/ 『隠し剣 鬼の爪』
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『light as a feather』トップページに戻る隠し剣 鬼の爪
原作:藤沢周平『隠し剣 鬼の爪』『雪明かり』 / 監督:山田洋次 / 脚本:山田洋次、朝間義隆 / 製作代表:大谷信義、間部耕苹、岡 素之、佐藤 孝、大野隆樹、石川富康 / 製作総指揮:迫本淳一 / 製作:久松猛朗 / プロデューサー:深澤 宏、山本一郎 / 撮影:長沼六男(J.S.C.) / 美術:出川三男 / 美術監修:西岡善信 / 照明:中岡源権 / 編集:石井 厳 / 録音:岸田和美 / 衣裳:黒澤和子 / ポスターデザイン:原田泰治 / 音楽:富田 勲 / 出演:永瀬正敏、松たか子、吉岡秀隆、小澤征悦、田畑智子、倍賞千恵子、田中邦衛、綾田俊樹、神戸 浩、光本幸子、高島礼子、田中 泯、小林稔侍、緒形 拳 / 配給:松竹
2004年日本作品 / 上映時間:2時間11分
2004年10月30日公開
2005年04月28日DVD発売 [amazon:特別版|通常版]
公式サイト : http://www.kakushiken.jp/
丸の内プラゼール2にて初見(2004/12/17)[粗筋]
日本海を望む小藩・海坂藩に籍を置く下級藩士・片桐宗蔵(永瀬正敏)の家はかつて百石を戴く裕福な武家であったが、勘定方の不始末の責任を取って父が切腹、俸禄も三十石に格下げとなり、屋敷を追われ町外れの小さな家に移り倹しく暮らしていた。とは言え、母・吟(倍賞千恵子)がまだ健在であり、妹・志乃(田畑智子)が宗蔵の親友である島田左門(吉岡秀隆)のもとへ、吟が手塩にかけて育て上げた気だてのいい女中・きえ(松たか子)が町の商家・伊勢屋に嫁ぐまでは、貧しいながらも明るい毎日を過ごしていたのだ。だが、宗蔵のほかには老いた女中と中間の直太(神戸 浩)のみになった片桐家は、傍目にも灯りが消えたようであった。
同じ戸田寛斎(田中 泯)の門下として、競争相手ながら親しかった狭間弥市郎(小澤征悦)が江戸に旅立つのを見送って三年後のこと。宗蔵が小間物屋で久々に出逢ったきえは、かつての活気が嘘のように青白くやせ衰えていた。宗蔵の心遣いに過剰に感動を示し、「いま、幸せか」という問いに涙をぽろぽろと流すさまに、宗蔵は嫁ぎ先での不遇を察しながらも身動きならず、雪のなか走り去る姿をただ見送るほかなかった。
折しも世情は大いなる転換期にあり、諸外国から新たな兵法や武器が海を越えて流入し、市井にもきな臭い気配が立ちこめている。地方の小藩である海坂藩といえどもその流れを無視することは出来ず、講武所に勤める宗蔵は江戸から呼び寄せた講師から学んで西洋式砲術を指導せねばならない立場にあったが、きえとの再会以来、彼女の様子が気になって仕方なかった。
吟の三回忌の席で、先に披露した西洋式砲術の無様さを口うるさい叔父らに叱られたあと、憂さ晴らしに左門と剣の稽古をしていると、傍らで子守をしていた志乃の口からきえの名前が出た。きえは嫁ぎ先で朝となく夜となくこき使われ、過労のために流産してしまった直後にも働かされた挙句、年末年始と二ヶ月にわたって床に伏せったまま、医療費を惜しむ家人のために医者にも診せて貰えぬままなのだという。実父の見舞いさえも拒まれているという話に宗蔵は憤り、すぐさまきえの嫁した伊勢屋へと赴いた。
うちに嫁いだ者をどのように扱おうと自分たちの勝手だ、と言い張る伊勢屋のおかみ(光本幸子)を押しのけ、納屋のような暗く冷たい一室に寝かされたきえを見つけると、宗蔵は彼女を背負い、「離縁状を用意しておけ」という捨て科白を残して家へと連れ帰った。一部始終見届けた左門は、それが宗蔵の優しさ故の行いだと察しながらも憂慮を色濃くする。町中を、嫁いだ女を背負って家に連れこんだ侍――悪い噂にならぬはずがなかった。
とは言えそれは世間の話。やがて郷里から見舞いに訪れた妹・ぶんも交えてきえが働き始めると、片桐家はにわかに賑わいを取り戻した。些細な冗談に屈託なく笑うきえの様子に、宗蔵も心を和ませるのだった。
そんなある日、左門が不穏な話を携えて宗蔵のもとに現れる。海坂藩の江戸屋敷で謀反の企みが発覚、加わった者が一様に切腹されるなか、うちのひとりは切腹さえ許されず“郷入り”という侍にとって最も恥ずべき処罰をくだされ、丸籠に閉じこめられて連行されている最中なのだという。その罪人の名は――狭間弥市郎。
やがて宗蔵は家老・堀 将監(緒形 拳)に呼び出され、尋問を受ける。戸田門下で一二を争った間柄であり、技倆では狭間が宗蔵より一段上手であったと言われていたが、戸田流の秘伝である隠し剣“鬼の爪”を寛斎が託したのは何故か宗蔵であり、そうした経緯から気心の知れた友人でありながら因縁のある宗蔵に堀らは目をつけたのだ。堀と大目付の甲田(小林稔侍)は戸田の門下生の名簿を突きつけ、狭間と親しかった者がこの中にいないか、と詰問するが、宗蔵は「仲間を売るなど武士のすることではない」とはねつける――[感想]
『たそがれ清兵衛』はまさしく渾身の力作だった。時代劇初挑戦となる山田洋次監督は時代考証や方言の扱いなど、長い期間を費やし念に念を入れた下調べを経て、徹底的なリアリズムと映像美、不自然さのない殺陣と演技とを盛り込み、これぞ本物の日本映画と言える名作に仕立て上げた。
本編はその『たそがれ清兵衛』の主要スタッフが再結集、同じ藤沢周平作品から同名短篇と『雪明かり』とを選択、ミックスして脚色したものである。同じ藤沢作品、同じ架空の国・海坂藩を舞台にしてはいるが、登場人物や具体的な舞台に重なるところはなく、基本的に別の作品と捉えるべきだろう。だが、これだけ繋がっている部分があれば続編と看做し、また比較してしまうのも人情である。まして『たそがれ清兵衛』は日本の映画賞を文字通り総ナメにし、アカデミー賞の外国語映画賞部門の候補作にまでなった傑作だ。期待するなというほうが無理だろう。
ただ、そうして比較してみた場合、やはり製作期間が短縮されたが故と思われる練り込みの甘さがどうしても目につく。時代性の表現が全般に前作よりも乏しく、たとえば『たそがれ清兵衛』で日常的に屍体が川を流れているくだりなど、印象的な表現が少なくなった。また主人公・片桐宗蔵の浪々の身分、少ない碌故に身なりを整えることもままならず月代が伸び放題であるという容姿、人情に厚く刀を抜いたこともほとんどないが、その技倆と因縁のために藩命として人を斬ることを強要されるといったアウトラインがほぼ『たそがれ清兵衛』と同一であるのも、続編という体裁を取っていないからこそ気に掛かる。
だが、作品としての完成度は極めて高い。この時代に生きた若者たちの様々な側面――ある者は没落寸前の家の当主として細々と命脈を繋ぎながら侍としての矜持と優しさとを守り、ある者は遥かに盛んな身分にありながらもそんな彼と家族とを思いやっている。またある者は文武に秀で己に多大なる自信を持ちながらも度重なる挫折から鬱屈を抱えており、またある者はそんな彼に心からの忠誠を誓い己が身を犠牲にすることも厭わず、またある者は身分の低さ故の哀しみを嘆きながらも前向きに生きようとしている、そういった様々な姿を見事に活写している。
プロットの構成も実に巧みだ。宗蔵ときえのあいだにある絆に、秘剣・鬼の爪を巡る因縁に端を発する果たし合いの顛末という2本の軸をうまく絡めて、作品の味わいを豊穣なものにしている。ベースとなるのは題名にもなっている“鬼の爪”という秘剣を巡る因縁と密かな確執であり、“鬼の爪”という謎そのものだ。宗蔵は堀家老がその名を口にしたときから、何故自分に伝承したのかその真意は解らないといい、また途中には「普通の剣技とは違う」と謎めいた言質を残す。だが、その秘技の存在が狭間と宗蔵とのあいだに痼りを残し、また宗蔵が狭間討伐に担ぎ出されるきっかけともなり、更には宗蔵が最後に持ち出す秘策としても活きてくる。多くの因縁を齎した“鬼の爪”であるが、戸田寛斎が何故それを最も腕の立つ弟子である狭間に伝えずどちらかというと昼行灯の印象がある宗蔵に伝えたのか、ということさえ終幕に覗かせるこの組み立ては見事と言うほかない。『たそがれ清兵衛』のようにすっきりとした決着ではないのだが、確かなカタルシスを齎すようにうまく筋を運んでいる。
そして、考えようによっては救いのない悲劇である“鬼の爪”を巡る出来事に、きえの存在が潤いと限りない救いを齎している。宗蔵は武士であり、きえは農民出の女中、つまり基本は主従関係でしかない。しかしこのふたりの交流は、主従という枠に嵌めながらも互いの思いやりを感じさせて、ひたすら暖かいのだ。
それが最も如実に描かれるのは、きえが片桐家に戻ってからの出来事である。宗蔵の母の法事に顔を見せられなかったことへの詫びから思い出話となり、きえは吟から礼儀作法のほかにもやまとうたも教わったと言う。興味を抱いた宗蔵が「主君の命だぞ」と笑いながら謡うように命じると、きえは恥ずかしがりながらも歌を口ずさむ。妹に呼ばれてその場を離れてからも、宗蔵の耳に届くようにしずしずと歌い続ける――なんとも胸の温かくなる一幕ではないか。
そうしたひとつひとつの行動が伏線となって、物語は作品世界の向こう側へと拡がるような結末を迎える。清兵衛という武士の時代の最後を生きた男の生涯を総括するような結末であった『たそがれ清兵衛』に対し、先行きは不透明だがしかし暖かくほのかな希望を湛えたラストシーンにはまた別の、しかしやはり美しい余韻を留める。『たそがれ清兵衛』の良さを継承しながら、しかし異なった境地を目指した本編は、間違いなく上質の日本映画である。ところでこの作品、優れた時代劇であると同時に、昨今珍しい正しいかたちの“主人”と“メイド”の恋愛物語でもある、と不意に気づいた。ほのかに想いを寄せ合いながらも互いの主従関係を尊重し、その枠のなかで触れあえる幸せを噛みしめる姿は、この様式の真骨頂と言っていい。また恥じらいながらも嬉しそうに宗蔵の廻りを立ち回るきえの姿の愛らしいことといったら、もう。松たか子の演技も素晴らしかったが、きえという人物の魅力はあの立ち位置だからこそ発揮されたものと言えるだろう。メイドさん萌えを自認する愚か者には是非とも観て、その魅力を実感していただきたい。服装ばかりに気を取られては駄目です。
(2004/12/18・2005/04/27追記)