cinema / 『イン・ザ・カット』

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イン・ザ・カット
原題:“In The Cut” / 原作・共同脚本:スザンナ・ムーア(ハヤカワ文庫NV・刊) / 監督・脚本:ジェーン・カンピオン / 製作:ローリー・パーカー、ニコール・キッドマン / 撮影監督:ディオン・ビーブ / プロダクション・デザイナー:デヴィッド・ブリスビン / 音楽:ヒルマン・オルン・ヒルマンソン / 衣装デザイナー:ベアトリックス・アルーナ・パストール / 編集:アレクサンドル・デ・フランチェスキ / サウンド・ミキサー:ケン・イシイ / 出演:メグ・ライアン、マーク・ラファロ、ケヴィン・ベーコン、ジェニファー・ジェイソン・リー、ニック・ダミチ、シャーリーフ・パグ / 配給:GAGA-HUMAX
2003年アメリカ作品 / 上映時間:1時間59分 / 日本版字幕:戸田奈津子
2004年04月03日日本公開
公式サイト : http://www.inthecut.jp/
銀座シネパトスにて初見(2004/05/07)

[粗筋]
 バー《レッド・タートル》の地下で、トイレを探していたフラニー(メグ・ライアン)は、暗い部屋の片隅で煙草を吹かしながら、ブラウンの髪の女にフェラチオをさせている男の姿を見つけ、一瞬目が釘付けになる。顔立ちは解らないが、自分の股間をまさぐる女の髪を撫でた男の手首に、スペードの3という刺青がしているのだけは見た。気取られそうになって、フラニーは慌ててその場を離れた。フロアに戻ると、一緒に入ったはずのコーネリアス(シャーリーフ・パグ)の姿はなかった。
 翌日、フラニーのアパートをマロイ(マーク・ラファロ)と名乗る刑事が訪れた。今朝方、女がバラバラ死体で発見され、その一部がフラニーのアパートの庭にあったという。加えて、被害者は殺害された当日、《レッド・タートル》を訪れていたことが確認されている。双方に接点のある彼女に、何か目撃した事実はないか訊ねるマロイに対して、フラニーは何も知らない、と応えた。だがフラニーは、そう質問する男の手首に、スペードの3という刺青があるのに気づいていた。
 また別の時。出かける彼女を待ち伏せるかのように、アパートの前に車が停まっていた。今度は相棒のロドリゲス(ニック・ダミチ)とともにやって来たマロイは、車中で以前と似たような質問を繰り返したあと、フラニーを飲みに誘った。フラニーにとって腹違いの妹であるポーリーン(ジェニファー・ジェイソン・リー)の勧めもあって誘いに乗ったフラニーだったが、途中から混ざってきたロドリゲスの言動に嫌気を覚えて、早々に店を出る。
 帰途、フラニーは何者かに襲われた。命からがら逃げ切った彼女は、電話でマロイに救いを求める。マロイとともにアパートに帰ったフラニーは、事件を再現するふりをして彼女に触れたマロイの逞しい肉体に、自らを委ねる。
 夜が明けて、ポーリーンに昨晩の出来事を打ち明けていたフラニーを、カフェの外で待ち伏せしている男がいた。たった一度だけ――彼の勘定によれば二回だけ――体を許したジョン・グレアム(ケヴィン・ベーコン)という男。フラニーの気持ちはとうに彼から離れていたが、依然グレアムは彼女に執着している。昨晩の悪夢のような出来事に加え、彼の態度にも不安を覚えたフラニーはいったんアパートを離れ、ポーリーンの暮らすストリップ・バーの上にあるアパートへと身を寄せる。
 マロイとも連絡を絶った一週間、そのあいだにも、殺人鬼は新たな犠牲者に触手を伸ばしていた……

[感想]
 官能サスペンス、という風に紹介され、私自身もそういう言葉で説明していますが、実情はちょっと違う。
 物語のベースとなっているのは猟奇犯罪であり、図らずもそれに巻き込まれていく女性が主人公となっている。その事件を捜査する刑事に対して抱いた疑惑と、彼の誘惑に流されていくさまも描かれ、確かに官能も存在するのだが、いずれも物語の主題ではない。
 主題となるのは、複数の男性の干渉に心を悩ませながら、疑惑と己の欲望との狭間で揺れ動く、主人公フラニーの感情の機微だ。思いがけず惹かれていく男は自分がうっすらとながら関わった事件の捜査官であり、密かに犯人ではないかと疑っている男であり、またスマートさを装いながら旧弊な男尊女卑的思想から免れていない、知的にも自分より劣る人物。英文学の指導をしている生徒に対して彼女自身はさほど性的魅力を感じていないが、彼はその点を誤解している節がある。そして、たった一回だけベッドをともにした男は、そのことにしがみついていつまでも彼女を追い回している。女性に狙いを定めた連続猟奇殺人の影が自分にも迫っている、という感覚が、理性的であったフラニーの深奥にあった欲望を呼び覚ましていく。自分にとっても思い通りにならない情欲に静かに、熱く翻弄されていく様を描くことが本筋であり、猟奇殺人もメグ・ライアンとは思えぬ赤裸々な性描写も、その素材に過ぎない。
 だから、サスペンスという言葉に惑わされて観に行くと、失望する結果になるだろう。何せ、謎解きの話としてはあまりに描写が雑なのだ。フラニーが目撃した、バーの地下で女に性器を舐めさせている男がそもそも犯人であったのかが明確にされていないし、途中の襲撃と事件の関係も不透明、最終的にフラニーがその人物を犯人と思いこむ理由にしても、たぶんに先走りすぎていて理解に苦しむ。いずれの出来事もフラニーの感情を揺さぶるための素材であり、謎解きのために供されているのではない、と理解しなければ、作品のなかで意味を失う。決してふんだんではなく、抑え気味の性描写にしても同様だ。俯せで自らの秘部をまさぐり自慰に耽り、乗り気でない男をボンネットに背を凭れ誘い、男を手錠で拘束してそのうえに跨るメグ・ライアンの姿は従来の彼女のイメージからすれば衝撃的だが、それはそういう表現に慣れた人間にしてみれば控えめで、芸術的ですらある。
 要は、自立した人間性を勝ち取りながら、成り行きで男性社会に翻弄されていく女性の姿を描いた、アート系の作品なのである。その事実は、基本的にあいだに何かを挟んだカメラワークにも顕著だ。女性を描きながら、その視点の多くは隔絶した別の場所にある。或いは刑事の目であり、或いはフラニーにストーカー的な執着を見せる男の目であり、或いは彼女に憧れを抱く生徒の眼差しであり、或いは男性原理に支配された殺人鬼の目線であり。いずれも、基本的に女性の視座ではない。ときおりフラニーの心情に触れるためにカメラは異常に接近するが、それは彼女の内面にある矛盾を強調しているだけだ。
 その芸術感覚に満ちたカメラワークのために、しばし観客とヒロインのあいだに距離が生じて感情移入しにくいのでは、と思われる瞬間があったことが惜しまれるが、基本的にはよく企まれた作品である。原作とは結末が異なるが、もともと原作の結末からしてああでなくてはいけない、という種類のものではなかった。衝撃はだいぶん薄れてしまったが、原作のテーマは寧ろ補強されて、より意味を深めたと考えられる。ラスト、閉ざされる扉にカメラが遮られるのも、洒落た演出であると同時に、閉塞感にも似た奇妙な余韻を残す。
 女の業を表現することにひたすら淫した作品。ただ、そうと解釈するか否かで評価はまるで異なるだろう――根がミステリ読みである私など、やはりもっと丹念な謎解きが欲しかったところで、少々微妙な印象を抱いてしまった。
 そしてもうひとつ、出来れば男優をもう少し選ぶか、描き込んで欲しかった。原作を読んで抱いていたイメージと比べるとマロイはいまひとつ性的魅力に乏しいし、犯人役は瘴気のようなものに欠く。線の細いイメージがあったコーネリアスが筋骨隆々の黒人青年になっていた、のは若干仕方ないかなと思わなくもないが、全般に男性描写が淡泊に感じられた、のは減点対象。

 本編はもともとニコール・キッドマンが主演することをイメージして準備を進めていたものだという。この役柄を求めたメグ・ライアンの熱意に打たれてキッドマンは製作のみとなり、女性の監督・製作・主演という話題性たっぷりのキャスティングが実現したそうだ。もともと製作に意欲を見せ、仄聞するところによればいずれは女優業を退いて教育・福祉の仕事をしたい、という願望があるらしいキッドマンにとっても、また年齢的にラブコメの女王という看板からもう少し手を広げる必要のあったメグ・ライアンにとっても、興行的にはどーか知らないが作品として完成された本編への出演はいい転機になっただろう。
 が。
 もともとキッドマンをイメージして作られた役柄を、非常に良くこなしてしまったせいなのか、本編でのメグ・ライアンはしばしばニコール・キッドマンに見える。オールドファッションな美人女優の系譜を継ぐキッドマンと異なり、派手だが親しみやすい容貌のメグ・ライアンとは根本的にイメージが異なるはずなのだが、なまじ役者としての巧さを見せてしまったせいで、キッドマンでも良かったんじゃ、という印象を与えてしまうのはちょっとマイナスだったような気がする。メグ・ライアンならではの味付けがもうひとつ欲しかった、というのは厳しすぎる要求だろうか。

(2004/05/08)


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