cinema / 『ティム・バートンのコープスブライド』

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ティム・バートンのコープスブライド
原題:“Tim Burton's Corpse Bride” / 監督:ティム・バートン、マイク・ジョンソン / 脚本:ジョン・オーガスト、キャロライン・トンプソン、パメラ・ペトラー / 製作:ティム・バートン、アリソン・アベイト / 製作総指揮:ジェフリー・オーバック、ジョー・ランフト / 撮影:ピート・コザチク / 美術:アレックス・マクダウェル / 編集:ジョナサン・ルーカス、クリス・レベンソン,A.C.E. / 音楽:ダニー・エルフマン / 声の出演:ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、エミリー・ワトソン、アルバート・フィニー、ジョアナ・ラムリー、リチャード・E・グラント、クリストファー・リー、ジェイン・ホロックス、エン・ラテイン、マイケル・ガフ、ダニー・エルフマン、ディープ・ロイ / 配給:Warner Bros.
2005年アメリカ作品 / 上映時間:1時間17分 / 日本語字幕:石田泰子 / 日本語吹替版翻訳:桜井裕子
2005年10月22日日本公開
公式サイト : http://www.corpse-bride.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/11/05)

[粗筋]
 本日はバン・ハート家とエバーグロット家の結婚式の予行練習。だが肝心の花婿ビクター(ジョニー・デップ)の気持ちは浮かばない。魚屋から一財を成したけれど地位の伴わないバン・ハート家と、歴史だけはあるけれど残された財産は蜘蛛の巣の張った金庫と家名だけのエバーグロット家、両者の利害関係が一致しての政略結婚であるため、明日が本番だというのにビクターが花嫁に対面するのはその日が初めてだった。繊細さと心根の良さだけが取り柄という自分に相手は失望しやしないかと、不安を抱えていた。
 一方の花嫁ビクトリア(エミリー・ワトソン)のほうも胸中は穏やかではない。水と油のような両親を見続けてきたから結婚に憧れなど持っていなかったつもりだけれど、いざ一面識もない相手に嫁ぐとなると、本当にこれでいいのか、という疑問が胸に擡げてくる。けれど、鏡の前で悩んでいたとき、にわかに聴こえてきた優しげなピアノの音色が、あっさりと彼女の不安を打ち消した。
 ピアノを弾いていたのは、ビクターだった。彼の奏でるメロディに惹かれて部屋を出て来たビクトリアに、ビクターは運命的にも一目惚れしてしまう。
 ただ、それが彼にとって幸運だったかどうかは解らない。いざ逢ってしまったが最後、ビクターはにわかに緊張してしまい、予行練習で誓いの言葉はさんざんとちるわ、蝋燭に巧く火が灯せないわ、指輪は落とすわ、挙げ句の果てにエバーグロット夫人(ジョアナ・ラムリー)のスカートに火を点けてしまうというていたらく。怒り心頭に発したゴールズウェルズ牧師(クリストファー・リー)は結婚式の延期を宣言して早々に立ち去り、ビクトリアの父(アルバート・フィニー)らの非難の眼差しに耐えきれなくなったビクターはその場を逃げ出してしまう。
 己の情けなさに打ちひしがれるビクターは、街を離れ森深くまで分け入り、必死に誓いの言葉を反芻する。だが、ようやく完璧に唱えられたと思ったとき、何気なく指輪を通したものがいけなかった――それは墓場の片隅に人知れず埋められた、屍体の花嫁=コープスブライド(ヘレナ・ボナム=カーター)が地面から突き出していた指先だったのだ。生前から待ち望んでいた“誓いの言葉”とともに指輪を捧げられた、と思いこんだコープスブライドはにわかに土の中から甦り、逃げまどうビクターを追いかける。
 やがて追い詰められたビクターは失神し、ふたたび気づいたときにはまるで見知らぬ場所にいた。そこは死者や、明るい世界とは相容れぬ怪物たちが集う地下の世界だった……

[感想]
チャーリーとチョコレート工場』の公開から僅かひと月半での登場となる新作だが、告知はこれに先んじるティム・バートン製作によるストップモーション・アニメ『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』が好評を博して間もなくに行われていたそうだから、本編の製作はおそらく十二年がかりになるのだろう。偶然に完成する時期が近くなっただけだと思われる。
 ただ、偶然というには色々シンクロする部分が幾つかある。たとえば、どちらの作品も現実の世界と非現実の世界との対比から成り立っているということ。異世界の住人が徹底的にフリークスであることは当然ながら、現実のほうにも極端なデフォルメが施され異様なかたちで描写されているのが目につく。『チャーリー〜』において特に象徴的なのは、現実に家を傾けさせて表現されたチャーリー一家の貧しさであったが、本編においてはややひねくれた格好で、人間社会の階級制の歪さを表現している。
 魚屋から財を成したバン・ハート家と、家柄こそ秀でているもののまるで財産のないエバーグロット家、という対比もそうだが、やたらと儀式にこだわる牧師や、肩書きさえしっかりしていれば縁の有無は気にせず家に通してしまう歪んだ価値観、そうして人々が取り繕う一方で、一歩街に出れば早耳の情報屋がヘッドラインを声高に、嘲笑的に叫んでいる。
 しかし、生者がそうして力関係の歪みに揉まれている一方で、死者の国は階級も何もない社会として描かれている。そりゃ骨だけになり、財産など何ら意味のない世界に投げ込まれれば階級や貧富の差を意識する必要がなくなるのは当然ではあるのだが、基本的に忌み疎んじられている墓場の下の世界のほうが理想郷に映る。政略的に結ばれた婚姻だが、ひと目相手を見た途端に恋に落ちてしまったビクターが、婚約相手のもとに戻りたい、という願いを抱いていなければ、生者の世界に戻るためのモチベーションが存在しない、というあたりには構成の巧みさと共にティム・バートン一流の皮肉が感じられる。
 もうひとつ、『チャーリー〜』との共通項として、随所にミュージカル風のシークエンスが導入されていることだ。『チャーリー〜』のミュージカル場面も、基本的にウンパ・ルンパというキャラクターのみが演じているため、製作に当たっての手間は相当なものだと考えられたが、ストップモーション・アニメという手法でミュージカルをやってしまった本編の苦労は想像すら出来ない。しかも、ミュージカルとしての完成度は『チャーリー〜』よりも高いと感じられた。特定のキャラクターだけで演じられている『チャーリー〜』と異なり、本編は主要キャラクターの台詞がそのまま音楽に織りこまれており、突然ミュージカルが始まるのではなく、物語の流れに歌声が溶け込んでいる格好だ。そのスタイルはより正統的な音楽映画に立ち戻っていると言っていい。しかもまるっきり昔風のミュージカルを模すのではなく、ジャズやロック、ブルースのパロディを挿入し、しかも演奏しているのが骨であるがゆえのお遊びもふんだんに採り入れているので、映像的な楽しさでも秀でている。
 観ていて意外だったのは、シナリオの視座がどちらかというと死者の世界寄りになっていることだ。地上に婚約者がいるためどうしても戻りたい、という願望のあるビクターを主人公としながら、ある程度話が進んだあたりからはビクターも語り口もコープスブライドや死者の世界の住人たちに同情的になる。人目を忍んで誓いの言葉の練習をするほど熱烈に一目惚れした相手が地上にいるというのに、気づけばコープスブライドを半ば受け入れているように映るほどだ。およそ常道からかけ離れた展開に先が読めず、思いの外緊張感が持続する。
 異界の住人側に視点が偏り気味であることが、観客の感覚をいい具合に第三者寄りにしている点は、独特の緊張感と共に昂揚感を演出することにも貢献していると考えられる。何せ相手が怪物だと解っているので普通に感情移入することは難しく、そのぶん距離を置いて眺めることになるのだが、そのお陰でミュージカルの場面やクライマックスにおける結婚式から大混乱に至るまでの“流れ”を、まるっきりの観客ではなくその騒動の内側にいるような感覚を齎している。
 唯一残念だと感じられるのは、作中最も憎まれ役となるキャラクターが、位置づけ・行動ともにいささか御都合主義過ぎて浮いているように感じられることだ。登場の仕方も取って付けたような印象、その間抜けさに起因する行動の数々も、お話を大団円に持ち込むための強引さと見えてしまう。
 しかし欠点らしい欠点はその程度、それ以外は特に文句のつけようもなく整ったシナリオである。奥には色々とパロディや皮肉も隠されているが、それを過剰に匂わせることなく、ストップモーション・アニメ独特の映像と調和してあっという間に観客を虜にしてしまうストーリーテリングの巧みさは疑いようもない。
 一時間二十分足らずという尺はいささか短めだが、それでも劇場で観て物足りなさを感じることはまずないだろう。程良い尺に程良い中身、それでいていったん嵌れば幾らでも吟味できそうな丹念な作り込み。不気味だけど滑稽で、観ていて楽しく結末も爽快かつ美しい。 『チャーリーとチョコレート工場』には実写であるがゆえの過剰な不気味さや毒があるため嫌悪感を抱いた観客もあったようだが、そういう方にも安心してお薦めの出来る、良質な映画である。

(2005/11/06)


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