cinema / 『ラストキング・オブ・スコットランド』

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ラストキング・オブ・スコットランド
原題:“The Last King of Scotland” / 原作:ジャイルズ・フォーデン『スコットランドの黒い王』(新潮社・刊) / 監督:ケヴィン・マクドナルド / 脚本:ピーター・モーガン、ジェレミー・ブロック / 製作:アンドレア・カルダーウッド、リサ・ブライアー、チャールズ・スティール / 製作総指揮:テッサ・ロス、アンドリュー・マクドナルド / 撮影監督:アンソニー・ドッド・マントル,D.F.F.,B.S.C. / 美術:マイケル・カーリン / 編集:ジャスティン・ライト / ライン・プロデューサー:アンドリュー・ウッド / 音楽:アレックス・ヘッフェス / 出演:フォレスト・ウィテカー、ジェームズ・マカヴォイ、ケリー・ワシントン、サイモン・マクバーニー、ジリアン・アンダーソン、ステファン・ルワンギェジ、デヴィッド・オイェロウォ、アダム・コッツ / カウボーイ・フィルムズ&ストレート・フィルムズ製作 / 配給:20世紀フォックス
2006年アメリカ作品 / 上映時間:2時間5分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2007年03月10日日本公開
公式サイト : http://movies.foxjapan.com/lastking/
有楽町スバル座にて初見(2007/03/31)

[粗筋]
 努力の末、晴れて医師免許を獲得したニコラス・ギャリガン(ジェームズ・マカヴォイ)は、だが尊大な父の影響下にあることをよしとせず、外の世界に出ることを選んだ。彼が赴いたのは、アフリカ中東部に位置する国、ウガンダ。
 時に1971年、折しもウガンダは、財政の私物化が著しかった初代首相ミルトン・オボテの政権が倒され、イディ・アミン将軍(フォレスト・ウィテカー)を大統領とする軍事政権が樹立されていた。新しい時代が始まる、という期待で国全体に昂揚感が充ち満ちており、ニコラスは刺激的な毎日を予測して興奮を覚える。
 彼が赴任したのはムガンボ村という小さな集落の診療所であった。デヴィッド・メリット医師(アダム・コッツ)とたったふたり、医療よりも呪い師を頼る風潮の色濃い村での医療行為は、ドラマチックどころか平板で、ニコラスの想像していたものとは程遠かった。メリット医師の妻サラ(ジリアン・アンダーソン)からは「この仕事に向いていない」と指摘される始末。冒険を求める心理が働いたのか、そんな彼女と一線を踏み越えそうにもなってしまう。
 そんなある日、アミン大統領がムガンボ村で演説会を催した。好奇心からサラと共に参加したニコラスは、その人懐っこさと驚異的なアジテーションに一瞬で魅せられる。ニコラスの運命が大きく変貌したのはその帰り道である。ニコラスの運転する車を突如、大統領側近の兵士たちが追いかけてきて、大統領が怪我をしたため急遽治療が必要であることを告げる。ニコラスが赴くと、大統領自身は軽傷のようだが、周辺を取り囲む兵士たちの物々しさ、事故の原因となったらしい牛の瀕死の鳴き声によって苛立たされたニコラスは、あろうことか大統領の銃を使って牛の息の根を止めた。一時一触即発状態に陥る現場であったが、大統領がニコラスをスコットランド出身と知ると、かねてから「ウガンダで育っていたのでなければ、スコットランド人になりたかった」と語っていた彼はニコラスに打ち解け、一気に場は和む。
 数日後、ニコラスのもとを大統領の腹心である厚生大臣ワッサワ(ステファン・ルワルギェジ)が訪れ、大統領が招いていると伝えて首都カンパラまで案内した。現れた大統領が告げたのは、「自分の主治医を務めて欲しい」という要求である。ムガンボ村での契約が残っているために当初は難色を示したニコラスだったが、当日招待されたパーティーの豪華さとそのために仕立ててもらったスーツ、そして何より、同僚の妻と危険な関係に陥りかけていることを自分でも恐れていた彼は、最終的にその申し出を受け入れる。
 こうして、ニコラスはカンパラでの新しい暮らしを始める。基本的には健康体である大統領を常に診ている必要はないので、そのあいだ首都に設けられた大病院に勤務することになり、そこに前任者ジュンジュ医師(デヴィッド・オイェロウォ)がいたために若干の居心地の悪さは感じたが、大統領がニコラスを主治医としてのみではなく、様々な場面で自分を重用するので、悪い気はしない。
 だが、そんな浮かれた日々は長くは続かなかった。暗躍するオボテ派によるテロ活動と、決して思惑通りに進まない改革とが、アミン大統領を善良な人物から、次第に暴君へと変貌させていったことを、しかしニコラスが悟るのは、かなりあとになってからのことだった……

[感想]
 本編は、映画ファンのあいだでは以前から評価の高かった黒人俳優フォレスト・ウィテカーにアカデミー主演男優賞を齎したことで話題になった1本である。つとに演技力の高さで知られている俳優であるが、本編について特に話題になったのは、演じているのが“アフリカで最も血にまみれた独裁者”とまで言われる、いわゆる悪役であった点だ。
 これが意外として捉えられるほど、ウィテカーと言えば善人のイメージが色濃い。近年で言えばジョディ・フォスター主演のスリラー『パニック・ルーム』で演じた、強盗に入りながら主人公の安全を気づかう男、コリン・ファレル主演のサスペンス『フォーン・ブース』で演じた、電話ボックスに閉じこもる男を懸命に説得し犠牲を最小限に抑えようとする刑事、いずれも観ているうちに思わず肩入れしたくなってしまうほどの善良ぶりを見事に表現している。更には、自身は出演していないが監督として手懸けた『ホワイト・プリンセス』自体が大人としての厳しさと優しさとが相俟って余韻は快い。そんな彼が有名な独裁者を演じているのだから、意外と捉えられるのも仕方のないところである。
 だが、丹念なリサーチの結果として作りだされた本編のイディ・アミン大統領は、決してステレオタイプの悪人として描かれていない。本編における初登場時点でいくつもダーティな部分を匂わせ、危険な雰囲気を醸し出してはいるが、その発言は理想に満ちあふれ、また屈託のない人柄には確かに人を惹きつける力強さがある。序盤の演技は、ウィテカーがお家芸としてきた善良な人物の延長上にあるのだ。
 しかし、それが政策の不振と疑心暗鬼によって、急速に歪んでいく。上記の粗筋の直後あたりから剣呑な事件が発生し、じわじわとアミンの変貌が如実となっていくが、この善良な好漢から危険な独裁者に至る描写の変化が実に巧みだ。そして、いざ暴君となったアミンの迫力の凄まじさである。特徴的な膨らみと暖かさのある声が、ここに至っては強烈な恫喝の道具として用いられる。その巨躯で感情的な言葉を投げつけられれば、観ている側でさえたじろいでしまおうというものだ。
 たた、本編がそうしてアミン大統領の実像を描き出すのに成功しているのは、何もフォレスト・ウィテカーのみの功績ではない。まず重要なのは、製作者は史実に乗っ取りながらも本編をフィクションとして構築し、その軸としてスコットランド人の青年を視点人物に設定していることだ。
 この人物は実在しないが、アミン大統領を語る歴史のなかに登場する幾つかの人物を融合したかたちで想像されているという。それ故に、作中随所に織りこまれる史実とのバランス感覚が絶妙に保たれている点も巧いが、特に架空の人物としての肉付けが、実に嵌っているのである。
 アミンの側近になるニコラスという青年は、父親への恐らくは反抗心から医師を志したが、しかしそのあとに明確な意志があったあったわけではなく、「何かが出来るのでは」という漠然とした想いからウガンダに赴任する。だが、あまりにも何もなく、決して裕福とは言い難い暮らしぶりに早いうちに倦んでいく。だからこそ、様々な言い訳を無言のうちにつけながら、彼はアミン大統領のもとでの裕福で、やり甲斐があると感じられる仕事に没頭していくわけだ。
 本質的に未熟な若者である彼を視点人物とすることで、同様に“大きな子供”でしかないアミンの魅力と、それ故の恐ろしさが生々しく、伝わりやすく表現されている。また、あまりに御都合主義的に視点人物である彼がアミン大統領にすぐさま受け入れられていく理由も、憧れの地であったスコットランドの出身であること、そして根っこのところの幼稚さに共鳴した点などによって正当化されており、不自然さがない。
 そうして現実をフィクションとして再構築する一方、どこかドキュメンタリー風のタッチで描かれる物語は、ニコラスがアミン大統領の本性を悟るに及ぶと、社会派としての重厚感を備えたまま、急速にサスペンスへと傾斜していく。ニコラスの更に軽率な行動によって齎される危機と、逃げ場を失っていく著しい恐怖。そして、現実にも発生したハイジャック事件をモチーフにして展開する圧巻のクライマックス。緻密なリサーチと現実の出来事をうまく援用したプロットながら、終盤は驚異的なスピード感で繰り広げられる。並の娯楽大作などより遥かに力強く、手に汗握る仕上がりになっているのだ。
 アミン大統領を題材にしていると聞いて最初に想像したほど、問題提起に徹した作品でもない代わりに、しかし大統領の実像を抽出する作業をいっさい疎かにしていない。独裁者というものの魅力と恐ろしさとを等しく描き出し、同時にエンタテインメントとしての文法を逸脱することなく仕立てた、重厚感に富んだ1本である。如何せん、観ていて爽快であるとか心地好いとかいった感興を得られないのも確かだが、しかし映画として見応えは間違いなく感じられる作品だ。

 以下、余談。
 どんな時代の流れなのか、近年アフリカを舞台にした作品が増えているような印象を受けている。咄嗟に思い浮かぶのが、内戦によって地獄図絵と化した国内で、命を狙われた部族を匿って結果的に千人を超える人命を救ったホテル支配人の物語『ホテル・ルワンダ』、同じ事件を更に惨たらしく描いた『ルワンダの涙』、そしてヴィクトリア湖に放流されたナイルパーチが結果的に齎した、世界的な悪夢の連鎖を描くドキュメンタリー『ダーウィンの悪夢』などだ。
 ふと気づけば、実はこれらの作品、アフリカとひとくちに言っても、かなり近い位置関係にあるのである。特に、ウガンダの首都として主な舞台となるカンパラは、『ダーウィンの悪夢』で主な取材地となっているタンザニアの都市ムワンザと、ヴィクトリア湖を挟んでほぼ反対の位置関係にある。そして、ヴィクトリア湖にナイルパーチが繁殖していったと思われる年代が、まさにアミン大統領が在位していた1970年代なのである。
 ……まあ、それほど当時からアフリカ情勢が混沌としていた、というだけかも知れないが、それらがここ数年、一気呵成に注目を集めつつあるのは、果たしてどんな兆候なのか。明るい兆しであると、願うばかりである。

(2007/04/01)


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