Wの死
人の生って、とてもあっけない

2009年(平成21年)8月28日10時12分、Wが死んだ。“間質性肺炎”という病気だった。簡単に言うと「肺」が堅くなる病だ。

知らせがあったときは、なぜか悲しさを感じなかった。彼が死んだという実感が、感じられなかったからだ。新聞の社会面を読んで、「また人が死んだな・・・」と思うのと、同列だった。
これまで、友人の親の葬式には何度も出ていたが、つい先日まで話をしてきたヤツ、しかも、50年の付き合いがあるヤツが、あっちへ逝ってしまったのは、初めての体験だった。
Wは、その生よりも死によって、私の人生に大きな影響を与えた。

3ヵ月ほど前に、神奈川の病院に入院中の彼を見舞った。
5月の連休頃、腕(肘から手首、外側にかけて)の皮膚に異常があり、診断を受けた。膠原病のような症状が出ていて硬直化している。このため、皮膚とその下の筋肉をそぎ落とす手術を受けた。
同時に受けた健康診断で、食道に初期の「がん」が発見された。これも合わせて手術する、という話だった。
“癌”と聞いたので、友人達はあたふたと連れ添って彼を見舞ったのである。

Wは元気とはいえないまでも、普通だった。自分の腕の手術跡を携帯で写真にとっていて、「どうだ、すごいだろ」という感じで、見せびらかしていた。
癌も初期なので、あまり心配していない、むしろ、見つかって良かったという感じだった。

Wの一番心配していたのは、病院の入院費の工面。難病認定してもらえるので費用は軽減されるのだが、その手続きを退院後「自分がやらなければならない」ので悩みだという。
そして、二番目が「肺に異変が感じられること」だった。
「子供がようやく中学生に上がった。小さかったら大変だった」とも話した(「まだ小さいじゃないか」と同席した誰もが思ったが、口に出さなかった。)
当然のことだが、3か月後に自分が死ぬとは、本人も考えていなかった。

その後、彼の食道癌の手術が無事終わったという知らせがあり、早晩退院となるだろうということで、安心していたところへの、葬式の連絡だ。
弟の話だと、トイレで倒れて、そのままだったという。
W自身、自分が死ぬとは思っていなかっただろう。
ある意味、幸せな最後だと思うが、それにしても、53歳は若すぎる。

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Wと知り合ったのは、はるか昔、小学校時代だ。家が近くで、帰り道はいつもいっしょだった。
しかし、そのころの記憶は、単なる「連れション仲間」であること以外は、あまり覚えていない。
私が、昆虫博士だったの対し、Wは鉄道博士で、国鉄の駅名などはよく諳んじていた。

小学生の頃からどこか“厭世的”だった私と比べると、Wはとても常識人だった。終生無口なヤツで、あまり出しゃばって何かするようなタイプではなかった。中学へ進学し、クラスが別れるとWとも疎遠になった。
たまの飲み会や旅行で顔を合わせるようなこともあったが、多くは話をしていない。

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そのWと再び付き合うようになるのは、草野球に誘われた頃(昭和56年)である。
そもそも運動オンチの私は、野球なんかに興味はなかった。しかし、Wは違った。毎朝の練習は決まって出席し、キャッチボールすら、ろくすっぽできなかった私に、熱心に付き合ってくれた。
こっちは、休みの日に朝早くから練習なんかしたくなかったのだが、Wの熱心さにしぶしぶ従った。

当時はしばしば徹夜で有楽町交通会館前に並んで、巨人戦のチケットを買った。
Wは大の巨人びいきで、選手の応援歌もCDで買い、ダビングして仲間に覚えるように指示していた。「嵐来てもガリクソン!」と我々は大声で歌った。
その後、東京ドームが完成。「後楽園球場が解体されるのを見て、涙が出たよ」と、彼はつぶやいた。

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そのうちWは、品川の私の家に居着くようになった。
祖母を失って、私は一人暮らしだったが、8時頃仕事から帰ると、当たり前のようにWが我が家にいて、ビールを飲みながらナイターを見ている。
「よぅ、帰ったか」と出迎えてくれた(オレのウチだぞ!)。
当時、貧乏だった私の家には、鍵がかけていなかったので、誰でも入れた。だから、野球チームの倉庫代わりになっていた。誰でも出入り自由だった。
野球を見たりドラマを見たりして、とりとめもない話をして、帰る。ウザイときもあったが、何だがホッとするときもあった。不思議な関係だ。
後になって想像すると、彼は家に帰りたくなかったのかもしれない。私の家からW家までは、徒歩5分弱。しかし、彼は父親と仲が悪かった。だから、私の家の方が居心地がよかったのだと思う。

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Wは国の職員になっていて、農林水産省の統計事務所というところに勤めていた。いわゆる「作柄」の調査をするところで、毎日、車を走らせては農家を巡回していたらしい。
昔の引っ込み思案さは相変わらずだったが、それでも後輩の面倒見はよく、職場の福利厚生なんかの世話焼きもずいぶんやらされていたようだ。

Wはとても酒が好きだった。しかも、決まって最初に酔いつぶれるのはWだった。
とても女に惚れっぽかった。しかし、それでいてオクテだった。面と向かって告白なんかできるタイプではなかった。とはいえ、家庭を持ちたいという願望は強かった。
そういう憎めないヤツだった。
仲間ウチでは、「誰か、いい子を世話してやらなくてはいけないんじゃないか」と心配していた。

そんなWだったが、ある日、女房をもらった。
「○子さんを、私にください」と、彼女の親に話を付けに行ったのが彼にとって人生の重大事だったらしく、いつまでたっても独身の私に対して、「どうだ、すごいだろ」ってな感じで、何度も自慢していた。
そして、家を持ち、子供が生まれ、2009年4月には所長に昇進し、まずまずの人生を歩んでいた。
まさかこんな急に逝ってしまうとは、思わなかった。

Wと私とは、つかず離れずだが、付き合いは50年近くになっていた。
しかし、彼が他界してみると、思いのほか、よく知っていなかったことに気付いた。

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50歳になったとき、仲間ウチで旅行をしようという話があり、伊豆に出かけた。
Wはこんな話をした。
「自分は2人兄弟で弟がいる。弟は母親によく似ている。しかし、自分は父親にも母親にも似ていない。小さい頃、『どこかからもらわれてきた子』だと誰かから言われ、ひょっとしたらそうじゃないかという悩みをずっと持っていた・・・。」

彼から、悩みらしい悩みの話を聞いたのは、これが初めてで最後だった。
いつも一方的に私が自分の話ばかりしていた。そういう50年間だった。それを黙って聞いていたW。そういう、ヤツだった。

葬儀の際、野球チームの仲間で彼の棺を運んだ。
最後は苦しんだのだろうか。彼の髪は白髪になっていた。

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深いのか、浅いのか、よくわからない私とWとの関係だったが、彼がいなくなったことが、私の人生観を大きく変えた。
それは、“自分の死”というものに、顔を背けることができなくなったことだ。

Wが逝った直後も、また、今もそうだが、彼のいなくなった世界に生きていることが、実感できない。
しばらく、無沙汰しているだけで、また飲み会でもあれば、出てくるような気がする。
しかし、彼の死は事実だ。
そう思うと、自分もまた今、この世界から旅立ってしまっても不思議はないのだ、という現実から目を背けることができなくなった。
それまでは、“死”というのは、遠くはないものの、そこそこ未来の話だった。しかし、彼の死で、それが目の前の現実となった。
と、思うと、「今の自分は、“本当に自分らしい生き方をしているのか?”という自問から逃げられなくなった。
そして、とても「そうは言えないな」と、観念するしかなかった。

これが、後年、都庁の早期退職を決意させる発端になった。

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