cinema / 『“アイデンティティー”』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


“アイデンティティー”
原題:“Identity” / 監督:ジェームズ・マンゴールド / 製作:キャシー・コンラッド / 製作総指揮:スチュアート・ベッサー / 脚本:マイケル・クーニー / 撮影監督:フェドン・パパマイケル、A.S.C. / 美術監督:マーク・フリードバーグ / 編集:デヴィッド・ブレナー,A.C.E. / 衣装:アリアンヌ・フィリップス / 音楽:アラン・シルヴェストリ / 出演:ジョン・キューザック、レイ・リオッタ、アマンダ・ピート、ジョン・ホークス、アルフレッド・モリーナ、クレア・デュヴァル、ジョン・マッギンリー、ウィリアム・リー・スコット、ジェイク・ビュシー、プルイット・テイラー・ヴィンス、レベッカ・デモーネイ / 配給:Sony Pictures
2003年アメリカ作品 / 上映時間:1時間30分 / 日本版字幕:森泉佳世子
2003年10月25日日本公開
公式サイト : http://www.id-movie.jp/
池袋HUMAXシネマズ4にて初見(2003/10/25)

[粗筋]
 ある嵐の夜。執行を明日に控えた死刑囚が、ある場所に搬送されようとしていた。責任能力あり、として有罪に問われた犯人の精神状態に問題が認められる可能性がある、と担当医(アルフレッド・モリーナ)が判断したための緊急措置であった――
 同じ頃、とあるモーテルに偶然の導きから人々が集まりつつあった。かつては一世を風靡しながら今は落ちぶれた女優カロライン(レベッカ・デモーネイ)をフロリダに連れて行く途中だった運転手エド(ジョン・キューザック)は、一瞬の油断から主婦のアリスをはねてしまう。携帯電話も通じなくなっていたため、タイヤの故障で立ち往生していたアリスの家族――夫のジョージ(ジョン・マッギンリー)と息子のティミーを乗せて、エドは近くにあったモーテルに向かう。だが、カウンターに座っていたラリー(ジョン・ホークス)は、大雨のせいで固定電話も通じなくなっている、と言う。
 ヒステリーを起こすカロラインを置き去りに、エドは車で最寄りの救急病院に向かうことにした。途中、やはり車の故障のため身動きが取れなくなっていた娼婦パリス(アマンダ・ピート)を拾うと、浸水した道路を躍起になって進もうとするが、陥没した道路に嵌って完全に出られなくなる。結局、あとから道をやってきた新婚夫婦のルー(ウィリアム・リー・スコット)とジニー(クレア・デュヴァル)の車に便乗し、エドは助けを呼ぶことも出来ないままモーテルに舞い戻る。
 エドとジョージがアリスの容態を慮って焦燥に駆られるなか、新たな客がモーテルに姿を見せた。囚人を護送中だというロード(レイ・リオッタ)は、やはり洪水で二進も三進もいかなくなり、一時的に避難してきたらしい。ロードは囚人をモーテルの一室にあるトイレに拘束するが、エドには彼の態度が奇妙に映った。
 ロードの登場を境に、居合わせた人々の行動が怪しげなものに変わっていく。やがて、エドは女優の姿が見えなくなっていることに気づいてあたりを探し歩いた。通りかかったランドリーのなかから聞こえてきた異様な音に足を止め、乾燥機のなかを覗くと、そこにはカロラインの生首が押し込められていた……

[感想]
閉ざされた森』に続く、ハリウッド流本格ミステリの怪作、とでも呼ぼうか。
 かなり過激なアイディアを使っているのだが、決して難しい謎ではない。冒頭までで提示されるいくつかの条件を総合すれば物語の意図は読めるし、その向こう側にある真相も、よくよく事件の推移を観察していれば解る。
 そのうえ、決着してみても不明瞭な部分が多く残るのが問題だ。かなり極端な趣向を用いているためどこが不明瞭なのか書けないのが辛いが、純然たる本格ミステリとしてみた場合、決して看過できる問題でないということだけは指摘しておこう。
 が、それを踏まえた上でもこのアイディアは強烈だと思うし、そこに向かって直進していくプロットの力強さは認めたい。細部に傷があっても、全体としてかなり本格的な謎解きを志向していることは事実だろう。作中、明らかにクリスティーの『そして誰もいなくなった』を意識した発言があるあたりからして、往年の名作に挑戦しようという意欲が窺える。それがやや暴走してしまったが故の肌理の粗さなのだろう。
 また、役者たちの言動が大袈裟にならず奇を衒わず最後まで堅実であったこと、描写に細かなリズムを取り入れて恐怖感を演出した手管などなど、映像作品としての組み立ては地味ながら完成度が高い。とりわけ、事件の主な舞台となるモーテルの異様な怪しさは特筆に値する。安手で窮屈で退廃的で、さながらアメリカの地方文化の象徴とも言うべきモーテルという施設が、本編にあってはまるで朽ちかけた古城のように見える。作中、夜の明けるエンディング近くまで絶えることなく降りしきる雨と相俟って、不気味な美しささえ感じさせる。
 仕掛けそのものは一回限りの衝撃であり、劇場でなくとも一度鑑賞すれば十分という質だが、それを支えるための役者や演出、舞台装置がお見事。プロットの粗さを承知のうえで、佳作としたい。

 オチに触れずに紹介するのが極めて困難なこの映画、プログラムにも「映画鑑賞後にお読みください」という記述がある……ページの隅に。本当に観客のためを思うならば、こういう記述はもっと見やすいところに大きく書いておくべきだと思うのだが如何か。
 しかし、本作品のプログラムでそれ以上に凶悪な点は別のところにある。これも直接書くとネタに抵触するため、伏せ字にて叫ばせてもらう。
 ――なんで、肝心の犯人役の役者名が書いてないんじゃあっ?!――

 そういや先住民の話ってどうなったんだ?

(2003/10/28)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る