/ 『ドリームキャッチャー』
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『light as a feather』トップページに戻るドリームキャッチャー
原題:“Dreamcatcher” / 原作:スティーブン・キング(新潮文庫・刊) / 監督・脚本・製作:ローレンス・カスダン / 脚本:ウィリアム・ゴールドマン / 製作:チャールズ・オークン / 製作総指揮:ブルース・バーマン / 撮影監督:ジョン・シール、ACS,ASC / 編集:キャロル・リトルトン、ラウル・ダバロス / 共同製作・第一助監督:スティーブン・ダン / 共同製作:ケイシー・グラント / 音楽:ジェイムズ・ニュートン・ハワード / メイク:ウィリアム・コルソー / 出演:トーマス・ジェーン、ジェイソン・リー、ダミアン・ルイス、ティモシー・オリファント、トム・サイズモア、ドニー・ウォルバーグ、モーガン・フリーマン / キャッスル・ロック・エンタテインメント作品 / 配給:Warner Bros.
2003年アメリカ作品 / 上映時間:2時間15分 / 字幕:石田泰子
2003年04月19日日本公開
(日本のみ、『ファイナル・フライト・オブ・ザ・オシリス』併映)
公式サイト : http://www.dreamcatcher-movie.jp/
丸の内ルーブルにて初見(2003/05/13)[粗筋]
幼い頃の出来事がきっかけで、それぞれに特殊能力を身に付けた四人組――ヘンリー(トーマス・ジェーン)、ビーヴァー(ジェイソン・リー)、ジョーンジー(ダミアン・ルイス)、ピート(ティモシー・オリファント)。しかしそれから20年以上の時が経ち、それぞれの人生に悩みを抱えるようになると、特殊能力も重荷でしかなくなっていた。人の心を読むことが可能なヘンリーも自らの死に赴く心を遮ることは出来なかったし、ビーヴァーの直感もジョーンジーの大事故を止めることは出来ないのだから。
それでも四人組の親交は続き、その年の冬も恒例の狩りを行うために、彼らは森の中にある『壁の穴』と名付けた狩猟小屋を訪れた。日頃の憂さを晴らすように、彼らは宴を楽しむ。
異変は翌日、吹雪と共にやって来た。ヘンリーとピートが買い出しに出かけているあいだに、『壁の穴』は奇妙な客を迎える。気息奄々たるその男は、異様な口臭を放ち頻りに屁をひり、僅かな時間で腹を膨らませていた。あまりに奇妙な症状に驚いたジョーンジーとビーヴァーは、小屋の頭上に現れた数台のヘリコプターに救援を求めるが、彼らは森を含む一体が隔離措置を受けていることを説明しただけで飛び去ってしまう。
同じ頃、買い出しからの帰途にあったヘンリーたちも、奇禍に遭遇していた。路上に座り込んでいた女性を避けようとして車を横転させてしまい、ピートが足を痛めた。小屋にいる仲間に助けを求めるため、ヘンリーが単独で道を戻っていく。ふたりは知る由もなかったが、路上に座り込んでいた女性の状態は、『壁の穴』に現れた男性と酷似していた……[感想]
公開終了が迫ったため、予習のために手をつけていた原作を取り急ぎ読み終えて駆け付けたのだが――そのせいで、映画としてどうなのか、という評価が若干しにくくなってしまった気がする。以下、基本的に原作との比較で語ることになってしまうが、御了承いただきたい。てか、本当にこれをアップした数日後には殆どの劇場から撤退してしまうので、どっちにしてもあんまり意味はないんだが。原作は一冊あたり350ページ前後の全四冊、対して本編は一般的な映画の尺よりやや長い程度の2時間15分。この時点で徹底的な圧縮、或いは取捨選択が行われることは想像に難くないが、案の定、かなりの要素が削除されていた。
が、意外にも前半は殆ど手を入れていない。延々と繰り返される心理描写や、映像で語るには難しい――また、原作では後半の伏線となっているものの映画では決して必要でない要素は排除されているものの、出来事はほぼ完璧に再現している。余分なものが覆い隠されたため、いっそすっきりと纏まった印象を受けたほどだ。
中盤からラストにかけては細かな出来事が削除され或いはひとつの出来事に集約され、かなりコンパクトになっている。原作も映画も一種のアンサンブル劇の様相を呈しており、時間の節約のためには本来更に人数を必要とするエピソードも圧縮して表現する必要があるため、このあたりの処理は致し方のないところだと思う。
鑑賞した時点でどうも納得がいかなかったのは、原作で最も劇的な場面である、ヘンリーが隔離施設を脱出する際に用いた手段が、極端なくらいに簡略化されてしまったことである。ヘンリーに与えられた能力が全編通して最も衝撃的な形で顕れた一場面であり、前半の戦闘ヘリによる攻撃シーン、ラストの駆け引きと共に原作におけるクライマックスのひとつであるはずなのだが、これが実にあっさりと処理されてしまっている。また、原作においては異星人並に――或いは異星人以上に危険な存在として君臨したカーツ(「カーティス」の通称だが、映画では「カーティス」に統一された)が、映画ではやや印象を薄めてしまったのが勿体なく思われた。カーツのインパクトが乏しくなったことに併せて、原作後半から主人公のひとりとも言える活躍を魅せるオーウェンもまた存在感が減ってしまった。
が、観賞後によくよく削除された場面を検討してみると、寧ろ懸命な処置だった、と感じるようになった。原作は豊富な紙幅と旺盛な執筆意欲を糧に、異星人侵略という主題のみならず青春小説的なアプローチや深い人間洞察などなど様々な要素を盛り込んでいるものの、映画の短い尺ですべてを反映するのは不可能であり、主題においても優先するべきポイントが必要となってくる。
結果、映画で優先されたのは四人組とダディッツのあいだに結ばれた友情であり、異星人の侵略とそれへの対抗というテーマだった。いま「勿体ない」として挙げた箇所はその意味では話を煩雑にするものであり、脇に外すのは処理として正解だろう。
映画版としての潤色が最も著しいラストも、複雑な関係や決して解りやすいとは言いがたい原作の結末を映像的に表現した、という点で見事である。――ただ、そのせいで重要な意味のあった要素がどっちらけになってしまった感は否めない。そーいう事情があったんならあの人はいったい何だったんだよ、とかそもそもあーいう状態にあったこと自体無意味になるじゃん、とか嫌味もあるが、とりあえず私は非常に面白い、と思った。
ラストは実にすっぱりと終わらせており、この点は(原作の既読未読に拘わらず)評価の分かれるところだろう。少なくとも私は、変に引き延ばしたりするよりも映画版としての方向性を明確にしている点で評価する。原作ではこのあと、生き残った人物による深甚な会話が挿入されて、事件が表面通りのものでなかったことを暗示する一幕があるが、これまた「異星人対人類」というテーマには不要のものなのだ。妙な痼りを残さない分、後味も実に爽快だった。
キング作品の映像化には毀誉褒貶悲喜こもごも付きまといがちだが、本編については映画を観たあとで原作を読むのも、原作を堪能したのちに映画を楽しむのも、映画感想の記述としては反則だがどちらか一方のみに触れるのも一興と感じた。厚みという点では原作のほうに軍配が上がるが、あとは概ね一長一短あり、どちらも非常に整った作品であることに変わりはない。映画版は異星人の侵略に対抗せんとする人々の苦闘を描いた、B級テイストのSFホラーとして堪能して戴きたい。もうひとつ個人的な不満を述べると、「ベーコン」のエピソードは残して欲しかった……が、これ以上トラウマを作られても、という気もするのでやっぱりなくて良かったのか。難しいところだ。
鑑賞前、原作や各種の情報媒体を通じて知った粗筋から、私は本編を「深刻な『サイン』(M・ナイト・シャマラン監督作品)」と評してきた。半ば冗談混じりだったのだが、原作は兎も角映画版の本編についてはあながち間違った評価ではないらしい――というより、どうも一片の真実を拾っていたようだ。
原作の執筆と刊行は2001年、対する『サイン』は2002年。製作時期が殆ど重なっていることから、キング自身がシャマラン監督を意識していたという想像には無理があるだろう。ただ、プログラムにはプレ・プロダクション及び実際の撮影時期について言及していなかったため、実際のところは不明なのだが、恐らく本格的な映画製作にかかった時点で関係者は『サイン』の実物かその断片を把握していたはずで、多少なりとも思うところがあったのだろう。
たとえば、原作同様に――いや、考えようによっては原作以上に強烈な存在感を示したダディッツ役に起用されたドニー・ウォルバーグは、かつてニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックの一員として一世を風靡したエンタテイナーで『THE PLANET OF THE APES』のマーク・ウォルバーグの実兄、とか言う以上に、役者としてシャマラン監督の出世作『シックス・センス』において僅か数分の登場ながらも圧倒的なインパクトを残したことでその名を知らしめた人物である。また、音楽を担当したジェイムズ・ニュートン・ハワードは元々劇音楽の世界では定評のある書き手だが、『シックス・センス』以降のシャマラン監督作品をすべて手掛けた人材でもある。
まあ、その辺は多少洒落があるとしても、意識した意識しないの是非に関わらず、本編と『サイン』には表裏一体の側面があって実に興味深い。『サイン』が異星人の侵略ものである以前に内包したテーマが「家族愛」であるのに対し、本編では「友情」を大きなキーワードとしている。『サイン』が侵略の脅威から身を守るために閉じ籠もっていく話であるならば、こちらは外圧による包囲から脱出することを中盤の鍵としている(原作ではこのあたりの描写も濃厚だったのだが、映画化に当たってエピソードか刻まれたことでかなり薄まっているのだが)。そしてどちらも、古今東西のエイリアン目撃談(譚)に取材してディテールを組み立てていることでは同一だ。
だが、何よりもシニカルな対比は、本編においてある人物が目指していた場所である。今後、双方を観る機会が得られた方は是非ともその辺を意識して御覧戴きたい。(2003/05/14)