仮想戦記 『東海道鉄道株式会社』
著者 文音
第12話
安政四年(1857年七月六日)
薩摩藩江戸上屋敷
港区芝島津斉彬殿此度幕府の決定で十四代目には、血筋を優先し南紀派の主張が通った。此度の決定であるが、わしはそれほど悲しんでおらん。慶喜には度胸もあり、運もある。渋沢栄一一人をしても得難い人材である。慶喜にないのは何であろうか?徳川家に生まれながら将軍に二度もなれなかったゆえ、権力と金がないというかもしれないが、どうかスエズ運河開通を待って慶喜がする事業に協力してほしい。金がないというなよ、慶喜は日本で一番の金持ちかもしれぬぞ 徳川斉昭
「むむう、慶喜は日本一の金持ちというのはどがいしたってゆうんや。わからん」
「殿様、薩摩の国に使いを走らせ上京する兵五千人の編成をいたす飛脚を出してよろしいですか?」
「まて、その知らせはいったん保留ぞ。情報が不足しておるから、再度命じるまでその知らせを入れた文を燃やしておけ」
「ははっ」
「金をつくるとしたら、商人やろな。薩摩も琉球を介して清と密貿易をしてるが薩摩以上に儲かるものがあるのか?奄美には砂糖があるが水戸には納豆と梅しかないだろ。それでは商売にはならんな。あれか、昔薩摩がやった五百万両の借金踏み倒しか。とりあえず、手紙をもらったのだから水戸殿に話を聞いてみよう。さて、どうやって水戸殿に遭うか、これがかなり難しい。十四代目が決まった地点で幕府隠密は厳しい監視網を薩摩に張り巡らせてるだろう、さてさてどないしたもんか」
七月七日
水戸藩江戸屋敷
文京区小石川徳川斉昭殿十二代目がなくなって四年目の盆であるが、徳川家の菩提寺である増上寺にお参りすることにした 島津斉彬七月八日薩摩藩江戸上屋敷 港区芝
「殿様、庭に萱(かや、ススキともいう)がひと束投げ入れられてました。いかがいたしましょう」
「中秋の名月ならば風情もあるが、季節はまだ夏ゆえ捨てておけ」
九月一日
英仏連合軍が広州に攻撃をかけるために広州沖に集結する
九月三日(旧暦で七月十五日、旧盆)
日本橋のとある商家
「旦那様、今年の初夏は、蚊が少なくて助かりました」
「はて、理由があるか。なんぞ、かわったことがなかったか申してみよ」
「蚊が少ない時期は旦那様が舶来物の白い花を咲かせていた時期でございました」
「ふむ、来年にはこの白い花を庭一面に咲かせてみるか。来年になればこの白い花のせいであるかはっきりしよう」
増上寺入口
「これは、水戸殿と薩摩守との密会か」
「わしはすぐさま、井伊様に連絡してくる」
「将軍家菩提寺境内では、手の出しようがない。祝捷よのうというしかあるまい」
「たまたま、徳川家の墓参りに参りました折、水戸殿にあったと言われれば文句のつけようがない」
「しかも薩摩藩江戸上屋敷は目の前にあるゆえ、警備も支障があるまい」
増上寺境内
「水戸殿、あれこれ考えたのだが、日本一の金持ちになるには商売か借金の踏み倒ししか考えられぬ」
「外れではないが、借金の踏み倒しをして金持ちになったところで人に自慢できるようなことではないゆえ、お主に文を出したりせぬ」
「では、商売か」
「金をつくった方法はそうなるのう」
「そうか、世界にはわしの知らぬ金儲けの方法があるか」
「それは、そのうち慶喜が事業を始めるときになれば巷でいろいろと噂が立つだろう」
「そうか、教えてくれんでもよいわ。で、それはいつ始まる予定か」
「慶喜が運河を掘ってるのは知ってるよのう」
「堀田が通商条約を結ばねばならぬ状況に追い込まれた際、仏蘭西からの要請を受け砂漠で運河を掘る話を通して虎口を逃れた件よの」
「文を呼んでいると運河は五年がかりで開通するようだ」
「では、四年以内にはその事業を始めるというのか」
「そこよ、今の将軍はかごの中の鳥とかわりばえがしない。今となっては、十四代目に選ばれなかったことはかえって自由を得てよかったのではないかと思う。少なくとも慶喜は、その事業をしたいという目標がある。将軍という地位にあれば、苦労をして事業を始めたという実感もなく、あれをやっとけという命令を出すだけだったかもしれぬ。それに、十三代目を見ている限り、慶喜の聡明ぶりがかえって幕府を牛耳っている老中連中にはめざわりにうつるやもしれぬ」
「四年後か、先のある若者はいいがその折にわいは生きているかもわからん。しかし、四年後まで見守ってやるか。実は、国に帰ったら兵隊を五千人連れてくるつもりだったのよ。おのれ、国を私物化する南紀派めとな」
「十四代目は決まったがはて十五代目はどうなるかのう。まだ二十歳にならぬ十四代目と病弱な十三代目ゆえな」
「十五代目が決まるのは十年後でもかまわん。そう思うような展開が待っておればよいが、とにかく有意義なひと時であった」
「さて、幕府の密偵を引き連れて屋敷に帰るかな」
江戸城内
「本日、増上寺境内において水戸殿と薩摩殿が密会をおこなったと報告が入ってきておる」
「井伊殿、これについて不謹慎であると言いがかりをつけれませぬか?」
「増上寺は徳川菩提寺です。祝捷であるとはいえましょうが、盆に徳川家のお墓に参ったことに難癖をつけますと、逆にこちらの非を認めなければならないでしょう」
「むむむ」
「此度は見逃せ」
九月二十日歯舞諸島沖 咸臨丸
「来年の樺太入居団のために樺太近辺の探索と測量か」
「そうはいうな、ここは潮が時刻により三度入れ替わる海の難所。さすがに蒸気船だと海流に流されることはないが、先人はこの海の難所を手こぎの船で渡ったんだぞ」
「東カムチャッカ海流に千島海流、対馬海流か」
「対馬海流が日本を示すなら、残る二つは仏蘭西と英吉利かな」
「幕府に肩入れしている仏蘭西に、外様大名に接近している英吉利ともっぱらの噂だ」
十月三日日本橋 料亭梶
「この本は将軍候補が訳した仏蘭西文学か」
「正確には、将軍後継ぎ候補だったというべきだが」
「で、世間にはそれだけで売りだそうというのか?」
「そうではない。北斎漫画方式で文章による説明のみならず、人物画や仏蘭西の風景が実にわかりやすく掲載されている」
「言葉による説明では分かりにくい貴族、皇帝、銃士隊の格好から仏蘭西人が使う武器まで一目でわかるようになっておる」
「つまり、視覚で判断する作品といいたいのか?」
「見たこともない仏蘭西そのものを広める一助としたいとのことだ」
「この騎士道という点、武士道とどことなく似ておらぬか」
「皇帝を将軍、貴族を大名、司祭を坊主、市民を町民、銃士隊を鉄砲騎馬隊とすればいいのか」
「勘ぐるやつは、枢機卿を南紀派にあてはめないか」
「わかったことは、続きを読ませろ」
「「「異議なし」」」
奥村屋
「千部の増版が入っています」
「こちらは二千部」
「とりあえず、国内向けに十万部を予定しておったのだが甘かったか」
「仏蘭西向けは後回しにするしかありますまい」
「注文を取ってきた者にききますとアトス、ポルトス、アラミスのそれぞれに肩入れしている女子がいるとか」
「次号では、ダルタニャンをカッコ良くしろと絵師にいっておけ」
「おや、主人公派ですか?」
「さっしろ」
「なるほど、御新造様でしたか」
江戸城内
「さて、本日の議題だが、かつての十四代目候補が出したという三銃士だが、いかがいたそう」
「世の中で勘ぐるやつは、枢機卿を南紀派と置き換える向きがある」
「しかし、これは翻訳でしょ。誰かに原本を読ませれば十四代目候補に画策があったかどうかわかるでしょう」
「原本は、アレクサンドル=デゥマが書いたものですから、それを調べれば済むことでしょう」
「江戸にいる役人に問い合わせたところ、蘭語でなければ無理だと言われた。一人当てがあって、スエズ運河に遣った勝なら訳せるやもしれないといわれた」
「とりあえず、長崎にいる阿蘭陀人に蘭語訳をつくってもらうか?」
「それは、十四代目候補に言い逃れをされよう。翻訳の翻訳を信頼できますかとな。そうこういってるうちに続編が出るだろ。続編の方が早かろう」
「いや、それしかないか。実はうちのがアトス派で続きが読めないとなると機嫌が悪くてなあ」
「実はうちのは、ポルトス派で」
「お互い苦労しますなあ」
「できるものなら、この版画を描いた絵師に違う角度から描かせますか」
「そ、それがよかろう。各人の肖像画を描いてもらえばうちのも納得するであろう」
「それにつけても、人の奥方を味方につけるとは何とも狡猾な戦略や」
十二月二十九日
広州英仏連合軍が広州を占拠し、広東州総督葉名?(ショウメイチン)を捕虜とする
「印度の反乱に足止めさせられたがやっと中国に専心できる」
安政五年(1858年一月六日)江戸城内
「長崎より早馬がまいっております。英仏連合軍の攻撃により広州が落ちたとのことです」
「そ、それは一大事」
「すぐさま、全権大使にあてて連絡を取れ。幕府の進路を聞いてこい」
「江戸城に召喚いたしますか?」
「それには及ばぬ。返事は文だけでよい。三銃士の翻訳にかかっておるようであれば決して邪魔をするな」
「ただし、そこに三銃士の翻訳があればその分を急ぎ日本橋の奥村屋に届けさせよ」
「ふむ、それが最重要任務じゃ。それに成功すれば昇進間違いなし。いってまいれ」
「ははっ」
二月三日江戸城内
「十三代目のことであるが、医者の見立てではもってあと一年と言われた」
「天璋院との間に嫡子ができておれば薩摩藩ももう少し一橋家に肩入れするのを遠慮したであろうに」
「それをいうなら、側室でもよい。嫡子さえできれば一橋派にこうまでつきあげを食らうこともなかったであろうに」
「それは十三代目を選んだ我々老中に責任があろう」
「過去を振り返ってもどうしようもございますまい。十四代目には後継ぎがございませぬ」
「では、今度も嫡子が生まれるまで十五代目候補を命名しておかねばなりますまい」
「候補は、二人ですかな」
「外国かぶれにもう一度紀州藩主」
「どちらかになりますな」
「どうであろう。此度の十四代目であるが、後継ぎは御本人がお決めなさることにせぬか」
「基本方針としては悪くないかと」
「十中八九、兄弟を指名されるであろう」
「今の体制が続きそうですな」
「将軍が直接命名されたとあっては、横槍も入りますまいし」
「では、それとなく紀州藩主の日常を報告させますか」
「それだけでよかろう。この件に関しては、将軍在命中に口を開く必要はあるまい」
「それでよろしかろう」
三月三日網野
「今年は、雪が解けても機をおらへんといかへんねん」
「秋まで縮緬を織っていればいいそうや」
「仕事があるのはええことやね」
「それがな。もっと太い反物ができへんかいう注文が来たそうや」
「それは、機を織る機械を大きゅうせなあきまへんやろ」
「おかげはんで、機織りをつくる職人まで大忙しということや」
品川 咸臨丸
「ついに樺太入居団を引き連れ出発か」
「蝦夷にいる連中にきいたら、とにかく隙間風を防げということだ」
「冬になれば氷に閉ざされることもあり得るから半年は、補給がない事態にも対処せよとのことだ」
「夏の間に獣を狩りまくって毛皮を用意しとけということだ」
「今、世界は清に注目していということだ。その間に樺太入居という既成事実がほしいらしい」
「砂漠に寒冷地。連れて行かれる人間もたまったもんでないな」
「大概、二男に三男だから、問題は少ないが」
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