仮想戦記 『東海道鉄道株式会社』
著者 文音
第110話
1890年(明治二十四年)二月二十一日
ニューヨーク市 メトロポリタン美術館
「これが世界で三番目に世に出た富嶽三十六景の後半部分を占める裏富士ですか」
「はい。ニコライ殿下は、パリにてすでに富嶽三十六景美術館を鑑賞されたとのこと。ですので、美術的背景はこの場では申し上げませんが、亜米利加には、世界に広まった浮世絵の二番目と三番目がありまして、三番目はこの美術館が開館される前に、日本に駐在していましたハリス領事官よって当時の亜米利加大統領に慶喜公より寄贈された由緒ある作品でございます」
「そうですよね。世界オタク史を紐解きますと、その始祖は何と言っても富嶽三十六景がパリ万博で展示されている最中にパリの資本家や政治家を出し抜いて、この美術館の目玉に亜米利加まで北斎漫画をもちかえったジョン=ジョンストン氏になりますよね」
「はい、北斎漫画が世に出たのは、パリ万博が開催されている最中の六月七日。富嶽三十六景が世に出たことで、美術の世界は、写実主義から印象派へと変革いたしましたが、その観念が切り替わるまでの期間をジャポニズムと申しまして、日本へ傾倒した時代と位置付けるのが世界の通説となりつつあります」
「そして、北斎漫画が出たことで、オタクは産声をあげた。55年は、美術史のみならず一芸に秀でた人物をオタクとして顕彰しはじめた。いうなれば、新しい時代が切り開かれた年と位置付けられている」
「たしか殿下の生誕された年は、68年。富嶽三十六景美術館が開館したのが56年。でしたら、サンクトペテルブルクの宮殿にも生まれた時から、浮世絵があった世代になりますね」
「あった。女官は、源氏物語の露西亜語訳に夢中だった。少なくとも七巻までが宮殿にそろっていた」
「となりますと、殿下は生まれた時から浮世絵に接していた世代になりますね」
「あのときばかりは、仏蘭西がうらやましかった。大衆向けに販売される作品は、露西亜語訳が存在する。しかし、実験的な作品は仏蘭西語訳のみという作品が多数存在するわけで、なまじ、宮殿には露西亜語訳が存在しない仏蘭西版、次に独逸と墺太利で使用される独逸語版も多数あった」
「では、殿下の流暢な独逸語は、浮世絵が読みたいという動機がきっかけですか」
「そうなる。浮世絵は、例え文盲であろうと楽しませてくれる。幼い自分であってもみているだけで楽しい。けれど、それが読めればもっと楽しいから、仏蘭西語と独逸語はそのおかげで勉強したなあ」
「しかし、殿下は英語も流暢とお聞きいたしますが」
「英語は、保守的な将軍がつけてくれた家庭教師のもとで勉強したな。最も先にあるのは、英語版の浮世絵だったが」
「殿下は語学の達人とお見受けいたします。殿下のように一芸に秀でた人物であるオタクという称号は、亜米利加でも高く評価されています」
「それはどのくらいでしょうか」
「メイフラワー号に乗っていたのは、信教の自由を求めて旅だった清教徒がほとんですが、彼らの子孫を名乗る者は、いうなれば歴史の浅い亜米利加史の中で血筋を誇っているわけです」
「が、オタクが元々の才能を誇っている場合もありますが、富嶽三十六景美術館の調査研究により浮世絵がメイフラワー号の新天地に到達した十七世紀よりもさらに古い十六世紀にまでさかのぼることが分かったのです。伝統がありなおかつ、自己の才能を誇っているわけですから、血統だけを誇っているピルグリム=ファーザーズよりも、両者への評価は、時に後者が上回るほどです。ですから、亜米利加ではメイフラワー号に乗ってきた子孫というだけでプールサイドでは、最も良いチェアーを譲ったりしませんが、子孫が座る前にオタクが座っていれば、オタクもチェアーを子孫に譲る必要はありません。亜米利加市民はそれだけの価値をオタクに認めているのです」
「それはすごいことですね」
「そして、殿下は日仏の両聖地を十日余りで双方を巡幸できるすべを発表されたとか」
「こちらも驚いているところです。仏蘭西のオタク連がポンと露西亜政府がひっかき集めた金額である二億ルーブルと同額を拠出してくれることにです」
「我々亜米利加人は、こちらの思惑があります。殿下は、パリの次に日本橋を訪れた後、本国に帰国するつもりですか」
「はい、西周りに世界を一周することになるでしょう」
「我々亜米利加のオタクは、これから活発になる西の聖地を訪れたオタクが東の聖地を訪れた後、その足で亜米利加大陸に足を伸ばしていただきたい。そして、将来的にはこのメトロポリタン美術館に浮世絵館を建設して、第三の聖地に名乗りを上げることを目標としております。それには我々も力を示さねばならないでしょう。ですから、西の聖地で殿下に託された金額と同額をシベリア鉄道債に投資いたしましょう」
「世界一周はそう難しいことでないでしょう。今、女性記者が世界一周を達成したその余波ともいえるときでしょう」
「はい。彼女は、ネリー=ブライと申しまして、亜米利加人で、浮世絵で世界から称賛された八十日間世界一周を現実に実行するレポーターに抜擢され、七十二日と六時間余りで、ここニューヨークに帰ってきました」
「これが世界一周の世界記録になったはずです」
「しかし、記録は破られるためにあります。これからも次々と破られるでしょう。しかし、話はそれましたが、我々と殿下は共通の目標のために動いている点だけは強固に主張できます」
「「東西の聖地を紙の道(papier route, paper road)で巡幸する」」
「その道を露西亜が受け持ちましょう」
四月二十八日
八王子 八王子製糸工場隣接地
「すごいですねえ。白黒といえどもここまで浮世絵の商業印刷が進んでいるとは」
「ニコライ殿下におかれましては、本日公式行事の一環として、我が国と仏蘭西の合同によります浮世絵の未来像をみていただいています」
「しかし、この印刷機械によって生産された印刷物を世の中に出す予定ございませんのでしょうか」
「今のところ、実験的なものを除いてごさいません。殿下は、この白黒印刷の浮世絵にご満足していただけましたでしょうか」
「写真でいえば、カラー写真された美人をみせていただいた後に、白黒の人物画をみているようで、イマイチ興味が沸かないというところでしょうか」
「そうです。我が国と仏蘭西で協力し合って、商業的なカラー印刷技術を発明する努力をしていますが、今のところ成功していません」
「そうです。世界は、浮世絵のカラー印刷を越える商業的なカラー化へと印刷技術を推し進めていますが、それを押しのけるまでには至っていません。しかし、その日が来るのはそう遠くないはずです。その日が来るのを我々は恐れていますが、例えその日が来たとしても、それ以降世界のカラー印刷技術は横一線になるだけのことです」
「確かに、その日が来るまでに我々日本人は、欧州との時間的な制約をできるだけ取り外すことをしなければ、横一線になった印刷社会で生きてゆくことができません」
「現在、日本と仏蘭西間は、スエズ運河経由で四十日。世界が我々の印刷した浮世絵を読んでくれるのは、カラー印刷を独占している点が大きく貢献しています」
「が、その利点がなくなったとき、我々が持ち得る利点は、世界の作家との信頼関係と浮世絵的な技法のみになります」
「そして、ヨーロッパの市場が遠いことこそ我々が危惧している点です。この時間的な制約を三分の一にまで減少していただけるのでしたら、日本の浮世絵業界もパリとニューヨークで殿下に託された金額をシベリア鉄道債に投資したしましょう」
「「全ては、紙の道のために」」
五月一日
オテル日本橋
「ニコライ殿下は、今日もお忍びで日本橋めぐりか」
「日本語に不自由しないところが殿下のすごい所だ」
「ひらがな、片仮名は完璧。それ以外で浮世絵に頻繁に出てくる漢字も問題なし」
「我々より、日本橋界隈に関しては詳しいようだし」
「日程が足りなくて日本滞在を延長するかと悩まれていらっしゃるようだが」
「世界中から六億ルーブルを露西亜にもたらせた人物だから、露西亜皇帝も皇太子の日本滞在延長に承認を与える見込みだとか」
「た、大変です。ニコライ殿下が襲撃をうけ、重傷を負いました」
「詳しく申せ」
「はい。殿下は、昨日のように日本橋界隈をお忍びで並ばれて楽しまれていたところに、殿下を目標に数名が朝鮮語で詰め寄りました。連中のなかの一人が露西亜語を話せたようで、『露西亜は、朝鮮を見捨てたニダ』『我々、親露派は朝鮮から追い出されて日本まで亡命するしかなかったニダ』『我々が亡命した責任をとるニダ』などと殿下と口論になりました」
「野暮な連中だな。お忍びの最中は、有名人であろうとそっとしておくのが道理というものだが」
「それが通じない連中だったとは」
「それで、その続きは」
「その中で一番体格のいい朝鮮人がサーベルを取り出し、殿下に切りかかり、殿下は、右耳上部を切り裂かれました」
「とりあえず、命には別条はないのだな」
「はい、だからこそ重傷なのです」
「で、その騒いでいた連中はどうなった」
「野暮なことをしでかしそうになった地点で、列に並んでいた侍が刀を取り出し、一名を除いて切り捨て御免にいたしました。しかし、連中が取りだした刃物のほうが一足早かったようです」
「日本の侍は、長崎で起こった86年の事件を忘れてはない。今度事件が起きようものなら、切り捨て御免をしでかそうと思っていた者は多数いたからな」
「では、残った朝鮮人を尋問している最中か」
「はい、その者から話を聞いている最中です」
「どう思う?日本は責任を取らされようか」
「お忍びの最中というのが留意点だな」
「そうだな。公式行事とあれば、我々の落ち度と言えようが、殿下はお忍びと称して、わざわざ護衛を遠ざけている最中でのことだからな」
「露西亜の敵意は、朝鮮とそれを保護国化している清に向かうのではないか」
「露西亜は、清に宣戦布告いたすか?」
「俺が皇帝ならば、シベリア鉄道が完成するまで宣戦布告はしない」
「露西亜は、世界中から六億ルーブルを集めたのだから、鉄道完成の妨げとなる対清戦争をするべきではないだろう」
「これが開戦のきっかけとなってしまっては、六億ルーブルを一旦返還せねばならないだろうしな」
「これは、清国による挑発か?」
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