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『light as a feather』トップページに戻る解夏
原作:さだまさし(幻冬舎・刊) / 監督・脚本:磯村一路 / 製作:亀山千広、見城 徹、島谷能成、遠谷信幸、桝井省志 / 企画協力:佐田繁理 / 撮影:柴主高秀(J.S.C.) / 美術:小澤秀高 / 音楽:渡辺俊幸 / 主題歌:さだまさし『たいせつなひと(シネマ・ヴァージョン)』(FOA Records) / 出演:大沢たかお、石田ゆり子、富司純子、林 隆三、田辺誠一、古田新太、鴻上尚史、石野真子、渡辺えり子、柄本 明、松村達雄 / 製作:フジテレビ、幻冬舎、東宝、電通、アルタミラ・ピクチャーズ / 配給:東宝
2003年日本作品 / 上映時間:1時間54分
2004年01月17日公開
2004年07月30日DVD発売 [amazon]
公式サイト : http://www.gege.jp/
日比谷みゆき座にて初見(2004/02/07)[粗筋]
始まりは、ある夜の悪夢だった。こんなにいい生徒は10年に一度だ、と先輩教師である安田(鴻上尚史)からもお墨付きをもらった生徒たちに首を絞められ、ハチの巣を押しつけられるという不気味な夢。魘されて早朝目醒めた高野隆之(大沢たかお)は、何気なく灯したライトの光を閃光のように感じ、気を失った。
悩んだ挙句、隆之は長崎で暮らしていた少年時代からの親友・清水博信(古田新太)が経営する眼科を訪れる。診療した博信は、話を聞いたときから、思い当たる症例があった――と言い、口内炎の他にも陰部に湿疹が出来なかったか、と訊ねる。頷く隆之に、博信は静かに病名を告げる。ベーチェット病。進行は人によって差があるが、かなりの確立で“失明”という結果を齎す、奇病のひとつ。
博信は大学病院時代に診察した患者の黒田(柄本 明)と隆之を引き合わせる。黒田は発病から失明まで十年を要した、と言った。発病後、多くの同じ病の人と出会ったが、みな発病から失明までの経過は一様ではない。家を出て角を曲がった途端に目に激痛が走り、収まって立ち上がったときにはすべてが靄の中だった、という人もいる。だが、困ったことはただひとつ、歯磨き粉を歯ブラシに巧く乗せられなくなったことだ――黒田はそう飄然と語った。
学年末をしおに、隆之は教職を退いた。十年に一度と言われた生徒たちに、五年生になっても担任をして欲しいと懇願されて胸が痛んだが、もう決めたことだった。師匠である朝村教授(林 隆三)にも意は告げてある。ただ、彼の娘であり、いまは研究のためモンゴルにいる恋人・陽子(石田ゆり子)には何も告げずに帰郷するつもりだった。だが、彼女は文字通り、走って帰国した。隆之の部屋に飛び込むなり、陽子は泣きながら隆之を詰った。「私の幸せを勝手に決めないで」と。疾風のように飛び出していった彼女を、隆之は最後まで追いかけることが出来なかった。やがて光を失う自分と一緒にいることが、彼女の幸せに繋がるとはとうてい思えなかったから。
理由も話さず舞い戻った隆之を、父を亡くして以来ひとり暮らしを続ける母・聡子(富司純子)は黙って受け入れた。嫁いだ姉・玲子(石野真子)のもとを訪ね、造船所で働く幼馴染み・松尾輝彦(田辺誠一)に帰郷を報告し、いつ母に本当のことを告白するべきか悩んでいるとき、ふと訪れた聖福寺の石段に、彼女がいた。陽子は隆之の胸に飛び込んで、「あなたの目になりたい」と言った。
夏が近づき、暖かくなったお陰か発作は回数を減らしていたが、隆之の視野は確実に白い染みに冒されていた。確かめるように陽子とふたり、長崎の町を巡っていた隆之は、聖福寺の石段で激しい発作に見舞われる。うずくまる隆之と彼を励ます陽子の姿に、ひとりの老人が近づいてきた。寺のゆかりの者だというその人は慣れた様子で本堂にふたりを案内し、静養させてくれた。
林と名乗った老人(松村達雄)の穏やかな雰囲気に、隆之はいつしか問われるがまま自らの病について語っていた。林はぽつん、と「結夏」という言葉を呟く。それは禅寺で行われる、雨期に庵に籠もる行のことだった。別れ際には林は言う。隆之はいままさに行のなかにあるのだ。失明するという恐怖と戦う行のなかに。やがて失明する瞬間、その恐怖から解き放たれる。ふたたび行脚に出るその日のことを、禅宗では「解夏」と呼ぶのだ、と……[感想]
失明した人を描いた話は幾らでもあるし、死に至る病の恐怖を描いた話も枚挙に暇がない。だが、最終的に失明することが約束されている病への恐怖を描いた話、というのはたぶんこれが初めてだろう。
死が待っているわけではないが、それまでと同じ生活は出来なくなる。また、何の疑問もなくすべてが見える状態で思い描いていた将来に辿り着くことはまず不可能になる。
本編での興味も、ほぼこの事実に尽きている。病気を知った主人公は東京でのひとり暮らしを止め、母が一人で暮らしている郷里に帰り、教職も辞した。やがて目の見えなくなる自分と一緒にいても幸せにはなれないと、離れている恋人に直接告げることなく別れを決める。そんな主人公と恋人、そして母の心の動きを静かに淡々と描くことに焦点が絞られている。
これといった筋はなく、ラストシーン、主人公が完全に視力を失い、その“恐怖”から解き放たれる瞬間までの“遍歴”だけが綴られる。いちおう、多少の紆余曲折はあるが一種の飾りに過ぎないだろう。劇的なドラマを期待すると、かなり失望を味わうはずだ。
心理描写にも派手さはない。重い哀しみに苛まれているはずの主人公も恋人も母親も、普段はほとんどそれを表には見せない。だからこそ、時折表出するそのときの描写が深く染みこんでくる。この緩急が巧い。本質的には、何気ない描写こそ出色なのだが、例えば豆をむきながらひとり涙している母親の姿、例えば父の墓参りにひとりで出かけながら、既に半分以上視界を失っている自分を知って絶叫する主人公、そんな場面が強烈なアクセントとして働いている。一方で母親と団子屋のおかみのやり取りが、コミカルな彩りも添えている。
トータルとして画面に刻まれているのは、白く静謐な哀しみと喜びのみだ。登場人物に喩えられるとおり、恐怖と苦しみを受け入れていく“行”にも似た過程を、身辺の人々の心遣いに支えられながら乗り越えていく、そのさまを描くことに集中した物語。坂が多く無数の文化が混じり合った長崎の美しい景観が、その心象の透明感を更に高めている。
物語よりもその繊細な描写を味わうべき、美しい映画。何よりも、「笑顔のきれいなお嬢さん」と呼ばれるヒロインの最後の表情が強烈に印象に残る。本編が三十年になんなんとするキャリアのフォークシンガー・さだまさしの小説に依っていることはご存じの方も多いだろう(というか、検索以外の手段でここを御覧の方はだいたい解ってるんじゃ……)。長崎出身であり、自らの楽曲でも繰り返し繰り返し長崎の風物を織り込んできた彼の小説であるが故に、風物の活かし方は実に見事だ。同じくさだまさし原作による映画「精霊流し」でもそうだったが、坂を利用した独特のアングルによって描かれる風景が美しい。
だが、本編には私のごときさだファンが劇場を訪れることを考えてか、ところどころに原作にはない(はず)のサービスを用意してくれている。例えば、主人公・隆之が教鞭を執る学校が葛飾にあるという事実は、さだまさしが小学校時分に上京して通った学校のイメージを重ねているのだろうし、友人・輝彦と釣りのために海に出た船の脇には、さだまさしが所有する「詩島」の名前が記されている(たぶん撮影に使用するため、島にある船を利用したのだろう)。そして終盤、重要な役割を果たす絵画館は、さだまさしの楽曲にその名前を掲げて歌われている場所でもある。
ざっと記憶しているのはこのくらいだが、恐らくまだあちこちに何か隠れていると思われる。ファンを標榜される方は、どのくらい発見できるか試してみるのもまた一興だろう。(2004/02/08・2004/07/30追記)