tsudax99
「気づき」と「見える化」と「仮説」と・・・経営改善指導への一提言


(7) 見える化: 現場力の衰退

現場の自律性を復活させよう。

  最近、「見える化」という言葉をよく聞く。業務の進み具合が、誰にも一見してわかるような仕組みを作ろうという考え方だ。あるいは、生産ラインなどでの問題発生を、警告ランプなどをもちいて瞬時に周知させ、短時間に回復させるようなシステム立てを、こう呼ぶこともある。
また、その一方で「現場力」という言葉もよく聞く。
裏を返せば、現場が見えにくいというのが、問題化しつつあるということだ。
あるコンサルは、「『こんな仕事の仕方だと問題なんですけどね、社長がやれと言っているので、ま、いいか、と思ってやってます』」という声を企業の現場で聞く、そういう会話が当たり前のように話されるようになると、その企業はかなり深刻な状態だ」と話していた。
  では、経営者の立場から見て、現場の姿は、昔からよく見えていたのだろうか。
そうは思えない。むしろ、大きな会社ほど現場が見えないはずだし、そんな会社が大きく成長するというのも変だ。
私は別の仮説を立てている。
現場が見えなくなったのが問題ではなく、「現場の自律性が低下した」のが問題なのではないか。言葉を変えるならば、現場の問題を現場で解決する能力が、昔と比べると著しく低下しているのではないか、ということである。
   昔の従業員は、経営者同様、会社と自分をかなり重複して見つめていた。仕事帰りの居酒屋で、上司と仕事上のことで口論するという姿は、よく見かけられたところである。
現場には労働組合があったり、あるいは、大久保彦左衛門のような上層部にかけ合うお目付役的な古参従業員がいたりした。
会社運営が経営者の思い通りに行かないのは、はなはだ不都合ではある。
終身雇用を前提とすれば、従業員にとっても「ウチの会社」であり、それを潰すことは<ウチ>を失うことになる。だから、必死になって上層部に意見する。
  戦後、地方に分散していた人々は、集団就職によって都会に集まった。都会にはコミュニティがなかったため、企業が従業員にとってのコミュニティとなった。
それが、高度成長を精神的な面から支えてきた、というのが私の仮説である。
ところが、高度成長に陰りが見えだした頃、年配の従業員が「窓際族」と呼ばれるようになり、昇進試験や資格制度が入り、従業員を総合職と専門職に区分するような人事管理制度が取り入れられ、成績主義・能力主義が良いこととされた。
臨時の「バイト」が「パート」と名前換えして常雇いになり、有期雇用の契約社員が発生し、派遣労働者が出入りするようになった。
一連の流れは、「画一から多様へ」という風に表現できる。
「多様化」したのは、社会が変化した結果だ。だから、多様化した社内を管理する仕組みが必要になった。とりわけ規模の大きな企業では、そうだった。
問題は、そのような多様化した職場の管理方法が「望ましく、目指すべき」だという価値観が支配的になったことにある。
極めつけに「人件費を変動費として捉えるべきだ」と、誰かが言い始め、そして、みんながそれに賛同した。ほんとに、それで良かったのか?
  総じて日本の現場力が衰退しているとすれば、その精神的背景には、従業員を「使い捨て」にすることを是とする考え方があるように思える。
従業員の側も企業を「ツール」として利用するようになる。
だから、居着かないし、仕事も覚えない。<ウチ>ではないからだ。
これに対して、企業は「即戦力」を求めるようになった。そういう経営者自身、入社当時から「即戦力」だったのか、と問いたい。
  日本の製造業がここまで強くなれた理由を、「いい加減な仕様書であっても、完璧な製品に仕上げた」ことにあるという人がいる。
確かに、三丁目の夕陽の時代だったなら、「社長、ここのところどうやったらいいのでしょうか?」「うまくいくようにやっといてくれ。やりかたは任せるから・・・」といった、現場のやりとりが成立していただろう。
  知り合いの会社員は「若い部下に指示をすると、決まって『マニュアルはどこですか』と聞かれて困る」とぼやいていた。
そういう文化が定着してしまった。きちんとした仕様を示せない上司は部下からダメ出しされる。
事細かなマニュアルがなければ作業が進まないというのでは、非効率だ。それに、どんなに精緻なマニュアルを作っても、完璧にすべてを掲載することは不可能である。
  営業部門とて同じだ。
コールセンター症候群という言葉がある(といっても私の造語だ)。
大手企業は、顧客サービスの向上と人件費の節約を両立させるために、コールセンターというものを設ける。顧客からの問い合わせや苦情を一手に引き受ける電話サービスの拠点だ。
顧客からの問い合わせには一定のパターンがあるので、集中管理すれば対応の標準化が可能だし、コールセンターは、何も土地代の高い都市部に置く必要はない。
一次対応者を多数配置し、難しい質問だけ高度対応者に回す。そうすれば人件費コストも安くなるし、効率もいい。
ところがだ、本来、顧客ともっとも密接なコミュニケーションを行っているのは、現場廻りの営業マンである。顧客の苦情を受け、問題解決に導き、隠れたニーズを先んじて汲み上げるのも、営業マンの重要な役回りであったはずである。
しかし、コールセンターというものを設置し、その仕組みが定着すると、営業マンは「コールセンターに問い合わせてください」を連呼するようになる。
そうなってしまうと、現場サイドの力量は、みるみる落ちていく。
  ノードストロームという、顧客サービスの良さで有名な百貨店がアメリカにある。その百貨店では全社員にたった一枚のカードを規則集として配っていて、そこにはこう書かれている。
「どのような状況においても、自分で考え、最善の判断を下すこと。これ以外の規則はありません。」(出典:現場力を鍛える「強い現場」をつくる7つの条件 遠藤 功 東洋経済新報社)。
「地上には、もともと道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」と魯迅は言ったが、「もともと現場にはマニュアルはない。正しいやり方をわかりやすく示すためにマニュアルを作るのだ。間違いがなければマニュアルはいらない」と言ってあげたい。
  もう四半世紀も前のことになるが、私は「東京労働」という広報誌の記者をしていた。
TQCが流行っていた頃で、その特集のために一橋大学の津田真澂教授にお話を伺ったことがある。先生はいわゆる「日本的経営」の研究家であったが、「現場の技術力の高さが、日本の経済力の強さに繋がっている」旨のお話をされていた。
戦後、荒廃した日本の経済を立て直すため、アメリカが大量の工作機械を日本に供与した。その作業方法を教えるためにたくさんの技術者も派遣した。日本を専属下請メーカーとした方が、アメリカ企業にとっても都合がいいからである。しかし、一段落すれば技術者も母国に帰る。帰った後に機械が故障する。
そのとき、日本の現場では、作業員らが集まって「あーだの、こーだの」言いながら、自分達でその機械を分解修理したとのことだ。その過程で、機械の仕組みが自然と勉強でき、それを改良して、さらに性能の良い機械を開発できるようになった。だから、技術力が上がった、というお話だった。
  最近の若手従業員は、(1)いちいち指示してやらなくては動こうとしない、(2)詳細かつ正確な指示を出さないと不満をいう、(3)こちらの指示に不都合があっても自ら直そうとはしない、という傾向がある。
現場に十分な自浄能力があれば、見えようが、見えまいが、事業運営に問題は生じない。
見える化の必要性がこれほどまで叫ばれるほど、現場の自己改善機能が落ちているのが問題なのだ。
  見える化にも落とし穴がある。見える化はあくまで手法であって、目的ではない。
「見える化の儀式化」が進んだのでは、逆効果である。かつての「○○運動」が、得てして仕事そっちのけの発表会に矮小化され、自己目的化し、消えてしまったことへの反省は、忘れるべきではない。
再生されるべきなのはイベントではなく、現場の文化だ。「自分達で創意工夫をしていこう」という現場の情熱を、もう一度取り戻す必要がある。


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