仮想戦記 『東海道鉄道株式会社』

著者 文音

 

 第85話

 とある冊子その二

 紀州白浜海岸は、日本三大古湯の一つである白浜温泉と石英砂が有名な土地である。しかし、同地に鉄道がひかれたのは、明治二十年のことであり、幕府が中山道鉄道株式会社に奈良線より先に同地に鉄道がひかせた理由は、先に述べた観光地ではない。その理由の一つは、紀勢線の和歌山と白浜の中間にある有田が幕府にとって重要拠点として認められたため、同社は和歌山から線路を埋設するために終着点として白浜を定めたためである。もう一つの理由は、この白浜一帯に植えられた除虫菊のためである。この白浜で栽培された除虫菊は、蚊取り線香の製造工場がある有田まで列車に乗って運搬される重要物資である。除虫菊は、地中海原産の植物である。日本には安政三年(1856)に阿蘭陀からもたらされたチューリップの球根を栽培した日本橋の商家にて混入しているのが見つかったと報告がある。日本橋でチューリップに混じって花を咲かせた除虫菊は、夏場に蚊が減少するのを好んだ商家で大々的に栽培が広がり、ここ白浜も南側の日照条件の良い土地を除虫菊の白い花が占領している。夏に八分咲きの花を採取し、陰干しをして乾燥させ、それを容器に入れて有田に輸送される。

 蚊取り線香が熱帯雨林のマラリアに極めて効果的だと判明して以降、一時はそれを国家機密に指定されることも考えられるほどの重要発見であった。しかし、パナマでの工事は、多国籍で行われた工事あり、幕府は機密が露呈するのを防ぐのは困難としてそれを世界に向けて発信した。以後、蚊取り線香が十分あれば、パナマ運河に従事する工夫たちはマラリアといった風土病を恐れることもなくなった。工事を請け負っていた幕府も工夫の対象を平民に拡大し、世界各国に再募集を掛けるまでに安定していった。しかし、蚊取り線香には工夫たちが取扱いに神経を使う命綱さながらの手間暇がかかった。

 初期のものは、粉末状のものと棒状のものがあった。建築現場に粉末状のものを置くことは出来なかった。振動がする現場に粉末状のものをもちこむと粉末の山が崩れてしまい、途中で蚊取り線香の火が消えている事態が多数発生した。また、それだけならよい。粉末の火種が移動することで火器と接触し、ぼやが起きることも多数あった。よって、必然的に棒状の香取線香のみが現場で使用されることになった。

 しかし、棒状の蚊取り線香は、改良型を使うと一時間の使用で10 cm を消費する。直線の棒は20 cm を越えて伸ばすことは出来なかった。それ以上長い棒は、燃焼中に倒壊してしまい、工夫の悩みは解決しなかった。工夫たちはもっと長く使える香取線香を渇望した。幕府は、蚊取り線香を一度使用すれば一晩睡眠時間を取る間、途中で目を覚ます必要のない製品の開発を命じた。

 有田に集まった技術者たちは、この要求にこたえるために日夜改良を怠らなかった。あるものは、ベンゼン環の機構を解明したアウグスト=ケクレにあやかって、馬蹄のような形にしてみたが、半分燃焼したところで線香が崩壊してしまい、実用化には程遠かった。それではと、20 cmの棒をあやとりのようにつないで一つの棒が燃焼したら、次の棒に燃え移るようにしてみたが、振動がする現場では、取り扱うことができなかった。そうこうしている最中に、やはりケクレのことを思い出した上山研究員は、夜中夢を見ていると、六頭の羊達がぐるぐると回っていた夢を見た。そうだ、これを見てケクレはベンゼン環の構造を思いついたのだと夢の中で俺もケクレの立場に立つことができたと思っていたら、羊を丸のみする大蛇が出てきて、次々と羊を丸のみした大蛇は、全ての羊を食べた後、満足したのかその地でドグロをまいて丸くなってしまった。夢はそこで醒めた。はは、夢が台なしではないかとおもったが、ドグロをまいた蛇を再現した蚊取り線香を試作したところ、20 cm を大幅に超える58 cmを一本の線にすることができた。この蚊取り線香は六時間の連続燃焼をすることができた。従来品の三倍の時間を確保できるとともに、平べったい皿の上にものせることができるため取り扱いも極めて簡易になった。これを見て同研究所の所長は、これを特許化し、不死鳥という名の商標で世界中に輸出することになった。

 

 

 1885年(明治十九年)五月二十日

 フィガロ紙

 仏蘭西大統領にシャルル=ド=フレシネ氏が当選。同氏は、鉱山部門を皮切りに交通部門の責任者につくなど、建設部門を歴任した人物であり、オスマン前大統領が後継者に指名をするにふさわしい経歴の持ち主であった。新大統領も現政権が掲げる路線を踏襲する見込みであり、仏蘭西の政策にさしたる変更は見られない見込みである

 

 

 七月一日

 横浜駅

 「横浜発高崎行き、一番急行たかざき発車いたします」

 「外環状線も残すは、日本橋以東のみか」

 「関東で唯一鉄道がひかれていないともいえる下総の国に来年から進出か。ずいぶんと待たせてしまった」

 「大株主である水戸藩に配慮いたしましたらこうなりましたと」

 「それとだな、来年こそ、奥州線が全通するはずだ」

 「これで、本州の背骨ができました」

 「北は、青森から南は鹿児島まで一本の線路で結ばれますね」

 「ここまで長かったですな。万延元年(1860)に日本橋と小田原間に鉄道を走らせてはや四半世紀。長かったような短かったような」

 「水戸藩も薩摩藩も出資していただいた方が代わってしまいましたほどに」

 「それで、本州の背骨ができたところで、社員の皆には慰労会を開催しようと思ってな」

 「では、オテル日本橋で開催ですか」

 「大坂支店長の塩飽万丈との約束では、いつか桜の散る瀬戸内海で夕日の沈むのを見ながら一杯という約束をしたのだが、あいにく四国と本州を結ぶ航路は、山陽道鉄道株式会社が押さえている。別に同航路で祝杯をあげてもいいのだが、どうせなら青函連絡船を貸し切って一杯といこうと思っておる」

 「出席できるのは、わが社の社員のみですか」

 「船の定員次第だが、出席人数は二百人。来年の株主報告会にするとすれば、大株主の者も交えて五月かね。当地で桜が咲く時期がいいだろ」

 「では、さっそくそのように手配をいたします」

 「まあ、何分線路と航路ができなければ話にならんのだから、青森までの線路埋設は前倒しにするしかあるまい」

 「もちろん、来年の五月までに青森まで線路を埋設できるようにほんの少し前倒しをします」

 「わが社も南海道鉄道株式会社に習って会社名に愛称を導入いたしますか」

 「同社は、自前で埋設した線路が205 km  。浮世絵で埋設する距離が251 km  。世間では、浮世絵鉄道と呼ばれていますねえ」

 「あれは、世間が勝手に名をつけた名前だからなあ」

 「そのうち、世間が名をつけたくなるような事態が起きるまで今のままでよかろう」

 「そうですねえ、東海道鉄道株式会社で儲かると思われていればかまいませんか」

 「浮世絵鉄道のように、浮世絵で鉄道が走る部分は客車の色分けをしようかと悩む必要は感じないが」

 

 

 八月十五日

 増上寺

 「徳川宗家の菩提寺を今年は無事訪れることがこんなにうれしいと思ったことはない」

 「老中連中は、パナマ運河会社から送られてくる工事進捗報告書と工夫の死亡者数のあたふたしてましたから」

 「老中連中にしてみれば、最初の一月で二百人が還らぬ人になった時から青い顔をしていたからね」

 「その翌月の報告書で、同じ数の死者が出たとなれば、年間で二千人が死ぬ計算だったからね」

 「二千人は、台湾縦貫鉄道を埋設したときの数字だが」

 「その数字には、台湾現地民の数も込みのものだ」

 「しかし、パナマ運河建設を引き継いだとき、現場に残っている他国籍の工夫は激減していた。つまり、パナマ運河で死亡する人数は、ほぼ日本人であるといいかえることができるわけであり」

 「老中たちにしてみれば、毎日が戦争をしているようなものだったろうな」

 「三カ月目の報告書もみて老中連中も腹をくくったかね。この工事が例え成功したところで老中の首が複数とぶであろうと」

 「連中にしてみれば、清仏戦争の時の方がずいぶん楽であっただろうな」

 「何もしないで、台湾が手に入るとわかっていれば、毎日の登庁も楽しかっただろうな」

 「それが、四か月目からの報告書をみるのは担当をする老中一人。後のものは見て見ぬふりをするのが一番ときた」

 「その地点で現実逃避が始まっているわけだが、八月の報告書をみて老中たちは夜が眠れるようになったな」

 「そこの者、この書状をもって中山道鉄道株式会社に行け。なに、大したものは入っておらぬ。幕令一つだからのう」

 「蚊取り線香を製造するだけで、老中が枕を高くして眠れるとあっては、すぐさま紀州有田まで鉄道を延ばせとするわな」

 「ところで、最近の大奥はどうだ?」

 「実業家としての大奥か?それとも本来の役目としてか」

 「本来の方だ」

 「それが、うまくいかぬ」

 

 

 

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