cinema / 『病院坂の首縊りの家』

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病院坂の首縊りの家
原作:横溝正史 / 監督:市川崑 / 脚本:日高真也、久里子亭 / 製作:馬場和夫、黒沢英男、市川崑 / 企画:角川春樹事務所 / 撮影:長谷川清 / 美術:阿久根厳 / 編集:小川信夫、長田千鶴子 / 衣装:長島重夫 / 音楽:田辺信一 / 音楽プロデューサー:大橋鉄矢 / 出演:石坂浩二、佐久間良子、桜田淳子、入江たか子、河原裕昌、久富惟晴、三条美紀、萩尾みどり、あおい輝彦、加藤武、大滝秀治、岡本信人、中井貴恵、草刈正雄、小沢栄太郎、清水紘治、小林昭二、三木のり平、白石加代子、草笛光子、ピーター、林ゆたか、早田文次、山本伸吾、常田富士男、三谷昇、菊地勇一、林和夫、横溝正史 / 配給:東宝
1979年作品 / 上映時間:2時間19分
1979年05月26日公開
DVD最新盤2004年05月28日発売 [amazon:単品4作品セット]
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて鑑賞(2006/12/11) ※『犬神家の一族』リメイク版公開記念特別上映

[粗筋]
 昭和二十七年、奈良県吉野に金田一耕助(石坂浩二)はいた。難事件を解決するとふらりと放浪する悪癖のある金田一は、今回もアメリカへの出国を企図し、その前に知人である老探偵作家(横溝正史)のもとに挨拶に赴いたのだ。パスポートが必要だ、と話す金田一に老作家は数年前に利用した本條写真館を推薦する。
 さっそく撮影を依頼した金田一は、彼を探偵と知ったそこの主人である本條徳兵衛(小沢栄太郎)からひとつの依頼をされる。先日、呼び出されて、ある廃ビルに赴いた徳兵衛は、頭上から落ちてきた鉄製の風鈴のために危うく死にかける災難に遭っていた。偶然とは考えがたい状況に、身の危険を感じていた徳兵衛は、誰かが自分を狙っているのか、狙っているとしたなら誰なのかを調べて欲しい、と金田一に請う。
 時を同じくして、本條写真館に奇妙な仕事が舞い込んでいた。ふらりとやってきた若い女性が、婚礼写真を撮って欲しいと言い、夜中に訪れた使いとともに徳兵衛の息子・直吉(清水紘治)が導かれたのは、“病院坂の首縊りの家”と渾名される廃屋であった。髭面に似合わぬ羽織袴を纏った“新郎”と、朦朧とした眼差しで中空を見つめているだけの“新婦”の様子に戦慄しながら、直吉は撮影を済ませる。明くる日、現像した写真を目にした徳兵衛は、“新婦”がかの廃屋にかつて住んでいた法眼家の娘・由香利(桜田淳子)ではないかと言う。
 二日後、写真の引き取りを待っていた本條写真館に、ふたたび女性の声であの廃屋での撮影を依頼する電話が鳴った。徳兵衛に直吉、写真館の助手である日夏黙太郎(草刈正雄)、偶然に居合わせた金田一の4名で赴くと、そこにはあの髭面の男の首だけが、さながら風鈴のように吊り下げられていた。
 やがて到着した警察は、廃屋の本来の持ち主である法眼家に連絡を取り、見分をさせる。やって来たのは法眼家に同居する五十嵐千鶴(入江たか子)とその息子・滋(河原裕昌)に、現在法眼家の当主であり、理事長として法眼病院を切り盛りする弥生(佐久間良子)の三人。首級の持ち主は彼らには特定できなかったが、先着した五十嵐母子はくだんの写真の“新婦”を由香利と認める。だが、弥生は似ているだけの他人だとあっさり否定した。何故なら由香利は、三日前から別邸に滞在しており、今日戻ったばかりであるという。遅れてやって来た女は、確かにあの日、直吉の撮影した“新婦”と瓜二つであった。
 間もなく死者の素性が判明した。髭面の男は山内敏夫(あおい輝彦)といい、進駐軍のキャンプを廻ってジャズの演奏をするバンド“アングリー・パイレーツ”のメンバーであった。同じくバンドのメンバーであり、彼と血の繋がらぬ妹・小雪(桜田淳子・二役)こそ、由香利と瓜二つの女であった。ちかごろバンドの内部は、血が繋がっていないことを理由に小雪と結婚しようとしていた敏夫と、それに反感を示す佐川(林ゆたか)とのあいだで諍いが生じるなど、不穏な雲行きにあった。
 警察は事件をバンド内部の内輪もめの結果と推測するが、金田一はくだんの廃屋が“首縊りの家”と呼ばれるに至った原因である死者が、他ならぬ敏夫と小雪の母・冬子(萩尾みどり)だったと知って、一連の出来事に関連があると睨む……

[感想]
『犬神家の一族』に始まる市川崑監督・石坂浩二主演による金田一耕助シリーズの掉尾を飾った1本である。
 原作自体が明確に“金田一耕助最後の事件”と銘打っており、昭和二十八年に発生した病院坂での事件を上巻にて描き、それから二十年後に発生した事件とその解決とを下巻で綴るという構成となっているが、映画版では昭和二十七年に出来事を集約している。脚色という意味では『獄門島』以上に大胆であるが、もともと原作自体、果たしてこれほど時間を費やす必要のある事件だったか、という疑問を持った記憶が私にはある。実際、本編を観る限り、無理矢理時間を縮めたが故の無理はほとんど感じなかったので、その点では賢明な判断だったと思われる。
 しかしそれでも、台詞回しや展開にぎこちなさを多く感じる脚本であったことは否めない。冒頭、いきなり原作者である横溝正史が本人を彷彿とさせるキャラクターで登場するのに驚かされるが、その後の会話が頓珍漢で呆気に取られる。ここで登場する作家の親類らしき女性・妙(中井貴恵)の位置づけも最後まで不明のままで、あくまで原作者を登場させるためのサービス的なひと幕だったのは窺えるが、それにしても浮きすぎだ。引き続き突入する本題のプロローグ、本條写真館での会話や展開も雑然としていて、ユーモラスにしたいのか不穏な空気を漂わせたいのか判然としない。
 いざ事件が起きてもこの傾向は同じだ。旧作から通して、この映画版シリーズの捜査陣はどこかしら非現実的な動きばかり繰り返していたが、今回は特に酷い。関係者への連絡の流れや被害者の素性調査にしてもそうだが、このあと警察宛に届けられた容疑者名義の手紙から、金田一に指摘されるまで指紋を採取しようとしないあたりはもう言語道断と言えよう。古今東西、素人探偵が登場するミステリでは警察がボンクラに描かれる傾向が強いのも事実だが、これはさすがに行き過ぎだ。このシリーズでは通して刑事を演じる加藤武が、一種コメディ・リリーフの役割を果たしているとはいえ、限度を弁えなければミステリとしての骨格が揺らいでしまう。本編はその悪しき好例、と言うべきだろう。
 そうでなくても横溝作品は人間関係が入り組んでいて掴みにくい傾向にあるが、特に著しい本編など、かなり先にならないと把握できない。それ故に終始話に乗りにくいのも欠点である。この入り組んだ人間関係そのものが事件の鍵となり、クライマックスの見せ場に繋がるため、疎かに出来なかったのは間違いないが、もう少し整理しても良かったのではなかろうか。大部の小説を僅か2時間程度の尺に詰め込めないことはもう観る側も承知のことであり、そこを綺麗に纏めるのが脚色の技術である。工夫を怠っている時点で、やはり脚本の出来には全般に首を傾げざるを得ない。
 演出面でも、脚本のぎこちなさが災いして、全般にダラダラした印象が付きまとい、話をやたらと長く感じさせてしまっている。目を惹いたのは後半に入って、複数の人物が何者かと行っている通話をランダムに繋ぎあわせた演出ぐらいだった。あのくだりだけは唯一、引き締まった印象を齎し、クライマックスの盛り上がりに貢献している。
 もとが込み入った背後関係を持つだけに、それが一気に凝縮されていくクライマックスだけは相変わらず見応えがある。あまりに入り組みすぎているために説明が不充分になっているきらいはあるが、その輻輳ぶり故に醸成された逃れようのない状況が悲劇性を際立たせ、ミステリ映画ならではの情感を齎す。大枠のアイディアとそうした情緒的な演出が成功しているため、最終的には悪くない締め括りになっているが、ただそれでもなお、幾つかの細工の意図が不明瞭なままになってしまったのはさすがにまずいだろう。
 原作では主要登場人物が都会に出てくるところを、せいぜい京都に留めてまで泥臭さや日本独特の風土を画面に盛り込むことに執心してきたシリーズだが、本編では東京から奈良・吉野へという改竄がある程度で、ほぼ全篇都会で物語が展開するような形になっている。それでも金田一の存在に違和感を齎さないことを示した点で、シリーズにおいて独自の地位を占める作品であるが、出色であるのはそのくらいだろう。あとは継続して出演する役者陣の位置づけや、金田一耕助と加藤武の相も変わらぬやり取りなど、シリーズの特徴である描写を楽しむぐらいしかない。一連の作品群の締め括りとしてはいささか物足りなさを禁じ得ない出来であった。

(2006/12/11)


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