cinema / 『エコール』

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エコール
原題:“Innocence” / 原作:フランク・ヴェデキント『ミネハハ』(リトルモア・刊) / 監督・脚本:ルシール・アザリロヴィック / 製作:パトリック・ソベルマン / 撮影監督:ブノワ・デビエ / 美術:アルノー・デ・モレロン / 編集:アダム・フィンチ / 音声:パスカル・ジャスメ、アンディー・ウォーカー、グラハム・ピーターズ、ティム・カヴァジン / 音楽:レオス・ジャナケック、セルゲイ・プロコヴュー、ピエトロ・ガリ、リチャード・クーケ / 出演:ゾエ・オークレール、ベランジェール・オーブルージュ、リア・ブライダロリ、マリオン・コティヤール、エレーヌ・ドゥ・フジュロール / 配給:KINETIQUE
2004年ベルギー・フランス・イギリス合作 / 上映時間:2時間1分 / 日本語字幕:加藤リツ子
2006年11月04日日本公開
公式サイト : http://ecole-movie.jp/
渋谷シネマライズにて初見(2006/11/20)

[粗筋]
 ……その学校の春は、棺とともに訪れる。
 森のなかに五軒佇む寮のそれぞれに運び込まれた棺は、毎年そこの最年長を示す、紫のリボンで髪を飾る少女が解錠する。ビアンカ(ベランジェール・オーブルージュ)が開いた棺から現れた彼女は、イリス(ゾエ・オークレール)と名乗った。
 自らの置かれた状況が理解できず戸惑うイリスの手を引いて、同じ寮に住まう乙女達はまず、彼女に純白の制服を着せ、髪を結わせる。そして、それぞれが着けていたリボンを、年齢に従って順繰りに受け渡す。最年少となるイリスには、セルマの巻いていた赤いリボンが新たに託される。だが、最年長を示すビアンカが紫のリボンを着けていることに、セルマは癇癪を起こし、鏡を割って走り去っていった。
 ビアンカはイリスに懇切丁寧に、寮での暮らし方を説いていく。少女たちは森の豊かな自然のなかで泳ぎ、舞い、戯れることが赦されているが、その合間に学ぶことも義務づけられていた。歩行に障害があり常に杖をついているエディット(エレーヌ・ドゥ・フジュロール)は森の生態系を手本に生命の神秘を語り、エヴァ(マリオン・コティヤール)は寮の乙女達が何よりも最優先で学ぶべき踊りの作法を伝える。夜は決まった時間に食事を摂り、別々の床に就く――
 イリスは流されるようにその生活に入り込みながらも、どこかにいるはずの弟のことが気に掛かって仕方ない。だが、森から出ることは規則違反だ、と諭される。出てしまえば厳重な罰が下される。
 そう言われても、少女たちは森の外にある世界への憧れと渇望とを禁じ得ない。アリス(リア・ブライダロリ)はそのために、いま特に熱心にバレエの稽古をしていた。毎年いちどだけ校長が学校を訪れ、青いリボンの乙女達の踊りを見る。なかで最も校長の関心を惹いた少女がただひとり、特例で学校を出て行くことが出来る。その一瞬に賭けるアリスの熱意は、ただごとではなかった。
 だが、まだ寮に受け入れられたばかりの赤いリボンの少女たちに、そうした辛抱の仕方など解るはずもない。別の寮ながらイリスと親しくなった赤リボンの少女ローラは、弟を慮るイリス以上に表の世界への憧れを強めていた。ある日、ローラは川に浮かぶ船に乗って脱走することをイリスに提案した。罰を恐れて同乗を拒んだイリスをよそに、ローラはゆっくりと櫂を漕ぎ、遠ざかっていった。
 ――ローラは、出て行くことが出来なかった。物云わぬ姿で戻り、少女たちの見守るなか、棺のなかで火に包まれるローラを、イリスは何かを諦めたかのような眼差しで見つめていた……

[感想]
 かなり直前まで何の予備知識もなかった本編を俄然観る気にさせたのは、その予告編の背徳的で危うげな美しさだった。深閑とした森のなかで戯れ踊る少女たちの可憐なヴィジュアルと、そのアングルの端々に滲む不穏な気配。それだけで詩のような映像によってどんな物語を紡ぎあげるのか、興味が湧いたのである。
 本編自体も、どちらかというと詩のような印象が色濃い。まず導入からして、通常結末に盛り込まれるスタッフロールをいきなり淡々と並べていく。この手法は監督であるルシール・アザリロヴィックが長年に亘ってパートナーシップを築いているギャスパー・ノエの『アレックス』で用いたものだが、本編はあちらのように過去へと遡行していくわけではなく、あくまで時系列に添って、春から次の春に至る一年間の寮生活を描いている。本編で敢えて順序を覆したのは、その収まりの悪さが齎す“不穏さ”を助長する意図があるように思われる。
 まだ性徴もろくに現れない少女たちの美しさ以上に、本編では徹底して、彼女達を取り巻く世界の危うさ、不穏さを描くことに腐心している。異様なほどたっぷりと間を取った場面構成、アングルの意味ありげな空白。
 そもそも、少女たちがこうして集められ、教育を施されている理由も不透明なら、彼女たちがどのように集められ、どういった手続で解放されているのかも不明だ。その描き方からすると、学校の運営様式は極めて違法性が高いようにも見受けられるのだが、いったいどのように折り合いをつけているのかも解らない。そのあたりを随所に仄めかしながら、一切説明を付けていない点もまた不穏な気配を醸成している。
 他にも細かな象徴が盛り込まれているが、特に印象深いのは、エディットの趣味は蝶の標本作りと思しく、夜の室内でエヴァと語らいながら、翅をピンセットで丁寧に拡げピンで刺すくだりだ。翅を壊すまいとするその繊細な仕種は、だがまるで彼女達が教える子供達の未来を暗示しているように見えてならない。どうやら自らもかつては生徒であったらしい彼女たちが、イリスたち今の生徒たちに向ける眼差しと、標本に向かい合うときの眼差しとがとてもよく似ているせいだろう。
 少女たちの残酷なまでの純粋さを描きながら、傍らでひたすら繰り返される剣呑な象徴の数々は、その純粋、無垢な姿がいつでも汚穢にまみれる危険に晒されていることを予見させる。事実、最初に脱走を試みたローラは死に、続いて話半ばにして寮を去った別の少女のその後については、暗示することさえない。自由を渇望して出て行くことは、居心地のいい退廃から逃れることでもある――塀の外に逃れようとした少女たちに共感を覚えながらも、そのことをさして認識も出来ぬほど稚くして、無慈悲な外の世界に晒される彼女たちが哀れにすら感じられるのは、不穏さと隣り合わせの微温な描写の居心地の良さ故である。
 それでも時は流れ、少女たちは広大な世界へと放たれる時が来る。戸惑いながらも外界に触れ、少しずつ開放的になっていくさまを描いた結末には間違いなくカタルシスがあるが、同時に今にも容易く壊されそうな不穏さも相変わらず伴うものだ。放たれた瞬間に、あの無垢が瞬く間に汚されていくさまさえ暗示し、しかし同時に、その純粋さは汚穢の最たるものが支える惨たらしいまでの虚構だったのでは、ということをも直感させる。
 物語はそうした疑問に答を出すことなく、序盤のある映像表現を反復して幕を下ろす。その清澄さが、微かな汚れを際立たせ、残酷描写をほとんど盛り込むことなくグロテスクな美を構築する。あまりに極端で、あまりにおぞましく、それ故に愛おしい奇妙な映像作品。間違いなく異形の傑作と呼べるが――果たしてどういう観客ならばこれを喜んでくれるのか。

(2006/11/21)


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