仮想戦記 『東海道鉄道株式会社』
著者 文音
第16話
安政五年(1858) 四月二十三日
江戸城虎間
「井伊殿、大老就任おめでとうございます」
「ふむ、一橋派が隠居していく中、目下の目的は平穏に十四代目を南紀派に持ってくることよ」
「それも遠いことではございませぬ。もはや、現職は食事がのどを通らぬとか」
「ここ三カ月が山ぞ」
五月十四日
咸臨丸
「仏蘭西からの帰りは、皇帝より贈られた軍用馬の輸送か」
「ヨーロッパ産の馬は、大きいな」
「これで荷物をたくさん運べるようになれば馬借も喜んでくれるだろう」
コレージュ=ド=フランス
「さあ、微粒子病が混合していない蚕の卵がジャポンより贈られてきた。できるだけ微粒子病の侵入をさけながらこの卵から蚕を孵化してゆくのだ。この卵から蚕を増殖できるようになれば仏蘭西養蚕業の復興も近いだろう」
「オオゥ」
シャンゼリア
「若様、楠より手紙がまいっています。ビール職人見習いの五名は、順調に蘭語の習得に励んでいるとのことです」
「ビールだけは、パリ周辺に研修先がなかった。阿蘭陀で仕込みを教わるのはそれが最善だな」
六月
天津条約を露米英仏と結ぶ
「清はこれから半植民地化か」
「なんせ大量にいる中国人だ。これで清が納得しなければ、首都北京を占領して奴隷代わりに苦役させようというのだろう」
日本橋のとある商家
「ご主人様、この白い花が咲いている期間は蚊に刺されなくて水まきしていても最高ですよ」
「では、蚊よけに町で種をまいてみるか」
「丁稚としては、白い花ですからお花畑みたいですが」
江戸の町
「中東帰りは一目でわかるのう」
「真っ黒に日焼けした侍がそうだ」
「しかし、おとなしくなったものよ。中東に出かけるまであれほど攘夷だ開国だと騒いでいた連中がなあ」
「帰国して最初にやったことは、腹いっぱいご飯を食うことだったなあ」
「とにかく米に飢えていたそうだ」
「後、攘夷であろうと開国派であろうと日本はいいというばかりになったな」
「愛国心にあふれるようだ。いっそ、どうしようもない馬鹿がいたら砂漠で運河を掘ってこいといってやるか」
「樺太でもかまわない気がする」
英国外交部
「ナポレオン三世の支持率はどうだ」
「仏蘭西の文盲率は八割。そこへ浮世絵形式でナポレオン一世の功績を示したナポレオン戦記が出回った。つまり、ナポレオン三世の支持を下げようと思ったらナポレオン戦記にかわるおとぎ話を下層人にはやらせねばなるまい」
「つまり、支持率は過去最高か」
「我が国でもネルソン海軍提督とかエリザベス一世とかを検討したんだが現政権に役に立たないと却下された」
「アーサー大王はいくらなんでも古すぎるよな」
「選挙権のない少年少女向けにはいけるが」
「新興国家の独逸と亜米利加も英雄がいないからな」
「現行政権に寄与するという限定であれば、仏蘭西のジャンヌ=ダルクですかね」
「女の英雄はめったにいない」
「前線に出てきたのは、彼女ぐらいなものだ」
八月十四日
江戸城虎間
「大老、殿さまの心が止まったとのことです」
「復帰の見込みは立ちませぬか」
「奥医師もさじを投げてございます」
「心の準備だけしておれ」
九月一日
仏蘭西 陸軍本部
「諸君、一年間緑茶を飲む実験をおこなったが、最も成績の良かったものは、緑茶を飲み緑茶で食器を浸す部隊であった。紅茶で食器をひたしても食中毒を緩和する効果は認められなかった。珈琲で食器を浸すと珈琲の匂いが抜けない食事があって一時食欲不振に陥る時期が見られた。よって、緑茶を軍用食とする」
「ははっ」
「実績があれば、財務大臣も納得するであろう」
「この実績を元に蚕にも緑茶の葉を食べさせる実験もやるそうだ」
「科学的な実験で期待通りの結果が出るかな」
「それだけ、微粒子病にまいってるせいだな」
十月二十五日
江戸城大広間
「将軍のおなりである」
「将軍徳川家茂として、皆の忠誠を期待する。なお、わが身に万が一のことがあれば、当面、紀州藩主を次代とし、慶頼公を後見職とする」
「ははっ」
とある大名屋敷
「十四代目はどうでしたか」
「元服したばかりの者が将軍となると周りはやりやすい操り人形であろう。今までと変わりない。逆にいえば、そんな者でも将軍が務まるのだ。今だ太平といえるな」
「では、もし慶喜公が将軍に躍り出てきた場合、非常時と思ってよいのでしょうか」
「そうともいえる。ただし、本人はあっちこっちに出向く、いうなれば権現様のような暮らしが気に入っておるから断るやもしれぬが」
「なんせ、巷では日本一の金持ちとの噂が絶えませんからね」
「その金があればしばらく幕府が続けられるのは事実だ」
「幕府に金がなくなれば、慶喜公に詫びを入れて金を無心するのでしょうか」
「丘蒸気次第よ。丘蒸気に失敗すれば徳川家に金のなる木はなくなる。成功すれば、金が株式会社というものに集まる」
安政六年一月六日
シャンゼリア
「ついに差し入れに赤ワインでも気にしなくなったな。日本でも売れるかのう」
「若様、お疲れ様でした。して、スエズ運河の開通日は?」
「来年の六月と決まった」
「では、こちらも仏蘭西に蒸気機関車等の発注をいたしますか」
「そうであるな。あと仏蘭西政府には、資本金七千万フランのうち、一割を出資してもらわねばなるまい」
「仏蘭西に寄贈いたしました日本の蚕ですが現地の蚕と交雑をおこなっているとのことです。どうやら、有望な品種ができつつあるようです」
「その話を聞いていると、出資の話もしやすくていいのう」
「それから、奥村屋から翻訳の終わった三銃士の続編があれば訳してくれとの要望だが、第二部と第三部は中村喜助殿に任せようと思う」
「では、彼の手でダルタニャン物語が完結ですか」
「彼は、根付職人として忙しい毎日であるが、本業は通訳よ。ダルタニャン物語を訳せば、外交官にもなれるといっておこう」
「では、機関手の研修をしている面々にも帰国は来年の六月だという手紙を出します」
「ビール研修をしている面々にも来年六月の帰国を勧めておこう」
江戸城内
「一橋派という共通の敵がいないと南紀派もまとまらんなあ」
「おかげで十五代目をめぐって三つ巴の戦いだ。大奥は、将軍の跡取りを産みたい連中が支配的だ」
「しばらく、十三代目を産んだ本寿院様以降、二十歳を越えて在命した子供がいない。いうなれば健やかな子供を産むための大奥が無用論を出されても文句が言えぬからな」
「第一候補の紀州藩主を推す声は、将軍後見職の田安家とぶつかるよの」
「しかし、大老が一番の権力者であるが共通敵を失ったために孤立度は一番よ」
「大老と気が合わぬ連中は、井伊の赤鬼を青くするのはだれだと噂をしている」
六月六日
水戸藩江戸屋敷
「西郷殿、仏蘭西より手紙がまいった。線路をひくには、来年七月からということだ」
「ということは、線路の路線沿いに住んでいる住民には、来年六月まで住んでもらえるということですか」
「ああ、用地買収も滞りなくうまくいった。来年六月末日までに更地になっておればよいとのことだ」
「そうですか、平塚まで出かけて用地買収をしたかいがありもうした」
「それで、品川に機関車を組み立てる倉庫を確保してほしいとのことだ」
「規模はどのくらい予定されてるんでしょうか」
「一万坪の用地を海岸沿いに欲しいとのことだ。そこで丘蒸気を組み立てるとのことだ」
「では、木造の倉庫をつくるまでが仕事ですな」
イスマイリア
「工程も八分方終わりましたねえ、勝殿」
「後一年だ。皆の顔も明るくなってきたな」
「三銃士は続編があったんですねえ」
「主人公ダルタニャン達がいつの間にかおじさんになっていたな」
「我々も徳川の将軍が死んだとつい最近聞きましたよ」
「俺のところの藩では、藩主が死んでなければよいですが」
「南紀派が十四代目についたということは、江戸は天下泰平よ」
「我々は、慶喜公にすっかり餌付けされてしまいましたが」
「うまい酒に娯楽を提供されては頭があがらないね」
樺太 北知床半島
「お、この黒い石は石炭か」
「やった、これで冬を越せるめどがついた」
「暖房用に掘って掘りまくるんだ」
「おっしゃ」
十二月六日
コレージュ=ド=フランス
「日本の蚕の品種はこれだけではなかろう」
「どうしてそれを言う」
「こっちの蚕はひたすら糸が長い。でこっちの品種は、微粒子病に耐性がある。さらにこっちは、糸が細い」
「ということは、仏蘭西の生糸も危機を脱したのか」
「完全とは言えぬ。ただ、個別に飼育しているから微粒子病の感染を防いでいるだけかもしれぬ」
「今、いいたいのはもう一回日本から蚕の種をもらってこないか」
「金色の繭でも出てきそうか」
「ありえるな、暇なら日本で蚕を仕入れてきたいものだ」
安政七年三月三日
オペラ界隈
「お久しぶりです、慶喜殿。実は、最近、ナポレオン戦記やダルタニャン物語の浮世絵もいいのですが、売りものばかりで少しさびしい思いをしております。つきましたら、かつてのような間宮林蔵物語のように当館に来ていただいた皆様にお渡しする小品をぜひお願いしたいのです。今回は、こちらから各百万分注文いたしたい」
「要望があればお聞きします」
「そうですねえ、一つは、ジャポンを意識させる物語を。もうひとつは仏蘭西を題材にしたものですねえ」
「日本につきましてはいくつか心当たりがありますが、仏蘭西と言われればモンブランの山を浮世絵にしてみますか」
「いいですなあ。仏蘭西の山々をスケッチしてもらいましょう」
「わかりました。下絵ができ次第、日本に送ります」
「よろしくお願いします」
五月二十五日
アムステルダム港
「機関車の船積みですか」
「正確には、機関車の一部分ごとに船に積んでいるのだがな」
「この日が来るのに五年の年月がかかりました」
「ああ、観光丸に乗って仏蘭西を目指したのは、五年以上前の話だ」
「あの頃は、尊王攘夷と開国派とがせめぎ合っていましたね」
「亜米利加からの外圧に開国寸前だった」
「それが丘蒸気を走らせるまでになりました」
「浮世絵様々かな」
「とりあえず、ポートサイドまでの船旅だ」
「そこで完成していれば足止めされずに印度洋だ」
六月三日
イスマイリア
「慶喜殿、長いことお待たせいたした。ついに開通式を開けます」
「レセップ殿、ええ、我々も待っていました。仏蘭西から機関車を載せて日本に帰国いたします」
「そうですか、日本の工夫の方々も帰国してもらいたいのですが、あともう少し手直しをしなければならないので一緒に帰ってもらうわけにはいきません」
「開通式の先頭は、仏蘭西の皇后か」
「二番手以降は、ヨーロッパ中の皇室が千名乗船しているな」
「その後、実用一番手は慶喜公が載せた機関車部品だ」
「この風景を見ている限り、ヨーロッパに日本が鉄道を導入したことを見せつけた開通式であり、日本がスエズの権益を有する国と認められたということだ」
「長いようで短い五年だったな」
「仕事に変化は少なかったせいかもしれん」
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