cinema / 『イノセンス』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


イノセンス
原作:士郎正宗『攻殻機動隊』(講談社・刊) / 監督・脚本:押井 守 / プロデューサー:石川光久、鈴木敏夫 / 製作:石川光久 / キャラクター・デザイン、作画監督:沖浦啓之 / メカニック・デザイナー、レイアウト設定:竹内敦志 / 美術監督:平田秀一 / 美術設定、レイアウト設定:渡部 隆 / プロダクション・デザイナー:種田陽平 / 演出:西久保利彦 / 作画監督:黄瀬和哉 / サブキャラクター・デザイナー、作画監督、銃器設定:西尾鉄也 / デジタルエフェクト・スーパーヴァイザー:林 弘幸 / ビジュアルエフェクツ:江面 久 / 音楽:川井憲次 / 主題歌:伊藤君子『Follow Me』(VideoArts Music) / 録音監督:若林和弘 / 制作:Production I.G / 声の出演:大塚明夫、山寺宏一、田中敦子、堀 勝之祐、榊原良子、竹中直人 / 配給:東宝
2004年日本作品 / 上映時間:1時間39分
2004年03月06日公開
2004年09月15日DVD発売 [amazon]
公式サイト : http://www.innocence-movie.jp/
日比谷映画にて初見(2004/03/06)

[粗筋]
 ――破壊される直前、“人形”は確かにバトー(大塚明夫)に向かって「助けて」と囁いた。
 暴走したガイノイドはすべてロクス・ソルス社製のもので、政財界の大立者が犠牲者に連なっているにも拘わらず、いずれも速やかに示談が成立している。犯行後、ガイノイドはすべて自壊し、電脳の記録も初期化され、事件前後の詳細は判然としない。公安九課のバトーと相棒のトグサ(山寺宏一)は手順に従い、まず所轄の鑑識課を訪問する。
 女性検死官ハラウェイ(榊原良子)は、再生不能なまでに“加害者”を破壊してしまったバトーにまず繰り言を述べたうえで、前置きもないまま抽象的な議論を投げかける。人間は何故、自分の似姿を造ろうとするのか――苛立ったトグサが「仕事の話をしよう」と先を促すと、ハラウェイは唯一さいごに残されていた音声履歴を再生させる。やはり“加害者”は最期に「助けて」と口にしていた。
 次の訪問先に向かおうとした矢先、ロクス・ソルス社のガイノイド出荷検査官が惨殺された、という連絡が入り、バトーたちは現場であるボートハウスに急行する。臓器ひとつひとつを抜き出し、律儀に保管して立ち去るという念の入った手口だが、先のガイノイドによる連続殺人の犠牲者に暴力団組織幹部の名前が挙がっていることから、九課の捜査員たちは報復による犯行という認識を強める。
 この一件を境に、九課部長の荒巻はアンドロイド暴走による連続殺傷事件をバトーとトグサふたりの専従捜査に切り替えた。バトーの経歴が役立つ、という判断だったが、同時に荒巻はトグサに対し、バトーの行動に留意するよう警告する。
 荒巻の危惧は、その日のうちに的中した。直接話を聞くに如かず、と暴力団の事務所を訪ねたバトーは、組員の過剰な反応に更に過激な行動で応えた。ロクス・ソルス社を刺激するために、十数人をいちどに天国或いは病院送りにしたバトーだったが、日付も変わらぬうちに次の厄介を起こした。飼い犬であるバセットハウンドお気に入りの餌を買うために立ち寄った雑貨店で錯乱を起こし、自分相手に数発発砲したうえ、あやうく店主を銃殺するところだったのだ。
 ギリギリでトグサにより抗体を注入され被害は最小限に食い止めたが、今後決定的な物証がない限り組織的な援助は出来ない、と釘を刺された。バトーは“罠”を仕掛けた人物との直接対決を選んで、祭に高揚する択捉高層都市に潜入する……

[感想]
 あえて、ここしばらくに観たなかで最も優れた“ハードボイルド”映画、と言ってしまおうか。各所に鏤められた引用と最小限に留められた説明、極度に感情を抑えた静かな表現の数々。それでいて、ディテールが明確で奥行きの深い世界設定と人物像。その辺のハードボイルドもどき映画では成し得ない、語らぬ部分から多くの言葉が迸るような芳醇さが備わっている。
 一方で、妙に理性を欠く、という矛盾する特質がある。まず、主人公バトーにしてからが、態度こそ冷徹そのものだが、行動はしごく短絡的だ。冒頭、所有者を殺害したアンドロイドがバトーの制圧後も攻撃性を示すと、まるで躊躇いなく破壊する。捜査手順のセオリーに従いながら直感に頼り、ヤクザの事務所に聞き込みに訪れたときなど、抵抗の様子を見て取るやすぐさま圧倒的な火力で反撃に出る。“守護天使”という存在があってこそだろうが、やることなすこと極端で、この混沌とした世界観のなかよく生き延びてこれた、とさえ思う。
 非理性的である点は、物語の軸となる連続殺人事件をめぐる描写にしてもそうだ。複雑な背景と動機があり、それ自体描きようによっては完成度の高いSFミステリに仕上がりそうなものを、論拠を恣意的に、また事実が判明したあとで説明したりとアンフェアな手順を踏んだことで破壊している。もとよりSFミステリなど狙っていなかった、というのもその通りだろうが、これもまたバトーという“語り手”に表現を合わせたが故なのだと感じる。何せバトーは作中、ほかの登場人物が口にする「物証」というものにまるで拘っていない。直感というレールに従って、獣のように文字通り驀進しているだけだ。けっきょく、答に導いているのは“守護天使”なのである。
 しかし、こうした矛盾が、基底にあるテーマと呼応しあって、作品の魅力を更に膨らませているのも確かだろう。つまり、タイトルバックに使用され、終始作品を覆う“人形”というモチーフであり、ひいては宣伝文句にもある“いのち”というモチーフだ。
 その辺の詳細は、ここで下手に解説されるよりは、本編を観た方がたぶん解り易いはずだ。作中、無生物と生物との対比はしばしば一種暴力的なまでに生々しく示される。最も明快なのは、数少ない女性の登場人物が語り、そして退場する場面である。極論すれば、彼女たちには「女性である」という必然性すらないことに気づくはずだ。しかし、その現実に対して超然とした態度を固め、まるで他人事のように「人間は何故、自分の似姿を造ろうとするのか」という物語の根幹を占めるテーマを語る姿には、振り返ると寒気すら覚える。
 ただ、この点を敷衍した場合、忘れてはならないと感じるのは、作中いちどとして事件の“被害者”を剥き身で描いていないことだ。冒頭、バトーの電子眼を介して、倒れている警察官を見せているのが唯一の例外で、ほかは抽象化された画像であり、言葉による情報に過ぎない。一方で、破壊された人形たちには一枚のヴェールを与えることもなく晒しものにしているというのに。生きている人間は、その大部分を作りものに変えながら多くを語らず、死者には間接的に言葉を口にすることさえ赦されていないなかで、人形たちだけがその骸を晒し、声にならぬ悲鳴を挙げているように映るのは……
 ――とまあ、論じようと思えば幾らでも論点が見つかる。肯定するにせよ否定するにせよ、まともに脳味噌を使ってものを考えようとする限り、必ずどこかが琴線に触れる、底知れぬ傑作であることだけは疑いようがない。
 ラストシーン、思わず身を強ばらせてしまうほど長い“間”を置いている。昨今持て囃されすぎているきらいのある“感動”を根っこから排除しようとするような幕切れだが、実は個人的には、どうしようもなく切なくなったワンシーンがある。やはり終盤近く、“彼女”が退場した、その瞬間である。直前にバトーが示した気遣いに無表情で応え、そして無表情のままに消えたあの一場面の、この途方もない情感はどう説明したものだろう。あの一場面が存在するだけで、私は本編を全肯定したくなった。

 たぶん押井監督のほかの作品共々歴史に残るものとなるだろうし、映像ソフトとして提供され続けると思われるが、出来るなら大画面とちゃんとした音響設備の整ったところで鑑賞されることをお勧めする。この情報密度を堪能するなら、それに越したことはありません。

 観ながら思い出したのは、数年前に映画化された手塚治虫の『メトロポリス』である。手塚作品の感性と、現代の作家たちによるテーマの盛り込みがバランス感覚を欠いたために不完全燃焼気味の余韻を残してしまったあの作品に欠けていたものを、どこか補うような雰囲気が本編にはある。人形という“生命”と“非生命”の境界線を曖昧にする造型、というテーマが『メトロポリス』でも描かれていたものと軌を一にするからなのだろうが、いずれも作家性に飛んだ人物が中核に携わっており、興味深い一致であるように思えるのだが。

 下世話ですが、ちょっと勝負をかけてみよう。来年度のアカデミー賞アニメーション長篇部門、最悪でもノミネートはされるはず、と。

(2004/03/08・2004/09/16追記)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る