cinema / 『ハウルの動く城』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


ハウルの動く城
原作:ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『魔法使いハウルと火の悪魔』(徳間書店・刊) / 監督・脚本:宮崎 駿 / プロデューサー:鈴木敏夫 / 製作:奥田誠治、福山亮一 / 作画監督:山下明彦、稲村武志、高坂希太郎 / 美術監督:武重洋二 / 色彩設計:保田道世 / デジタル作画監督:片塰満則 / 映像演出:奥井 敦 / 録音演出:林 和弘 / 整音:井上秀司 / 効果:野口 透 / 音楽:久石 譲 / 主題歌:倍賞千恵子『世界の約束』 / 制作:スタジオジブリ / 声の出演:倍賞千恵子、木村拓哉、美輪明宏、我修院達也、神木隆之介、伊崎充則、大泉 洋、大塚明夫、原田大二郎、加藤治子 / 配給:東宝
2004年日本作品 / 上映時間:1時間59分
2004年11月20日公開
公式サイト : http://www.howl-movie.com/
日比谷スカラ座1にて初見(2004/11/20)

[粗筋]
 とある国の、荒れ地にほど近い街。家を出て行った母親の代わりに帽子店を守っていたソフィー(倍賞千恵子)は出かけた先で、兵士にからかわれていたところをひとりの美しい青年に助けられる。青年は何やら不気味な黒い影に追われていたが、魔法を駆使してソフィー共々無事に逃げ切ると、華麗に立ち去っていく。その様に心を奪われたようになるソフィーだったが、彼女はまだこのとき知らなかった――その青年が、荒れ地を動く城で彷徨い続け、美しい女の心臓を喰らっているという魔法使いハウル(木村拓哉)だったことを。
 その夜、閉店した帽子店を荒地の魔女(美輪明宏)が訪ねた。いちど逢った経験からハウルに懸想している荒地の魔女はハウルに対して追っ手を放っており、さきほどの一部始終も見届けていたのだ。ハウルに救われたソフィーに嫉妬した魔女は、彼女に呪いをかける――90歳の老女に変貌し、呪いをかけられたことを誰にも打ち明けられない呪いを。
 このままではもう家にもいられない、と覚悟を決めたソフィーは小さな荷物を携えて、街の外の荒地へと旅立った。突然老いた躰には丘を越えることさえ一苦労だったが、杖代わりにしようと拾いかけたのがやはり呪いをかけられたカブ頭の案山子(大泉 洋)だったことが幸いする。逆さにされていたのを元に戻した恩に報いようとするかのように追いすがってくる案山子に「今夜泊まる家でも探してきてよ」と適当な頼みをしたところ、案山子はよりにもよってハウルの動く城を連れてきた。美貌とは程遠い姿になった自分を取って食いはしまいと、ソフィーは城の中に侵入する。
 薄暗く汚い城に人の姿はなかった。代わりにソフィーに語りかけたのは、暖炉で燃えさかる火――ハウルとの契約によって暖炉に縛り付けられた火の悪魔カルシファー(我修院達也)はソフィーにかけられている呪いのことを看破すると、自分とハウルとの契約にまつわる秘密を解き明かせたなら、代わりに彼女の呪いを解くと言う。
 夜が明けて、暖炉を前に眠りこけていたソフィーを見つけ驚くハウルの弟子・マルクル(神木隆之介)に対して、ソフィーは掃除婦だと言い張って居座る。やがてふらっと舞い戻ってきたハウルはそんな彼女をなんの拘りもなく受け入れてしまった。朝食だけ済ませると、「片づけるのもほどほどに」と言いおいて。
 勢い込んで仕事に手をつけるソフィーだったが、城で暮らすうちに色々と、ハウルに関わる現実を知ることになるのだった……

[感想]
『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』とアジアンテイスト満載の作品が続いた宮崎駿監督が、たぶん『魔女の宅急便』以来久々に繰り出した洋風のファンタジーである。しかも初めて海外文学を原作にしているが、相変わらず独特の趣向は随所に盛り込まれている。たとえば羽根のある奇妙な飛行機であり、何かと走り回らされるヒロインであり、謎だがしかし愛らしい小さなキャラクターたちであり、といったものだ。眩暈がするほどに書き込まれた背景にアニメらしい派手な動きをしながら不自然さのないキャラクターたちも変わらず、その意味では充分期待に応えている。
 ただ、ストーリーの組み立て方や主題はかなり従来と趣が異なる。最も著しいのは、それぞれのキャラクターの外見や態度が随所で変わる点だ。当たり前、と思われるかも知れないが、本編のそれはかなり極端である。冒頭、18歳の姿形で現れるソフィーだが、呪いをかけられ90歳ほどの外見になってしまう箇所はまだしも、話が進むとほとんどの場面で容姿の年齢が違う。戦争に招集されたハウルの代理として王宮を訪れ、かつてハウルを後継者にする意向さえ持っていたというミス・サリマン(加藤治子)と面会したあたりから、少女と中年ぐらい、そして老人とのあいだを激しく行き来する。ハウルもまた、金髪の美男子然とした姿が途中でにわかに黒髪になり、ソフィーやマルクルが寝入っているあいだに舞い戻ったときは翼のある魔物の姿をしている。荒地の魔女もまた、初登場のときの迫力と中盤以降の姿はまるで別物だし、ソフィーたちとの関係が変化する中盤以降でもかなり極端な変化が随所に認められる。
 この三人に共通するのは、多かれ少なかれその姿形に“魔法”が施されている点だ。現実的な物理法則と異なって魔法はファンタジーの産物であり、また明確なかたちが決定されていないので、柔軟なものと捉えることが出来る。その柔軟さを視覚的に採り入れたのがこの三人のキャラクターと言えるだろう。特にソフィーのそれは、呪いをかけた当事者が「解き方知らないんだもの」と言うだけあって非常にいい加減だったようで、ソフィーの精神的な立ち位置に応じてかかり具合が変化しているように映る。この方法は“設定”として登場人物に説明される、或いは地の文(ナレーション)で解説するよりも遥かに簡単に観ている側をファンタジー世界に惹きこむことを可能にすると共に、作品終盤の一見不条理な展開をある程度まで受け入れさせる素地を作ることに役立っている。
 本編は、ストーリーの組み立てが少々変わっている。冒頭、呪いをかけられて「ここにはいられない」とソフィーが旅立つくだりは強烈だが、物語が進むに従って彼女はその呪いを解く、ということにあまり執着を見せなくなる。途中から彼女の行動原理は、優雅さよりも弱虫さや情けなさを露呈するようになり、同時に彼女にとって近しい存在となったハウルや彼を取り巻くものを守ることに移行していく。またハウルにしても、序盤はソフィーやマルクル、カルシファーといった“同居人”たちを顧みず、人知れず出かけていっては戦場を攪乱することに努めている――しかも、いったいどういった動機から彼がそんな行動をしていたのかは結局明かされない――ようだったが、それがある時点から見事にソフィーたちとの生活を守ることに費やすようになる。こと著しいのは荒地の魔女の、外見以上に極端な言動の変化だが、これについては詳述を避けよう。
 ストーリーの組み立ての奇妙さを更に際立たせてしまったのが、異様に出来過ぎと映るラストシーンだ。終盤でのソフィーやハウルの行動とは直接関わらなかった人物にまで影響を及ぼし、過剰なくらいに話が丸く収まってしまう。
 だが、この辺は作りのいい加減さというよりも、作り手の狙いが物語として解りやすい筋とテーマがあって巧く着地するような作品作りにではなく、人間の心や意識の移り変わりをファンタジーらしく描き出すことと、その結果としての“約束”を敷衍した作品を構築することにあったためではないか、と思う。
『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』と、宮崎監督の作品には民話的な“約束”に回帰する傾向が見られた。本編はその位相を西洋的な童話にずらして実現したものと考えられる。極度の予定調和に思えるラストシーンにしてみても、実はその予定調和自体がファンタジーの定型として提出されてきた要素に工夫を凝らして応用したものではなかったか。作中に介在する戦争の醜さを誇張するような描写はあくまで現代に発表する上での付け足しに過ぎず、メッセージ性とはまるで異なるかたちで物語を再構築しようとした試みだったと思えてならない。付け足しどころか、寧ろラストシーンでの“寓話性”を更に強調するための材料であったかのようにさえ映る。あの顛末がなければ、ラストシーンは更に砂糖菓子をべたべたにまぶした、実に飲み下しにくいものになっていたに違いない。主体となったキャラクターの意図を超えた結末が、そのまま本編を更に文字通りファンタジックに彩っているのだ。
 とはいえ、結末以外の部分における、映像と密接に結びついた心理描写の繊細さや奥深さもまたある。その辺は是非丁寧に鑑賞して感じ取っていただきたいが、ひとつだけ指摘しておこう。
 呪いをかけられたソフィーだが、彼女の心理を反映するかのように時折年齢を遡行する。時として、本来の年相応の姿にまで回帰するほどだ。注目していただきたいのは、その彼女の髪の色である。中盤で若い頃の姿に戻った彼女の髪の色はかつてと同じ褐色だった。だがクライマックスからラストシーン、完全に呪いから逃れたはずの彼女の髪の色はどうだったろう? 実はそのあたりにも、狙っているものがあると感じられる。
 物語としては初見でかなり雑な印象を齎し、目まぐるしく変わる主要キャラクターの容姿や言動のために未整理な、完成度の低さを感じさせてしまうが、しかしそうしたところにも計算を匂わせ(必ずしも狙っているとは思わないのだが)、宮崎作品は相変わらず一筋縄でいかないと再認識させられる。
 だが一方で、ここまで意図的に恋と冒険のファンタジーであろうとした作品に、込み入った読み方など必要ない、とも思う。変化の激しいソフィーやハウルはさておき、一貫して愛嬌のあるカルシファーやマルクル、終始得体の知れない犬のヒン、異様な存在感を示すミス・サリマンなどなどの魅力的な登場人物が彩る、先読みの出来ない冒険ものとして素直に楽しんでしまうのも一手であろう。各所にツッコミどころや難解な点があるあたりも、複数で鑑賞したときの話題を提供するという意味で、非常に理想的な娯楽作品でもあるのだ。好き嫌いは観たあとで決めることにして、とりあえずなにも考えずに観ておきましょう。

 ――で、ここまで書いていちばん疑問に思うのは、果たして本編はどの程度まで原作に忠実だったのか、ということだ。分析すればするほど最近の宮崎監督らしいガジェットが目につくので余計に不思議に感じてしまう。たとえばカルシファーの外見や飛行機類のディテール、そして象徴を駆使した物語とラストシーンは、どこまで原作をなぞっているのか。それ次第では、映画に対する評価も微妙に変わるかも知れない。

 最後に、本文の中では触れられなかった要素についてもーちょっと言及しておくと。
 公開前、一部で話題となったのが、ハウルの声優としてSMAP・木村拓哉を起用したこと。発表時から不安を口にする向きがあり、完成披露試写が行われたあたりから否定的な感想がぽつぽつと聞かれたが、私が観たところ、別段問題はなかった。確かに本職の声優と比べると言葉の粒が不明瞭で平板な印象があるが、それは声優に不慣れな人材を起用する宮崎作品に共通した特徴だ。寧ろ平生、日常会話と変わらないような飾らぬ演技を特徴とした木村の演技からすると、かなりしっかりキャラクターを作っている印象を受けた。超然として捉えどころのないハウルというキャラクター(それは作中、他でもないソフィーが口にした事実だ)には馴染んでいると思う。
 何より、ソフィーを演じた倍賞千恵子が見事だった。18歳の少女から90歳までを演じ分けた、と聞いてまさか、と最初は思ったが、本当にきちんと表現し分けている。特に凄まじいのは、僅か何分かのあいだに外貌の変化する場面である。外見が若々しくなるに従って、きちんと声もじわじわと若くなっているのである。
 他の役者もほぼ問題なく検討している。美輪明宏の迫力については今更言うことさえ思いつかない。
 もうひとつ、本編のクオリティを高めている要素が、音楽である。宮崎作品ではお馴染みの久石譲が本編も担当しているのだが、他の作品と比べても初見での音楽のインパクトが強くなっている。それは、場面ごとにメロディーを作り分けるようにしていたものを、今回はひとつの固定したテーマを用意し、アレンジを変更して随所で使用している。それ自体は比較的普通の話だが、さすがに久石譲だけあって、メロディーの余韻がまるで違う。観ているあいだからそうだったが、観終わったあとも耳からあの旋律が離れず、帰り道にとうとうサウンドトラックを購入してしまったほどだ。
 前作『千と千尋の神隠し』の主題歌を担当した木村弓の楽曲のカヴァーである主題歌『世界の約束』も、谷川俊太郎の研ぎ澄まされた歌詞と共に記憶に残る。

(2004/11/21)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る