cinema / 『ロボッツ』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


ロボッツ
原題:“Robots” / 監督:クリス・ウェッジ / 共同監督:カルロス・サルダーニャ / 原案・脚本:デヴィッド・リンゼイ=アベアー / 脚本:ローウェル・ガンツ、ババルー・マンデル / 製作総指揮:クリストファー・メレダンドリー / 製作:ジェリー・デイヴィス、ジョン・C・ドンキン / 製作・美術:ウィリアム・ジョイス / 編集監修:ジョン・カーナカン / 音楽:ジョン・パウエル / アート・ディレクター:スティーヴ・マルティーノ / チーフ・テクノロジー・オフィサー:カール・ラドウィク / 声の出演:ユアン・マクレガー、ハル・ベリー、ロビン・ウィリアムズ、グレッグ・キニア、メル・ブルックス、ドリュー・ケリー、ジム・ブロードベント、アマンダ・バインズ、ジェニファー・クーリッジ、ハーランド・ウィリアムズ、スタンリー・トゥッチ、ダイアン・ウィースト、ポール・ジアマッティ、ジェームズ・アール・ジョーンズ / 20世紀フォックス映画アニメーション提供 / ブルー・スカイ・スタジオ製作 / 配給:20世紀フォックス
2005年アメリカ作品 / 上映時間:1時間30分 / 日本語字幕:石田泰子
2005年07月30日日本公開
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/robots/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/07/30)

[粗筋]
 田舎の小さな町リベットタウンで皿洗いの仕事をするコッパーボトム夫妻は遂に子宝を得た。祖父や祖母の遺したパーツも流用して作りあげた我が子の名前はロドニー(ユアン・マクレガー)――貧しさのあまり、成長に必要なパーツも親戚のお下がりばかりという境遇にもめげることのなかった彼の夢は、優れた発明家になること。大都会ロボット・シティで、貧しい人々にも門戸を開いて広くアイディアを募り、成功の機械を与えていた大企業ビッグウェルド・インダストリーズのカリスマ的な社主ビッグウェルド博士(メル・ブルックス)の魅力にテレビで触れて以来、いつかロボット・シティに出て、彼のもとに優れた発明を届けることを望んでいた。
 長じてロドニーは、老いた父・ハーブ(スタンリー・トゥッチ)の手助けになればと提供した発明品がもとで起きたトラブルを契機に、いつまでもここにいては埒があかないと判断、単身ロボット・シティに乗り込むことを決意する。母(ダイアン・ウィースト)は反対するが、父はそんな息子にエールを送る。かつては音楽家志望だったけれど、暮らしのために皿洗いに必要な改造を施した彼の後悔は、夢を追うのを諦めてしまったことだった。両親に見送られて、ロドニーは旅立った。
 そして、ロドニーはロボット・シティに降り立つ。眼前に拡がる大都会の想像を絶する様相に圧倒されながらどうにかビッグウェルド・インダストリーズの門の前に辿りついたロドニーだが、社はいつの間にか方針を転換し、外部に対して門戸を閉ざしていた。テレビではマスコット的な存在だった門番ティム(ポール・ジアマッティ)もやけに意地が悪い。諦めきれないロドニーはティーポット型のロボットの機能を活用、空から社長室へのアプローチを試みる。
 その頃、社内でも騒動が持ち上がっていた。利益優先の方針により業績を上げる一方、経営の実権を握ってビッグウェルド博士を引退にまで追い込んだラチェット(グレッグ・キニア)が強硬的な持論を展開、大衆相手のスペア・パーツの製造販売を中止し、大規模なアップグレードを推奨する経営方針への転換を打ち出したのだ。キャピィー(ハル・ベリー)はじめ新たな経営者の方針に反感を抱くものも少なくなかったが、表立って異を唱えられない。そこへ空中から闖入したロドニーもあっさりと追い出されてしまった。
 電磁石式のマシンで放り出されたロドニーは大騒動の挙句、ジャンク街へと放り出される。そこで彼が出会ったのは、いつもどこかの部品を欠けさせては困っているフェンダー(ロビン・ウィリアムズ)をリーダーとする中古部品製ロボットのグループ・ラスティーズである。彼らが世話になっているファンおばさん(ジェニファー・クーリッジ)のもとに身を寄せることになったロドニーは、ビッグウェルド博士が失踪も同然に身を隠してしまったこと、その跡を継いだラチェットの横暴極まる経営方針に憤るが、抵抗する力を持たないラスティーズの面々は既に諦め加減だ。
 そこへビッグウェルド・インダストリーズによるリペア部品の製造中止、アップグレードの推進が伝えられ、ジャンク街は暴動寸前の有様になる。見るに見かねたロドニーは修理屋として名乗りを上げ、部品の古くなった住人たちの修理に尽力する。
 町に優れた修理屋が現れた、というニュースはやがてラチェットのもとにも届けられた。本来スクラップにされるべき住民が生き長らえることは彼にとって都合が良くない――何故なら彼の背後には、中古ロボットの解体・再生産を生き甲斐にする実の母マダム・ガスケット(ジム・ブロードベント)がいるからだ。“修理屋”の活躍によって思ったように中古ロボットを調達しにくくなったマダム・ガスケットは苛立ち、ラチェットに修理屋を探し出し殺すよう命じる。
 ロドニーも懸命に住民の修理に努めるが、やはり彼ひとりでは限界がある。そんななか、ビッグウェルド・インダストリーズで恒例のダンス・パーティーが催されることになった。ダンスをこよなく愛するビッグウェルド博士が現れないはずはない、と踏んだロドニーはフェンダーを伴って会場への潜入を試みる――

[感想]
 生物がすべてロボットである、という前提にどだい無理があるので、設定も話も冷静に検証していくとかなり破綻した代物である。配達される部品で子供が作れるのなら性差の存在にどんな意味があるのか、必要な栄養がオイルかガソリンなら料理の概念の発達も現実の人間世界とまるで異なるだろうに何故皿洗いという職業に需要があるのか……等々。だいたい犬などの動物類もロボットなのは許容するとしても、消火栓やマイク、ゴミ箱まで意志を持ってたら鬱陶しくて仕方ないと思うのだが。
 また、子供がまず観ることを大前提としたせいだろう、善悪をシンプルに分けたストーリーは取っつきやすい一方で、かなり解せない部分も出て来ている。特に著しいのがビッグウェルド・インダストリーズの内情である。ラチェットによって退かされたとはいえ現在もカリスマ性を保っている博士がなぜあれほど簡単に屈服したのか、一方で社員からの信望は薄そうなラチェットがどうやってあそこまでのし上がり、今なお経営陣に名前を連ねているはずの博士をいかにして隠居に追い込んだのかも不明で、またそうした過程に背景がきちんとあるのなら、終盤におけるビッグウェルド博士の行動の真意も社員らの反応も解せない。
 が、そういう疑問をいちいち顰めっ面であげつらうのは、たぶん間違った見方である。この作品の見所は、人間社会の一般常識をそのままに、あるものを大半ロボットにすり替えたらどんな社会になるか、という“もしも”の楽しさなのだ。まず冒頭、部品を取り寄せて子供を作り始めたコッパーボトム夫妻の言動の、妙に現実の“子作り”を彷彿とさせる物云い。成長に必要な部品がお下がりであるが故に生じるボーダーレス現象。超特急に乗る人々に対してアナウンスが投げかける「ネジを強くお締めください」「高油圧の方はご遠慮ください」などの台詞。
 また現実にはあり得ないけれど、彼らがロボットであるが故に自在となっている部分の描写がほとんど例外なく笑える。あちこちの間接ががたついているフェンダーは油断すると目は外れる首も外れる、しまいには下半身が取れてしまって代わりに手近な部品を拾って取り付けてみたら女性用で……なんて出来事が起きる。ラスティーズの一員ディーゼルは発声機がないのでいちいちジャンクから探しているのだが、取り付けるたびに女性用だったり犬だったり、果てにはあんなものにまで……という具合に。
 そして、彼らが生身でないが故の肉体的特徴や、非常識極まる交通機関、そして終盤のアクションシーンの見せ方の意想外さは、ほとんど遊園地のアトラクションのような感覚が味わえる。実際に存在してもたぶん人間が乗ったら死ぬこと間違い無しの“超特急”にビッグウェルド博士の家での意外というか無茶苦茶な展開、終盤の先頭シーンで主要キャラクターたちが見せる思いがけない戦い方など、随所に盛り込まれたアイディアの数々は、ストーリーの乱暴さやぎこちなさを補ってあまりある。
 そうして小さな観客たちを徹底的に楽しませようとする努力の一方で、大人相手に様々な擽りを入れてくるのが憎い。冒頭の“子作り”にしてもそうだが、あまりに有名な『雨に唄えば』のパロディを不意に挿入したり、ディーゼルの発声機に思いがけないゲストを招いたり。声優の起用にしても、若手のユアン・マクレガーと大ベテランのロビン・ウィリアムズを親友訳にし、『恋愛小説家』のゲイ役で好評を博したグレッグ・キニアの母親に『ムーランルージュ!』のジム・ブロードベントを宛がうなどというのは、登場人物がすべてロボットであるこの空間ならではのお遊びであるし、解らなければ解らないでも構わないけれど、解った上で観るといっそう楽しくなる。
 もっとストーリーに深みと繊細さが伴っていれば完璧だったが、これだけたっぷりとサービスが盛り込まれていればもう充分という気もする。アトラクションとして観に行って終わったらスッキリ、という実に明快な娯楽映画である。
 なお、画質やキャラクターのCGとは思えぬ滑らかな動きについてはもう保証済かと思うので特に触れませんでした。もうここまで来たらどこが発展してるのか素人にゃ解らねーよ。

 この作品、日本での上映は日本語吹替版がメインとなっておりますが、感想を御覧になればお解りのように当方は字幕版で鑑賞しました。観に行った劇場が外国人客の多さに配慮してか字幕版のみを上映していたとか、そもそもユアン・マクレガーの声で聴きたかったとか、予告編で観た吹替に一抹の不安を覚えていたからとか、理由は色々とあるのですが説明していくときりがないので省きます。
 観たあとでも、この作品は出来るなら字幕版で観た方がいいのでは、という感触があります。まえに鑑賞した『ファインディング・ニモ』もそうでしたが、台詞に英語ならではのギャグが盛り込まれており、そうしたものが吹替版でどの程度再現出来るのかが疑問なのです。
 事実、こうして字幕版で鑑賞しても違和感を覚えた箇所が幾つかある。特に、これは予告編でも観られる場面なのですが、ロドニーと両親が別れるところで発する台詞。列車の扉が閉まる直前、ロドニーが父に“I'll make you proud”と言うと、去りゆく列車を見守る父は小さく“I already have”と応える。お父さんの誇りになるから、と言う息子に、今でも充分誇りだ、と返す非常にいい応酬なのですが、字幕版予告編の字幕は「自慢の息子になるよ」「今でも自慢だ」とあり、これならまだ本来の文意は留めているのですけれど、吹替版の予告では「がっかりさせないよパパ」「ああ、解ってる」と随分含むものが少なくなってしまっている。実はこの箇所、実際の字幕版でも「喜ばせるから」「解ってるよ」といった具合にかなり単純化されてしまっていて、正直なところガッカリした。字幕にせよ吹替にせよ、言葉の壁や字数の制約があることはよく承知しているのだが、それでももうちょっと原文のニュアンスを活かした訳に出来なかったものか。
 とは言え、基本的にアトラクションのような映画であり、映像の迫力と細かなアイディアこそ見せ場と言えるこの作品、日本人なら文字を追う必要のある字幕版より吹替版のほうが構えることなく楽しめるのでは、とも思います。どちらを選ぶかはご自由に。

(2005/07/30)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る