cinema / 『ジャーヘッド』

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ジャーヘッド
原題:“Jarhead” / 原作:アンソニー・スオフォード『ジャーヘッド/アメリカ海兵隊員の告白』(ASPECT・刊) / 監督:サム・メンデス / 脚本:ウィリアム・ブロイルズJr. / 製作総指揮:サム・マーサー、ボビー・コーエン / 製作:ダグラス・ウイック、ルーシー・フィッシャー / 撮影監督:ロジャー・ディーキンス,A.S.C.,B.S.C. / プロダクション・デザイナー:デニス・ガスナー / 編集:ウォルター・マーチ,A.C.E. / 衣装:アルバート・ウォルスキー / 音楽スーパーヴァイザー:ランドール・ポスター / 音楽:トーマス・ニューマン / 出演:ジェイク・ギレンホール、ピーター・サースガード、ジェイミー・フォックス、クリス・クーパー、ルーカス・ブラック、ブライアン・ゲラティー、エヴァン・ジョーンズ、ラズ・アロンソ / 配給:UIP Japan
2005年アメリカ作品 / 上映時間:2時間3分 / 日本語字幕:菊地浩司 / R-15
2006年02月11日日本公開
公式サイト : http://www.jarhead.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2006/02/18)

[粗筋]
 ジャーヘッド――高く刈りあげて、お湯を入れる“ジャー”の形に似た海兵隊員特有の髪型を指して言い、海兵隊員そのものを示す言葉になった。うすのろ、愚か者、大酒飲みの意味もある。
 1988年、当時18歳の僕、アンソニー・スオフォード(ジェイク・ギレンホール)は、「大学に行く途中で道に迷って」海兵隊に志願した。時代錯誤のしごきを受けてすぐさま後悔したものの、既に家に戻る気のなかった僕は訓練に耐える道を選ぶ。
 間もなく僕はサイクス三等曹長(ジェイミー・フォックス)に見出される格好で、狙撃兵に組み入れられた。軍人が天職のようなサイクス三等曹長はやはり僕たちを苛烈にしごいたけれど、無数の弾幕ではなく、一発一発で着実に敵を仕留めることを目的とした狙撃兵の訓練に僕は魅せられた。
 1990年夏、イラクがクウェートに侵攻したことで、遂に待ち望んでいた戦端が開かれた。数日後、サウジ王国の国境付近に配備された僕たちに、カジンスキー中佐(クリス・クーパー)が告げた作戦名は“砂漠の盾”。対政府の交渉が終了し、正式な命令が出るまで攻撃することは出来ない。
 戦端は開かれたが、始まったのは戦闘ではなく、長い長い待機だった。砂漠での戦闘に慣れるため、という口実のもと繰り返される厳しい演習。防護マスクなど対毒ガス用の装備をつけたままフットボールをやらされる、なんてひと幕もあった。
 長い待機のあいだ、世界は僕たちを置いて時計の針を進めている。同じ狙撃兵のひとりには待望の子供が生まれ、僕の彼女には「話を聞いてくれる」ボーイフレンドが出来た。砂漠の退屈な日常に慣れ飽き、僕は禁制の酒に手を出した挙句にトラブルを起こし、糞尿の始末をひとりでやらされるなんてひと幕もあった。
 半年近い駐留のあいだに軍勢も次第に増員され、60万人近くに達したころ――遂に、戦闘が始まった。けれど、それは決して僕が想像していたようなものではなく、やがて僕は別の意味で打ちのめされることになる……

[感想]
 戦争映画というと、派手な爆撃や銃撃戦、凄惨たる戦闘後の光景をまず想像する人がほとんどだろう。だが、果たして戦争とはそんなに(実際の目的はさておき)華々しいものだろうか? まったく別の見方があるのではないか?
 数年前にそうした観点から作られた『キプールの記憶』という映画をイスラエルの映画監督が存在するが、本編はそれをアメリカ・ハリウッドにて、背景を湾岸戦争に変えて作られたもの、という印象である。実際は本編は作中の主人公と同姓同名のもと海兵隊員が、自身の体験を綴ったベストセラーをもとに作られた作品であり、そんな換骨奪胎が行われたわけではないはずだが。
 いずれにせよ、『キプールの記憶』と並べると、その映画に対する姿勢と感覚の違いがよく解る。一切の説明を廃し、淡々と状況を並べていって、主人公の目線とは隔たったところで繰り広げられる激戦を想像させる『キプールの記憶』に対し、本編はモノローグを多用して、戦場に赴くことを望む主人公の意識と、ひたすら思惑通りにならない現実とを対比させ、別の意味で“想像を絶する”戦場の過酷さと、同時にどうしようもない滑稽さとを抉り取っていくものだ。寡黙な『キプールの記憶』に対し、台詞的にも内容的にも饒舌なのが本編と言えよう。
 最初、そういう戦争映画としての特異性を本編は打ち出していない。寧ろ定番である、新兵に対する理不尽なしごきから物語を切り出し、旧態依然とした内情を描き、映画で戦意を昂揚させるくだりさえ盛り込んであり、正統的な戦争映画の赴きさえある。
 だが、いざ湾岸戦争の端緒が開かれ、主人公たちが任地に派遣されたあたりから、次第に雲行きはおかしくなっていく。砂漠のうえでひたすら繰り返される訓練。訪れるマスコミに対して応えるべきことも制約され、故郷では自分たちを置いたまま様々な変化が生じている。彼らは戦闘以前に砂漠の灼熱地獄と退屈な“戦地の日常”によって心を傷つけられていくのだ。『キプールの記憶』との最も大きな違いは、衛生兵の役割とはいえ戦場に赴き砲火に晒されているあちらの主人公たちに対して、本編のスオフォードたちは戦うことさえ出来ずにいることだ。政府から役割を振られ、武器を預けられているにも拘わらず、である。この扱いは一種、能力を称揚されながら仕事を与えられない窓際族のようなものであり、その苦痛は想像を絶する。
 いざ本格的に戦闘が始まっても、彼らには出来ることがあまりない。実戦経験のないスオフォードたちは“本番”に動揺し、通信機の扱いや空爆の迫力に困惑しているうちに前線は後退していく。斥候であるスオフォードたちの部隊は砂漠を歩いて進攻するが、そこにあるのは交戦の痕跡だけで、彼らに出来ることはただ見届け、監視することでしかない。既に数年の訓練に耐え、実地の演習もこなし、狙撃のエキスパートに成長していたにも拘わらず、その技能を発揮する舞台を与えてもらえない。クライマックスにおいて、ある登場人物が「一発ぐらい撃たせてくれ!」と懇願する姿に思わず同情してしまうというのは、通常の戦争映画ではあり得ないことだ。
 そうして、そのまま戦争は終結し、主人公たちは帰国することになる。英雄扱いされることを単純に喜ぶ者もいるが、貢献したという意識も得られなかった主人公たちの胸中は察するにあまりある。そして戻ったはずの日常は決してかつてと同じではなく、寧ろ戦場で覚えた“無為に時を過ごす”という感覚を蘇らせるだけのものだろう。まさに彼らはまだ、砂漠に居続けるも同然なのである。
 先にも書いたが、通常戦争映画に観客が求めるのは爆撃の迫力であり、銃撃戦のスペクタクルであろう。だが、現実の戦争にそんなカタルシスは存在しない。かつてでさえそうであっただろうが、技術が進歩し戦略の過程が短縮化された現代にあっては尚更に、最前線の人間さえ置き去りにして粛々と進められる。そういう、想像すれば解りそうな現実を、時としてユーモラスに、だがそれ故に痛烈に描き出した本編は、確かにこれまでにない――何度も名前を挙げた『キプールの記憶』とも異なる、新しい類の戦争映画である。観終わったとき、衝撃ではなく、抜け殻にされてしまったような感覚を齎すというのもまた凄い。

(2006/02/19)


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