cinema / 『ビッグ・フィッシュ』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


ビッグ・フィッシュ
原題:“Bigfish” / 原作:ダニエル・ウォレス(河出書房新社・刊) / 監督:ティム・バートン / 脚色:ジョン・オーガスト / 製作:リチャード・D・ザナック、ブルース・コーエン、ダン・ジンクス / 製作総指揮:アーン・L・シュミット / 撮影監督:フィリップ・ルースロ,A.F.C./A.S.C. / 美術監督:デニス・ガスナー / 編集:クリス・リーベンゾン,A.C.E. / 衣装デザイナー:コリーン・アトウッド / 音楽:ダニー・エルフマン / 出演:ユアン・マクレガー、アルバート・フィニー、ビリー・クラダップ、ジェシカ・ラング、ヘレナ・ボナム=カーター、スティーヴ・ブシェミ、ダニー・デヴィート、アリソン・ローマン、ロバート・ギローム、マリオン・コティヤール、マシュー・マグローリー、エイダ・タイ、アーリーン・タイ / 配給:Sony Pictures
2003年アメリカ作品 / 上映時間:2時間5分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2004年05月15日日本公開
2004年10月27日DVD日本版発売 [amazon]
公式サイト : http://www.big-fish.jp/
日比谷スカラ座1にて初見(2004/06/24)

[粗筋]
 父エドワード・ブルーム(アルバート・フィニー)との断絶が決定的になったのは、僕ことウィル(ビリー・クラダップ)とジョセフィーン(マリオン・コティヤール)の結婚式がきっかけだった。昔からお伽噺のような体験談をまことしやかに語る人で、かつては僕も父の話を愛し、暗記するほどになっていたけれど、成長するにつれて鬱陶しく感じるようになり、その頃はほとんど嫌気がさしていた。挙式のスピーチでも父は、結婚指輪を使って大きな魚を釣り上げようとしていちど奪われてしまった、というエピソードを披露して、満場の喝采を浴びた。こんな晴れの日ぐらい、僕に主役を譲ってくれても良かったはずなのに。その日、喧嘩別れしたことを契機に、僕と父は母サンドラ(ジェシカ・ラング)を介してしか交流することがなくなってしまった。
 交流が途絶えて数年。ジョセフィーンが僕たちの子供を身籠もり、出産を間近に控えたある日、母からの電話で、担当医のベネット医師(ロバート・ギローム)が父の化学療法を停止した、と知らされた。もう余命幾ばくもない父のために、僕は妻を連れて一時的に実家に帰ることにした。
 最後に言葉を交わしてから随分と時を経たせいか、思ったよりも穏やかに話をすることが出来たけれど、病床に就いても相変わらず「私はこんな状況で死ぬはずはない。もっと驚くような最期を迎えるんだよ」などと言い張る父の姿に僕は内心苛立ちを覚える。父はあまり多く会話する機会のなかったジョセフィーンを捕まえて、またしても壮大なホラ話を語りはじめた。若き日の父(ユアン・マクレガー)がどうして故郷を離れたのか、そして如何にして若き日の母(アリソン・ローマン)と出会い、恋に落ち結ばれたのか……
 僕はそれから数日間、一緒に父と暮らしながら、彼の話に耳を塞いでいた。だから、すぐには解らなかった――父のお伽噺の、本当の意味が。

[感想]
 ファンタジーの部分は省いて粗筋を書きました。気になる方は是非とも映像を御覧ください。
 本編がファンタジーとして優れているのは、語られていることが一見現実離れしていても、そのアウトラインは現実に即している点にある。たとえば、街から爪弾きにされる大男というシチュエーションは、その身の丈が5mもあることを除けばさほど珍しい話ではないだろうし、一目惚れした女性に対する常識離れしたアプローチの仕方はすべてその熱烈ぶりを簡略化したものと捉えられる。川に住む巨大な魚や魔女を巡るエピソードにしても、その根幹にはきっちりとリアリティが見て取れるのだ。
 しかし、それでもファンタジー部分の演技や演出、美術の雰囲気はあくまでファンタジーであることに拘っている。それは例えば錠剤を包む糖衣のようなもの、と言えるだろう。表面はあくまでも甘く、内側に隠した苦みで病を癒そうとするような。『ムーランルージュ!』や『恋は邪魔者』など、ファンタジックな作品にたびたび出演しているユアン・マクレガーの軽妙洒脱で、それ故に妙な説得力のある演技がこのパートを見事に支えている。
 一方で、現実場面の穏やかだが落ち着いた演出ぶりにも注目していただきたい。カメラまでが自由自在に動き回るファンタジー場面と異なり、現実のほうではあまりアングルをいじることなく、同じ箇所を撮す場合はほぼ同じ視点で固定していることに気づくはずだ。その静かな捉え方により、こちらの語り手であるウィルの、本質を知り得なかった父の死という一大事を控えた息子としての葛藤をじわじわと伝えてくる。それ自体が大河ドラマのようなファンタジー部分と違って変化にも乏しいが、それ故に苛立ちと哀しみがじわじわと浸透するような演出ぶりである。独自の美学に基づく幻想的な画面作り、愛すべき怪物たちを描くことに長けていると見られるバートン監督に、こういう滋味に溢れた演出が出来るという事実が正直驚きだった。
 現実とファンタジー、それぞれが実に堂に入って描かれているから、終盤の複雑で奥深い展開が活きてくる。いちばん象徴的なのはヘレナ・ボナム・カーター演じる女性がエドワードに代わって語る、彼女自身の登場する一幕である。最も解り易く、しかし意外な結末で締めくくられるこのエピソードは、一見畸形のようでいて、本編の深い部分をも平明に喩えている。そして、この一幕があるからこそ、父の最期にウィルが語る言葉が活き活きと、飾り気を感じさせない美しさを湛える。そして、この一幕とラストに描かれるエドワードの葬儀をよく比較していただきたい――その瞬間、ファンタジーと思われていた部分はすべて、お伽噺にも勝る現実へと昇華する。
 本物のファンタジーにして、本物のドラマ。語り継がれる価値がある、というのはこういう作品にこそ相応しい惹句だと思う。

 ところで。
 本編のプログラムにはジャズ・シンガーの大橋美加が文章を寄せている。彼女の父・大橋巨泉を引き合いに出して語っており、如何にも、といった巧みな人選だが、この中で彼女は本編と同時期に製作された『みなさん、さようなら。』を比較して鑑賞することを薦めている。
 これは確かに面白い考えだと思う。確執のあった父の死を目前に控えた息子の視点から綴られる物語、という眼目は共通していてもそこで用いられる表現はまるで正反対、しかしラストシーンの情感や奥行きもまた似通っている。大雑把な分類ながら、それぞれの父親を看取る場面にも多くの共通項が認められる。
 乗っかるようで恐縮ながら、もし機会を得られたなら続けて御覧になることを、私も強く薦めたい。ていうか私自身、いずれソフトが出たらきっちりと検証してみたいぞ。

(2004/06/25・2004/10/28追記)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る