cinema / 『フォーン・ブース』

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フォーン・ブース
原題:“Phone Booth” / 監督:ジョエル・シューマカー / 脚本:ラリー・コーエン / 製作:デイヴィッド・ザッカー、ギル・ネッター / 製作総指揮:テッド・カーディラ / 撮影:マシュー・リバティック / プロダクション・デザイン:アンドリュー・ローズ / 編集:マーク・スティーヴンス / 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムス / 出演:コリン・ファレル、フォレスト・ウィテカー、ケイティ・ホームズ、ラダ・ミッチェル、キーファー・サザーランド / 配給:20世紀フォックス
2003年アメリカ作品 / 上映時間:1時間21分 / 日本語字幕:松浦美奈
2003年11月22日日本公開
2004年04月02日DVD版日本発売 [amazon]
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/phonebooth/
日比谷スカラ座1にて初見(2003/11/22)

[粗筋]
「面白いよな。電話が鳴った。相手は解らない。なのに受話器を取ってしまう。どうしてだろうな?」
 受話器の向こうの声(キーファー・サザーランド)はいきなりそう言った。
 毎朝、タイムズスクエアの裏通りにある電話ボックスに立ち寄って女優のパム(ケイティ・ホームズ)に連絡を取るのが日課になっていた自称パブリシストのステュ・シェパード(コリン・ファレル)だったが、その日は様子が違っていた。電話を終えてボックスを出ようとしたところへ、何故かピザの宅配人が現れて、支払い済みのピザをステュに渡そうとする。追い払った矢先に、今度は電話ボックスの電話が鳴り響き、ステュは咄嗟に受話器を取ってしまった。
 声はステュに「電話ボックスから出るな」と命令した。ステュが嘘を積み重ねてクライアントを騙し仕事を成立させていること、パムには妻がいないと偽り、大きな仕事の話を持ちかけるふりをして接近していること――不気味なまでにステュの内実を知悉した声の主は、冷静極まりない口調で言った。「ボックスから出たら、殺す」その言葉を裏付けるように、ボックスのそばまで歩いてきたロボットの玩具が、突如音もなく吹き飛んだ。
 従わざるを得なくなった。電話の主はステュに、妻のケリー(ラダ・ミッチェル)に向かって真実を告白しろ、と要求した。相手はパムの番号も、ケリーの店の所在も把握している。やむなく携帯電話からケリーの店に繋いだステュだったが、簡単に告白することは出来なかった。ステュがこれまでの暮らしを喪うことを恐れていると察している敵は、そんなステュを嘲笑う。
 やがて、新たなトラブルがステュを襲った。普段、問題の電話ボックスを連絡のために使っていた娼婦たちがステュの長電話に苛立ち、近隣の用心棒を連れてステュを追い出しに来たのだ。ステュは金でカタをつけようとしたが、火に油を注ぐ結果となり、用心棒はバットを持ち出して電話ボックスのガラスを叩き割りステュを引きずり出そうとする。「助けが欲しいか?」電話の声が訊ねる。「聞こえてるのか、ステュ」イエス、と応えた次の瞬間、用心棒は背中を押さえて、道路の端にくずおれた。用心棒に取りすがった娼婦たちは泣き叫びながらステュを指さした。「あいつが撃ったのよ! 誰か、警察を呼んで――」
 レイミー警部(フォレスト・ウィテカー)を筆頭とした警察が、銃を向けながら集まる。周辺のビルディングには狙撃犯が待機している。電話ボックスを中心に、一帯はにわかに緊迫した……

[感想]
 たぶんハリウッドの若手俳優でいま実力・人気ともに最も注目されている俳優がコリン・ファレルだろう。昨年ぐらいまでは『マイノリティ・リポート』の犯罪予防局の監査に入る役人や『デアデビル』のアクの強い敵役など、物語を強固にするペーソスに使われる傾向があったが、さきごろ日本で公開されたアクション『S.W.A.T.』(アメリカでの公開は本編のほうが数ヶ月早い)、CIAでアル・パチーノに指導を受ける新人を演じる『リクルート』(ブエナビスタ・配給、2004年01月10日日本公開予定)といった具合に、本編を境に主役級での登板が増えている。評価の高まりが今年のブレイクに繋がった、と見るべきだが、その過渡期に本編のようなコリン・ファレルの真価を見せつける作品が来たのは、ある種運命的と言えるかも知れない。
 物語は決して遡行せず常に時系列をなぞり、舞台の大半はタイムズスクエアの裏通りにある電話ボックスとその周囲、せいぜい半径二十メートル程度。基本的にステュと“声”の会話だけで進行する。声の主が構えるライフルの照準が齎す恐怖感のなか、声の命令によりステュは脅迫されていることを廻りに告げることも出来ない。衆人環視のなか一歩も身動きできないという緊張感がそのまま本編の醍醐味となっている。
 窮地から脱出するために策を弄する、といった趣向は乏しい。ステュは一挙手一投足を監視された状態で出来る範囲の抵抗を試みるが、殆どは脅迫者の掌の上で踊らされているだけだ。また、細かいやり取りのなかでも、あとで専門家の調査が入れば確実にバレる嘘が多く認められることや、結末についても釈然としない思いを抱く人も少なくないだろう。
 それもこれも、本編があくまでほぼリアルタイムの緊張を観客に体感させるために作られたものだという証左である。知識があれば偽りやはったりだと解る発言も、あの状況下ではステュと犯人、そして観客にしか知りようがない。舞台を電話ボックスの周辺に絞り込むことで、極限まで緊張感を高めながら、そのさなかに観客を巻き込む。
 プログラムで脚本家は本編をローラーコースターに喩えているが、その通りだろう。ローラーコースターに乗るときに動機や必然性を求める人はいまい。恐怖や興奮を体感するために乗るわけで、大回転も垂直降下もあくまでその演出に過ぎない。ただただ、圧倒的な臨場感で演出されたサスペンスを楽しむための作品。実は非常に考え抜かれた脚本も、画面分割などを多用したスタイリッシュな演出も、コリン・ファレルの真に迫った演技も、そのために費やされている。
 ――同時に、アメリカの文化に対する皮肉が随所に見受けられることも指摘しておきたい。特に終盤、ステュが助手のアダムに向かって「君は善人すぎる。宣伝マンには向かない」と言っているあたりは、前半のステュの言動と後半の変心とを考え合わせると、実に痛烈な一言に思えるのだ。

 コリン・ファレルへの一極集中が凄まじすぎるため、他の出演者が大半付け合わせのようになっているのもある意味本編の特徴である。若手アイドル女優ケイティ・ホームズなんか完全にただ「出ているだけ」の状態で、ステュに無給でこき使われる若者と同じ程度の印象しか残さない。
 ただひとり、コリン・ファレルに匹敵する活躍をしているのが――他でもない、声だけの脅迫者を演じたキーファー・サザーランドである。一応終盤でちょっとだけ顔を出すが、ほぼ全編声だけという制約のなかで見事な演技を披露しており、考えようによってはいちばん美味しいところを攫っていると言える。警察の指揮官レイミーを演じたフォレスト・ウィテカーもやや気張っているが、サザーランドの比ではない。

(2003/11/22・2004/04/01追記)


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