cinema / 『アワーミュージック』

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アワーミュージック
原題:“Notre Musique” / 監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール / 製作:アラン・サルド、ルート・ヴァルトブルゲール / 撮影監督:ジュリアン・ハーシュ / 録音:フランソワ・ミュジー、ピエール・アンドレ、ガブリエル・ハフナー / 美術:アンヌ=マリー・ミエヴィル / 出演:ナード・デュー、サラ・アドラー、ロニー・クラメール、ジャン=クリストフ・ブヴェ、ジャン=リュック・ゴダール、サイモン・エイン、マフムード・ダーウィッシュ、フアン・ゴイティソーロ、ピエール・ベルグニウ、ジャン=ポール・キュルニエ、ジル・ペクー、エルマ・ドザニック、ジョルジュ・アギラ、フェルラン・ブラス、ルティツィア・グティエレス / 配給:Prenom H
2004年フランス・スイス合作 / 上映時間:1時間20分 / 日本語字幕:寺尾次郎 / 字幕監修:山田宏一 / 字幕協力:中条省平
2005年10月15日日本公開
公式サイト : http://www.godard.jp/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2005/10/15)

[粗筋]
 ひとつめの“王国”は地獄と名付けられた。果てしなく繰り広げられる戦争を写した映像のコラージュに、女性の声が重なる。我らが罪を許したまえ、我らが敵を許したように、そう、ただ許したまえ――
 ふたつめの“王国”は煉獄と名付けられた。戦争と内紛の歴史に彩られたサラエヴォの街に、映画監督ジャン=リュック・ゴダールが降り立った日から映像は綴られる。イベント『本の出会い』で、学生を相手取った講演の依頼を受けたゴダールは、通訳のガルシア(ロニー・クラメール)、イスラエル人の女性ジャーナリストのジュディット・レルネル(サラ・アドラー)、作家フアン・ゴイティソーロ(本人)、リベラシオン誌の記者C.マイヤール(ジャン=クリストフ・ブヴェ)らとともにホテルへと赴く。砲弾のあとを随所に留めた街並を眺めながら彼らは語り合い、レルネルは涙さえ流す。
 レルネルはサラエヴォのフランス大使館を訪れ、大使(サイモン・エイン)と面会し、立場を捨て自由な人間として集会への参加を求める。レルネルの必死の要請に対して、しかし大使は熟考を盾に即答を避けるのだった。
 破壊の限りを尽くされたサラエヴォ図書館で。関心と無関心のあいだを彷徨う学生達の前で。作家が、詩人が、映画監督が、それぞれの言葉で戦争と平和の歴史を綴る。その先に、映画でのジャンヌ・ダルクの台詞を重ねて眺める女子学生オルガ・ブロスキー(ナード・デュー)の姿がある――

[感想]
 ジャン=リュック・ゴダールの映画をまともに観るのはこれが初めてである。実際にはオムニバス『10ミニッツ・オールダー』の一本である『時間の闇の中で』で邂逅を果たしているが、短篇であるうえにあまりに抽象的であるため、特例として評価を避けていたのだが――長篇でもその映画的な抽象性は変わっていなかった。寧ろよりいっそう研ぎ澄まされている感がある。
 まず粗筋を書くのに苦しめられた。本編に具体的な筋というものはない。サラエヴォという街の歴史を背景に、イベントに招かれた作家フアン・ゴイティソーロやピエール・ベルグニウ、詩人のマフムード・ダーウィッシュ、そしてジャン=リュック・ゴダール監督自身が、それぞれに許された知識と語彙とでサラエヴォの歴史に言及し、自らの表現手法と戦争観とを語り、その合間合間にサラエヴォの平穏で活気に溢れた街の情景を挟み込んでいくかたちでコラージュにしていく。最終的に作品の通底音として女子学生オルガの存在がクローズアップされていくが、“筋”というには心許ない。
 映像というスタイルのみで表現できるものを病的なまでに加速させていった作品と映り、それだけに厄介な代物だ。多くのペダントリーが用意されているが、すべてを一瞬で読み取れる人は極めて稀だろう。一切の説明がされないまま表現だけが積み重ねられ、解釈のすべては観客に委ねられている。そのために“楽しむ”映画というより“対決する”映画という感覚に陥り、観ているあいだの消耗は並大抵ではない。気力を大変に要する代物だが、しかしその分だけ、真剣に観たあとには不思議な充足感と、幾つもの場面の鮮烈な印象が胸の裡に響きわたる。
 戦争の映像を繋ぎあわせた第一章“地獄”はその不穏なBGMと相俟って異様な手触りがあるが、しかし観終わって記憶に残っているのは寧ろ第二章の、たとえば破壊の痕跡著しい図書館での行動原理が不明瞭なシークエンスであり、或いは学生達の反応とゴダールの淡々とした態度のバランスが異様な講演風景であり、そして川辺に忽然と“インディアン”たちが現れるひと幕など、衝撃とは無縁な場面の数々である。無縁とはいいながら、作品全体の構図の中でこうした場面の備える“異質”さは絶妙であり、そこに仄めかされる意図と相俟って、あとあと鮮烈な印象を伴って胸中に甦ってくる。
 基本的にこれは、答えを出そうとする作品なのではないのだろう。ひたすら問いと表現とを積み重ね、その反復をサラエヴォという、暗い過去というフィルターで眺められがちな、けれど実際には民衆たちの活気が漲る街を舞台に行うことで、過去と現在、未来までもを肯定的に捉えなおす契機を齎そうとしている、と取り敢えず私は考えた。だが、決してゴダールがこの作品のなかで描こうとしている内容はそれだけではなく、また何かひとつに絞りきれるものでもない。
 あまりに表現しているものが抽象的に過ぎ、観ることにかなりの気力を要するため、迂闊にお薦めすることは出来ないが、商業主義から一線を画し表現であることを徹底させると映画はこういうところにまで行き着く、ということを知るためにいちど観るのも一興だろう。私としても、せめてシナリオの採録と解説を充実させたプログラムを読みこんだうえでもういちど鑑賞して再検証してみたいところだが――本当に気力の消耗が著しいので、方向性が把握できたというだけで勘弁してもらって、大人しく次作を待ちたい。挑み甲斐のある監督だというのはよく解った。

(2005/10/15)


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