cinema / 『イントゥ・ザ・サン』

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イントゥ・ザ・サン
原題:“Into The Sun” / 監督:ミンク / 原案:スティーヴン・セガール、ジョー・ハルピン / 脚本:スティーヴン・セガール、ジョー・ハルピン、トレヴァー・ミラー / 製作:フランク・ヒルデブランド、トレイシー・ニューウェル / 製作総指揮:スティーヴン・セガール / アソシエイト・プロデューサー:ビン・ダン / 共同製作:フィル・ゴールドファイン / 撮影監督:ドン・E・ファンレロイ,A.S.C. / プロダクション・デザイナー:ピーター・ハンプトン / 編集:マイケル・デューシー / 衣裳デザイン:ティム・シャペル / 音楽:スタンリー・クラーク / エンディング・テーマ:スティーヴン・セガール『Don't You Cry』(Sony Music Entertainment) / 出演:スティーヴン・セガール、マシュー・デイヴィス、大沢たかお、エディー・ジョージ、ウィリアム・アザートン、ジュリエット・マーキス、ケン・ロウ、豊原功補、寺尾聰、伊武雅刀、ペース・ウー、栗山千明、山口佳奈子、大村波彦、本田大輔、コロッケ / デスティネーション・フィルムズ提供 / クンダリ・エンタテインメント製作 / 配給:Sony Pictures
2005年アメリカ作品 / 上映時間:1時間37分 / 日本語字幕:風間綾平
2005年11月26日日本公開
公式サイト : http://www.sonypictures.jp/movies/intothesun/
有楽町スバル座にて初見(2005/11/26)

[粗筋]
 近年多国籍化し、チャイニーズ・マフィアらが跋扈しはじめた東京。有力な都知事候補の鷹山代議士は不法滞在する外国人に対し強硬な政策を打ち出し支持を得ていたが、衆人環視のなか二人組の暴漢により銃撃、殺害されてしまう。
 テロリストの犯行である可能性を疑ったFBIはCIAに調査協力を依頼する。話を受けたブロック捜査官(ウィリアム・アザートン)はすぐさまエージェントのトラヴィス・ハンター(スティーヴン・セガール)を派遣する。ブロックの旧友であるトラヴィスは日本の下町で育ち、暗黒街についても詳しい男であった。トラヴィスはFBI捜査官ショーン(マシュー・デイヴィス)を伴い、日本へと赴く。
 異文化に戸惑いっぱなしのショーンをよそに、トラヴィスはクラブ経営者である恋人ナヤコ(山口佳奈子)や財界の大立者である松田(寺尾聰)らに接触、協力を取り付ける。いささか乱暴な彼の捜査手法に危惧を抱くブロックは女性エージェント・ジュエル(ジュリエット・マーキス)を中心とした監視班を彼に密着させ動向を見張るが、トラヴィスは意に介する風もない。ナヤコの仲介により知遇を得た彫り師の不動明王(豊原功補)からの紹介で、老舗の暴力団組織の幹部である小島(伊武雅刀)との面談を果たした頃には、敵の首魁を割り出していた。
 その男は、新興のヤクザ・黒田(大沢たかお)。任侠の名のもとに一定のルールを強いる従来のヤクザのやり方に与せず、薬物の取引で荒稼ぎして、使えなくなった部下は躊躇なく始末する荒っぽい手口によりチャイニーズ・マフィアなど外国人組織からも一目置かれている。黒田は都知事候補暗殺事件で世間が騒然としている隙を衝いて、敵対する老舗暴力団組織の幹部を次々に殺害しており、本格的に日本の暗黒街を牛耳りつつあった。
 もともと東京の下町で生活した経験があり、現地にも名の知れ渡ったトラヴィスが探っているという事実は間もなく黒田も知るところとなった。武術にも剣術にも通じたアメリカ人が好き勝手に動き回り、自分の庭を荒らしているのに苛立つ黒田は、監視中に功を焦り接近しすぎたショーンを捕らえる――

[感想]
 スティーヴン・セガールが大変な親日家であることは、ある程度の映画ファンなら先刻承知の事実だろう。それも単純な日本贔屓というレベルではなく、十年ほど日本で生活、結婚して子供も作っており(のちに離婚したが、生まれた子供ふたりは日本の芸能界で活動している)、アメリカに帰国してやや拙くはなったが依然として関西なまりの日本語を操ることが出来るという、筋金入りの人物である。それ故に、日本の好事家のあいだには前々から、彼に日本を舞台とした作品に出演して欲しい、という声が上がっていたが、その夢を現実のものとしたのが本編である。そういう意味では、日本のファンにとっては内容は二の次で必見の作品と言えよう。
 正直なところ、話の出来はお粗末だ。場面や登場人物それぞれの行動の連携がまったく取れておらず、その意図がほとんど掴めない。物語はすぐさま日本から始まるのではなく、まずタイにおける日本ヤクザの暗躍と、それを追うトラヴィスたち、という場面から始まるのだが、このシークエンスと日本に移ってからの物語の関わりが皆無なのだ。確かに、ここで登場する日本人ヤクザらしき人物はその後の回想でちらと姿を現すが直接の関係は仄めかされていないし、何より普通ならトラヴィスの捜査におけるモチベーションとなって然るべき出来事が起きるのだが、日本に舞台を移して以降、このくだりについてまったく言及していない。
 日本でのトラヴィスの捜査手順にしても、黒田の犯罪の手口にしても、理由付けが不充分だったり脈絡を欠いたりしていて、見ていて納得のいかない展開が続く。とりわけ黒田の手口はあまりに傍若無人で、いかに権力を誇示していたとしても、いずれ何者かによって排除されただろう。何せ、黒田の動向はよその組織に筒抜けに等しく、いかに刀や銃の扱いに長けていたとしても、襲われれば相手がトラヴィスたちでなくてもひとたまりもなかっただろう。
 だが、さすがに本物の日本通であるセガールが製作総指揮に加え原案・脚本まで手懸けているだけあって、ハリウッド産の作品としては異例なほど、日本の描写が自然だ。基本的なターゲットがハリウッドの観客であるため、海外の人々が日本に対してまず思い浮かべるであろう芸者やヤクザ、着物に料亭での宴席といった端的なモチーフが多数盛り込まれてはいるが、誇張されている傾向はあっても大筋でおかしな描写というのはあまりない。少なくとも、一見して即、気づくような異常はなかった。戦闘の舞台となるパチンコ店や寺院のデザインや構成がかなり変わっているが、この程度は作品に合わせた潤色として許容できるレベルだろう。
 そのアクションも、全体と比較すると決して分量は多くないが、スピーディで引き締まっており見応えは充分だ。『DENGEKI』あたりの派手な動きと豪快な攻撃で魅せるのではなく、コンパクトで効率的な動きで相手を躱し、多数の敵をあしらうといういかにも合気道の達人らしいシャープな戦い方をしており、単純な肉体派アクション・スターの出演作とは一線を画している。もともとクエンティン・タランティーノ主催のプロダクションに籍を置き、『キル・ビル Vol.1』の影響で日本を舞台にした映画を撮ることを願っていた監督というだけあって、刀を用いたアクション・シーンには情熱が感じられる。ペース・ウーの刀の扱いが日本の剣術というより西洋のフェンシング風だったりするのはまあご愛敬というところだろう。陰影を駆使し、血飛沫を舞わせながら決して視覚的に過剰な痛みを齎さぬような映像を組み立てているのにも好感を抱いた。願わくば、技のみでセガールを追い詰めるほどのライヴァルがひとり欲しかったところだが、クレイジーな悪役ぶりでその存在感を作品全体に行き渡らせ、クライマックスの決闘においても大健闘を示した大沢たかおがその穴をかなり埋めている。
 しかし、何だかんだといって本編の魅力はあのスティーヴン・セガールが自らのアイディアを盛り込んで、日本を舞台に活躍していること、それに尽きるだろう。基本的に日本人も英語を話しているが、随所でセガール自ら日本語の台詞を喋り、ときどきあまりにも日本人らしい仕種や発言をしてみせる。その通っぷりと深い愛着とが窺われる描写自体が、しばしば垣間見える誤解や誇張も含めて日本人にはひたすら楽しい。
 率直に言って、娯楽アクションとしてもC級という評価は免れないタイプの作品だが、そのぶん観客を楽しませよう、という全篇に充ち満ちる意欲に好感を抱かされる。何より、セガールの日本に対する愛着がひしひしと感じられ、日本のファンにとっては堪らない作品に仕上がっている。セガールに心酔している日本人ならば必見、別段セガールが好きでなくても、話の出来に期待しなければ楽しめるポイントに欠かない一本である。

 日本での撮影も長期間に亘った本編は、当然のように多くの日本人俳優が出演している。特に目を惹くのは、クラブのコメディアンとして日本人にはお馴染みの芸を披露しているコロッケである。果たしてあちらの観客に森進一や野口五郎の真似が理解できるのか、と思うが、あの人の場合は動き自体で笑いを取っている部分が多く、恐らくそうした個性を買われての抜擢となったのだろう。
 設定的な必然性もあって、セガールの恋人役もまた日本人が演じている。彼女、山口佳奈子は当のスティーヴン・セガールによって見出されて大抜擢、本編によって銀幕デビューを飾った、とのことなのだが……正直、かなり微妙である。演技自体がこなれていないのはまだいいとしても、画面にいたときの存在感も乏しい。何より、声が不自然なのだ。
 恐らく、主立った台詞は大半がアフレコで補強されているのだと思われるが、彼女の場合、画面に見える口の動きと声の印象がまるでそぐわない。画面上では口を小さく、もそもそと動かしているだけなのに、聴こえてくる言葉は異様に明瞭だ。あれほど単語がはっきりと聞き取れるように発音するためにはもっと口を大きく開けなければならないのに、である。
 もっと言ってしまえば、どうも顔の骨格と声があまり合っていない、という印象をも受ける。――個人的には、収録された本人の台詞があまりにひどいので、声だけ別の人物に吹き替えさせたのでは、と勘繰っているのだが、さすがにそれは穿ちすぎかも知れない。
 いずれにしても、声にしても動きにしても違和感ばかり齎す彼女の存在は、作品にとって概ね悪い方向にしか働いていない、と感じた。どうせなら、栗山千明にこの役を振れば良かったのに、とさえ思う――何せ栗山のほうは、日本の宣伝では大きく名前を打たれているのに、登場しているのは全篇通してほんの数分程度に過ぎないのだから。どんなに凡庸な役回りであったとしても、栗山のほうがよほど印象的に演じられたと思うのだけど。

(2005/11/26)


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