cinema / 『市川崑物語』

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市川崑物語
監督・脚本・編集・音楽:岩井俊二 / プロデューサー:一瀬隆重 / 取材:砂田麻美、北川亜矢子 / 監修:森遊机 / 撮影:角田真一、中村真夕 / CG映像:Inage Factory / 製作:ロックウェルアイズ、角川ヘラルド映画、オズ / 配給:XANADEUX
2006年日本作品 / 上映時間:1時間25分
2006年12月09日公開
公式サイト : http://www.ichikawakon.jp/
新宿ガーデンシネマにて初見(2006/12/25)

[粗筋]
 1915年、市川崑こと市川儀一は三重県に生まれた。幼くして父に死なれ、経営していた呉服問屋の倒産によって母とともに姉の嫁ぎ先を頼ったり、脊椎カリエスの疑いありと診断され療養のために信州に移住したり、と各地を転々とした市川はやがて、海外から渡ってきたアニメ映画と出逢い、これこそ天職、と悟った。
 親戚のコネを使ってJ・Oスタジオに入社した市川は当然のように創作に邁進するが、折しも劇映画隆盛のころで、たまたま撮影現場を覗かせてもらった市川はその活気と想像力とに魅せられ、じわじわと人数を減らしていくトーキー漫画部に最後まで留まりながら、次第に実写へと意欲を移していき、J・Oスタジオが他社との合併を機に東宝映画へと改称すると東京に越し、助監督として再スタートを切る。
 だが、なかなか監督をさせてもらえないまま時は経ち、やがて戦争が勃発する。二度にわたって召集令状が届きながら、運命の悪戯によって戦地に送られることはなかった市川だが、国内にいても結局映画は出来なかった。念願叶って軍部の発注による慰問映画を監督することになったが、それは『娘道成寺』を題材とした人形劇で、しかも完成には至らなかったのだった。
 自分が入るための防空壕を掘っているときに玉音放送を聴き、ようやく映画作りが出来るかと思った矢先に発生した“東宝争議”のために、着手はだいぶ遅くなってしまった。
 そんななか、市川は運命の人と巡り逢う。通訳として東宝に勤めていた彼女・由美子の後押しもあって、ようやく市川は長篇実写映画を完成させる。
 知識が豊富で言語感覚に優れた由美子は私生活のみならず、映画製作の場面でも夫を支えた。市川がどうしても気に入らない脚本に軽快に手を入れ、素晴らしい台詞を書き上げる彼女は、市川との共同ペンネーム“和田夏十”名義で夫の映画のクレジットに名前を連ねるようになる。やがて“和田夏十”は妻単独のペンネームになり、いつしかふたりは“旦那”“夏十さん”とお互いを呼ぶ、独特のパートナー・シップを築きあげていく……

[感想]
 ――という粗筋だけ読むと、普通の伝記映画のように感じられるだろう。だが、そのつもりで鑑賞すると度胆を抜かれる。かくいう私が、『犬神家の一族(2006)』公開に合わせて、市川崑に私淑する岩井俊二監督がその半生を映画化した、という程度の予備知識で観に行って、かなり驚かされた。
 何せほとんど動画や声による説明がない。基本は明朝体フォントによる一行のテロップを、縦横を頻繁に切り替えつつ表示して、折々にデジタル加工を施して幾分立体的に見えるようにした写真を挟むかたちで、市川監督の生い立ちと映画人生の成り行きを綴っていく。序盤はほとんどこの調子で、基本である再現映像は幼少時や戦争前後のごく僅かな場面しか使われていない。異様なまでのストイックさだ。
 映画会社に入社したあたりからは格段に動画が増えるが、それはごく当然のこと。相変わらずナレーションを用いず、黒地に白い文字を乗せたテロップのみで語っていき、抜粋映像はあくまでその補強のために使われている。自らの論を語ったあとで、市川監督作品のなかから象徴的な場面を引いていく手法は明快で、映画の技術論など知らなくともその特徴と個性、とりわけ岩井監督が少年時代に熱狂したという『犬神家の一族(1976)』の衝撃的なデザイン感覚、カット構成が理解できる。実験性に富んだ作りだがその実混じり気無しに市川監督の生き様の面白さと作品の個性を伝えられる手法を選択しているのであり、岩井監督が市川崑という人物に寄せる一途な想いがひしひしと伝わって実に快い。
 実のところ、そのテロップの文章だけを抜き出していけば、市川崑監督のファンがその作品論と、交流した際の記憶とをつらつらと綴っているだけのものであり、本編はそれを無理矢理映像に変えることなく文章のまま映画にしていった、という趣向なので、凡手がやれば退屈な自我の垂れ流しに過ぎなくなる。そこを、文章の出し入れにかるく工夫を凝らし、音楽の緩急や巧みな映像の挿入によってリズムを齎すことで、全体を軽快で観やすいものにしているあたりは、初対面の会話を通じて市川監督を「僕のオリジナルだ」と認識した、と自認する岩井監督ならではの腕だろう。『犬神家の一族』新旧双方に共通するカット割りの巧みさとテンポの良さと、本編を比べてみれば解り易いはずだ。1時間半程度ともともと短めの尺だが、それでもこういうやり方で観るほうをまったく飽きさせないのは見事である。
 むろん、丁寧に取捨選択を施して開陳される市川監督の人生そのものが実に数奇で見所に欠かないことも、本編をきちんと娯楽として成立させる大きな要素だ。もともとアニメーターとして出発した、という経緯も意外だが、劇映画を志しながら戦争に妨げられてなかなか実現せず、戦後にようやくデビューした際には、以降長年にわたってパートナーシップを築きあげる妻・和田夏十の存在があった、というドラマティックな流れ。そしてあれほど大成功に見えた金田一耕助シリーズ制作の後ろで、その糟糠の妻の闘病という出来事があったというのにも素直に驚かされる。そのくせ悲劇という印象がないのは、最後まで冷静で堂々としていた、という和田夏十の人柄をよく描き出している証拠である。二度の召集令状を受け取りながら、まったく意図せぬ成り行きで二回とも回避してしまった、その成り行きがまた滑稽でいい。のちに『野火』『ビルマの竪琴』という戦争映画の傑作を撮った監督であることを思い合わせると、尚更傑作なエピソードと言えるだろう。
 岩井監督は市川監督とともに金田一耕助の実質的なデビュー作『本陣殺人事件』を一緒に撮る(!!)企画のために初めて逢ったのだという。それが本編制作の遠因になっているようだ。もともと市川監督のファンであった岩井監督だが、直接の面会を通して彼を自らのルーツだと再確認した岩井監督は、それで期するところがあったのだろう、本編を終始軽快に構成し、エンドクレジットではまさに市川監督による金田一耕助映画を彷彿とさせる、大きな明朝体を基調に独特のレイアウトでまとめたものにしている。このエンドロールを作っているあいだの、岩井監督のにやけた顔が思い浮かぶぐらいに楽しげな締め括りである。
 市川崑という映画人に対する敬意と、それ以上に深い映画への愛が色濃く滲む、映画好きの琴線を刺激して止まない良作であった。作りがシンプルなのでテレビで観ても良さそうにも思えるが、いやいや、やはり劇場で観るのがいちばん面白い類の作品であると思う。

 但し、ひとつだけご注意願いたいのは、話の流れで市川監督が手懸けた金田一耕助シリーズほぼぜんぶの犯人を明かしてしまっている点だ。創作手法の解体のためだったので致し方ないとは言え、ミステリである以上犯人は本編を観て知りたい、という方はあらかじめシリーズ5作品(『犬神家の一族』はリメイク版でも可)をチェックしておくことをお薦めする。尤も、犯人が解っている程度で楽しめなくなるほどヤワな作りではないが。

(2006/12/25)


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