cinema / 『ネバーランド』

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ネバーランド
原題:“Finding Neverland” / 監督:マーク・フォースター / 製作:リチャード・N・グラッドスタイン、ネリー・ベルフラワー / 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン、ミシェル・サイ、ゲイリー・ビンコウ、ニール・イスラエル / 原作戯曲:アラン・ニー“The Man Who was Peter Pan” / 脚本:デイヴィッド・マギー / 共同製作:マイケル・ドライヤー / 撮影監督:ロベルト・シェイファー / プロダクション・デザイナー:ジェマ・ジャクソン / 編集:マット・チェス / 衣装デザイン:アレクサンドラ・バーン / 音楽:ヤン・A・P・カチュマレク / アソシエイト・プロデューサー:トレーシー・ベッカー / キャスティング:ケイト・ダウト / 出演:ジョニー・デップ、ケイト・ウィンスレット、ジュリー・クリスティ、ラダ・ミッチェル、ダスティン・ホフマン、フレディ・ハイモア、ジョー・プロスペロ、ニック・ラウド、ルーク・スピル、イアン・ハート、ケリー・マクドナルド、ケイト・メイバリー / フィルム・コロニー製作 / ミラマックス・インターナショナル提供 / 配給:東芝エンタテインメント
2004年アメリカ・イギリス合作 / 上映時間:1時間40分 / 日本語字幕:松浦美奈
2005年01月15日日本公開
公式サイト : http://www.neverland-movie.jp/
日比谷映画にて初見(2005/01/15)

[粗筋]
 ジェームス・バリ(ジョニー・デップ)の新作戯曲は初日から大失敗に終わった。会場は溜息と寝息に彩られ、直後のパーティーで顔を合わせる人々は出来について言葉を濁す。主催者であるチャールズ・フローマン(ダスティン・ホフマン)は押さえたままの劇場と役者を有効に使うため、新たな作品を書き上げろと檄を加えてくる。社交界への進出を夢見る元女優の妻メアリー(ラダ・ミッチェル)との仲も微妙で、居心地の良くないバリは公園に赴いてイマジネーションを膨らませていた。
 愛犬ポーソスとともに公園で過ごしていたバリは、四人兄弟とその母親シルヴィア・ルウェイン・デイヴィス(ケイト・ウィンスレット)と出逢う。ベンチの下を地下牢に見立てたり、バリの戯けた台詞に素早く合わせてくる子供達とバリはひととき戯れた。ユーモアと機知を理解する子供達のなかでひとり、三男のピーター(フレディ・ハイモア)だけが冷めた態度を見せる。そんな彼にバリは、自分で物語を書いてみるよう提案した。
 邂逅の晩、バリから話を聞いたメアリーは、シルヴィアの母であるデュ・モーリア夫人(ジュリー・クリスティ)を介して社交界への地歩を築こうと目論見、夕食に招待することを提案する。だがその席でもバリは相変わらず子供達を楽しませることに熱中し、デュ・モーリア夫人はバリの幼稚さとメアリーの野心を揶揄するような言葉を口にした。その日を境に、バリとメアリーとの溝は着実に深まっていく。
 バリは以後も毎日のようにデイヴィス家の子供達との交流を重ねていった。特に、大切な人を喪う哀しみから逃れるために早く大人になろうと藻掻くピーターに対しては強いシンパシーを抱き、豪華なノートを手渡し改めて創作を薦める。その一方、子供達の遊ぶ姿からバリは“永遠の少年”像とやがて大人になっていくことへの畏れと憧れを併せた世界を着想、ピーターの名前を戴いて『ピーターパン』と題した新作の構想を得た。それまでの作風と大幅に異なる、突飛とも言える物語にフローマンも俳優たちも戸惑うが、バリは強硬に執筆と稽古を押し進めていく。
 デイヴィス一家の存在はバリのなかでますます大きくなっていくが、一方で彼と世間の認識との乖離も少しずつ大きくなっていった……

[感想]
 監督マーク・フォースターはハル・ベリーに黒人女性として初めてのアカデミー主演女優賞を齎した『チョコレート』を手がけた人物である。作品そのものはソープドラマなどと評されたりしていたが、淡々としたなかに深い哀感を漂わせ、一見単純な恋愛ドラマの向こうにアメリカ社会の孕む矛盾をも暗示した手腕は、派手さには欠けるものの確かな演出力を感じさせるものだった。
 その彼の新作である本編は、粗筋からも解るとおり誰もが知っているファンタジー『ピーターパン』成立の背景をモチーフにしている。現実はまったくこの通りではなく、例えば本編では未亡人となっているシルヴィアだが知り合った当時はまだ夫は存命であったとか、当時はピーターが一番下で四男はそののちに生まれている(五男までいたそうだ)とか、つまり現実をモデルにしつつあくまでフィクションとして物語を紡いでいる。
 そうすることでバリと子供達との純粋な繋がりと、それに対する周囲の誤解やバリの認識との食い違いが浮き彫りになっている。なまじバリが我が儘である一方極めて純粋な人間であることが、ときおり視覚効果を用いたファンタジックな映像を交えつつ丁寧に描かれているだけに、この誤差が痛々しく迫ってくる。
 ジョニー・デップが名優であることは、出演作を数本観ていただければ一目瞭然だが、本編での演技は特に出色と言っていいだろう。一歩間違えればただの我が儘で子供っぽい人間と捉えられそうなキャラクターを、絶妙な匙加減でとても純粋な憎みきれない人物に見せている。この点を観客に納得させなければ、デイヴィス家の子供達が寄せる信頼の情も、妻メアリーのアンビバレントな言動も、また終盤での変化も受け入れさせられなかったはずだ。まして『ピーターパン』初演直後のピーターの台詞があそこまで説得力を伴って響くこともあり得まい。
 本編は基本的に、自己の確立した世界と世間一般との食い違いから生まれる疎外感、そして大切な人々を失う苦しみから登場人物が如何にして立ち上がり、生き続ける決意をしていくかを描いた物語である。それだけに、中盤で描かれる出来事はあまりに生々しく観ていて辛い。そのうえ、彼らの周囲にいる人々の言動も決して間違ってはいないし、迷い苦しんだ挙句に離別の道を選ぶ者もある。それが解るだけに、余計この物語の秘めた哀しみは深く、ある意味で救いがない。
 バリやピーターに素直に感情移入できれば別だが、物語を冷静に眺める限り他の人々の言動も真っ当であり、感動的だが決してハッピーエンドではあり得ない結末に易々と涙することは出来ないだろう。だが、あらゆる悲劇を受け入れて、すべてを“ネバーランド”に匿って、生き続けることを余儀なくされる人々の姿は、深い余韻を伴って観客の胸に刻み込まれる。
 ここで提示されるのは決して答ではない。けれど、誰もが必ずいちどは経験する出来事を静かに受け入れようとするその姿に、それぞれ異なる感慨を齎されることは間違いないだろう。『チョコレート』の提示したテーマのひとつの延長上にあって、確実にそれを深化させた名品。これを書いている現在、賞レースの有力候補に数えられているが、それも宜なるかな。

(2005/01/16)


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