cinema / 『みなさん、さようなら。』

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みなさん、さようなら。
原題:“Les Invasions Barbares”(蛮族の侵入) / 監督・脚本:ドゥニ・アルカン / 製作:ドゥニーズ・ロベール、ダニエル・ルイ / 共同製作:ファビエンヌ・ヴォニエ / 撮影:ギィ・デュフォ / 美術:フランソワ・セゾン / 編集:イザベル・ドゥディユ / 衣装:ドゥニ・スペクドゥクリ / 出演:レミ・ジラール、ステファン・ルソー、マリー=ジョゼ・クローズ、マリナ・ハンズ、ドロテ・ベリマン、ジョアンヌ=マリー・トランブレイ、ピエール・キュルジ、イヴ・ジャック、ルイーズ・ポルタル、ドミニック・ミッシェル、ミツ・ジェリナ、イザベル・ブレ / 配給:COMSTOCK
2003年カナダ・フランス合作 / 上映時間:1時間39分 / 日本語字幕:古田由紀子
2004年04月24日日本公開
公式サイト : なし(配給会社の公式サイト http://www.comstock.co.jp/ を参照)
シネスイッチ銀座にて初見(2004/05/08)

[粗筋]
 イギリスの証券会社で忙しく立ち回るセバスチャン(ステファン・ルソー)のもとに、郷里であるカナダ・モントリオールで暮らす母ルイーズ(ドロテ・ベリマン)から、父レミ(レミ・ジラール)がもう長くない、という連絡が入った。婚約者ガエル(マリナ・ハンズ)の承諾と同行を得て、セバスチャンは1年振りに郷里の地を踏む。
 レミは息子セバスチャンとは対照的な人生を送ってきた。結婚後僅か半年で最初の浮気をして、以来際限のない女性遍歴を重ねてきた。寛大なルイーズはずっとそんな夫を許してきたが、レミが勤務先である大学の教え子に手を出したことで遂に堪忍袋の緒を切らし離婚、それ以降セバスチャンと妹のシルヴェーヌ(イザベル・ブレ)はルイーズの手ひとつで育てられた。父を反面教師とするかのようにセバスチャンは理系から経済界に進み、年収は父の10倍に達しつつある。帰省してもろくに会話すらない間柄だったが、それでも死に瀕した父を放っておくことは出来なかった。
 本当に重病人なのか、と疑いたくなるほどレミは相変わらずだった。我が儘で理屈っぽく、病院に出入りするシスターのコンスタンス(ジョアンヌ=マリー・トランブレイ)に宗教議論をふっかけては楽しみ、病床には化粧で顔を固めたような女が押しかけてくる。セバスチャンは父をいったんアメリカの病院に運び、CTスキャンを撮らせたが、結果は変わらなかった。精査を頼んだ友人は「同情する」と告げる。父の余命は、本当に数えるほどしかなかった。
 廊下にまでベッドが溢れた病院よりは、とセバスチャンはアメリカ国内の優秀な病院の個室を手配するが、しかしレミは「主義に合わない」とそれを一蹴する。一方でルイーズは「楽しい病室にしてあげて」とセバスチャンに懇願した。
 収容された病院の一階下が、助成金の問題などから手つかずのまま放置されているのを察知すると、セバスチャンは早速院内を東奔西走した。院長に袖の下を渡し、組合を通して話をつけて改装させると、今度はレミにとって居心地のいい空間を作るために、多くの人に連絡を取った。
 改装された部屋でも相変わらずの毒舌を飛ばしていたレミは、やがて訪れた面々に喜びを顕わにする。かつてレミと同様に浮き名を流したがいまやマイホームパパに変貌したピエール(ピエール・キュルジ)に、以前レミと同じ大学で教鞭を執っていた筋金入りのゲイであるクロード(イヴ・ジャック)、更にはかつての愛人であるディアーヌ(ルイーズ・ポルタル)にドミニック(ドミニック・ミッシェル)まで顔を揃えた。昔と変わらぬ憎まれ口と当意即妙の会話。相変わらずとは言いながら少しささくれ立っていたレミの心持ちは、病室を包む笑い声で少しだけ癒された。
 だが、そんなレミも、日々襲う発作に消耗を色濃くしていく。見かねたセバスチャンはアメリカに暮らす友人の医師と相談のうえ、亡くなるまでのあいだヘロインを投与することを決めた。そういう情報をつかむにいちばん相応しいだろう、と彼が最初に訪れたのは、何と警察署。担当の刑事は同情を示しながら当然入手経路を明かしてくれなかったが、セバスチャンの去り際にこっそりとアドバイスをくれた。その言葉に示唆されて、セバスチャンはディアーヌの娘ナタリー(マリー=ジョゼ・クローズ)に接触する。母への反発から疎遠になると同時に薬物中毒になっていた彼女にヘロインの入手と吸引の指導、そのあいだの介護を頼んだのだ。ジャンキーは信用しちゃ駄目よ、と言いながら、自分のぶんも支給する、というセバスチャンの提示した条件に屈して、ナタリーはその仕事を引き受けた。
 病院の人々の目を逃れるため、夜のあいだだけ訪れるナタリー相手に、レミは未だ死を受け入れる準備の整わない胸中を打ち明ける。生きているあいだに一冊ぐらい本を書きたかった、と後悔を口にするレミに、ナタリーは「執着しているのは現実じゃなくて、過去なのね」と呟く。レミは一瞬、言葉を失いナタリーを見つめた。
 ……そうして、レミの死は静かに彼らの傍らへと歩み寄っていった……

[感想]
 あの『たそがれ清兵衛』を抑えて、アカデミー賞外国語映画部門を獲得。日本人にとっては恨み骨髄に徹する作品、といちおう言ってみますが、観ているあいだ、そんなことを意識する機会はありませんでした。比べるほど似てもいず、そして受賞も宜なるかな、と頷かれるほど「いい映画」です。
 死にゆく父親は享楽的な社会主義者、送る息子は現実的な資本主義者、父親は博識な歴史学の教授で、一冊の読書もしない息子を嘲弄するけれど、息子のほうはそんな父への反目から理系を専攻し経済界に進んでいまや父親をはるかに上回る収入を得ている。父親は親しい友人たちとペダンティックな会話を交わしていて、息子はそれに交わることが出来ない代わりに、父が望むもの、父が最期を安らかに迎えるために必要なものはすべて揃えることが出来る。お互いに生きていた世界が違いすぎたせいで、父子は作中ほとんど言葉を掛け合うこともない。ただ、その最小限の触れあいのなかで、息子は父に出来る限りの孝行をして、父はそれに報いるかのように、息子の行動を一切咎めたりせず、同時に感謝の言葉を乱発することもない。
 終始保たれるその微妙な距離感のなかで、それでも次第次第にふたりが歩み寄っていくのが画面越しに解る。息子のやり方は少々――というか、病院の幹部に賄賂を渡したりヘロイン療法のために警察から入手ルートを聞き出そうとしたり、とかなり行き過ぎだが、そのバイタリティと行動力は父親にはなかったものだ。それは、父と違う道で息子が自分を築き上げてきた証拠であると同時に、父の育て方が間違っていなかったことをも証明している。直接会話を交わすことはなくとも、久々に共有する時間のなかで、お互いにそのことを理解していくから、少しずつ距離は着実に詰まっていく。その優しく繊細な描写が、クライマックスでの抱擁に説得力を与えている。
 それにしても、この切羽詰まった状況で、ある意味マイペースとも言える二人の行動が可笑しい。何か必要が生じるとすぐさま根回しに走る息子の姿もそうだが、もともと辛辣な論客であると同時に稀代の女誑しであった父親も、病床にあって相変わらずの言動を崩さない。友人相手に品のないジョークを飛ばしながら、病院付きのシスター相手に宗教議論をしかけて最後には泣かせてしまい、逆に自分が困惑している始末。なまじ最期の時が迫っているだけに、二人の姿はよりいっそう滑稽に映る。
 一方で、物語は父親レミの死にある時代の終焉をも重ねてみせる。それは作中、レミが繰り返し引用する様々な主義主張が激しく波打つ時代のうねりに押し包まれて混沌に化していく現実を示している。物語は途中でさりげなく――本当にさりげなく2001年9月11日を挟む。その悲劇を嘆くシスターに、レミはしかし「20世紀は言われるほど悲惨な時代ではなかった」と反論する。歴史を遡れば、もっと凄惨な殺戮が幾度も行われている。ただ、そう言いながらレミは、あれで確かに自分たちの目撃してきた20世紀にピリオドが打たれたことをも痛感しているのだ。
 時代の死を看取ったあとで、自らも静かに――そして幸福に死を迎える。レミは直前まで「怖い」と率直な思いを口にしながら、息子に対して素直に感謝したり飾り立てた愛の言葉を口にしたりしない。ほんの少し遠回しに、けれどそれ故に最大限の賞賛を彼に残していく。
 レミや彼を囲む人々の状況はカナダ、それも彼らの周辺に限定される種類のものだ。だが、そこで綴られる感情や感慨は間違いなく普遍の形をしている。レミが最後に選んだ「死に方」にしても様々な異論があるだろうが、その瞬間に当たって描かれる彼の友人や家族の姿には共感を抱くはずだ。
 カナダの社会状況と現代性を背景としながら、しかし根底にあるのは万国共通のテーマである。ある偏屈な人物の「死」を通して、関係するすべての人々の人生を見直すきっかけを齎す本編、確かに名作と呼ぶに相応しい。
 本筋からはやや逸れるが、本編では息子セバスチャンと、レミの愛人の娘でジャンキーのナタリーとのささやかな交流もまた見所となっている。そもそも本妻の子と愛人の子という繋がりの幼馴染み、というのが想像を絶するが、この二人の会話を眺めていると、どうもかつては互いに想いを寄せていた痕跡すらあるのだ。だが、一方はロンドンで証券マンとして活躍し既に婚約者もある順風満帆の暮らしぶり、一方は職こそ持っているもののジャンキーで明日をも知れぬ身。再会した当初は、互いに別の世界にいる、という想いが言葉の端々に壁を作っているが、死を間近に控えたレミという存在が二人のうえに橋を渡し、少しずつ近づけていく。
 だが、レミの死と同時に、セバスチャンはもとの暮らしに帰らねばならず、ナタリーもレミからの薫陶を胸に刻みながら更生の道を選ぶ。それぞれ別の方角を目指す直前の、ふたりの触れあいがあまりにも切なく胸に迫る。そして、その描写もまた、レミの死という出来事が齎した一瞬の光芒なのだ。
 深いテーマを秘めながら、練り込まれた人物像と配慮の行き届いた台詞回し、そして静かながらもリズム感に溢れた演出によって娯楽性も存分に備えている。いや、本当に、いいものを観ました。

 ちなみに原題にある「蛮族」とは、異なった文化や価値観の流入を象徴して使われた言葉らしい。解り易いところでは、まさに作中描かれる911の、欧米文化に対するイスラム主義の突入。ただ、監督が来日会見で弁明するように、必ずしも否定的ニュアンスでないのは、物語の推移からも解る。事実、作中で友人たちの背後から現れた息子を見てレミが「資本主義の申し子のお出ましだ」と言う場面があるが、この場面の「申し子」は台詞のうえでは「Barbares(蛮族)」となっているらしい。だが、そんな息子をレミがどう評価していたか――は、作品を御覧になれば解ることだ。
 直訳では内容を誤解されかねず、この「みなさん、さようなら。」という直接的な邦題にも異論はないのだけれど、原題の意味も知っているとまたより味わい深い。この別れの物語は、つまり新しい価値観に対して頷きかける物語でもある。

(2004/05/09)


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