cinema / 『キング・アーサー』

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キング・アーサー
原題:“King Arthur” / 監督:アントワン・フークワ / 脚本:デイヴィッド・フランゾーニ / 製作:ジェリー・ブラッカイマー / 製作総指揮:マイク・ステンソン、チャド・オーマン、ネッド・ダウド / 撮影:スラヴォミール・イジャック / プロダクション・デザイン:ダン・ウェイル / 編集:コンラッド・パフ / 衣装:ペニー・ローズ / 音楽:ハンス・ジマー / 出演:クライヴ・オーウェン、キーラ・ナイトレイ、ヨアン・グリフィズ、スティーヴン・ディレイン、ステラン・スカルスゲールド、レイ・ウィンストン、ティル・シュヴァイガー、ヒュー・ダンシー、ジョエル・エドガートン、マッツ・ミケルセン、レイ・スティーヴンソン / 配給:ブエナ ビスタ インターナショナル(ジャパン)
2004年作品 / 上映時間:2時間6分 / 日本版字幕:戸田奈津子 / 字幕監修:高宮利行
2004年07月24日日本公開
公式サイト : http://www.movies.co.jp/kingarthur/
丸の内プラゼールにて初見(2004/07/24)

[粗筋]
 四世紀頃、ローマ帝国との戦いに敗れたサルマート人の、僅かに生き残った優秀な騎士たちは、生存の代償としてローマ帝国に仕えることを義務づけられた。それは西暦400年、彼らの子孫たちにも15年の兵役という形で課せられた。のちに“円卓の騎士”のひとりとして名を馳せるランスロット(ヨアン・グリフィズ)も、またそのひとりだった。
 退役を明日に控えたランスロットたちが最後の仕事として赴いたのは、彼らの任地ハドリアヌスの城壁に使者として訪れる司教の護衛。ローマ帝国に対する反逆者の部隊ウォードの襲撃から辛くも守り抜き、ハドリアヌスの城壁に導いた司教が彼らに齎したのは、退役許可証と引き替えの“最後の任務”だった。
 強大な権勢を誇ったローマ帝国もかつての勢いはなく、アーサー(クライヴ・オーウェン)指揮のもと守り抜いたブリテンの地を放棄することとなった。ついては、現地に赴任していたローマ人貴族マリウスとその家族を保護し城壁まで連れ戻すことをアーサーたちに命じる。ローマ帝国の撤退を既に察知した北部のサクソン人が迫りつつあり、ウォードも目を光らせる領域での警護は決して容易な任務ではなかった。だが、彼らの望みであった自由を信頼する騎士たちに与えるために、アーサーはその任務を受け入れる。騎士たちも、ローマ帝国のためではなく、彼らが唯一忠誠を捧げるアーサーのために出陣した。
 道中、案の定アーサーたちはウォードの襲撃を受ける。だがウォードはアーサーたちを追いつめながら、直接攻撃に出ることなく撤退する。そこにはウォードの指揮者であり、“魔術師”の異名を取るマーリン(スティーヴン・ディレイン)の思惑が秘められていた。
 マリウスの館に到達したアーサーたちは、衝撃的な光景を目の当たりにする。マリウスはローマ帝国の権勢を笠に着て、赴任地の村民たちを農奴としてこきつかい、あまつさえ捉えたウォードの人々を異端者として牢に閉じこめ、拷問を加えていたのだ。既にサクソン人が迫りつつあるなか、村人たちをその場に放置していくわけにはいかない。アーサーは危険を承知ですべての村人と、監禁されていた“異端者”のうち生存していたブリテンの女性グウィネヴィア(キーラ・ナイトレイ)と幼い少年とを引き連れ、城壁を目指す。
 途中、野営のさなかにふと目醒めたアーサーは、グウィネヴィアに誘われるかたちでマーリンと遭遇する。マーリンは新しい秩序を求めるべき時だと言い、アーサーにこの地に残ってウォードらを指揮してほしい、と要請する。もともとウォードらと同じブリトン人の血を引くアーサーだったが、そのブリトン人の母をウォードに殺され、仲間たちをも多く犠牲に払ったアーサーは固辞するが、既にローマには彼の理想が存在しないことを悟りつつあったアーサーは逡巡する……
 やがてアーサーたち一行は氷原に辿り着いた。いまにも崩れ落ちそうな氷の上を歩いていた一行は、迫り来るサクソン人の太鼓の音を聞く。アーサーたちは貴族の生き残りと村人たちとを先に城壁へと向かわせ、“円卓の騎士たち”と共に足止めを画策する――

[感想]
 長年語り継がれてきた“伝説”の映像化であり、かなりの予算を費やした大作となると、つい先日日本でも公開された『トロイ』と比べずにはいられない。だが、並べてみると正直、全般に見劣りする。
 原因のひとつは、アーサー王にしても“円卓の騎士”にしても敵対するウォードやサクソン人にしても、そのバックボーンや対立の構図がほとんど説明されていないことにある。英米の人々にとっては(アフリカ系アメリカ人であるアントワン・フークワ監督が幼少の頃から知悉していた、と語っているように)親しまれているアーサー王伝説であっても、日本人にとっては決して馴染み深いものではない。それ故に、作中ほとんど説明らしきものがなされないのに苛立ちを感じた。
 翻って、プログラムに記された伝説の断片を眺めた限りでも、アーサー王伝説に親しんだ人にとっても本編は戸惑いを禁じ得ない箇所が多いように思う。円卓の騎士の数がまるで違い、伝説上は親子とされているランスロットとガラハッドが同時期に騎士としてアーサーに仕え、途中語られるエクスカリバーを手にした経緯もかなり現実的なものになっている。何より、騎士たちの運命もかなり伝説と異なっている。英雄譚としての壮大さや人物同士の愛憎劇を期待するとかなり落胆を覚えるのではなかろうか。
 もっと大きいのは、登場するキャラクター個々の活躍や見せ場があまり際立っておらず、大半が没個性的に描かれてしまっていることだ。役者はそれぞれに巧いので存在感は出ているのだが、敵も味方もそれぞれの個性を活かした戦闘があったわけではなく、主人公であるアーサーを別にすれば唯一、騎士であるボースが気を吐いていたぐらいで、ほとんど印象に残らない。
 但し、製作に携わったのが大半アメリカ人であったお陰か、単純な英雄礼賛とせず、一連の出来事をかなり客観的に描いていることは評価できる。また、演出のスピード感、戦闘シーンの迫力については、なまじ整理されていた『トロイ』よりもある意味では迫力に満ちていると言えよう。混乱した戦場を激しいカメラワークで追っているためにやや人物を追いにくいという欠点はあるが、それが却って戦場の生々しさを代弁している。
 伝説の神々しさよりも迫力と生々しさを重視し、全体を描くことでカタルシスを齎そうとした作品である――そう考えても充分成功しているとは言い難いが、娯楽作品としては充分楽しめるレベルにはある。

(2004/07/24)


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