cinema / 『クイーン』

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クイーン
原題:“The Queen” / 監督:スティーヴン・フリアーズ / 脚本:ピーター・モーガン / 製作:アンディ・ハリース、クリスティーン・ランガン、トレイシー・シーウォード / 製作総指揮:フランソワ・イヴェルネル、キャメロン・マクラッケン、スコット・ルーディン / 撮影監督:アフォンソ・ビアト,A.S.C.,A.B.C. / メイクアップ&ヘア・デザイン:ダニエル・フィリップス / プロダクション・デザイナー:アラン・マクドナルド / 編集:ルチア・ズケッティ / 衣装デザイン:コンソラータ・ボイル / キャスティング・ディレクター:レオ・デイヴィス / 音楽:アレクサンドル・デプラ / 出演:ヘレン・ミレン、マイケル・シーン、ジェイムズ・クロムウェル、シルヴィア・シムズ、アレックス・ジェニングス、ヘレン・マックロリー、ロジャー・アラム、ティム・マクマラン、ローレンス・バーグ、ミシェル・ゲイ / 配給:avex entertainment
2006年イギリス・フランス・イタリア合作 / 上映時間:1時間44分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2007年04月14日日本公開
公式サイト : http://queen-movie.jp/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2007/04/14)

[粗筋]
 1997年5月、イギリスの総選挙は前評判通り、久々の労働党革新派首相トニー・ブレア(マイケル・シーン)の誕生で決着した。側近にはファースト・ネームで呼ばせ、格式張ったやり取りを好まない彼だが、イギリス宰相の最終的な任命権はいまでも専制君主として君臨する女王・エリザベスII世(ヘレン・ミレン)にある。システムと作法に戸惑いながらも15分の短い謁見を済ませ、こうして晴れてブレアは首相となった。
 事件はその年の夏、まだ国会が開催されず、ブレアが側近と共に就任演説の草稿を準備しているころに起きた。パリを訪問中だったダイアナ元皇太子妃(ローレンス・バーグ)が、パパラッチを躱すために逃走している途中で事故を起こし、同乗していたドディ・アルファイド氏(ミシェル・ゲイ)は即死、彼女も間もなく息を引き取ったのである。
 ブレアはさっそく、スコットランドの私有地バルモラル城に家族と共に滞在中だった女王に連絡を取り、王室としての対応を確認するが、女王に王室として公式で声明を出す意志はない、と告げる。ダイアナはその前の年にチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)と離婚し、私人となっている。国葬にすべきでは、という意見に対しても、女王はダイアナ元妃の実家であるスペンサー家の内輪での葬送をしたい、という意志を尊重する意向を示した。
 その対応がまるで、生前さんざ王家のに弄ばれたダイアナ元妃に更に鞭打つもののように感じられたブレアは憤り、政府として出す声明のなかで、報道担当官の意見を受け入れてダイアナを“人民のプリンセス”と表現する。この表現は国民が抱く悲劇感情を打ち、就任間もないブレア首相の人気は急上昇の兆候を見せる。
 一方、バルモラル城ではまずチャールズ皇太子が動きを見せた。王室のチャーター機で単身パリに飛び、息子たちの母親であるダイアナ元妃の遺体をイギリス国内へと連れ帰る。その際、出迎えたブレア首相に、チャールズ皇太子は自分が母とは逆に国葬で送るべきだ、という意向を示した。
 ダイアナ元妃の死から2日、バッキンガム宮殿では彼女の葬儀の取り扱いについて会議が催され、協議の結果、やはり国民の感情は無視できないとして、国葬で送ることを決定する。方法は、唯一リハーサルが済んでいることを理由に、皇太后(シルヴィア・シムズ)が自らの葬儀のために準備していた草案を原型として催されることになった。女王の認識と大いに隔たりのある方向へと流れていく事態に、女王の苦悩は深まっていく……

[感想]
 この作品は題名通り、基本的にエリザベスII世女王を中心として展開する。ダイアナ元妃の死から数日の彼女の行動に焦点を当て、内心ではその不幸――特に、彼女を母とするふたりの孫の胸中を慮って嘆きながら、自らの信じる慎みを守り沈黙を保っていたはずなのだが、それが国民感情と対立していることを知って次第に新たな悲しみを深めていく、その入り組んだ苦悩を、やはり慎みのあるタッチで描いている。
 だが、人によってはトニー・ブレア首相が当初、王室の格式張ったしきたりに反発を抱きながら、少しずつその伝統を単身守り抜こうとし続けた女王に敬意を覚えるようになり、最終的にはその立場を守る意向を強めていく、その過程を描いていることに注目するかも知れない。また別の人なら、女王にも首相にも偏って注目することなく、専制君主制の下で議会制政治を行う、その特異な過程を成立させる制度の実景を描いていることにこそ関心を抱いて観るかも知れない。
 他にも捉えようはあるだろう。純然たるドラマに徹しながら、そうして様々な見方が考えられるのは、本編がこれまでになくイギリス王室に踏み込んでその実情を描写しながらも、一定の距離を保ち、決して女王らの心に深く立ち入ろうとしていないからだ。
 女王がダイアナ元妃の死を嘆いていたこと自体は随所から伝わってくる。こと、夫のエディンバラ公が電話で女王の妹マーガレットの口にしたダイアナ元妃への皮肉を、「孫たちには言わないで」と叱りつける場面は、その複雑な胸中を巧みに仄めかす。ダイアナ元妃への弔意を示さなかった理由が、イギリスの国民性と伝統とを慮ったからであることは最終的によく理解できるのだけれど、女王はもとより周囲でさえそれを明確に語ることはなく、決着はどこか曖昧で、ダイアナの死とは別種の悲劇に彩られる。どこか旗幟の不透明な女王よりも、意識の流れが明瞭なブレア首相や、映画では稀なイギリス王室に深く潜りこんだ内容であることにより注目を強める人があっても不思議はない。
 だがそれでも、観ている側はかなり確実に、エリザベスII世女王の人間性に魅せられていくはずだ。もともと革新派であったはずのブレア首相が終盤激昂と共に吐き捨てる台詞にあったように、女王は必ずしも望んで与えられた仕事ではない専制君主という役割を存分に果たしてきた。守るべきものが何であるのかを充分に認識して貫いてきた立場が、いま初めて齟齬を来している――ダイアナ妃にまつわる悲劇だけではなく、自らの信じてきたものが瓦解する状況に直面した聡明な女王の悲しみを巧みに描き、意外なほど人間的な感情を伝えてくる。
 本編の結末は必ずしも強いカタルシスを齎すものではない。感じるとしても、それはどちらかと言えば虚しさであり、心の底を低く流れていくような悲しみだ。だが、およそ一般人からは遠い存在として捉えられてきた現実の王室の、生身の感情をきっちりと描いた(と思わせる)作品は滅多になく、同時にどの立場にも過剰に寄りかかることなく、節度を保って抽出していったバランス感覚は秀逸であり、まさに女王がこれこそイギリス国民のあるべき姿、と信じたイギリスの精神に富んでいる。そんな女王の気品と人間性とを完璧に演じたヘレン・ミレンの評価の高さ――この作品でアカデミー主演女優賞に輝いている――は当然としても、脚本もまた多くの賞を得ているのは頷けることだ。奇しくもヘレン・ミレンと同年にアカデミー主演男優賞に輝いたフォレスト・ウィテカーの『ラストキング・オブ・スコットランド』も手懸けており、その解釈や作品の方向性の違いもまた興味深い点である。本編でその作劇的な完成度の高さに惹かれた方は、是非とも『ラストキング〜』も鑑賞のうえ、比較していただきたいところだ。
 いずれにせよ、観る者の立場や主義主張によって本編は受け止め方は異なるし、結末に対して抱く印象も大幅に異なるだろう。そうなるように、意図して仕向けた本編は、だが受け手がどう感じるかに関わらず優れたドラマであることだけは疑いようもない。

(2007/04/14)


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