仮想戦記 『東海道鉄道株式会社』
著者 文音
第88話
1886年(明治二十年)八月十五日
朝刊一面
清国水夫 長崎の出島で狼藉のあらん限りを尽くす
八月一日、清の北洋艦隊に所属する定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻が長崎に艦隊修理を名目に、寄港を要請した。長崎奉行の高橋は、胡散臭いものを感じたが修理の名目であれば、長崎の出島のみ上陸を許可した。十日までおとなしくしていた水夫達だが、どこからか抜けだした一人が長崎市街地の遊郭で遊んできたことが発覚した。十一日に三十人、十二日には百人も長崎市街に清人がたむろしていることを長崎奉行所同心岡部勝正が情報を集め、十三日には、出島からの抜けがけを防ごうと躍起になっていた。
抜け駆けは、火消が火事の際に使う火の見やぐらを越えて長崎市街に出かけていた。開国以来、出島と長崎市街が埋め立てられ、陸続きになっていたのを悪用されたのであった。長崎奉行所は、この火の見やぐらを撤去することで事件を穏健にやり過ごそうとした。しかし、これに激こうした水夫は、多勢こそ正義とばかりに出島と市街を隔てる塀を多数で壊し、一目散に遊郭を目指すものと、長崎市街で商店に押し込み強盗をするものと婦女子を追いかける一団とに目的別に分かれ進攻した。
婦女子に手を出そうとした一団を人力車車夫三十名が防戦しているところを佐賀藩士十五名が加勢して、百人余りの水夫と殺傷沙汰を繰り広げる。車夫は、人力車を防壁に利用し、婦女子をかくまった。佐賀藩士は人力車の隙間から飛び出る水夫を切る役目を担当することとなった。刃物を持っていることから、当初藩士側は有利であったが、そこへ刀剣を強奪した一団が水夫側に加勢し、二百人対六十人の不利な戦いへと場面は変化していった。藩士側は、一人また一人と人数を減らしてゆくが、そこへ強盗を知らせる笛の音を聞いた長崎奉行配下の四十名が加勢して、一進一退の攻防を繰り広げた。決着をつけたのは、屋根の上から投げいれられる平民の投石と火消の加勢により、水夫百八十人を強盗の容疑でお縄にした。双方の被害は、水夫三十名が死亡。六十人が刀傷を受けた。対する車夫が二名死亡、士族十名が死亡。重傷を負った捕物方は四十名と五体満足なものは皆無といわれるほどであった。
なぜ、これほど清人水夫が我が物顔で長崎を練り歩いた理由は、日本と清との海軍兵力にあるといわれている。両者の火力の目安ともいえる総トン数と各級の船舶数を次に掲載する。
日本 ( 船舶数 総トン数) 清 ( 船舶数 総トン数)
一等 0 0 2 14860
二等 1 3718 3 8550
三等 0 0 0 0
清国水夫がつけ上がった理由は、清国が昨年の秋に就航させた二隻の戦艦である定遠と鎮遠によるものである。この二隻は、等級は一等級に分類され、各船舶のトン数は、各七千トン級に属し、西太平洋にこれらの軍艦に対抗する船はないといわれている。つまり、この二隻の威圧を背景に清人水夫は増長して、日本にいれば日本の法に従って裁かれるはずはないと、このまま清国に帰国できると踏んでの狼藉の限りであった。言い換えると、このまま遊郭等でお縄にした水夫を含めると計五百人のとが人を清に放免することは、我が国が二隻の戦艦に屈したといいかえることができる。
長崎奉行は、このまま一週間後に沙汰を言い渡し、捕えた全員を遠島に島流しするといき込んでいる。当新東新聞としては、この勇敢なる奉行の言い分やよしとすべきである。
水道橋駅
「なるほど、事件の概要は新聞に載っていることと大差ないか」
「全権大使、あえて言えば、この事件で死傷した者達宛に五百円という金が見舞金として全国より長崎奉行当てに送金されております」
「では、江戸城の連中はどうしたいと言っているのだ」
「国民感情を考えますに、長崎奉行の沙汰を支持したいと」
「では、私のところに来た理由は?」
「困った時の全権大使といわれ、私が返事をもらってこいと」
「老中連中は、仮に長崎奉行の方針通り、全員を島流しにするとしてこれに難癖をつけられて、日本と清との間で戦争が起きることに対する覚悟は出来ているのか、清の日本対する感情はよろしくないな。清仏戦争で何もしないくせに、台湾を奪っていったにっくき日本だからな。アヘン戦争の仕返しとばかりに、清の国民が島流しにあったのを理由に日本に戦争を仕掛ける腹かもしれぬぞ」
「戦争は避けたいところだが、防げない戦争はやむをえない。日清間で戦争が起きても断固戦いぬくのみと」
「よろしい、覚悟は出来ていると。では、質問をかえる。今現在、北洋艦隊の位置はつかめているか」
「騒ぎが起きた後、朝鮮に船を廻したらしく、行方はつかめていません」
「では、もうひとつ。この四隻の北洋艦隊だが船員は定時で何人か」
「千人余りとのことです」
「つまり、五百人という船員は、四隻の船員半分をお縄にしたか」
「海軍奉行にききたいことがある。船員が半分になった軍艦は、戦闘に支障をきたさないか?」
「では、これより海軍奉行に問いただしてまいります」
「バタン」
「海軍奉行に問いだしたところ、熟練水兵が半分、新兵が半分の軍艦であれば、戦闘能力は、やはり最初の月は半減、三ヶ月後に四分の三。一年後に元通りです。ただし、清軍の戦艦は、就任後一年がたっておりませんので、そのことを考慮にいれていただく必要があります」
「では、日本だけでは対応できないか。ここは、日本をパナマ問題にかかりきりにさせた仏蘭西に同盟条項は、日清で戦端が開かれた場合、同盟国として参戦してくれるか否かを仏蘭西領事館に問い合わせてくれ」
「いってまいります」
「バタン」
「日本をパナマにかかりきりにしたのは、仏蘭西のせいであるから、極東海軍を日仏同盟の名のもとに遣わすと返答がありました」
「ふむ。とりあえず、これで戦争抑止力を手に入れることができた。日清間で戦争が勃発したら、陸路で仏蘭西領インドシナから陸路で清に攻める道が開けた。戦艦は足が遅いのであるから、極東海軍の足で戦艦を引き連れまわすというのもありだろう」
「次に、英吉利に連絡をしてもらおう。日清間で戦争が勃発した場合、英吉利の立場を明らかにしてもらいたい」
「バタン」
「英吉利は、日仏が連携して清に対処するのであれば、ビルマ方面からチベット方面に攻め込む用意があると」
「では、次に露西亜に同様の問題提起をしてもらおう」
「日仏英が清と戦争になった場合、露西亜の立場はいかがいたすと」
「バタン」
「露西亜は、友好的中立を維持すると」
「では、周辺国の立場は朝鮮以外でつかめた。少なくとも清の味方になる国はなかった。これで戦争抑止力が一段と高まった。では、この情報をもとに清の和平派に働きかけをしていただく。日清間で戦端が開かれた場合、南方より陸路で三国が攻め込む用意ができたと、それでも清は日本に対し、戦端を開きますかと、我々としては、アヘン戦争の再来といきたくあり、広東省を割譲させる用意があると」
「では、北京で工作を働いてくれ。そのつもりでやってくれ」
「了承いたしました。バタン」
「しかし、清に対して我々は関税自主権も取り上げている国ですし、領事裁判権も我々が握っているのですが、なぜ我々は、これほどまでに追い込まれているのでしょうか」
「清としては、それほど二隻の戦艦が当てにできると思ったのであろう、実際、一国で海戦を開くわけにはいかない事態には追い込まれている。我々が砲艦外交に屈するかどうかを見極めている余裕が清にあるのは気に入らない。最悪、向こうは水兵五百人を見捨てる覚悟があれば、何も失わない立場であるからな」
「しかし、我々に無理難題を押し付けてくる仏蘭西ですがこれほど頼りにできる国だとは思いませんでした」
「正義を振りかざすだけなら、誰でもできる。だが、その思いを国民全体で共有しているのなら、できるだけこたえてやるのが我々の立場だ。少なくとも仏蘭西がいるおかげで英吉利も我々の立場に立ってくれた。後は、紫禁城にいる和平派をたきつけて清に味方する国がないことと日本は二国から参戦を取り付けたとささやくしかあるまい」
「戦争が勃発しなければ、長崎奉行は名をあげることができるでしょうねえ」
「もし万が一、戦争が勃発した場合、自己を攻めて欲しくはないのだが」
「今回、もし仮に清が意図的に長崎で狼藉を働かせたというのなら、清に不平等条約を押し付けた国々に対して戦争を吹っかけたとは考えなかったのでしょうか」
「今となっては、水兵を押さえられなかった上役の責任にするのが一番の策のように思えるのだが」
「上海租界は、すでに各国の利権となっておりますから、それを害する行為に対し、各国が協調して対処するという考えには思いつかなかったのでしょうか」
「清国海軍は、清仏戦争の折、ひきこもり海軍と言われたんだが、それは二隻の戦艦が納入されるのは待っていたということでしょう」
「将軍が仏蘭西にいる間に起きた事件は、吉と転ぶか。長い御盆になりそうです」
「できるだけのことはしたつもりだ。後は、長崎奉行の沙汰を待つばかりだ」
八月二十日
長崎奉行所
「殿のおなーり」
「では、今回の長崎事件の沙汰を申し渡す前に申し伝えることがある。此度の事件は白昼堂々と行われ、目撃者多数といわれる事件となった。私が許可を出したのも、修理目的ゆえ、人道的見地から長崎の出島に上陸することを許可したのであった。長崎市街に出かけた連中はそれだけで不法入国であるから、今回は長崎市街でお縄にした連中全てに申しつける。全員、パナマ運河が完成するまでコロンビアにて強制労働といたす」
「ひえーー。瘴気が渦巻く地への流罪ばかりは、勘弁アル」
「「「行きたくないアル」」」
「これにて、本日の沙汰を終了いたす」
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