1週間ほど前にも、大きな地震があり、都庁のエレベーターは暫く止まった。
とはいえ、それが前兆だとは、私も思わなかった。
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2011年(平成23年)3月11日、午後1時、都庁30階の職場に育児休業中の職員2組が挨拶に来た。
そのとき、私は都庁の30階、商工部で勤務していた。
私が間もなくこの係を去ると予測して、挨拶に来たのだ。
彼女たちは、当時、家庭で育児に専念しているが、いずれは都庁職員として復帰する。ところが、都庁の人事異動は早く、そうこうしているうちに知り合いは皆どこかに異動してしまったりする。
だから、年度が明ける前に一度来ようと考えるのだ。
後日聞いた話では、たいへん苦労して自宅まで帰ったということである。いずれにせよ無事でなにより。
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彼女たちが帰って、一息ついた頃、「2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒(日本時間、Wikipediaより)」、東日本の大地震は起こった。
東北大震災(東北地方太平洋沖地震)である。
同じ係の同僚は「大きい! 直下だ。」と叫んだ。
私は「大きいが、これは直下じゃない」と答えた。下から突き上げるような揺れではなく、横からの一定方向の揺れだった。私は「遠いが巨大な地震」と判断した。
我ながら、とても冷静だと思った。
とはいっても、「いよいよ東海沖が来たのか」と思った。
実際の震源地は三陸沖。マグニチュード9.0の海溝型大地震で、東京の震度は5強だった。揺れは横方向に一定していた。
冷静だったので、身の安全よりも、回りの様子に興味が奪われた。このため、机の下にもぐるタイミングを逸した。
「何してる!早く机の下に入れ」と声がかかったが、揺れが本格的になると動きが取れず、壁に張り付いて、体を支えるのがやっとだった。
でも、頭の中では、「遊園地のジェットコースターほど怖くないな」と思っていた。机の下に入れったって、書類で一杯で入れないし・・・。
周りの高層ビルがゆらゆらと揺れていた。
そして揺れながらも、「この分じゃ電車が止まるから、歩いて帰宅だな・・・」と、心配していた。
「断水による水不足の方が心配だ」とも思った(実際に水がなくなったのは原発のせいだったが・・・)
また、「さっき来た親子づれは無事に家に帰れただろうか」と案じた。
後日聞いた話だと、電車が止まったので、トボトボ歩いて帰ったらしい。
家族持ちの同僚は「携帯電話が通じない」としきりに気をもんでいた。
まったくもって、冷静だった。
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余震も含めて職場は何回も揺れたが、鉢植えが倒れたくらいで、庁内にはほとんど被害はなかった。
都庁(高さ243m)はスーパーストラクチャーという構造でできている。揺れを吸収するために、強固な柱と、途中に緩衝帯のような階が挟まっている。
だから、この程度の地震で崩壊するようなことはないと、信じていた(思い上がりではなく、それは事実だ)。
しかし、地震に付随したパニックは起こる。
後日、消防関係から聞いたところでは、「コピー機にキャスターが付いているため、それが動きだし危険だった会社もある」という話をだったが、
都庁では、そういうこともなかった。
什器の上の鉢植えが何個か落ちて倒れたが、什器はそのままだった。
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揺れがおさまった後も、新宿センタービルや野村ビルが、右に左に揺らぐのが目視でき、結構すごい地震だったのだなぁと思った。
それぞれのビルの揺れ方は、ビルごとに違っていて、「やっぱり構造によって周期が変わるのだな」とも思った。
遠くに煙の上がるのが見え、その一番大きいのが臨海部だと、ニュース番組が報じていた。
建設中の産業技術研究センターではないかと思った(違っていたが、すぐ近くだった)。
とはいえ、火災発生も予想していたほど多くなかった。昼時でなかったことも幸いした。
関東大震災のときは、ものの3日間で東京は焼け野原となったという。インフラの整備は、本当に大切なことだと実感した。
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TVの地震速報が流れていたが、家族のいない私には、まだその時点では、何かのアトラクションを見ているという感覚しかなかった。
職場では、家族と携帯が繋がらない部下はあちこちうろうろしてた。
「次に問題になるのは帰宅難民だな」と考えた。揺れている最中から「どうやって帰宅しようか」と考えていた。
以前、震度5くらいの地震でJRは5時間ほど止まっていたから、この場で復旧を待つのは無駄だと思った。
揺れがおさまると、「保安要員として泊まれ」と言われることが心配だった。
それはかつて、大島・三宅のときに経験していた。何か仕事があって徹夜作業となるのならわかるが、「ただ、なんとなく待っていろ」と言われるのは、御免だ。
そうこうするうちに、宵闇が下りてきた。都庁30階の窓から眺めると、ビルや家に灯りが点り始めた。つまり、電気が来ているということだ。
庁内のTVでは、東北の惨劇が報道され始めていたが、まだ、その実情は把握しきれておらず、「まぁ、この程度で終わってよかった」と私は胸をなで下ろした。
午後7時過ぎに、「安全確認できれば帰宅してもいい」という連絡が入った。
予想どおり鉄道は動かなくなっていた。
さて、歩いて帰るとして2時間半。帰宅が早いか、電車の復旧が早いか。私の興味はそこに移った。
数年前に東京で震度5強の地震があったときは、電車の復旧に6時間かかった。
だったら、結論ははっきりしている。「歩いて帰る」だ。
帰るにも職場は30階、エレベーターは止まっている。だから、非常階段で1階まで下りざるを得ない。日頃の運動不足で、それだけで足には堪えた。
都庁を出て、北方面に進路を取る。人の群れは、東京マラソンのように混雑していた。バス停に続く長い列を横目で見ながら、黙々と歩いた。
良くはわからないが、この流れに乗っていけば、練馬方面には着くだろうという考えから、ナイトウォークに加わった。
1時間ほどで中野の着いたので、方向は間違っていなかったと確認できた。
飲み屋は満員。そのあたりで人々は散らばり、近くの店にしけ込んだりしていたようだ。
私はそれを横目で見ながら、歩を進めた。そして、10時前に、自宅近くの寿司屋にようやく到着した。
そのときTVのニュースを見ると、大江戸線はもう復旧していた。「負けた」と思った。
「残念!遅かったか・・・」と思ったが、後日、同僚に聞いたところでは、「電車は動いたものの、駅が超混雑で、乗れたのは夜中過ぎだった」とのことである。
「勝った」ことを自覚した。
このあたりまでは、私にとっては、アミューズメントだった(不謹慎ですみません)。
そのときはまだ、津波被害のニュースは断片的にしか伝えられていなかったのだ。
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翌日は土曜日だった。
もう、すっかり地震の影響は消えているだろうなと、安穏としてTVを見ていると、「津波の惨事」「福島の原発」と危機的な状況が報じられている。
「了知していない事実に対しては、責任を負わなくていい」という都合のいい考え方が支配的になっているようで、気にかかる。
国会の証人喚問で「記憶にございません」という返答があったのがはじまりだったかもしれない。
これを逆に解釈すれば、「責任を負いたくなければ、その事実を知らなければいい」という理屈が成り立つ。腹立たしい。
係に福島出身の部下がいるので、電話をかけた。幸い、「実家は原発からは離れている」という話だった。
“原発の事故”は、文字どおり想定の範囲外である。
「地震が来たときは原発に逃げ込むのが一番安心だ。それほど日本の原発は頑丈にできている」と、昔聞いたし、信じていた。
現に今回も女川原発は避難民を受け入れている。にもかかわらず、福島はひじょうにあっけなく津波による危機に陥った。
3月24日のMSN産経ニュースによると、「2つの原発の明暗が分かれたのは福島第11原発では想定された津波の高さが約5.6メートルだったのに対して
女川原発は9.1メートルに設定した立地のわずかな違いだった。」とある。
わずかな差がこれほどまでの明暗を分けたとすれば、それは“わずか”ではない。
その後、土曜・日曜と、都庁から緊急出勤命令が出るかと思い、まんじりともせず自宅に待機していたが、それもなかった。
この災害は、私にとって「これで終わり」と思った。
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とんでもなかった。
地震の起こる少し前に、石原都知事の再選出馬宣言があった。
そして、その後の知事のインタビューで、石原知事は、「これだけの大災害があったのに、夜桜見物で煌々と灯りを付けて浮かれているというのは、どういうもんかね」と言った。
それが始まりだ。
知事が言いたかったのは、ひじょうにスピリチュアルな話だったと思うが、役人は「とにかく、夜の灯りを押さえろ」と解釈する。想像力が貧困なのだ。
それから、“真っ暗闇作戦”が始まった。「灯りを落とすのはいい、でも、ものには限度というものがあるでしょ」と、言いたい。知事だって、そこまでは期待していなかったはずだ。
詳細は後述。
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ちなみに、以下に示すのは、阪神大震災の際の、神戸市役所の対応だ。
阪神・淡路大震災(1995年)発生2時間後に被災地で見たのはコンビニなどの前にできた長い行列でした。
さぞや店内は大混乱かと思いきや、商品を抱えた客たちが整然と並んでいて「できるだけ多くの人に行き渡るよう、ひとり3点にしよう」と申し合わせていました。
ガラスの割れた店内は、停電で照明は消え薄暗くレジやポスも動かない状態でしたが、落下して壊れた商品やガラスは片隅に片付けられていてる中でスタッフは必死で対応していました。
神戸中心部への途上でもいくつかの店舗で同じ光景を目にしました。
さすが神戸の商人は商魂たくましいと思ってしまったのですが、神戸市役所で実情をうかがって驚きそして恥ずかしくなりました。
神戸市役所・新庁舎8階に設置された神戸市災害対策本部の壁にマジックで書かれた張り紙がありました。
それには「マスコミの皆様へ、日用品、食料品を扱っているお店に安全が確認できたら、商品のある限り店を開けてくれるよう呼び掛けてください」という趣旨でした。
また、神戸市の職員たちはあちこちへ電話して「店を開けてください」と呼び掛けていました。
多くのスーパーマーケット、コンビニ、商店はその呼び掛けに応え、まだ余震が頻発する中、あちこちで煙が立ち上がっている最中店に駆けつけ、壊れたガラスや商品を片付けて真っ暗な店内で商品の残っている間中商品を供給し続けたのです。
だからこそ略奪も暴動も起こらなかったのだと後から気付きました。
もしも、全ての店舗がシャッターやガラス戸を締め切ってしまっていたら・・・、そのガラス戸の向こうに水や食料があるのを知った不埒(ふらち)な人間がガラス戸を破って略奪を始めたら・・・それは燎原(りょうげん)の野火のように暴動や略奪の嵐が吹き荒れたかもしれなかったのです。
とっさの判断で呼び掛けた神戸市職員の決断、そして、要請に応えて困難な中店を開けた人々。
もちろん神戸の人たちの理性もあったでしょうが、災害直後にその使命を見事に果たした人たちが残した教訓は、小売業の社会的使命を今一度思い起こさせたような気がします。
小売業が発災時に果たすべき使命と役割を今一度認識し直し、経営者が地域と自店の被災状況を勘案及び判断して、臨機応変に対応できるマニュアルが望ましいと思います。
(出所:BCPマニュアル むさし府中商工会議所) |
役所の規則第一の立場から考えれば、この対応は間違いだと思う。
しかし、現地の混乱を鎮める上では、大きな効果があったのは、間違いない。
現場第一に考えるから、こういうとっさの判断もできる。
はたして、今の都庁に、これだけの判断をできる職員はいるのか・・・。
それを黙認するだけの、腹の据わった管理職はいるのか・・・。
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