cinema / 『エイリアンVS.プレデター』

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エイリアンVS.プレデター
原題:“Alien VS. Predator” / 監督・脚本:ポール・W.S.アンダーソン / スクリーン・ストーリー:ポール・W.S.アンダーソン、ダン・オバノン、ロナルド・シュセット / “エイリアン”クリーチャー原案:ダン・オバノン、ロナルド・シュセット / “プレデター”クリーチャー原案:ジム・トーマス、ジョン・トーマス / 製作:ジョン・デイヴィス、ゴードン・キャロル、デイヴィッド・ガイラー、ウォルター・ヒル / 製作総指揮:ウイック・ゴッドフリー、トーマス・M.ハンメル、マイク・リチャードソン / 共同製作:クリス・シムズ / 撮影監督:デイヴィッド・ジョンソン / プロダクション・デザイナー:リチャード・ブリッジランド / 編集:アレクサンダー・ベーナー / VFXスーパーヴァイザー:ジョン・ブルーノ / クリーチャー・エフェクツ・デザイン&制作:アレック・ギリス、トム・ウッドラフJr. / オリジナル・エイリアン・クリーチャー・デザイン:H.R.ギーガー / 衣装:マガーリ・ギダッシ / 音楽:ハロルド・クローサー / 出演:サナ・レイサン、ラウル・ボヴァ、ランス・ヘンリクセン、ユエン・ブレムナー、コリン・サーモン、トミー・フラナガン、ジョセフ・ライ、アガート・デ・ラ・ブレイユ、カーステン・ノルガード、サム・トルートン / デイヴィス・エンタテインメント&ブランディワイン製作 / 配給:20世紀フォックス
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間40分 / 日本語字幕:林 完治
2004年12月18日日本公開
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/avp/
VIRGIN TOHO CINEMAS六本木ヒルズにて初見(2005/01/27)

[粗筋]
 大企業ウェイランド社の所有する人工衛星が、南極大陸にあるブーヴェ島で異様な熱反応を検知した。地下深くのその熱反応は、氷と雪に閉ざされた遥か底に、滅びた旧文明を彷彿とする巨大な建造物が眠っていることを示していた。
 肺病を患い余命幾ばくもないウェイランド社の総帥チャールズ・ビショップ・ウェイランド(ランス・ヘンリクセン)は歴史に名を残したいという想いからすぐさま行動に移る。秘書兼ボディガードのマックスウェル(コリン・サーモン)を各地に派遣、発掘作業や化学工学者など必要なプロの人材をかき集め、自らも南極の地に赴いた。環境運動家であり、極地探検のプロフェッショナルであるレックス・ウッズ(サナ・レイサン)はろくに訓練の時間も与えられない調査行に難色を示すが、考古学者のセバスチャン・デ・ローサ(ラウル・ボヴァ)らの熱意に押され、また彼らの調査を無事に終わらせたいという想いから最終的に同行を決意する。
 現地であるブーヴェ島では、異様な光景が調査隊を待ち受けていた。捕鯨基地跡の一画から地下の遺跡へと一直線に穴が開けられていて、道が出来ている。その痕跡は宛ら、宇宙からひと筋の光線が放たれ、目的地への道を形成したように見えた。
 機材を駆使して坑道を下っていった先に屹立するのは、予測を遥かに超えた技術で建造された先史遺跡。大発見を確信しながら進行する一同だったが、生贄の間を発見し、その真下にある部屋で謎の武器と思しきものを収穫したところで、異常が発生する。遺跡内部の壁や床の位置が変動して調査隊は分断され、その各所から悲鳴と銃声が響き渡った――!

[感想]
 設定そのものにも遊びがあるため、なるべく細かい説明を省きながら粗筋を書こうとすると知らないうちに最後まで辿り着いてしまいそうです。故にかなり簡単なものになってしまいました。悪しからずご了承ください。
 もともと本編の構想はかなり早くから製作会社(20世紀フォックス)内部に存在したらしく、それに『バイオハザード』などで知名度を上げたポール・W.S.アンダーソン監督がかねてからの憧れを胸に乗っかってきた、という格好らしい。
 SFホラー風アクション、という根っこが似通っていたところへ、双方の作品に愛着を示す監督がストーリー面からも手を加えたお陰だろう、この両者が対決する理由付けや特徴を活かした戦闘シーンなどは巧く纏まっている。とりわけ、名誉を重んじるプレデターの性格と強酸性の体液が流れているエイリアンの体質とを利用したある演出は、ストーリー展開の鍵ともなっていて実に印象的だ。
 が、そうした理由付けがぜんぶうまく行っているかというと、「ううん、全然」とにこやかに首を振るしかなかったりする。遺跡内部にはご丁寧にその来歴が記されているのだが、その通りだとすればそもそも色々な痕跡が地球に遺っていたはずがない。だいたい、遺跡にある仕掛けからしていったいどんな意味があるのか定かではないのだ。強いて言うなら“彼ら”が仕掛けたルールなのだろうが、それを示唆する描写がまったくないので、真面目に考えようとすると混乱する。遺跡内の碑文が三つの古代言語で記されているというのもまた意味不明で、いったい誰に対してその三つとの関わりを示したかったのか。ただ単に映画を作った人々の便宜を図るためにそんな手間のかかることをしたとしか思えないのだ。
 そういう欠陥を指摘しつつもこちらが“にこやか”でいられるのは、かなり確実に制作者側がそうした異常さを百も承知でやっているのが察せられるからである。その点が明確になるのはクライマックス直前、エイリアンとプレデターが戦うに至る背景を説明するくだりにある。詳述はしないが(尤も、上の粗筋と彼らの設定を考えれば充分予測可能な範疇にある)、少なくとも私はこのシーンを観たとき笑った。笑わせるようなその作りこそ、製作者たち――たぶん主にアンダーソン監督――が確信犯的にミステイクを導入していることの証明だろう。
 ジャンルとしては重なる部分が多いとは言え、そもそも別の代物として作を重ねていったクリーチャーを共存させること自体に無理があり、可笑しいのである。それを観客に納得させ、楽しませるためにはふたつのクリーチャーに関する造詣と愛着をふんだんに盛り込み、誤謬があってもそれ自体をお遊びの材料にする度量が要る。本編でアンダーソン監督はその度量を存分に発揮したと言っていい。
 シリーズものであることを逆手に取った仕掛け以外にも、娯楽映画のお約束を丁寧に敷衍することも忘れていない。写真とか肺病とか拳銃にまつわるレトリックなどなど、あまりに常道過ぎて普通なら避けそうな展開を随所に盛り込んでいるのは、それが観客を喜ばせることに繋がるのだと解っているが故に違いない。
 惜しむらくはクリーチャーたちの活き活きとした様に対して、人間側のキャラクターが全般にあまり立っていない、或いはアンダーソン監督が『バイオハザード』などで提示したキャラクターの焼き直しが多いことだが、それとて物語に余計なドラマを入れないことで全体のスピード感を増している、とも捉えられる。
 要は人気作のクリーチャーを徹底的に活用した贅沢極まる「お遊び」であり、それを監督らの自慰に終わらせなかったという一点だけでも「いい仕事」と呼べる、そんな作品である。エイリアンやプレデターをあまりに真剣に愛しすぎているなど、お遊びが許容できない人ははなから避けて通るべきであり、そうでなければとりあえずひととき充分に楽しめて爽快な気分が味わえるはず。

(2005/01/28)


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