都庁退職
今度こそ本当に辞めた

4月に、私は、大崎の労働相談情報センターに異動した。行き先は古巣だ。しかし、仕事の中身はまったく違っていた。
地震はその直前の3月。赴任するなり、東北大地震関連の仕事の後始末が待っていた。
労働相談センターに併設されている労政会館では一般の企業や労働者に施設の貸し出しを行っている。予約は2か月前から。すでに利用予約はたくさん入っていた。

建物には目立った被害はなかった。何たって、建ったばかりのゲートシティ大崎だし、地震に強いと言われる半地下方式の建物だ。
しかも、計画停電は中止されていた。実際、停電があったのは都内でもごく一部の地域、一部の時間帯だけで、当地でも停電はなかった。「問題は、夏場の昼間の電力消費だ」ということが、素人でもわかった。

こういう状態なので、東京都はただちに、「大崎の労政会館は問題なく使用できます」と、広報した。
これが大きな間違いだった。
労政会館条例では、「既納の使用料は返還しない」という決まりになっている。そして、会館使用に問題はないと公表した、ということは「勝手に使わない」人には使用料を返さない、ということになる。

実際の状況としては、3月に予定されていた会議が、交通機関が十全でないこともあって、いくつもドタキャンになっていた。窓口では、怒る顧客に頭を下げながら「使用料を返せない」事情を説明するハメになった。
また、ルーティンで行われていたセミナーなどは、次々と期日変更になった(変更は1回に限り認められていた)。受付簿は訂正の山だ。

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そこへもってきて、石原知事の「これだけの大災害があったのに、夜桜見物で煌々と灯りを付けて浮かれているというのは、どういうもんかね」という発言だ。
役人は知事の発言にたいへん敏感である。
3月27日に、方針が大きく変更される。
「夜の使用は、できるだけ昼に変更してもらえ」という指示が出た。
この方針変更に従って使用を中止した予約者には、超法規的に「帰納の使用料が返還される」ことになった。
3月26日までに利用予定していたが、参加者の安全確保のために会合を中止した良心的な利用客には使用料を返さないのに、27日以降に予約していた利用客には返還する、というねじれた判断となった。

3月末にセンター長が大崎に視察に来た。「自分の指示通りに、昼に利用を誘導できていない」と言って、怒った。
だが、昼は予約で一杯になっていて、変更などする余地がない。
夜に会議を予約する必要があるから、夜の会場を押さえる。それを、急に昼にしてくれったってねぇ。
それに昼だって、ビルの中は電灯が点いているじゃないか。

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ちょうどその直後に、人事異動があり、所長と私が大崎に赴任した。
前任の係長からは「部の方針を徹底させるのは無理だ」と説明を受けた。
新所長は、センター長の意向を徹底させようとした。赴任早々、所長と私は対立することになった。お互い、よくわからないままに・・・。
部下からは「手伝いませんから」と早々と宣言されてしまった。まだ、何をやるかも知らないうちに。

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やむなく、新しく来た予約には、夜は遠慮してもらうよう要請した。
当然、利用客との間に軋轢は起こる。
「なぜ、夜、使わせないんだ」と迫る利用者に、「ここは公的な施設です。東京都では、今、民間の方々に、電力の使用を自粛するようにお願いしています。その東京都が、夜間、煌々と灯りをつけて営業していたんでは、申し開きができません。」といって、謝った。
本庁内にいるのは、ほとんど職員だから、暗い庁舎であっても当然我慢する。しかし、現場には一般都民がいる。事件は現場で起こっているのだ。

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使用料の返還事務は膨大だった。しかも、待ったなしだった。新しい職場で、助けを求める相手はいなかった。しかも、節電要請で残業は制限されていた。
西新宿からの指示は、「すべての予約データを記載して報告しろ」というものだった。
八王子事務所のB係長が「あなたの言っていることは膨大なデータを作れということですよ」と反論してくれたが、部の若い担当者は言を変えなかった。
後から聞いた話では、職場の同僚は「話しかけてはいけない」と、申し合わせていたようだ。

Excelの表は、1,600行にも及んだ。こんなにたくさんのデータを打ち込んだのは、都庁人生ではじめてだ。
さらに予約変更が相次ぐので、それを、毎日毎日チェックする。なぶり殺しのような状態だった。「深呼吸する余裕もない毎日」を過ごした。
それほど、切羽詰まった日々が4~5月にかけて続いた。
目前の仕事に没頭するうちに、メールはどんどんたまっていく。 まだ見ぬメールで指示された書類提出の期限が来て「今日締め切りなんですが・・・」という、予期せぬ督促の電話がかかってくる。そこで気づく。
そうこうしているうちに、さらにメールが貯まり「記憶容量一杯」の警告が示される。それでも、手を付ける余裕がない。

都庁の出納は5月の半ばで閉まる。それまでに、すべての返還を完了させなくてはならない。
相手があることなので、絶対に間に合わないと思った。
日常の通常業務もある。新しい仕事で勝手もわからない状態だった。

5月の連休明けまで、私は毎日残業土日なしだった。ちなみに、超過勤務は1時間も申請していない。 そんなことをすれば、庶務担当係長が呼び出されて怒られる。
その庶務担当係張は私だ。怒られているヒマもないのだ。超過勤務命令簿を書いているヒマも惜しかった。
仕事を続ける中で、「こんな状況では、たぶん身体に変調が来る。それは、仕事のヤマが超えたところでだ・・・」と感じていた。 ある意味、自分を自己暗示にかけていたのかもしれない。「忙しいうちは、まだ大丈夫だと・・・」。

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そんな私を気の毒に思ったB係長は、「ウチの係員のHに聞いてくれ。いろいろと様式も準備してあるから」と言ってくれた。
H主事がいなければ、おそらく私はこの急場を乗り越えられなかった。
そのH主事は、後日、女子高生と不適切な関係があった件で免職になった。
H主事とは、メールのやり取りだけで、とうとう面識がないままとなってしまったが、報道されるような悪い人間ではないと確信している。困っている人には手を差し伸べてくれる人だったので、そういうことになってしまったのではないだろうか。

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最後の最後まで、返還金を受け取りに来ない企業があった。
「数千円から数万円程度の返還金を受け取るために、自分の仕事を置いてでも取りに来い」という方が常識的ではないことは、重々承知していたが、受け取ってもらわなくては困る。
だから、こちらから会社に乗り込んでいき、「この場で受け取らないというのなら、二度と会館を使わせない」と言って、脅した。それで、締切日の5時過ぎ、ぎりぎりで返還が終わった。
私でなかったら、絶対に乗り越えられなかったと思う。

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夜間の利用自粛は夏になっても続いた。節電とオフピークが混同されたままだった。
使用料の返還事務が終わると、続けて出納監査やら行政監査やらがあった。ヨレヨレで準備不足のままに対応した。
「そろそろ退職を考えたい」と上司に申し出たのは、2010年の自己申告の面接時だ。
といっても、職業人生からリタイアしようと思ったのは、初めてではない。いきがってけんか腰で退職願を書いたこともある。 だが、今回はこれまでとちょっと違う。「こんな思いをするなら、今度こそ、本当に退職しよう」と、思った。

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定年には5年も早かった。
退職金は年々値減りしていたが、それでも、経済的には勤めていた方が有利だった。
それでも、退職することにした。

仕事が多いだけなら、そこそこ耐えられる。しかし、今回は、気持ちが折れた。
労働相談なんかをやっていると、同じような思いから会社を辞めてしまう人が多いことを知った。簡単に退職してしまうことが本人のためにならないことも、だから、よく知っていた。

過去にも、何回か辞めようと思ったことがあった。実際に辞表を書いたこともあったが、結局は撤回した。
そのとき、“職”を捨てられなかった反省から、“自分の人生”は捨てて生きようと、覚悟を決めた。そう思わなければ、「何で自分ばかりがこんな目に遭うのか」というわだかまりを捨てることができなかった。
結果、家族ももたず、かといって管理職も目指さずに、黙々と働いた。

しかし、50歳を越えるようになると、記憶力も根気も体力も落ち、あちこち身体の具合も悪くなる。
老眼が進んで、細かい字が見づらくなった。

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それに加えて、数年前に、古くからの友Wが急逝していた。これが、かなりこたえた。
Wは、小学校時代からの友人で、つきあいはもう40年を越えていた。
彼が、2009年8月28日10時12分、突然、この世から旅立った。間質性肺炎という病気だった。肺の細胞が急に変質して呼吸困難になった。
たぶん、誰よりも自らの死を予感していなかったのは、彼自身だろう。
1か月ほど前に、友人一同で見舞いに行ったときも、ベッド代が高いことや退院後の心配ごとをあれこれ話すばかりだったのだから。

Wとは、以前はしょっちゅう酒を酌み交わす仲だったが、所帯を持ち子供が生まれてから10余年は、家庭第一の品行方正な人間に変わってしまった。 Wの一人息子は、当時まだ中学1年生だった。ずいぶんと付き合いの悪いヤツになってしまい、年に1~2回しか会っていなかった。
それだからこそ、彼の死が実感できなかった。
葬儀の後も、そんな感じが続いた。「連絡がないだけで、まぁ、なんとか暮らしているのだろう・・・」と。
ところが、映画の「20世紀少年」の第三部を見たとき 「こういうのは、Wは好きで、必ず見るだろうな・・・」、「そういや、あいつはもういないんだ。三部作を全部見終わらなかったのは、さぞ口惜しいだろうな・・・」と思った。 そのときはじめて、彼の存在が無くなっていることを、実感した。
子供の頃だったなら、「オマエ、まだ見てないのかよ~。おもしろいんだから」と、突っ込んだところだと思う。それもできない。
その後、何か面白い場面に遭遇する度に、「アイツだったら、どう思うのかな・・・」と、考えるようになっていた。
以前なら葬式といえば、「父」「母」と相場が決まっていた。
しかし、最近では、年齢の近い仲間の逝去に立ち会うことが増えている。

1年年上のYは、酒がとんでもなく強かった。20歳そこそこの頃、Y先輩の肩を借りて帰ったこともある。
そのY先輩が、逝った。肝硬変だった。
Y先輩は、入院中も病室を抜け出してワンカップを飲んでいたというウワサだ。
でも、関係者はそうまでして酒が止められなかったからだとは思わなかった。 「1日でも早く決着をつけたい。それが残された家族のためだ。」というのが彼の意思だったのだと感じた。
葬式に参列した仲間は、皆、こんな会話をした。「どう、最近たまってる」「ま、ほどほどだけどね」。
「たまっている」というのは腹水のことだ。皆、肝臓が悪い。

Tは10歳ほど年下の後輩だった。 私が1993年に赴任した農林水産部では先輩格であって、何かと仕事を教えてもらった。
病魔に狙われていた頃、彼は組織の改編で多忙だった。 40歳の検診で内臓に影があると言われても、精密検査に行く暇がなかった。その後、入院したときには、すでに手遅れだったという。
子どもはまだ、小さかった。

死ぬことが、昔よりずいぶん身近になっていた。「余生もそう長くないことだし・・・」と思い、<遺書の書き方>の本を3冊ほど読んだ。
そんなことが、2008年から2011年にかけて立て続けに起こった。(合掌)

そんな折、2011年5月、かつての部下だったKが急に退職した。
新潟出身の彼は、とても実直だった。律儀な性格で、病気がちのため従前の仕事がこなせなくなったことなどを苦にしていた。 「これ以上、職場には迷惑をかけられない」、と言っていた。
私は「先を越された」と思った。ぼちぼち第一線から退くことを考えるべき時が来ていた。

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2011年の夏は、ひどい夏だった。

分刻みで仕事に追われていた6月が終わり、7月になると、仕事にも余裕が出てきた。

ずいぶん前から、私も肝臓に問題があり、医者に通っていた。
医者からは、「お酒を止めろ」と再三いわれていたが、止める気にはなれなかった。
「家族もいないことだし、自分の人生は自分で決着させたい」といった気分だった。
そういう私に対し、主治医は、「精神的なストレスが大きいようだ。お酒を止められないことも含め、メンタルクリニックに行ってみたらどうか」と勧めてくれていた。
私は、その助言を無視していた。

春先の窮状は、かなり切羽詰まったものだったので、私は自分でも「一山越えたら、きっと病気になる」と言っていた。
平成23年の夏、突然、睡眠障害になった。
なぜか夜の寝付きが悪くなった。
寝汗をかく。就寝しても2回、3回は夜中に目が覚める。さらには、まったく眠れない夜も出てきた。
頭の中を、好きな音楽がぐるぐる回っていて、止まらない。
夜中にネットで検索して改善策を探してみると、「難しい本を読め」「ぬるい風呂に入れ」「軽い運動をしろ」などのアドバイスが見つかる。
どれもやってみたが、いっこうに効果がない。

これまでだって、朝寝坊しすぎで夜眠れないということはあったが、それとはまったく違う。一晩中、眠れない。あぶら汗が出る。
ネットで見ると、「眠ろうと思うほど眠れなくなるので、いっそのこと、難しい本でも読んだら・・・」と書かれていた。
都庁の報告書を読んだ。おかげで、一晩で読み上げたが、それでも眠れない。
2~3時間しか眠れない日が続いた。まったく眠らずに朝を迎えることが毎週あった。
一方、昼間はぼ~っとしていた。
男にも更年期障害というのがあると聞いたが、これでは病気だ。
私は、鬱の領分に数歩踏み込んでいた。今から考えると、かなり病気だった。

かかりつけの医者に行き、せめて睡眠薬を処方してもらえないか、と頼んだ。ハルシオンを処方してもらった。
しかし、薬を飲んでも眠れない。
2思いあまって2回分を飲み、酒を飲みながら難しい本を読んでいたら、肘掛けいすに腰掛けたまま寝入ってしまった。
いつの間にか、その姿勢で意識を失った。

目覚めると、左手がしびれて動かない。
肘から先、特に人差し指と親指の間、いわゆる“水かき”の部分がしびれている。
手首が固定できない。、コップの水も持ち上がらない。左手でシャワーやドライヤーが持てない。
そのうち直るだろうと、無理して家を出たが、駅のエスカレーターの手すりがつかめない。
左手が、幽霊のようにうつむいてしまい、手をそらせようとしても反応しない。放っておくと丸まってしまう。
どうにか職場に着き、仕事を始めようとしたら、パソコンのキーボードが打てない。 パソコンを起動させるために「ctrl+alt+delete」を同時に押す設定になっているのだが、両手を使うので、なかなか押せない。
立ち上がっても、「A」と「S」のキーがうまく打ち分けられない。
キーを「打つ」のではなく「押す」ようになってしまったので、指がキーから離せず「aaaaaaaaaaaaa・・・」という絶望的な文章が画面に連なった。
リハビリだと思って、できるだけ左指を使うようにしたが、キーボードで文字を1行打つのも難儀だった。
職場では、脳の障害ではないかと、騒ぎになった。
「ほっときゃなおる」と抵抗したが、「ここで倒れられたら困るのはこっちだ」と、説教され、医者に行った。

医者は、私の状況を見るなり、いささかうんざりした表情を浮かべて、「昨日、お酒を飲んで寝ましたね」と、淡淡とした口調で言った。
「橈骨(とうこつ)神経麻痺」という病名が付けられた。
手のひらに繋がる神経の一部が、二の腕で表面近くに来る。そこを圧迫したために、神経が潰れる。そうすると、手のひらが幽霊になる。
よくある症状らしい。ホームのベンチで寝入ってしまって、かかる人が多いそうだ。
ネット上では「恋人を腕枕して眠ると神経麻痺を起こすシビレ」と出ており、Saturday night palsyという艶っぽい呼び方もあるようだ。 原因が本当にそれだったら諦める。不眠症が元では、あまりにもなさけない。
「どのくらいで元に戻りますか」「さぁ、2週間で戻る人もいますが、半年かかっても元に戻らない人もいます」
「どうすれば直りますか」「取りあえず薬でも出しておきます。ただのビタミン剤ですが・・・」
「もう、無理はきかないな・・・」と実感した。

やがて、左手は徐々に動くようになり、3週間ほどで前の状態に近くなった。

しかし、その後もしびれはしばらく残った。10年近く経った今でも、同じ場所でしびれを感じることがある。

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腰痛(ギックリ腰)で、満足に歩けなくなることはあったが、それまで身体の一部が動かしたくても動かないという経験したことがなかった。
『身体の一部が、自分のものではなくなる』というのが、どういう状況なのかが、身にしみてよくわかった。 自分の命令が身体の一部に伝わらないというのはこういうことなのかと、しみじみ思った。
日常、ちょっとしたことで手がしびれることはある。正座すれば足がしびれる。
だから左手の麻痺もすぐに回復すると期待していた。 翌日になると、カラッとウソのように元通りになるものと想像していた。
しかし、毎朝起きて動かそうとしても、一向に前日と変わっていなかった。 こんなことでは仕事ができない。正直、あせった。いらいらした。 「ずっとこんなんだったら、いよいよ退職するか」とも思った。
たぶん、ここでどんなに説明したとしても、そうなったことのない人はわからないだろう。
本当にいい勉強だった。

振り返って考えれば、私はおそらくは「うつ病」の範疇に数歩入り込んでいたと思う。
積み上げた人生の取り崩しをすることは、未来に対する希望を崩していくことにほかならない。
そのまま行けば、下方向への螺旋階段をひたすら下りていくだけだ。
しかし、降ってわいたような神経麻痺は、少しずつでも前に進んでいくことの大切さを思い出させた。

やがて私の左手が徐々に快方に向かうのと同時並行して、不眠症や心の不定愁訴が、だんだんと解消されていった。
いつの間にか、不定愁訴のような気分からも脱していた。
変な話だが、橈骨神経麻痺のおかげだ。
なぜ、そうなったのか自分でもわからない。これには、何らかの因果関係があると思う。
そのメカニズムを、メンタルの専門家の方に、是非とも、解明してもらいたい。

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早期に退職するということは、それなりにリスクを伴う行為だ。いわずもがなだが、リスクとは経済的なもの。しかし、歳を取るにつれて、経済上のリスクは小さくなっていく。
誰も自分がいつ死ぬかはわからない。が、1年過ぎれば確実に余命は1年減る。仮に年間350万円の生活費で生きるとすると、1年過ぎるということは、つまり350万円の預金が増えるのと同じことになる。

よくよく計算してみると、家族がいないこともあって、そこそこの蓄えも残っていた。
長生きしたらアウトだが、たぶんそうならないだろう。昔のような貧乏暮らしに戻りさえすれば、何とか最後まで繋げそうな経済状態だと判断した。
そんな、こんなで、「まぁ、そろそろ頃合いかな」と、考えていたところだった。

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人は歳を取るにつれて能力が低下する。判断力などはまだ伸びるだろうが、事務処理能力などは右肩下がりになる。何といっても、出口が見えると、「気持ちの張り」を失っていく。
それでも長く勤続するための決まり文句がある。「辞めたら、生活できなくなるじゃないか」という言葉だ。この言葉で、自分を何度も説得してきた。
では、「辞めても、生活できる」としたら、いったい何のために働くのだ?
家族がいれば迷いも生じないだろうが、天涯孤独の私には、その答えが見つからなかった。

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会社組織というものは良くできたもので、一般社員が高齢化すると、仕事における責任の度合いも低くなっていくようになっている。だから、役職や給料も下がって当然だと思う。
「能力・気力の低下」と「責任の軽減」と「報酬の減額」とのバランスを取りながら、会社人間は引退へのソフトランディングを進めていくことになる。

ところが、今の都庁ではそれができない。
歳を取り、能力が落ち、気持ちの維持が困難になり、給料が減っても、求められる責任は下がらない。
60歳で定年退職して、再雇用になってから、見ず知らずの職場に異動させられ、昔だったら新採が担当したようなまったく新しい仕事にチャレンジさせられるというケースも少なくない。

その原因は、都庁の年齢構成がいびつだからだ。必死でリストラを進めてきたために、中堅クラスがすっぽり抜け落ちていた。
こうなることは、かなり以前からわかっていた。
今でいうと、50代前半から60代中頃くらいが、ひじょうに少ない。
つまり、私くらいの年代がひじょうに貴重だということになる。
しかし、このことは当の本人にとっては、「とても迷惑」なのだ。

能力・気力・報酬が低下しているのに、責任の重い仕事ばかり担当させられる。そして、ボロボロにされてポィッと捨てられるのじゃ、かなわない。
本来なら、そんな仕事はどんどん「若手」に任せて、地味な仕事に移りたいし、そうすべきなのだが、「ガツガツした若手」がいない。ゆとり世代で育ってきたせいなのか、進んで苦労を引き受けようとしない。というか、ずっと指示待ちしている。

役所というところは(たぶん民間企業もそうなのだろうが)、仕事をよくやる人間には、どんどん仕事が集まってしまう仕組みになっている。
今回の大崎への人事異動も、大量の仕事が待ちかまえているのがわかっていたから、いくらでも仕事をする人間が配置されたのかもしれないのだ。
こういうことだから、民間人からはうらやましがられる公務員生活を、辞めたくなる。

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早期退職の勧奨要項が出た翌朝、私は退職願を出した。
人は「思い切ったことをするなぁ」といって驚く。
しかし、私にとっては、いたって自然ななりゆきだった。

1年後に退職金の大幅な減額が行われた。それに引っかからなかったのはラッキーだったと思う。
そろそろ来るとは予想していた。読みが当たった。

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12月の仕事納めの日、以前、仕事上でトラブった相談者が、事務所に怒鳴り込んできた。私が勤務していることを知ったからだ。
「あんた、都庁を辞めるべきだよ」と、すごまれた。
「実は、私もそう思っていたところなんです・・・」と答えそうになった。
実際、このときにはもう、退職願を出していた。

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