/ 『バッド・エデュケーション』
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『light as a feather』トップページに戻るバッド・エデュケーション
英題:“Bad Education” / 監督・脚本・製作:ペドロ・アルモドヴァル / 製作:アグスティン・アルモドヴァル / 製作総指揮:エステル・ガルシア / 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ / 編集:ホセ・サルセド / 美術:アントソン・ゴメス / 衣装:パコ・デルガド、ジャン=ポール・ゴルチエ / 音楽:アルベルト・イグレシアス / 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、フェレ・マルチネス、ハビエル・カマラ、レオノール・ワトリング、ダニエル・ヒメネス・カチョ、ルイス・オマール、ペトラ・マルチネス、ナチョ・ペレス、ラウル・ガルシア・フォルネイロ / 配給:GAGA G-Cinema
2004年スペイン作品 / 上映時間:1時間45分 / 日本語字幕:松浦美奈
2005年04月09日日本公開
公式サイト : http://www.gaga.ne.jp/badeducation/
新宿・テアトルタイムズスクエアにて初見(2005/05/13)[粗筋]
1980年のマドリード。既に斯界にその才能が認められ、次回作が期待されている若き映画監督エンリケ・ゴデ(フェレ・マルチネス)だったが、この頃は構想が纏まらず苦悩していた。そんな彼のもとを、ひとりの俳優(ガエル・ガルシア・ベルナル)が役を求めて訪ねてきた。製作担当のマルティンはいつも通り追い返そうとしたのだが、監督の昔の同級生でイグナシオだ、と名乗ったと聞いてエンリケは飛び上がり、喜んで彼を迎え入れる。イグナシオは、寄宿舎にいた短い時間にエンリケが巡り会った、“初恋の男”であった。
だが、会話を交わしているうちに、エンリケは違和感を覚える――本当にこの男は、幼い頃想いを寄せ合ったあのイグナシオであろうか、と。エンリケの困惑をよそに、新作の発案に苦しんでいるという彼にイグナシオ――芸名としていまはアンヘルと名乗っている、というその男は、創作の参考になれば、と自らが執筆した脚本を置いていく。“訪れ”と題されたそれは、エンリケとイグナシオの幼少時代をほぼ実話通りに、その後のエピソードを創作として付け足した物語であった。
作中でイグナシオはドラァグ・クイーンのサハラとして、同業のパキート(ハビエル・カマラ)らとともに各地の舞台を渡り歩いている。そんななか、舞台でサハラに熱い視線を注いでいた男を誘い出し、ベッドを共にする。眠りこけた男の財布からバイクの鍵を奪い、パキートに放ったあとで、発見した身分証明書にサハラは愕然とした。男の正体は、かつて同じ寄宿舎に身を寄せ、想いを通わせたあのエンリケだったのである。
カソリック系の寄宿学校での暮らしは、彼らにとって抑圧の日々であった。奇蹟のように巡り会い想いを寄せ合った幼いイグナシオ(ナチョ・ペレス)とエンリケ(ラウル・ガルシア・フォルネイロ)であったが、キリストの教えが精神的な障害として、そして教師でもある神父たちが現実の障害として二人のあいだに立ちはだかっていた。聖歌隊に所属していたイグナシオは、清澄なボーイソプラノと端正な容貌から神父たちの寵も厚く、とりわけ次期校長候補であったマノロ神父(ダニエル・ヒメネス・カチョ)の覚えが著しかった。ある晩、トイレで人目を避けて逢瀬に耽っていた二人はマノロ神父に見咎められる。イグナシオ一人を残して共に祈りを捧げさせたあと、マノロ神父は「イグナシオに悪い影響を与える」としてエンリケを退学させる、と言い放つ。翻意させるために、イグナシオは初めて躰を売った。だが、マノロ神父は約束を違えて、あっさりとエンリケを追放する。イグナシオは心中に青々とした炎を点し、自らの裡にわずか残っていた信仰を焼き捨てた。いつか必ず、この贖いをさせる――
アンヘルの持ち込んだ脚本に胸を打たれたエンリケは、それをそのまま次回作に用いることを決めた。歓喜し、脚本については好きなようにしてもいい、と言ったアンヘルだったが、ただひとつ、サハラ役を自分に任せて欲しいと言い張る。既に躰に手を入れたあとのサハラを演じるには体格が良すぎる、と難色を示すエンリケに、アンヘルは熱心にアピールする。その一方で、エンリケは改めて違和感を覚えていた。やはり、あのイグナシオだと思うには、人柄が違いすぎている。こんなに強引ではなかったし、音楽の好みも変わっている。自宅に招いたあと、率直にそのことを告げたエンリケにアンヘルは激昂し、去っていった。
失われた時間を埋めるために、イグナシオの郷里を訪れたエンリケだったが、そこで彼は意外な事実を知ることになる……[感想]
……前作『トーク・トゥ・ハー』といい本編といい、どうしてこの監督はこうも他人様に薦めにくい作品ばかり発表するのか。
粗筋を御覧いただければ察していただけるだろう、本編にはかなり生々しい同性愛の描写が含まれている。それどころか、寄宿学校での性的虐待の様子やいとけない少年が互いの性器を慰め合う姿、ドラァグ・クイーンとして舞台に立ち行きずりの男とベッドを共にするなど、かなりえぐい場面が頻出する。巧みなカメラワークで直接そのものを見せることはしていないが、それ故に尚更官能的で、そちらの気のない私のような人間でさえちとゾクッとさせられることが屡々だった。
この辺は、様々な種類の色気を演じ分け、男ながらにして“ファム・ファタール”を体現してみせたガエル・ガルシア・ベルナルの力に依るところが大きい。初登場の時点からいきなり男の色気を発散してみせたかと思えば、次に入れ子的に描かれるイグナシオの作品世界では既に肉体に手を入れているドラァグ・クイーン・サハラをなまじの女性などより遥かに蠱惑的に演じる。時期と場面によって様々な人物を演じ分けねばならない難しい役割を振られているのだが、それを見事にこなし、居ながらにして謎の存在を見事にものにしている。彼なくて本編の完成はあり得なかった、と言っても過言ではあるまい。
そうした点で特異ではあるが、本編が“愛”の物語であることに違いはない。ただの男女で描いてしまえば、少々生々しすぎるだけの凡庸な性愛ドラマになってしまう筋だが、そこを男同士、しかもカソリック系寄宿学校での過去を起点に描いたことで、愛情の交錯そのものに原罪意識を絡ませ、より淫靡に、業の深いものとして掘り下げているのだ。寄宿学校の場面でイグナシオが口にする罪悪感、虚構部分と現実部分での情交の変化など、同性愛であればこその描写であり、登場人物たちの苦悩と傷を深めていると言えよう。
当初、予告編や断片的な知識から、友人との再会をきっかけに彼の背景にある秘密を探り出す物語のように捉えていたが、さすがに“感動の物語と見せかけて実はホニャララ”という傑物『トーク・トゥ・ハー』を創り上げた監督だけあって、話はそれほど単純ではない。旧友イグナシオが過去の想い出をベースに、新たに現代の物語を想像して創り上げた脚本をエンリケが読むのに合わせて、映像でそのエピソードをなぞっていく、という入れ子細工の手法を用いているが、実はこの辺からして既に様々な企みが施されている。この練りに練られた構成が、ラストで“真相”を語る人物の意外性と、更に観客の予測を裏切るような結末を巧妙に演出している。普通に語れば拍子抜けになりそうなラストシーンも、この構造だからこそ意味深な余韻を長引かせているのだ。
しかしその余韻は、いわゆる“感動”とは確実に異なるだろう。人間の愛というものの業の深さを思い知らされ、打ちのめされるという意味では間違いなく“衝撃”ではあるが、普通そう言われて観客が求める“感動”では断じて、ない。1980年代にアングラ系の作品で名を知らしめた気鋭の監督という設定、そして「今なお情熱を注いで映画を撮り続けている」というクレジットにどうしてもアルモドヴァル監督そのものを重ねて見てしまうこともあって、より意味深に捉えてしまうのも事実だ。
だが、監督自身はこんな出来事は現実になかった、と語る。登場人物たちがギリギリで真実や本心を伏せたのと同様に。映像、ストーリー、背景、すべてが韜晦し観客を幻惑する、存在そのものが謎めいた、深甚な作品。面白いのは確実だが、スッキリとした余韻を求めるのは間違いだ。搦めとられて、登場人物と同じ迷宮に赴くための道標、と言ってしまうのがいちばん近いかも知れない。そんな感じで、基本的に男性しか物語の核に絡んでこないため、女性はほぼ蔑ろにされていると言っていい。実は、前作で眠れるバレエダンサーに懸想し献身的な介護を続ける男を演じたハビエル・カマラと共に、当の眠れる少女を演じたレオノール・ワトリングも出演していたのですが、そんな作品だったために台詞も僅か、見せ場などまったくありませんでした――前作ではただ眠っているだけで存在感を発揮した彼女ですが、今回はプログラムで確認しなかったら出ていることさえ気づかなかったでしょう。それはさすがにあんまりじゃないか、という気はしますが……下手に絡んだら更に話が泥沼になるだけだったので、致し方ないところでしょうか。
(2005/05/14)