books / 2004年02月22日〜

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フィリップ・K・ディック/浅倉久志・他[訳]『ペイチェック』
Philip K. Dick “Paycheck : Classic Stories” / Translated by Hisashi Asakura and Others

早川書房 / 文庫判(ハヤカワ文庫SF所収) / 2004年01月31日付初版 / 本体価格940円 / 2004年02月22日読了 [bk1で購入するamazonで購入する]

 表題作『ペイチェック』のアメリカでの映画版公開に合わせて、代表的短篇を集めた作品集。二年間の労働と記憶の代償として七つの意味不明の小物を受け取った男の物語である表題作、子育てロボットを巡る暗闘を描いた『ナニー』、旧時代に捨て去られた技術を取り戻すために過去に跳んだ男の話『ジョンの世界』、ほか全十二編を収録する。
 この本、聞くところによるとなかなか謎が多い。上記のように、映画公開とタイアップの形で全米発売された作品集、という体裁だが、こちらの1月22日付の記述によると、実際のアメリカ版とは収録作品が異なっているらしい。しかも、いったい誰がどういう基準でこのセレクションを行ったのか、まったく解らないらしいのだ。
 まだディック作品はハヤカワ文庫SF版の『パーキー・パットの日々』(このなかから本書に三編収録)を読んだのみだが、それでもセレクトとして悪くないものになっているのは解る。ディックの作家としてのキャリア全体を見渡すことの出来る構成になっているし、扱っているテーマもタイムトラベルに人工知能といったオーソドックスなSFガジェットを中心にしており、初心者にとって親切な作りとなっているのだ。それだからこそ、いよいよ誰が編んだのかが不思議に思えるのだけど……
 素材は比較的平凡だが、さすがに伝説的な作家だけあって、その処理と決着は一筋縄ではいかない。結末のサプライズで見せるタイプではないが、こうなればいいのに、とか、こうあって欲しい、という予測をことごとく裏切り、独特の乾いた余韻を残す。『たそがれの朝食』や『まだ人間じゃない』など、話としては完結していても多くの課題を置き去りにしているのだ。それを読者の胸中に放り出して、現実への疑問を植え付け無意識のうちに物語を反芻させる種を蒔く。SFではわりとよく知られた概念から独特の世界観を構築した上で、作品を閉ざしてしまわない手法はまるで古びていない。
 映画公開に便乗しての刊行であることは明白だが、死後20年を越えた今になってもまだ作品の映像化企画が続出し、なおも影響を与え続ける作家の窓口としては相応しい一冊だと思う。

(2004/02/22)


高田崇史『鬼神伝 鬼の巻』
1) 講談社 / 四六判変形ハード函入(MYSTERY LAND所収) / 2004年1月30日付初版 / 本体価格2000円 / 2004年02月23日読了 [bk1で購入するamazonで購入する]

 気鋭のミステリ作家たちが子供達と、かつて子供達だった大人達を対象に執筆するシリーズ『MYSTERY LAND』第三回配本の一冊。歴史の謎と現在の事件を絡めた『QED』シリーズでデビューした著者・高田崇史が平安時代を舞台に新境地を開いた作品である。
 天童純少年は京都の不仁王寺という仏閣で出会った源雲の術によって、平安時代にタイムスリップした。純はそこで、オロチを操る力を備える者として、平安京を害する鬼の征伐に手を貸して欲しいと頼まれる。気の進まなかった純だが、親しくなった貴族が鬼らしき者に殺された事件をきっかけに戦いの場に臨んだ。だが、やがて鬼の少女と出会った純は、思わぬ事実を知らされることとなる……
 基本的に、平安時代らしき世界を舞台にしたファンタジーだと捉えたい。個人的にしばらく前から平安時代に関する資料を読み漁っていたせいで、風俗の描き方とか会話における単語の扱い(“問題”とか“認識”とかいう言葉が当時使われていたかどうか)に首を傾げる場面が非常に多かったのだが、ファンタジーだと捉えれば問題はない。設定からしても、これはRPGなどで定着したヒロイック・ファンタジーの延長上にある物語だ。
 ……が、そう理解して読んでも、あまり満足は出来なかった。ファンタジー的要素と「タイムスリップ」というSF的要素のバランスはともかくとして、仏教と鬼神をめぐる解釈がどうもアンバランスな印象を受ける。当時(いや今もか)ここまで画然と神仏は分けられていなかった――という歴史的な現実はさておくとしても、テーマの問題から明確にされているべき神仏の境が不明瞭になっていて、敵味方の構図が曖昧なのだ。
 同時に、妙に窮屈な印象がある。その理由の最たるものは、強引に盛り込まれたような感覚しか齎さないミステリ的要素にある。『MYSTERY LAND』という器の制約からなのだろうが、ここにいきなり、まるで殺されるべくして登場した人物が殺され、唐突に謎解きが行われることで、全体にあるぎこちなさも増しているし、色々な要素を詰め込もうとした窮屈さが更に際立ってしまっている。
 純が鬼と出会ったくだりから、鬼や妖怪といったものに対する一面的な解釈に疑問を投げかける、という主題が明確になり、その意図は立派なものだと思うのだが、上記のように神仏の境が曖昧になっていたり、タイムスリップなどの複雑な概念が「何の疑問も抱かれずに」登場人物たちによって簡単に説かれてしまう事実が、論旨から説得力を損なわせている。更には、子供のためになる作品にしよう、という賢しらな思いがあるように感じられてしまい、非常な居心地の悪さを覚えた。
 クライマックスとなる戦闘場面などそれなりにワクワクするし、神や妖怪についての解釈に疑問を投げかける、という意図は(色々と妙な点はあるものの)ある程度まで成功していると思う。だが、最後まで読んだところで、けっきょくどうしてわざわざ未来から純というオロチを操る力を備えた少年を召還したのか理由が解らず、その点もまた作品の印象を悪くしている。
 どうやらこの作品は『神の巻』なる続刊があり、そこで残された謎について語る意図があるらしい。純がわざわざ未来から招かれた理由などは恐らくそちらで解き明かされるのでは、とも思うのだが……そう承知していても、納得のいかない部分が多い。
 シンプルなファンタジーをひっくり返したような構造のため、オーソドックスなRPGなどに慣れ親しんだ子供には衝撃を与えられるかも知れないし、何か残すかも知れない。が、大人を対象にしたミステリというジャンルで活躍する作家が、かつて子供だった人々をも狙って書いた作品としては、あまりに“子供騙し”に過ぎる、と思う。
 申し訳ないが、終始乗れませんでした。あとがきの暗号も解けたのですが……居心地の悪さを助長されただけでした。“遊び心”を云々するには、本来のテーマが重すぎます。

(2004/02/23)


アガサ・クリスティー/田村隆一[訳]『予告殺人』
Agathe Christie “A Murder is Announced” / Translated by Ryuichi Tamura
早川書房 / 文庫判変形(クリスティー文庫所収) / 2003年11月15日付初版 / 本体価格840円 / 2004年02月26日読了 [bk1で購入するamazonで購入する]

 アガサ・クリスティー作品を代表する名探偵ミス・マープル四番目の長篇であり、作者の五十冊目となる著書でもある、1950年の作品。
 平穏な村チッピング・クレグホーンが、その朝運ばれた新聞で大騒ぎになった。地元紙の他愛もない広告欄に掲載されていたのは、リトル・パドックスにて午後六時半に殺人が行われるという予告だった。いわゆる“殺人ごっこ”が行われるのだろう、或いはリトル・パドックスの女主人レディ・ブラックロックの従弟パトリックの悪戯だろう、と予想をつけた知人友人が夕刻にわかに駆けつけると、まさにその時刻、電気が消えるとともにひとりの男が押し入ってきた。ふたたび明かりが点いたとき、そこには耳から血を流した女主人と、倒れた見知らぬ男の姿があった――動機の定かならぬ予告犯罪の謎は、当地のホテルに滞在していたミス・マープルの食指を誘わずにはおかなかった。
 終始クリスティー“らしい”作品である。魅力的かつ異様な発端に、生々しさに満ちた登場人物たちの些か下世話な会話とそのなかに細かく盛り込まれた伏線、そしてドラマティックな解決編。
 しかし欠点もそのままあからさまに残っている。作者の主義を反映して登場人物の思想が全体に凝り固まっていること、会話が多く地の文を絞った文体は読みやすい一方で世界観を少々薄っぺらなものにしていること、そしてトリックや証拠の扱いにやや恣意的な点が見られること。事件の解決に奉仕するある条件など、当時の状況でないと実現は出来ないし、あらかじめ説明があるのがフェアというものだろう。
 が、気になるのはその程度だ。他の要素――犯人を割り出すために必要な条件は随所に鏤められている。ある場面での会話など、正解に直結しかねないものをそのまま提示しており、解決編にいたってその大胆不敵ぶりには脱帽させられる。一部不親切ではあるが、大部分は相変わらず周到な計算に基づいて描かれており、精密極まりない。
 しかし、何よりも出色なのはキャラクター造型だろう。クリスティーの描く人間は基本的に生々しく異様な存在感があるのだが、本編の登場人物たちは特に凄い。愚かしい人間は徹底的に愚かしく、鬱陶しい人物は排除したくなるくらいに鬱陶しく描いており、その容赦のなさにやもすると不快な心持ちになる場合もあった。それがエピローグですっかりひっくり返されてしまうのには苦笑を禁じ得なかったが、危ういところで読後感を清々しいものに変えているので、まあ良しとするべきか。

(2004/02/26)


島田荘司『ネジ式ザゼツキー』
1) 講談社 / 新書判(講談社ノベルス所収) / 2003年10月05日付初版 / 本体価格1150円 / 2004年02月29日読了 [bk1で購入するamazonで購入する]

 島田荘司の衝撃的なデビュー作『占星術殺人事件』での登場以来、話題作を提供し続ける御手洗潔シリーズ2003年の作品。講談社ノベルスでは実に『死体が飲んだ水』(『死者が飲む水』)以来となる書き下ろし長篇である。(初版帯の「初」という記述は間違い)
 スウェーデンの医学研究所で脳の研究に明け暮れる御手洗潔のもとに、ひとりの男が導かれた。エゴン・マーカットと名乗るその人物は現在重度アルコホル依存症更生医院に収容されている身であるが、何らかの要因によりある時期から以降の継続的な記憶が不可能な障害を負っていた。その一方で、彼はその覚束無い記憶のなかから「タンジール蜜柑共和国への帰還」と題したファンタジー風の不条理な物語を著して出版しており、また自分には帰らなければならない場所がある、と信じていた。御手洗の友人ハインリッヒは興味深い症例としてエゴンを御手洗に紹介するが、御手洗は彼との対話と一冊きりの著作の内容から、彼の帰るべき場所とともに、往年の不可解な猟奇犯罪の謎を解き明かす――
 私にとっては『アトポス』以来に触れる御手洗長篇である。そのあいだに聞く世評はあまり芳しいものではなく、不安を覚えながら読み始めたのだが、読み終えての印象はそれほど悪くない。
 初期ほどの完成度はないにしても、『水晶のピラミッド』『眩暈』『アトポス』あたりの破天荒な馬鹿力は健在という気がした。御手洗はスウェーデンの研究所において、エゴン・マーカットとの対話と彼が執筆した小説のみを題材に推理の土台を築き上げる。ある段階からはネットワークを頼り、また途中で判明するもうひとつの重要な舞台となるある国の警察などに電話で連絡を取っているが、事実上研究所における会話のみで物語は進行し、解決にまで至ってしまう。
 御手洗の推理方法は必ずしも理路整然としておらず、特に「タンジール蜜柑共和国への帰還」という小説からエゴン・マーカットの来歴に迫る箇所は直感的な閃きに頼っている部分が多く、物語を幾つかの層に解体していく箇所など、最初のうちは安易に頷きかねる点もある。が、いつのまにかそれをねじ伏せて、そこから導き出された新たな事件へとコマを進めてしまう。下手な作家がやると不自然さばかりが際立つ過程だが、却って引きずり込まれてしまうのが著者の底力なのだろう。構成にしても異様に粗いのだが、それが泥臭い迫力を作品に与えている。
 音楽、歴史、社会問題、戦争などなど、島田作品の随所に登場する要素が、本編では特に全体に亘って役立てられている。社会問題への傾斜は論旨の偏りと説教臭さに繋がりがちで、昨今の島田作品への取っつきにくさの一因ともなっていたのだが、本編ではそれらが終盤のメロドラマ的な終焉を巧妙に演出しており、狭い舞台で展開しながらその劇的な結末はなかなかの見どころである――少々甘みが強すぎるという気味はあるが、それもまた良し。
 しかし、本書のいちばん問題となる点は、内容よりもその体裁にあるかも知れない。綴じは通常の小説通り右側なのに、本文は七割方横書きなのである。つまり、右ページの上方、喉のあたりから読み始め、右下で終わったあと、今度は左ページの左上方に戻る、という不自然な読み方をしないとならない。話に引き込まれた中盤以降はさほど気にならないが、実験的な作品に馴染まない(たぶん世間に占めるほとんど多くの)読者にとって、この試みは少々鬱陶しく感じられるだろう。事実、私は直前まで本書を母の元に置いていたのだが、けっきょく読めなかったらしい。
 そこまでのリスクを冒して横書きにした必然性が感じられないのもマイナスと思った。いちおう中盤に、この書き方以外では逆に辛い箇所も存在するが、絶対に横書きでなければいけないと感じたのはそこだけ、しかも問題の箇所も“絶対に”横書きである必要はなかったと思うのだ。作中作や断章は縦書きで研究所でのやり取りは基本的に横書きなのだが、ラスト数章だけまた縦書きに戻る、という構成も不自然さを強調していただけだった。どうせこのようなスタイルを取るのなら、いっそ潔く左綴じの全編横書きにしたほうが良かったのでは無かろうか。
 構成や造本には疑問を呈したいが、作品としては久々に島田荘司という作家の底力を目の当たりにした一冊であった。『眩暈』あたりの作品に魅力を感じるという向きであれば極上の時を過ごせること請け合いでないかと思う。

 巻末に添えられたエッセイは、マンハッタン摩天楼の歴史が本格ミステリの歴史とシンクロする部分があると感じるために収録したとのことらしい。なるほど、言わんとしていることは解るが、本編はそのマンハッタンのビル建築史のどこかに重なるものではなく、全体を俯瞰するものとして描かれた作品のように映る。どこにも属さない、様々な価値観のごった煮のような。

(2004/03/01)


江戸川乱歩『江戸川乱歩全集第7巻 黄金仮面』
光文社 / 文庫判(光文社文庫所収) / 2003年09月20日付初版 / 本体価格933円 / 2004年03月03日読了 [bk1で購入するamazonで購入する]

 光文社文庫での江戸川乱歩全集、第二回配本。この頃の乱歩としては極めて珍しい純正本格探偵もの短篇『何者』、稀代の大悪党と明智小五郎との闘争を描く通俗ものの代表作『黄金仮面』、六名の作家によるリレー小説『江川蘭子』の乱歩による第一回分、翻案による復讐譚『白髪鬼』と、昭和四年から昭和七年までに発表された、バラエティに富んだ四作品を収録する。
 冒頭二編は比較的最近創元推理文庫版で読んでおり、詳しい感想はそれぞれのリンク先を参照していただきたい。ただひとつ、いずれも短期間での再読であるせいか、粗のほうばかりが目についてあまり虚心に楽しむことが出来なかったことだけは云い添えておきたい。初期短篇や『孤島の鬼』などと比べると、再読したときのインパクトは格段に薄れてしまうようだ。
『江川蘭子』はリレー小説の発端として用意されたもののため、人物像の基礎を築くだけで終わっている。あとで自ら収束させる必要がないせいか奔放な筆運びは快調で、本書に収録された作品のなかで一番のっているかも知れない。ただ、その人格形成の論拠が今日となっては少々乱暴に過ぎるきらいがあり、中盤以降の迫力に疑問を感じさせてしまうのが弱点か。あくまで乱歩全集という体裁の制約ゆえなのだろうが、出来ればこの序章のみではなく、ほかの作家による部分まで全編収録して欲しかった。
 掉尾を飾る『白髪鬼』はマリイ・コレルリの小説の翻案であり、乱歩が影響を受けたという黒岩涙香による同作品の翻案の題名をそのまま頂いている。復讐劇というテーマを最も理想的に処理した物語に、乱歩の猟奇趣味がうまく重なった、極上の娯楽長篇である。乱歩作品の例に漏れず説明が足りなかったり齟齬があちこちに認められたりという欠陥があるのだが、復讐行為の迫力がそれを凌駕するほどに凄まじい。これだけ徹底したわりにはラストがあっさりしていて、この物語の語り手が語り手となるに至る心境の変化をわずか数行で簡単に処理してしまっているのが勿体なく思えた。
 本書に収録された作品群は、乱歩の創作者としての守備範囲の広さと同時に、読み手としての幅の広さも示している。一篇一篇の仕上がりには不満があるものの、本格もの、通俗冒険もの、リレー小説の端緒としての暗黒もの、そして犯罪小説的な味わいのある復讐譚と、様々なテイストが楽しめる、贅沢な一冊である。

(2004/03/03)


高田崇史『QED 龍馬暗殺』
1) 講談社 / 新書判(講談社ノベルス所収) / 2004年1月10日付初版 / 本体価格880円 / 2004年03月08日読了 [bk1で購入するamazonで購入する]

 第九回メフィスト賞を受賞してデビューした著者の『QED』シリーズ第七作。
 薬剤師の棚旗奈々は上司命令でやむなく、高知で行われるシンポジウムに参加することになった。幕末フリークである妹・沙織が便乗して同行し、何故か坂本龍馬の史跡巡りも一緒に行う羽目になる。四国入りしたその日、現地で久々に会った後輩の全家美鳥の田舎を訪れた奈々は、そこでどういうわけか桑原崇と遭遇した。奈々と崇が揃うと常に巻き起こるのは歴史を巡る謎解きと、現在の殺人事件――例に漏れず、大雨で孤立した村を舞台に、連続殺人と龍馬暗殺の謎を巡る議論が勃発するのだった……
 ……正直に言って、これは失敗作だと思う。現代の殺人事件と、龍馬暗殺を巡る謎解きは別にするべきだった。
 確かに、謎解きやテーマの一部は呼応しあっている。が、必ずしも並行して描く必要はない代物だし、一緒くたにしてしまった弊害のほうが遥かに多い。取材を重ね多くの資料を読み漁った努力は解るのだが、どちらのテーマにしても整理が不十分であることを、同時に描いたためにかなりあからさまに露呈している。
 未整理なまま情報を羅列しているため、龍馬暗殺の謎解き単独でも構成が破綻しているのがまた問題だ。そこへ更に現代の殺人事件という余分な要素を付け足してしまっているから、余計に興味が繋がらない。メインは龍馬暗殺なのだから、論議している人々のまわりで起きている出来事などどうでもいいのに、いちいち中断されるために苛立ちばかり感じる。
 それでも、双方の解決が満足のいくもので、充分に呼応しあい、より深いカタルシスを齎してくれるものならば納得するのだが、正直それにもほど遠い。
 目玉となるべき龍馬暗殺事件の推理だが、実は本編では推理の根拠そのものに最大の破綻があるため、結論が成立していないのである。(以下、ネタバレのため伏せ字)「暗殺者たちは龍馬がピストルを持っていることを知っていたはずなのに、どうして刀で戦いを挑んだのか」(ここまで)という疑問から導き出される論理が解決に結びつく、という仕組みなのだが、ここには明らかに(伏せ字)「刀よりピストルのほうが有利」(ここまで)という“誤った”解釈がある。
 この論理、非常に素人っぽい単純な誤解だ。(伏せ字)室内にいる僅か数人の対象を殺害しようとした場合、相手が銃で武装していても大した反撃は出来ない。屋外や庭など充分な距離の取れる場所、或いは刀を振りかざすほどの広さもない部屋であれば拳銃のほうが優位だが、普通の部屋であれば刀のほうが遥かに戦いやすい。龍馬が武器を上手く扱えないことを知ったうえで押し込みをかけた、という事実が重要な鍵として用いられているが、そもそも襲撃する側が「自分が傷つかずに済む」ことを念頭に暗殺をしかける、という理屈が成り立つだろうか? 怪我をしていたという事実は、剣術にも優れ、銃器を携行していたはずの龍馬が簡単に倒された説明としては機能するが、犯人を特定するための材料としてはあまりに貧弱なのだ。(ここまで)
 龍馬の事件の推理だけでもこれだけの粗があるのに加え、現代の事件のほうは部分部分は悪くないテーマとロジックを秘めているのに、終盤までほとんど検討もされず蔑ろにされているものを最後駆け足でフォローしている印象があり、せっかくの素材がただ恣意的なものに映る。あの程度の論拠で駆け足に解決されたうえ、教訓じみたことを語られても鬱陶しく感じるだけだ。
 もっと拙いのは、この程度の論理で「QED」を標榜していること。この題名、このフォーマットさえなければ、それぞれの事件やテーマには評価するべき点が多々あるはずなのに、一緒くたにしてリズムを乱しながら、しかもそれで“了”としていることで、いずれの決着にも失敗している。
 ほかにも、キャラクターの言動が不自然かつ非常識すぎるとか、色々と欠陥を挙げられるものの、きりがないのでこの辺で止めておきたい。が、間違いなく言えるのは、語るものを龍馬暗殺の一件に絞り、情報を整理してきちんと構成を組んでおけば、決して好感の持てないキャラクターであっても気にせず謎解きに没頭することの出来る読み物になったはずだということ。そう感じたが故の苛立ちもあって、終始落ち着かない読書でした。

(2004/03/08)


ジョン・ディクスン・カー/大村美根子、深町眞理子、高見 浩[訳]『カー短編全集6/ヴァンパイアの塔』
John Dickson Carr “The Dead Sleep Lightly and other mysteryes from Radio's Golden Age and Detective's Day Off” / Translated by Mineko Ohmura, Mariko Fukamachi, Hiroshi Takami

東京創元社 / 文庫判(創元推理文庫所収) / 1998年01月30日付初版 / 本体価格640円 / 2004年03月10日読了 [bk1で購入するamazonで購入する]

 戦前から戦時中にかけて、カーがアメリカとイギリスのラジオドラマのために執筆した脚本のなかから厳選した九本に、クリスマス・ストーリー『刑事の休日』、更にオリジナル版の編纂を担当したダグラス・G・グリーンによる長文の序を添えた作品集。
 ラジオドラマであるため、基本は台詞のみ、音響効果を活用して雰囲気を盛り上げると共に、音声ならではの演出が可能な作品が多い一方で、これは多分編者の功績であろうが、文章として読んでも遜色のない仕上がりになっている。寧ろ、時として大上段に構えがちで、回りくどい描写の多いカー作品のエッセンスを抽出し、極端なまでに単純化しているので、初心者には却って親しみやすいのではなかろうか。
 フェル博士の活躍する本格推理もの、『悪魔の使徒』をはじめとする結末にサプライズを用意した作品、そして全編に横溢する怪奇趣味と、下手な長篇よりもカーらしい要素を凝縮した作品群が一冊に集まっている。シチュエーションの工夫、トリックの応用の巧みさなど美点も様々な形で際立っている反面、キャラクター造型が平板という欠点も露呈する結果となっているが、この程度はご愛敬だろう。
 加えて本書は冒頭の序文に、巻末には松田道弘氏による詳細な評論があり、カーの作品世界を垣間見るに相応しい一冊である。
 ところでこの評論、なんだか文脈が非常に挑戦的に感じられるのは気のせいでしょうか。1977年から78年にかけて発表された論文の再録だが、“火焔太鼓を大八車に乗せて運ぶ”昨今の傾向と“本格探偵小説の斜陽”を嘆き“技巧的なあまりに技巧的な”探偵小説の再生を期待する括りの論調は、まさに近年の状況を予感していたような印象があるのが興味深い――尤も、読んでいるこちらは多少苦笑いを浮かべてしまうのだけど。

(2004/03/10)


恐怖2ちゃんねるプロジェクト[編・著]『電網百物語 恐怖2ちゃんねる』
Virtual Cluater・発行、ブッキング・発売 / B6判ソフト / 2004年03月10日付初版 / 本体価格952円 / 2004年03月10日読了 [bk1で購入するamazonで購入する]

 国内最大級の巨大掲示板サイト『2ちゃんねる』の膨大な書き込みのなかから、「怖い話」に類するものだけを拾い集めたサイト『2ちゃんねるのこわい話』より、厳選された100話を収録した書籍。「電話の話」「車と道の話」など21のカテゴリに分けている。
 ほかの方法では絶対に作りようのない(怪談本に詳しい方なら解るだろうが、決してやっちゃいけない)類の本。オチがない、と断りを入れている、超常現象とも現実ともつかない話が多いのも特色だが、匿名でなければ危険すぎて普通は人に伝えることも憚りそうなネタが実に多く、この本当に外聞を憚るようなレベルにある話がとにかく怖い。
 基本的に文章は拙く、ひとつなぎで読むことなどまるで念頭にない書き方をしているので、一気に読み通すのは少々面倒だ。だが、それ故に一本一本かみしめながら読むことになり、余計に生々しさを感じさせるのである。
 ただ、本として少々微妙だと思うのは、この書き方であれば恐らく関係者であれば書き込んだのが誰か、いったいどこの話をしているのか解ってしまうのでは、という内容もそのまま記載してしまっていること。通常の怪談本では、現実の誰かに迷惑がかかりかねないものは極力、舞台や人物を特定されかねない要素を排除していくものだが、この方式では確かにそれは難しい。ならばもうちょっと問題のない内容を選別した方が良かったのでは――と思う一方で、それでは迫力が薄れていたかも、というジレンマもあるだろう。
 権利の面からも若干の問題を感じる作りなので、今後何らかの形で方向転換を迫られる可能性が低くない。故に、いまこの時期でしか賞味できない類の「恐怖」が確かに存在しており、現代の一断面を垣間見せたという点においても興味深い一冊。

 どうでもいいが、夜中にこんな本を読んでいる人の足のあいだから顔を出すのは止めてくれ、うちの猫。

(2004/03/10)


山田正紀『イノセンス After The Long Goodbye』
1) 徳間書店 / 四六判ソフト / 2004年03月31日付初版 / 本体価格1600円 / 2004年03月12日読了 [bk1で購入するamazonで購入する]

 2004年03月より東宝系で公開された、押井守監督九年振りのアニメーション長篇『イノセンス』。併せて『アニメージュ』誌上に連載された、SF・本格ミステリ作家山田正紀氏独自の観点によるノヴェライズである。映画版の内容をそのままなぞったものではなく、映画版の前身である『攻殻機動隊』と『イノセンス』とのあいだに置かれたエピソード、という位置づけで描かれている。
 副題の『After The Long Goodbye』が象徴するごとく、SFという舞台で繰り広げられるハードボイルド・ミステリである。それが証拠に、名文句のひとつも引用されているではないか。
 そもそもノベライズといいながら、『攻殻機動隊』から『イノセンス』に跨るモチーフを借用して多様なイメージを展開していった、独自の作品と呼ぶべきものである。そこに他のものを投げ込んで、更に膨らませている、その趣向が面白い。前述の、明らかにチャンドラーを意識した箇所もそうだが、序盤ではリー・モーガンの『I'm a foll to want you』がBGMとして鳴り響き、一方で各章の副題に用いられているのは、サイモン&ガーファンクルの名曲『Sound of Silence』だ。
 ストーリーはやや散漫としている。映画版からして、語り手となるバトーという“義体”の男に無軌道な一面があるので当然ではあるのだが、展開も彼の行動もかなり唐突に感じることが多い。が、それが終盤、ひとつの狙いに収束していくさまは、却って正統的なハードボイルドの文脈を思わせる。少々アンフェアな印象を受けたが、きちんとサプライズが用意されているのも、熟練の筆捌きと共にSF・ハードボイルドへの愛着のようなものを感じさせた。
 決着はするが、しかし謎はすべて解かれない。確かに一連の出来事の根源は暴かれるのだけれど、その行動理念は決して明確になっていないのが引っかかる。だが、それも実は映画を敷衍したテーマ――“イノセンス”という概念に呼応している。作中、バトーはさかんに自らが“義体(サイボーグ)”であることを強調し、数値化された反射や感情にコントロールされている人形に過ぎないことを読者に印象づけようとするが、実は同じ理屈が、終盤で消えるあの人物にも当て嵌まる。エピローグ前でのバトーの慟哭が、それを証明してはいまいか。
 映画版のような盛んな引用がなく、極度に説明を省いた映画版に対して本編は僅か数秒の出来事に実に多くの描写を積み重ねて、ミニマムを極大化して提示するというまるで別の手法を用いている。にも拘わらず、映画版の世界を崩さないどころか、更に押し広げることに成功した見事な長篇。映画版を無視して単独で読むことも可能だが、折角なので併せて楽しんだ方がいいように思う。ネタばらしは皆無なので、どちらが先でも構わないでしょう。

 ひとつ、非常に些細なことではあるけれど、気にかかったことがある。
 本書では頻繁に「イノセンス」という言葉が用いられる。当然、そういう題名の映画を敷衍して執筆されたものだからなのだが、一人称人物であるバトーの“義体”であるという現実や、作中重く扱われる犬のペットとしての本質や彼らとの触れあいについて、どうしてもそれ以外に相応しい表現が出てこない、ということもあっただろう。
 カタカナで表記されることもあれば、「無垢」とした上にルビを振った箇所も多い。ただ、ここまで頻繁に用いるのであれば、その要があった箇所では「無罪」と書いても良かったように思うのだが。

 もひとつついでに。
 本書は四六判だが、ページの上下に空白が設けられていて、文字は中央寄りに詰まっている。最初は何となく損をした気分になったのだが、文章の密度が高いので却ってバランスが保たれているようにも思えたのがちょっと不思議だ。
 ただ、これだけスペースがあったのなら、映画版で使われている背景の一部ぐらい転用してくれても良かったんじゃないかなー、と思ったり。尖塔ビルなどは、具体的な映像があっても、文字の喚起するイメージを壊すまでには至らないと思うのだが如何か。

(2004/03/12)


甲斐 透/影崎由那・原作イラスト『かりん 増血記(2)』
1) 富士見書房 / 文庫判(富士見ミステリー文庫所収) / 2004年03月15日付初版 / 本体価格540円 / 2004年03月12日読了 [bk1で購入するamazonで購入する]

『ドラゴンエイジ』誌上に連載中の漫画『かりん』のノベライズ第二巻。原作第二巻と第三巻(これの執筆時点では未刊)のあいだのエピソード、という位置づけになっている。
 今度は放火犯だ!
 ……とおちゃらけてはみたが、ミステリー部分は一巻同様付け合わせと考えた方がいい。いちおうちょっとした謎解きらしき場面はあるが、伏線は充分ではないし、やはり恣意的と言わざるを得ない。
 やはりこの作品の眼目は、原作を敷衍した果林と健太のラブコメ一歩手前といった感じの微妙なやり取りと、事件を巡って発生するサスペンスだろう。どうせなら主人公とその相手役がきっちり活躍してくれるのが理想なのに、難しいところは大半、果林の最強なご兄妹が片づけてしまっているので、あと一歩のところでいまいち力不足といった印象はあるが、その為にコメディ部分が原作よりちょっと足りない程度の密度を巧く保っており、バランス感覚はなかなか。
 関係性の発展などはあくまで原作の仕事、という一線を守りながら、ちゃんと原作ファンにも小説のみを読む人(そんな人あんまりいないと思うが)にも楽しめる作品に仕上がっている。個人的には放火犯の動機が表層的すぎて説得力が乏しく、そこだけもうちょっと練り込んで欲しかった、とは思うが、凝りすぎてそちらが主題になってしまっても本末転倒なので、このくらいがちょうどいいのでしょう。

(2004/03/13)


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