/ 2004年03月15日〜
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アガサ・クリスティー/田村隆一[訳]『秘密機関』
Agathe Christie “The Secret Adversary” / Translated by Ryuichi Tamura
早川書房 / 文庫判変形(クリスティー文庫所収) / 2003年11月15日付初版 / 本体価格840円 / 2004年03月15日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]1920年に刊行された、『スタイルズ荘の怪事件』に続くアガサ・クリスティーのデビュー第二作。その後、1973年刊行の『運命の裏木戸』に至るまで、リアルタイムで年齢を重ねながら書き継がれた“トミー&タペンス”シリーズの第一作でもある、冒険ミステリである。
ドーヴァー・ストリートでひょっこりと再会した幼馴染みの男女、トミー(トーマス)・ベレズフォードとタペンス(プルーデンス)・カウリイ。職にあぶれ、食事にも困りながら旺盛な好奇心をもてあましているふたりが計画したのは、“青年冒険家商会”なる怪しげな事業の発足だった。早速、ふたりの話を盗み聞きしていた人物から、ある女性になりすましてフランスの寄宿学校に潜入して欲しい、という依頼を受ける。が、このとき、タペンスがさきほど小耳に挟んだ“ジェーン・フィン”なる名前を偽名として持ちだしたことをきっかけに、ふたりはとある機密文書を巡る諜報戦に巻き込まれることとなるのだった……
クリスティーの、冒険風味を加えたミステリを読むのはこれが初めてである。あまりに古典的で、なおかつ明朗快活な雰囲気が却って自分の嗜好に合わないのでは、という一抹の不安を覚えていたのだけど、全くの杞憂だった。
主人公は若く、恐れというものを知らない――或いは意図的に無視することの出来る、いかにも活劇向けの男女ふたり。彼らの行動は終始無鉄砲で、そもそも冒険の依頼を受けて収入を得ようとする発想からしてかなり無茶だが、いざ事件が舞い込んでからの行動もかなり軽挙妄動が目立つ。確かにタペンスの想像力の豊かさや、トミーの行動力などには難局を切り抜ける才能を感じさせるのだけれど、それにしても事態の発展や解決には多分に偶然や行き過ぎた幸運が寄与している印象が否めない。特に思わぬ形で事件が進展していく序盤など、少し話がうますぎやしないかと思わされてしまい、全体に非現実的な色合いが濃いのだ。
が、状況が出揃い、トミーとタペンスがそれぞれ危機に晒されていくようになると、途端に緊張度も高まり、裏面でのやり取りも巧妙になっていく。中盤で挟まれる密室殺人の謎、二転三転する状況、そして終盤で繰り返されるどんでん返しなど、サスペンスフルながらいかにもミステリ作家・クリスティーらしい趣向が楽しめるのだ。先行する『スタイルズ荘の怪事件』をはじめとする本格ものと比較すれば非常に安易で、ある真相を見抜くのは読者にとってそれほど困難ではないだろうが、そのうえでギリギリまで攪乱してみせる手腕はさすがだ――しかも、これがデビュー第二作であることを思うと更に驚かされる。この時点で作者の構成能力はほぼ完成されていたのである。
解説で杉江松恋氏が指摘しているように、確かにクリスティーには政治音痴の一面があるようで、イデオロギーの扱いもそうだが、機密文書一枚で一変させられるほど緊密な政治情勢にしては要職に就く人々の行動がやや軽率だし、何より敵味方の立場や主義主張がかなり曖昧に描かれている。が、それ故に、政治色を殆ど気にすることなく、一枚の機密文書を軸にして敵味方が交錯する、という極めてシンプルな冒険活劇を楽しめるようになっている。たぶん狙った訳ではないだろうが、そのお陰で八十年以上経過したいまでもさほど違和感を与えずに済んでいるのだろう(さすがに古びてはいるけれど)。
ポアロもの、ミス・マープルものとは第一印象からしてまったく趣を違えているので、いままでどうも手を出しかねていたのだけど、ちょっと損をしていたような気がする。やっぱり、クリスティーは巧い。
江戸川乱歩『江戸川乱歩全集第27巻 続・幻影城』
光文社 / 文庫判(光文社文庫所収) / 2004年03月20日付初版 / 本体価格952円 / 2004年03月18日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]戦後、自らを筆頭とする探偵小説愛好家の渇に応えるため、原書を渉猟し空白となっていた戦争前後の海外探偵小説の状況を鳥瞰し、その後の探偵小説研究の指針となった名著『幻影城』。その好評を受けて、以降に発表した研究や作家略歴などの主たるものを纏めた続編である。
巨視的に内外の、特に戦時中情報が入ってこなかった英米の探偵小説文壇の把握と理解に努めた『幻影城』に対し、こちらは主要作家の紹介と無数に存在するトリックの分類など微視的な観点で行われた研究を綴ったものと言える。
解説などで書かれているように、今日からすると誤解も多く、大雑把な把握のみで紹介されてしまったため、後々にまで残る悪弊の種を蒔いてしまった箇所も少なくない。最たるものは、トリック・メイカーとしての側面にばかり焦点を向けてしまった「J・D・カー問答」であろう。これ以降も乱歩ら好事家には高い評価を受けてきたカーだが、本格的な再評価は松田道弘氏の「新カー問答」の登場や二階堂黎人氏ら創作面での本格的な追随者が国内に登場されるまで待たねばならなくなってしまった。
だが、だからといって、情報量が少ない当時に内外の協力者を募り無数の原書にあたって、傾向の理解と詳細な分類に努めた功績が否定されるわけではない。特に、極力具体的な作品名を出すことを伏せながら、無尽蔵に存在するトリックのバリエーションを可能な限り網羅してしまった「類別トリック集成」の価値は、発表後五十年を数えようとする現在に至っても計り知れないものがある。確かに分類としては不十分だが、その不十分さが研究家たちを刺激し、新たな書き手を鼓舞する材料になっているのだ。
本書のなかでは翻訳ミステリの不振を嘆いている著者だが、ここで紹介されたもののかなりの量が、最近数年程度のうちに翻訳紹介されており、先鞭をつけたという意味でも本書の存在意義は極めて大きいと言える。――反面、包括的に(また、如何にも乱歩らしく想像的に)探偵小説を網羅しようとした『幻影城』とくらべ、今では熟知されるに至った書き手の略歴や作品群を紹介することに紙幅を割いた本書は、今の観点からすると常識的なことばかり触れられている印象があり、歴史的な観点から眺めないと少々退屈に感じられた、と正直に記しておきたい。無論、それだから自分にとって無意味な読書だった、などとは言わない。寧ろ、ミステリの本流を見失いがちな今だからこそ、非常な刺激になった。ところで、収録された随筆のうち、いちばん印象深かったのは――「科学小説の鬼」。当時はまだ日本においてジャンルとして確立されていなかったSFの英米における情勢を、ある青年に訊ねられたことをきっかけに独自に調べた、という内容だが、追記でぽつん、と明かされる青年の正体に驚愕した。矢野徹って。
ジョン・ディクスン・カー/小倉多加志[訳]『引き潮の魔女』
John Dickson Carr “The Witch of the Low-Tide” / Translated by Takashi Ogura
1) 早川書房 / 新書判(ハヤカワ・ポケットミステリ所収) / 昭和51年10月10日付再版 / 定価590円 / 2004年03月20日読了 [bk1の商品ページを参照]
2) 早川書房 / 文庫判(ハヤカワ文庫HM所収) / [bk1で購入する/amazonで購入する]1961年に発表された、『火よ燃えろ!』『ハイチムニー荘の醜聞』に続く形で三部作を為す長篇。
二十世紀初頭のロンドンでまだ世間的に認知されて短い精神科医として活動しているデイヴィッド・ガースは、若い未亡人のベティ・コールダーと結婚するつもりでいるが、何故か数少ない友人のヴィンス・ボストウィックやその妻マリオンにきちんと紹介できずにいる。その年の初夏、突如として無数の問題が勃発した。マリオンの後見人の家政婦であったモンタギュー夫人が何者かに襲われ、更にベティの別荘近くにある波打ち際の小屋で、ベティとうり二つの女の屍体が発見されたのだ。ふたつの事件の嫌疑はベティに降りかかるが……
基本は実にオーソドックスな密室ものである。トリックも決して珍しいものではない。が、当然この作者が安易な仕掛けのみで納得するはずもなく、本編の着眼は“密室もの”の常套的な組み立てを打ち破ることにあった、と思われる。視点人物として扱われるガースは、密室を構成する状況を確認していながら、それをあまり喧伝しようとしていない。その為に、捜査陣や他の関係者とのやり取りに微妙なすれ違いが生じ、そこからドラマが醸成されている。
が、そのわりにはちと文章が荒れ気味のように感じた。或いは訳文と物語のテンポが噛み合っていないのかも知れないが、基調を為すロマンスも、恐らく会話によって浮き立たせたかったであろうファルスとしての要素も、どうも雑駁な印象ばかりが勝っていて、今ひとつ楽しめないのだ。
当初は時代設定そのものの意義も読み取れなかったのだが、その点は話が佳境に進むにしたがって明確になっていく。この設定は、著者が本編を執筆していたころにはかなり無効化されていただろう。きちんとその点に配慮しつつ、リーダビリティを保つためかあまり過剰に時代性を前面に押し出さなかったことは評価できる。いま読んで時代がかってしまうのは、どうやっても避けられないことだ。
初期の驚異的な完成度には遥か及ぶべくもないが、既に多くの作品を上梓したこの頃になお創意を損なわなかった証明として珍重したい。
山田智彦『蜘蛛の館』
角川書店 / 文庫判(角川文庫所収) / 昭和51年07月30日付初版(同52年02月20日付再版) / 定価300円 / 2004年03月22日読了 [bk1の商品ページを参照]肉親が亡くなるたびに目にしていた死の予兆を自らに見出してしまった男の心の遍歴を綴った『最後の夏』、借家の家主である老婆の奇行にまつわる小話『芍薬』、都会の森の真ん中に佇む奇妙な邸宅とそこの住人に関する物語『蜘蛛の館』、容姿も性格もまるで異なる双子が権力を巡って争うさまを描いた『遠い棲家で』、妻の実家への帰省とともに蘇る、捨てた郷里の記憶に悩まされる男の話『伊吹山頂』の全五篇を収録する。
間違いなくホラー短編集だが、わたしの読み慣れていたものとはちょっと手触りが違う。はっきりしているのは、あまり“超自然”の要素に依存していないことだろう。説明のつかない怪しげなシチュエーションは用意されているものの、起きていることは極めて現実的だ。にも拘わらず、確かに背筋を撫でるような寒気を感じさせる。
その理由は、どの作品も死の気配や、脱出不能の境地にまで追い込まれる危険を感じさせるエピソードや描写で覆われているからだろう。唯一、謎の声による死の宣告を受ける『最後の夏』にしても、起きる異常はその一事のみで、あとはただ日を数えても明確にならない、しかしひしひしと押し迫ってくる死の予感に怯えながら、それ故にまるで捉え方の変わってしまった日常を淡々と、しかし切羽詰まった筆致で描いているだけだ。だが、この決して日常から逸脱しない描き方が、却って身に迫るものを感じさせて、生々しくも恐ろしい。派手さはないが如何にも純文学畑出身らしい気品のある文章が、ときどき時制を前後して混乱するのもその切迫感を際立たせている。
どの話も明確な“落ち”はなく、唐突に終結するが、だからこそ割り切れない不思議な余韻が残る。いたずらに読者を脅かそうとするだけのものとは違う、地に足のついた恐怖小説である。それこそ角川のホラー文庫に収められていてなんら不自然のない作品集だが、『リング』だ『呪怨』だ『ブラッド』だに慣れた今の読者には地味すぎてあまり受け入れられないかも知れず。ところで本書の著者である山田智彦氏、銀行を舞台にした小説が多かった、ということぐらいしか知らなかったので、感想を書くにあたってちょっとだけ調べてみた。当初は純文学から出発、芥川賞候補にも挙げられたことがあるそうだが、『重役室25時』からもうひとつの職場である銀行を舞台とした作品に手を染め好評を博したとのこと。2001年04月17日、膵臓ガンにより逝去されている。
糸井重里[監修]『言いまつがい 教授だって社長だってアメンボだって。』
東京糸井重里事務所 / 四六判変形ソフト(ほぼ日ブックス所収) / 2004年バレンタインデー付初版(同ホワイトデー付二刷) / 本体価格1500円 / 2004年03月29日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]人気のウェブマガジン「ほぼ日刊イトイ新聞」で連載され反響を得たシリーズの単行本化。童謡「赤い靴」の女の子を連れて行ったのがいいじいさんだったり、先生に向かって思わず「お母さん!」と呼びかけてしまったりというありがちなものから、内田有紀の旦那が「北の家族」だったり先輩(男)から熱いラブジュースを送られたりというレアなものまで、日本全国から集められた「言いまつがい」の数々を、300ページを超える大部でお届けする。
人間いかに詰まらない誤解や言い間違いが多いのかがよーく解る一冊。みんな、口にした瞬間はマジらしいのが察せられるだけに余計におかしい。そういうものが300ページ強にギッシリと詰まっているから、一気に読もうとすると満腹で月賦が出ます。違う、ゲップ。
誰しも一つや二つ、いやさ十や二十は心当たりのある話で、我が身に照らし合わせてみるのも楽しい。但し、言いまつがいのほうのインパクトに押されて、誤って記憶する危険もあるので要注意だ。
なお、本書を公共の場で読むのは止めましょう、という旨の注意書きが冒頭に添えられているが、個人的には「夜のトイレ」というのも付け加えておきたい。怪しまれます。てか、客観的に不気味。内容が言い「まつがい」なだけに、装幀も「まつがい」だらけ、というか非常に独創的である。扉は雑誌でたまにある中途で折れているもの、裁断もかどが丸かったり直角でなかったり、と癖がある。いま現在評判の本なので、各地の書店では平積み、大きなところでは四面ぐらい一気に並べて積み上げてあるのだが、ちゃんとした長方形でないため敷き詰めても隙間が出来ているのが妙に愛らしい。
……但し、棚に挿す場合、確実に傾いてしまうのはどーかと思う。いろいろ考えた結果、上下逆さまに挿しておけばとりあえず背表紙はほかの本と揃えられる、と発見したものの、何もそこまで「まつがい」に固執せんでも、と思わなくもない。
篠田真由美『アベラシオン』
1) 講談社 / 四六判ハード函入 / 2004年03月10日付初版 / 本体価格3200円 / 2004年04月01日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]著者を代表する建築探偵シリーズとも関連する、畢生の大長篇。
美術史研究を学ぶためにイタリアに留学していた藍川芹だったが、今年もフィレンツェ大学への入学が認められず、聴講生に甘んじる羽目になった。そんな彼女を励ますためにと、親友のドナが導いたパーティーの席で、芹は殺人事件の現場を目の当たりにしてしまう。後日、芹のもとにある人物からの招待状が届いた。それは、ドナが憧れる美貌のエッセイストであり、芹が目撃した殺人現場に直前まで居合わせた人物――アベーレ・セラフィーノからのものだった。迷惑をかけたことへの詫びとして、アベーレが継いだ“聖天使宮”を披露してくれるという。アベーレの真意を疑いながらも、彼の言葉に翻弄されるがまま聖天使宮に逗留した芹は、アベーレ語るところの“天使”、彼の弟ジェンティーレと引き合わされる。そして芹は、アベーレが家督を継ぐアンジェローニ・デッラ・トッレ家の来歴を背景とした殺人事件に、否応なく巻き込まれていく……
著者の建築・絵画・イタリア史に対する情熱が惜しげもなく注ぎ込まれた長篇という印象である。序盤、殺人事件が発生しミステリ的な興味も盛り込まれているが、それよりは絵画の研究やアンジェローニ・デッラ・トッレ家の聖天使宮の絢爛たる佇まいを描写することにより多く筆が費やされている。アンジェローニ・デッラ・トッレ家の誕生に纏わる逸話とナチス・ドイツとの関連、また芹の恩師にも繋がる贋作事件をはじめとした、美術や建築を巡る数多の蘊蓄……時として、同時進行で殺人という陰惨な犯罪が行われていることを失念しかねないほどに様々な知識が鏤められ、それらが次第次第に殺人事件の暗部と接触していくさまは、作中二度ほど引き合いに出された、小栗虫太郎の大作『黒死館殺人事件』を思い出さずにはいられない。
本書は『黒死館』ほど熱狂的な哲学趣味に彩られているわけではない。殺人の手法のそれぞれは『黒死館』と比べれば遥かに常識的だし、トリックも凡庸だ。だが、時として人物以上に「館」を描写することに筆が割かれ、その存在そのものが事件の発端となっているような印象を齎す表現は、著者が『黒死館』を強く意識していたからに他ならないものだと思う。
時代は移ろい、『黒死館』のように無邪気で奔放な探偵小説を描くことはもはや不可能に違いない。著者はその事情をわきまえた上で、自らの作風ともすりあわせながら新たな『黒死館』の創造を試みたのではないだろうか。
冷静な眼差しで眺めれば欠点も少なくない。先ほども軽く触れたが、膨大な衒学描写に割かれた文章は、人によってはただただ鬱陶しく感じられるだけだろうし、登場人物たちが事件についてあまり検討している様子がなく、終盤になって立て続けに明かされる推理や真相が少々恣意的に見えてしまう。また特に、幾つか使われているトリックのうちひとつは、どう考えても必然性がなく、それが最後の推理の傍証ともなっているだけに余計に無理を感じてしまう。また、複雑な真相を解き明かすには終盤がやや駆け足であり、未整理な印象を残しているのも勿体ない。
が、本書の焦点はそうした小さな細工でないことは明らかだ。著者が描きたかったのはアンジェローニ・デッラ・トッレ家という架空の貴族を中心とした歴史の暗闘であり、それ自体が芸術品である聖天使宮の随所に鏤められた美術品の数々であり、現代という価値観に馴染まない“無垢”なる人々を巡る悲劇であろう。
そうした酸鼻を極める出来事に、頼りなげながらも敢然と立ち向かうヒロイン・藍川芹の姿は一種、古典的な冒険小説の趣すら漂わせている。芹は終幕近く、美しい記憶を留めたまま立ち去って欲しい、というある人物の懇願を拒み、真相を目の当たりにするためにふたたび聖天使宮へと還っていく。そうして描かれる、絢爛たる崩壊のさまは、“探偵小説”が憧れとする様式美のひとつの理想型だろう。細部に傷はあっても、その構築美は傑作の名に値する。
一晩ぐらい時間を取って一気呵成に読んでしまうのも一手だが、著者の情熱に応えるためにも、じっくりと読みたい一冊である。
スザンナ・ムーア/川副智子[訳]『イン・ザ・カット』
Susanna Moore “In The Cut” / Translated by Tomoko Kawazoe
1) 早川書房 / 文庫判(ハヤカワ文庫NV所収) / 2004年03月15日付初版 / 本体価格680円 / 2004年04月01日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]ジェーン・カンピオン監督脚色、ニコール・キッドマン製作、メグ・ライアン主演によって映画化された(2004年04月03日より日本でも公開)小説。『スペードの誘惑』の邦題で刊行されていたが、映画公開に合わせて改題・改訂が施されている。
大学講師を勤めるフラニーは、教え子のコーネリアスと共に訪れたバーの奥で、女が男のペニスを口に含んでいる現場に遭遇する。その場は逃げ出したフラニーだったが、後日、フェラチオをしていた女と特徴の似たバラバラ死体が発見され、フラニーのもとにも刑事が訪れた。初対面の時から、マロイと名乗ったその刑事の特徴的な言葉遣いと肉体に不思議な魅力を感じたフラニーは、何者かに襲われかかった夜、彼と寝る。だが、フラニーにはひとつ気にかかることがあった。マロイの手首に見えた刺青と同じものを、あの夜バーで見かけた男の手首にも見つけなかっただろうか……?
大学講師として、主に性や犯罪に関わる俗語の研究をしている女性の一人称、という設定ゆえに、語り口が特徴的だ。ただ、飛び交うスラングに、それを踏まえた言葉遊びのような会話が多く、妙なルビがあちこちに添えられ、多少なりとも英語の知識がないと解りにくい文章があちこちに見受けられる。視点人物のキャラクターを反映して、主語を省略したり実態を迂遠に表現したり、といった婉曲表現が多く、癖のある文体は馴染むまでに時間が必要だった。それ自体を「味」として受け入れられるならいいが、語り口よりもストーリーを楽しみたい、という向きには鬱陶しいだけだろう。
肝心のストーリーも無軌道のきらいがある。いちおう猟奇犯罪を素材としているものの、表現の上での主眼は俗語の蒐集と、事件と並行してフラニーを捉える情欲を、如何に独自の感性で描写するかにあり、全般に捜査そのものはお座なりにされている感がある。終盤に待ち受ける意外な結末のために幾許かは伏線も鏤められているが、そこから理詰めに辿り着けるといったものではなく、あくまで「唐突」という印象を与えないための予防線でしかない。ミステリ的な驚きや意外性を求める向きには、ただただ消化不良の気分だけを残すものだろう。
実験的な文体に新しい価値観を提唱するかのようなヒロインの造型、そして意表を衝いているという意味では確かに類を見ない結末、いずれも独自の存在感を発揮しているものの、総体としてはかなり読者を選ぶ類の小説だと思う。メグ・ライアン主演の映画原作、という程度の認識で手を出そうと思っていた方は、いったん引っ込めて考え直した方がいい。惚れ込む人は徹底的に惚れ込むほどの魅力を備えているのは間違いないが、合わない人はたぶん拒絶反応を起こすぐらいに合いません。映画鑑賞の予習として読んだのだが、なるほど、文体の韜晦ぶりとは裏腹に、プロットは非常に映画向きという印象を受けた。一時期俳優のアシスタントとして脚本の下読みをし出演を決める役割も担っていた、というだけあって、「らしい」展開が随所に見られる。
……が、それは大筋での話。読んだあととなると、あの「衝撃の結末」をどう扱っているのかが気になりだしてしまった。解説によれば、完成した映画では案の定大幅に異なった結末になっているらしいが……趣旨を歪めるほどの改変ではないことを祈りたい。著者自らが脚色に加わっているとのことゆえ、大丈夫だろうとは思いつつ。
加藤 一『「弩」怖い話 〜螺旋怪談〜』
1) 竹書房 / 文庫判(竹書房文庫所収) / 2004年04月06日付初版 / 本体価格552円 / 2004年04月02日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]好評シリーズ『「超」怖い話』の執筆者のひとりである著者が、取材した怪談にフィクションの設定で肉付けをし、小説風に執筆した最新作。
やや出版がハイペース気味であるのが気掛かりながら、今のところ安定したクオリティを保っている『「超」怖い話』の番外編的位置づけ、だが基本的な味わいに差はない。同じく実話怪談を扱う『新耳袋』と比較すると相変わらず血みどろ・ぐちゃぐちゃの彼岸の方が多く登場し、被害も甚大である場合が多い。ただ、『「超」〜』のほうの監修者である平山夢明氏が関わらなかったためか、全体に雰囲気は柔らかめで、簡素だがじっとりとした恐怖感を味わわせるエピソードが集まっている。話としては『「超」〜』よりも初心者に優しい構成、と言えようか。
特色であるフィクション的肉付けについては……正直なところ、あまり評価はしづらい。実際には体験者それぞれに直接の繋がりがないエピソードを、肉親であったり友人であったり店員と客であったり、という具合に登場人物を関連づけて、題名通りさながら螺旋階段のように地続きにしている。試みは面白い、と思うのだが、あまり成功していないと感じるのは、序盤で舞台を特定していなかったものが、中盤で寝屋川という地名が出てきたあたりから絞り込まれてしまい、物語全体の匿名性を殺してしまったことに起因するように思う。
もし最後まで舞台を特定せずに進めていたら、この連鎖する構造がそのまま読者のそばにまで繋がっているような感覚を齎すことも可能だったはず。そうすることで、登場人物も舞台も仮名で誤魔化しながらも、完全に読者に近づくことが出来なかったという実話怪談のジレンマを打破することが出来たかも知れない。たとえ出来なかったとしても、手法としての独自性を確立できたはずだ。
だが、本書はそうして関連づけながら、構成としての独自性を主張するのが不十分であったため、新機軸と呼ぶには甘く、『「超」〜』との差別化も出来ないまま、単なる番外編的な仕上がりになってしまった。勿体ない、と言うほかない。続刊があるのならば、方向性を熟慮したうえで、採用するエピソードの取捨選択を慎重に行う必要があると思う。
フィクション的な肉付け、という点に拘ることをしなければ、『「超」〜』と同じスタンス、クオリティの実話怪談を、従来とはやや違った味付けで仕上げた本として、充分に楽しめる。
カーター・ディクスン/森 英俊[訳]『殺人者と恐喝者』
Carter Dickson “Seeing Is Believing” / Translated by Hidetoshi Mori
原書房 / 四六判ハード(Vintage Mystery Series所収) / 2004年04月05日付初版 / 本体価格2000円 / 2004年04月04日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]1941年に発表された、ヘンリー・メリヴェール卿が探偵役を勤める長篇。『この眼で見たんだ』の邦題により訳出、のち『殺人者と恐喝者』と改題されて創元推理文庫に収められていたが絶版となり、長らく幻となっていたものを新たな訳文によって復活させた。
弁護士アーサー・フェインの邸宅で、催眠術の実験と称する催しが行われた。もと精神科医のリチャード・リッチ博士はアーサーの夫人ヴェッキーを催眠状態にし、アーサーを殺すように示唆する。余興に過ぎなかった一幕は、だが用意されていたゴム製のナイフがいつの間にか本物にすり替えられていたために一転惨劇と化す。フェイン邸近所にあるアダムズ大佐の自宅に逗留し、自伝を口述筆記中だったヘンリー・メリヴェール卿は、作家のフィル・コートニーを伴って事件に挑む。だがその矢先、犯人の凶手はヴィッキーにも伸びつつあった……
初期は設定・プロットともに複雑怪奇を極めたカーの作風は、中期に至って単純化し、密室なりトリックなりの大きな柱ひとつかふたつを軸に、展開するドラマで冒険風味なりファルスの要素なりを盛り込んでいく方向へと推移していった。1941年に発表された本書は既にそうした中期の作風で描かれており、事件の様相は解り易い。
しかし肝心の事件を取り巻く人間模様は実に微妙。誰も彼もが細やかな気遣いをしながら前に進むことを余儀なくされている。そのためか全編に妙な緊張感が漲っており、最後まで目が離せない。
仕掛けは決して突出したものではない……いや寧ろ、別の状況で聞かされたら呆気にとられるような性質のものばかりと言っていいかも知れない。だが、それを殆ど気にさせることなく、最終的に「そんなあほな」と思いつつも頷かせるところまで持って行ってしまう手腕がカーター・ディクスンの本領なのだ。
H・M卿の大騒ぎに中盤・終盤で発生する手に汗握る如き活劇、そしてラストではカップル成立、というカー作品ではパターン化した展開をなぞっているが、だからこそファンならば楽しめ、本格ミステリ読者ならば余計な飾りに惑わされることなく作者の仕掛けた絡繰りと真っ向切っての戦いが出来る。カー作品全体で見れば上位には絶対登らないものの、平均値の高さを示す一篇。
ごちそうさまでした。発売直前、本書はミステリ系のニュースサイトで話題に採りあげられたことがあった。版元のホームページに掲載された冒頭の訳文が……といった趣旨で、既にフライング購入済みだった私も少々不安を覚えたものだった。では、読み終わったいまとなってはどう感じているか、というと……
……やっぱし、読んでから言うべきです、そういうことは、ね。
アガサ・クリスティー/加島祥造[訳]『ひらいたトランプ』
Agathe Christie “Cards on the Table” / Translated by Shozo Kajima
早川書房 / 文庫判変形(クリスティー文庫所収) / 2003年10月15日付初版 / 本体価格720円 / 2004年04月04日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]“悪魔”を気取る紳士シャイタナ氏がエルキュール・ポアロら四人の“探偵”を招いて開催したパーティーの趣旨は、逃げおおせた殺人犯の展示。シャイタナ氏の挑発的な言葉に始まった晩餐は、だが主宰者自らが凶刃に倒れる、という(ある意味予想された)惨劇に発展する。状況から判断して、犯人はポアロ氏ら“探偵”を除いた四名のうちの誰かのはずだが、あまりに大胆な犯行は一切の手がかりを齎さない。窮した四名の“探偵”は、シャイタナ氏の主賓四名が犯した罪の詳細と今回の事件との共通性に突破口を探し求めるが――さて、我らがポアロはいったい如何にしてこの奇妙な事件を解きほぐすのか?
はっきり言って私、「ブリッジ」というカードゲームはまっったく知りません。本書を読み終えたいまでも、その全体像が把握できたとはとても言い難い。
が、そのことは読むうえで大した妨げとはならなかった。さすがに点数表や、中盤である人物が事件当夜のゲームの様子を語るくだりなどは難渋したものの、辛いのはそのくらいで、あとは平常通りのクリスティー、読みやすく展開もスピーディー。仮にまともに読んでもまっったくブリッジというゲームの仕組みが解らない人であっても、終盤に連続するどんでん返し、そして『ABC殺人事件』で確立されたクリスティー独特の心理に基づく推理が堪能できる。特にラスト100ページぐらいの展開は眩暈がするくらいに話が入り乱れ、たとえ途中で真相を見抜いていたとしても改めて翻弄されるだろう。
また解説によれば、本編はクリスティー作品に登場する探偵の共演が見られる、という一風変わった特典もある。私自身は未読だが、『茶色の服の男』に登場したレイス大佐に『七つの時計』ほかで活躍するバトル警視、そしてこれ以降登場があるのか不明ながら、クリスティー自身を思わせる女性探偵小説家オリヴァ夫人も気を吐いている。現在知られているクリスティー像とは異なり、当時クリスティーが世間に抱かれている、と認識していたイメージに従って描かれているようだが、その弾けっぷりはなかなか憎めないものがある。
恐らく、本格的にその醍醐味を味わうのであればブリッジという遊びに通暁している必要があるだろう。が、知らなくても大丈夫。本気で解ってない私が言うんだから平気。だって、未だに点数表の理屈が解らないんだもん。