車場のスペースの確保をどうするのか。事前にそれをどうやって把握するのか。
交通機関で来るとすれば、誰がVIPをキャッチし、どうやって席にご案内するのか(VIPの顔を知っているのは都の幹部職員クラスなので、そういう人達の配置を考えなければならなくなる)。
挨拶は、誰にお願いするのか。
何分ぐらいの配分にするのか。順番はどうか。
支援団体(東京商工会議所、東京都商工会連合会、東京都商工会議所連合会、東京都中小企業振興公社、中小企業診断協会東京支部、東京都中小企業団体中央会)のトップがそれぞれ挨拶するが、それぞれの挨拶の内容が重なることのないようにするには、どうするのか。
資料の上で並べるとき、どの順番にするのか。
来賓がお帰りになる際には、誰がどこでアテンドするのか。
こういったことには、都の幹部クラスもピリピリする。
だから、案を上申するたびに、内容は二転三転する
こういった場合、当日その場での対応はほとんど不可能だ。
だから、事前につめておく必要がある。そのことは、ビッグサイトのオープニングを経験していたので、身に染みて知っていた。
幸い、事務局をお願いした東京商工会議所は、こうしたイベントには手慣れた様子で、ほんとうに助かった
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もうひとつ付け加えておく。
平成22年暮れ、円の価値が大きく上昇した。
突然、私は上司に呼ばれた。
「円高対策で緊急事業を組む。何か考えてくれ。局の総予算1億円は確保できた。」
木曜日の夕方のこと、資料の提出期限は月曜日の午前中。そんなの、普通では無理だ。
しかし、「提案すれば、予算の大部分は活用できる」と、私は踏んだ。
何より嬉しいのは、主計部が査定する時間的余裕がない、ということだ。
いつものことだが、新規事業は、この査定のプロセスでいびつに変形されてしまっていた。
だから今回はチャンス!
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私には腹案があった。
武蔵野商工会議所が、シナジースキーム事業という地域振興事業の中で、診断士らのチームを企業に派遣して経営改善を進める、という事業をやっていた。
地域振興事業という枠からすると、あまりそれっぽくないので、注目する人は少なかったが、私は前から、「チームで複数回=本当の経営力向上はこういうやり方でなければ無理だ」と思っていた。
そこで、この事業を、円高対策事業にあてはめた。
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ちょうどその頃、東商幹部のN部長に産業交流展でばったり会った。
「経営力向上のような1回こっきりではなくて、じっくり、みっちり型の支援事業を考えているんですが、どうですか」と水を向けると、興味を示してくれた。
こうして立ち上がったのが、「円高対応 企業変革アシストプログラム」だった。
ネーミングは私の発案。
経営力向上、経営改善、経営革新などよりはワンランク上であることを強調する意味で、「企業変革」とつけた。
係のY君に担当してもらいたかったので、「アシスト」とつけた。Y君はサッカー好きだったからだ。
1回で終わるものではないという意味で「プログラム」とした。
予算担当は「円高対策」という頭書きを使いたがったが、私が無理言って「円高対応」に一文字変えさせた。円高への小手先の対策に留まらない、もっとスケールの大きいものにしたかった。
支援先企業数は100社と少ない。しかし、1回あたりの支援回数はのべ10回/人と多い。
キーパーソンを1人決め、その人が「必要な人材」を呼び寄せる。資格は問わない。「〇〇に詳しい人」だけでよい。例えば、ベトナムに進出しようとしている企業だとすれば、「ベトナム駐在が長かった人」を手配することもできる。そうした道具立てで、その企業向けの支援プログラムをオーダーメイドする。
そして、経営者と支援者が一体となって計画実現に向かっていく。10回まで支援可能としたのは、そのくらいでないと両者とも本気にならないからだ。さらに、東京近県に工場など持っている企業も多いので、そこへの訪問診断も可能とした。実務的に面倒な旅費の計算も、思い切って簡略化させた。
いろんな意味で、冒険だった。
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偶然の結果だが、このアプローチ方法は、先の経営力向上TOKYOプロジェクトとは、真逆のものだった。
今では、名前ややり方は少し変わり、そもそものアンチテーゼだった「経営力向上」と合体させられたが、“アシスト”は今も続いているようだ
そして、専門家がより高度な専門的人材を呼ぶという仕組みは、その後担当した、TOKYOイチオシ応援事業にも移植した。
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円高のどさくさ紛れとはいえ、いい事業を作れたと、自己満足している。
ひょっとしたら、リストラ続きの私の36年間の都庁人生で、本当に生み出せたのは、これだけかもしれない。
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