仮想戦記 『東海道鉄道株式会社』

著者 文音

 

 第267話

 1926年(大正十五年)四月一日

 女浮世絵師開祖AJ物語

 偉大な師を前に成長していったAJの場合、師はとりこむべき対象であり、利用すべきものであった。師も美人ではないが、それを受け継いだAJも美人とは縁がなかった。それでも人に薦められるままに、絵師の元に嫁いだ。ま、なんだ、相性が悪けりゃ別れればいいと師匠にいわしめるほど、右手一本で生きてゆくつもりだったし、結婚も何事も経験よ。後で、いい経験になったと笑い話になってもいいし、右手一本で稼ぐ誓いが立てばいいと思っていたけど、絵を描いている当日、同僚の元に継いだのがいけなかったのか、師の飾らない性格のせいだろうか、

 「あ、悪い悪い。そんなら、あちきの方がうまいわ」

 「貴様とは二度と口をきかん」

 と、結婚相手に正直に言ったのが悪かったのだろうか、ま、お互い様だわな。あちきより絵の下手な夫と暮らすのは、こっちが手を出したくてうずうずとするのは目に見えてる。だったら、その日のうちに師のもとに帰って、筆一本で生きてゆく決心がついたと思えば

 婚姻とそれに続く離縁も悪くはないわと師にのたまった。

 「ふん、これでお前も独身で一生を過ごすのかい。だったら、師の称号をひきついでいけるだけの気概を示せ」

 「あちきは、師と同じで掃除もろくにできないけど、最大限、師の名前を使わせていただきやすよ」

 「そうだな。美人画なんて名前があるが、あれって男が描くもんかねえ。女を知っているおまえなら、師より上手に描けるかもしれん。それまでは、師のところに来ている仕事を分けてやる」

 「もしかして、あちきの結婚が失敗するとわかっていたかのような口ぶりだねえ」

 「どうせ。夫をたてて生きてゆく気がない者に結婚は難しいよ。ま、なんだ、夫より名声と金を稼いだらそれでよかろう」

 「何で、この世は女からの離縁が難しいのかねえ。あちきみたいに初日に別れ話がついたような場合、もめないけどさあ。子供でもできたら女はすべて取り上げられるんだよ。子供は跡取りだといって、夫の総取りだからねえ」

 「社会にとって女が稼ぐことを想定していないせいだ。天下泰平といえど、今の世の中の仕組みを作ったのが男で、その仕組みを未来永劫伝えてゆく上で必要なのは、跡取りの長男が最優先されるからだ。妻と娘はその付属品でしかない」

 「そうやね。財産はすべて長男のものという理不尽がある限り、女名義でかせいでもつまらんわ。自分の娘に相続できるわけでもなし」

 「そういうわけで、俺たち親子は掃除ができない。なおかつ、絵師としての技量に恵まれたのが三女ときたわけだから、俺たちは根なし草でよい」

 「けどねえ、掃除のできないあちきのせいだといって、部屋が汚くなったら引っ越しというのも合理的なんやろか」

 「ほう、他に手段があるんか」

 「男弟子に掃除をさせるとか」

 「それが追い付かんから引っ越しているんやろ」

 「へいへい、これに関してはこれまでやね。で、あちきに向いた仕事って、まずは何から」

 「AJが世間に認めてもらうために、広報活動に従事していただこうかのう。断れん家庭教師が三件来ていてな。それで教師をしてもらおうか」

 「ちなみに、その三件というのは?」

 「一件目は、武士の娘の手習い。二件目は商家の娘。三件目は、花魁になりたい太夫だ」

 「三件目は、美人画を頼んだ件で、断れなかったというやつですね。二件目は、版元に押し込まれましたね。一件目は、御禁制をちらつかされましたね」

 「さすがに、娘の目は節穴ではなかったな」

 「私に拒否する権限はありませんので、とっとと美人画に自分の画号を入れられるように頑張りますか」

 「お主が画号を育てるのはいいが、それを世間が評価してくれるとは限らんぞ。美人画を買ってくれる金持ちというものは、たいてい男だからな」

 「そうきたか。やっぱり自分の画号で食っていくのは難しいか」

 「けどな、何事も例外はある。男のスケベ心を満たす作品は、売れるだろうさ」

 「なるほど、金は春画で稼げということですか。いやはや、男は単純ですねえ」

 「ま、言葉を飾るなら枕絵ともいうがな」

 「ということは、親の画号を最大限に使わせていただいて、金を稼ぐのが上手な世渡りというやつだわ」

 「ま、それはかまわんが、AJが下書きをした作品を俺の名前で稼ぐのも問題あるまい」

 「そうやね。あちきの方が長生きできるとも限らんし」

 「とはいうが、AJは、三女で俺が数えで三十八の時に生まれたのだから、よほどのことがない限り、俺の方が先に逝く。その心配は無用だろ」

 「けれど、師が死ぬ時こそ、師の画号を使えなくなる時だから、あちきが筆を置く時は、師匠が死ぬ時やわ」

 「どれそれほどまでに言うのなら、お主の技能を見極めてやろう。まずは美人画を三つほどしあげてこい。できが良ければ俺の画号で出してやる」

 「そうやね。今は無理でも、後三年もすれば師を抜いてやるわ」

 「せいぜいがんばってみろ」

 

 

 

 三年後

 「いやあ、北斎先生は六十を超えなすりましたが、作品数は全く落ちませんねえ。むしろ増えてるくらいですよ」

 「いやいや、美人画のこの艶は他の誰にも出せない境遇ですよ。老いてますます盛んと」

 「まあ、版元にならいってもいいでしょう。その美人画は、俺の三女でもある栄女の作品ですよ。男社会ですから私の画号で出していますが。美人画に関してはAJの方が優れていますよ」

 「そうですなあ。女でなく男でありさえすれば、葛飾北斎親子の作品として高く評価されたでしょうけど、女に生まれたばかりに画号を入れる作品がないのは実に惜しいですな」

 「男尊女卑の世界がかわらない限り、彼女の真価は評価されないのが私の心残りですよ。親子そろって、物に執着しないのでどうでもいいことですが」

 

 

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