仮想戦記 『東海道鉄道株式会社』
著者 文音
第241話
1920年(大正九年)二月二十八日
英吉利 外務省外事課
「おい、日本での進捗状況は?」
「芳しくありません。我々は、目立ちすぎますから」
「江戸近辺であれば、浮世絵買い付けとしてもぐりこめますが、信州の片田舎であれば、それも通じない所で」
「やはり、藩の独占事業を盗んで来いというのはそうそううまくいかぬか」
「むしろ、人里離れたアマゾン奥地の探索より難易度が高いです」
「パラゴムの木の場合、持ち出しはそう難しくはなかったが」
「はい。むしろ、アマゾン北部パラ州の気候に慣れているゴムの木を英吉利の植民地に慣らす方が困難でした」
「そうだな。赤道をまたぐような植民地候補は、大まかに三か所、インド亜大陸に隣接するセイロン島、インドシナ半島、奴隷海岸だったが」
「自生している苗を盗んで文字通り温室栽培した苗木は、セイロン島で根付かず」
「回り道でしたが、ゴムの木の種を発芽させたものをマレー半島で生長させることでようやく乳液を採集できるようになるまで三十年がかりだった」
「では、それだけの困難を今度も必要とするのでしょうか」
「今度は総力戦だ。世紀が違う。要するに世界戦略物資である寒天を日本限定生産ではなく、普及品に換えればいいわけで化学的に代換え品の合成にも挑戦している」
「だとすれば、早い者勝ちですか」
「そうでもないな。有機化学は産声をあげたばかりだ。14年に初めて有機化学の必須元素である窒素が合成できるようになったばかりだからな」
「では、有機化学というのは、歴史としては産業的には七年目でしかないということですか」
「学術的にも有機元年は、尿素を合成できた1828年に始まると言われていてな。鉄を取り出して繁栄を始めたヒッタイト王国に時代からあるから、三千年の積み重ねがある無機化学とは、赤ん坊と青年ぐらい違う」
「では、寒天にとどめをさすのは我らしかないと」
「競争相手としては、独逸科学者もそうだが」
「有機化学というのは、赤ん坊だからこそ、何をするかわからん。映画のフィルムがそうだ。いつも間にか、世界の最先端マスメディアになっているからな」
「そういうものに頼らないといけないほど、今回の敵は厳しいのですか」
「アマゾン奥地に派遣した植物学者は、疫病にやられたりブラジル当局に拘束されたものもいたが、複数を派遣すれば半数は帰還したのだが」
「信州は芳しくないのですか」
「スパイの帰還は今だない」
「なんです。その完璧な情報遮断は」
「きくところによると、忍者が暗躍しているらしい」
「え、料理で活躍の忍者か」
「いや、本来の役割は、暗殺防止と暗殺、情報収集と偽情報。それに領国内での治安維持というところが本来の役目だそうだ」
「忍者ねえ。どこが厄介なんだ」
「まず、ここで寒天を製造しているときいたのですがと我々がききまわっていると、『あるよ、その土蔵の中さ。扉を開けたらわかるよ』と、いうのは虎口を踏んだも同然らしい」
「もしかして、そのまま扉の中に入ってゆけば、帰還できないのか」
「できないねえ。扉を閉められ役人に引っ張られるそうだ」
「村民にききまわっても駄目。だとしたら、自分の足で嗅ぎまわるしかないのか」
「足で嗅ぎまわるのは難しい地域なんだな。アマゾンの奥地といえど、元はポルトガルの植民地だ。白人は珍しくはない」
「だよな。片言といえど、スペイン語を話せれば現地民もどきになれる」
「それが、信州では通じない。食料調達をしようにも白人の格好に英語。さあ、誰が日本人もどきと見間違えてくれようか」
「例えでいえば、十字軍でもめたイスラム国家の中にターバンをしていない白人がぽつんと放りこまれたようなものか」
「現地民はどうなんだ。金と女と名誉で寝返りをさせられないのか」
「そこは最初から除外した。いいか、寒天の秘匿は国家事業だ。独占していれば、それに比例して金も入ってくる。そうそう、部外者が接近するのも難しい」
「それに民族気質も関係している。いや、信州人の気質か」
「日本人が農耕民族というやつか。稲作という集団作業を重視する気質から、異質なもの=つまはじきというやつか」
「それはまだいい。信州というのは標高二千メートルを超える山々に囲まれた地域なんだ。つまり、顔見知りが全て。嫁をもらうために隣町から初めて里の人間以外をみたというものが少なくない極めて閉鎖的な社会だ」
「鉄の規律に支配された地域か。日本がその地に寒天を隠すのも当然か」
「条件がかなりきつくなりましたが、対応策はいかがなされますか」
「前提条件が厳しくなったからには、敵を知る必要があるな」
「上官への報告書を書くためにも追加項目を入れよう。忍者について研究せよ」
「了解しました」
「ふう。こうしておけば、必要経費は潤沢になるだろう」
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