cinema / 『サラ、いつわりの祈り』

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サラ、いつわりの祈り
原題:“The Heart Is Deceitful Above All Things” / 原作:JTリロイ(アーティストハウス・刊) / 監督:アーシア・アルジェント / 脚本:アーシア・アルジェント、アレッサンドロ・マガニア / 製作:クリス・ハンレイ、アライン・デ・ラ・マータ、ロベルタ・ハンレイ、ブライアン・ヤング / 製作総指揮:リリー・ブライト、ハミッシュ・マカルパイン、トリシア・ヴァン・クラヴェレン、甲斐真樹、ライアン・ジョンソン、ケヴィン・ラグスデール、デーモン・マーティン、チャド・トロウトワイン / 撮影監督:エリック・エドワーズ / 美術デザイン:マックス・ビスコー / 編集:ジム・モル / 衣装デザイン:メル・オッテンバーグ / アニメーション:クリスティアンヌ・セガヴスキィ / 音楽:マルコ・カストルディ、ソニック・ユース、ティム・アームストロング / 音楽スーパーヴァイザー:ジェリー・ガーシュマン / 出演:アーシア・アルジェント、ジミー・ベネット、ディラン&コール・スプラウス、ピーター・フォンダ、ベン・フォスター、オルネラ・ムーティ、キップ・パルデュー、マイケル・ピット、ジェイミー・レナー、ジョン・ロビンソン、マリリン・マンソン、ジェレミー・シスト、マット・シュルツ、ウィノナ・ライダー / 配給:Artist FILM+PHANTOM FILM
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間39分 / 日本語字幕:石田泰子
2005年05月07日日本公開
公式サイト : http://www.sara-inori.jp/
渋谷シネマライズにて初見(2005/06/02)

[粗筋]
 7歳のジェレマイア(ジミー・ベネット)はそれまで両親と思っていたふたりから引き離され、実の母親を名乗るサラ(アーシア・アルジェント)に引き取られた。派手で挑発的な出で立ちの彼女は7歳のジェレマイアにとって“異物”も同然だった。実の親と言われても信じられず、サラが眠っている隙に少年は逃げ出す。だが、彼を保護した警察が福祉局経由で呼び出したのは、ジェレマイアの知っている“両親”ではなく、サラだった。帰途、サラは里親が実は彼を嫌っており、警察も私が引き取らなければお前を処刑していた、と法螺話を吹きこんで、自分と暮らすことを承諾させる。翌日、恐らくは福祉局に対する言い訳のためだけに用意した家から抱えられるだけの荷物を車に移し、ふたりは旅に出る。
 郊外のレストランやパーキングエリアなどで出会った男達に身を売って生計を立てるサラと同行するジェレマイアに苦労は絶えなかった。あるときは弟、たまに妹と偽って男に紹介され、悪さを働いたり失敗したりするとその都度ベルトで鞭打たれたが、それでもジェレマイアがサラのもとから逃げ出すことはなくなっていた。サラと一緒にいる以外に生きる道はない、と思いこまされていたこともそうだが、次第にこの不安定な生活に馴染んでいたのだ。
 各地を転々とする生活に倦んだのか、それとも本気だったのか、ある日サラはエマーソン(ジェイミー・レナー)という男と結婚し、ジェレマイアを残して“新婚旅行”に出かけていった。外側から鍵をかけられ閉じこめられたジェレマイアは、冷蔵庫に収められた乏しい食料をやりくりしながら、ものを散らかし壁に落書きをして好き放題に過ごす。ふたりとも帰ってこない、と薄々思っていたジェレマイアだったが、唐突にエマーソンひとりが戻ってきた。サラに振られた、と言い嘆くエマーソンは、サラの名を口にしながらジェレマイアを犯した。
 目醒めたとき、ジェレマイアは病院に収容されていた。治療のあとそのまま施設に送られたジェレマイアを迎えに来たのは、初めて出逢う祖母(オルネラ・ムーティ)。彼女に導かれて、ジェレマイアは祖父(ピーター・フォンダ)が運営する“神の家”に引き取られる。
 厳格な祖父は、ちょっとした嘘や悪戯であっても厳しく処断した。サラの弟アーロン(ジョン・ロビンソン)が、祖父に叱られるよう仕向けるためにジェレマイアについた嘘を見抜くと、アーロンの手を繰り返し鞭で打つ。毎朝のように儀式が待ち受け、聖書の教えを叩き込まれる生活は、それから三年間続いた。
 11歳になったジェレマイア(ディラン&コール・スプラウス)が寄付金稼ぎのために街頭で説教をしていると、唐突に、本当に唐突にサラが姿を現す。こんなことをする必要はない、あんたはあたしといるのが幸せなんだ――彼を抱きしめながらそう呟く母に促されるまま、またどこかで捕まえたらしい新しい男の運転するトラックに乗って、ジェレマイアはふたたび流浪の暮らしに戻っていく。一度目とは違っていた。今度は彼自身、望んでサラについていった――

[感想]
 まず余談から入ろう。
 日本ではそんなに知名度が高いとは思えない(2005年6月現在、はてなのキーワードにも登録されてないし)原作者のJTリロイであるが、アメリカにあっては本当にカリスマ的な地位を築いているようだ。本編とその原作に寄せられた讃辞の数々からもそれが察せられるし、何よりこの映画、よく見るとかなり贅沢な役者の使い方をしている。決して大きな役ではない(存在感は必要だけれど)祖父にピーター・フォンダを宛がい、ほんの一場面限りの登場である女性精神科医役にウィノナ・ライダーを起用している(ちなみにこれが万引事件で活動自粛していた彼女の復帰第一作となったそうだ)。
 しかし、何よりも驚きなのは、ふたたび旅立ったあとのサラの恋人のひとりとして登場するある男である。サラのベビードールと下着をつけたジェレマイアに欲情し、ことに及んでしまったために破局を迎えるこのいささか情けない様子の人物、鑑賞中ずっと「どこかで観たことあるような……」と思っていたのだが、プログラムで確認して本気で驚いた――ノーメイクのマリリン・マンソンなのである。
 マリリン・マンソンといえば、異形のメイクと挑発的な歌詞、完成度の高い楽曲で熱狂的な支持を受ける一方、銃乱射事件に影響を与えたとして批判を浴びるなど様々な形で物議を醸し続けるミュージシャンである。『ボウリング・フォー・コロンバイン』で、ソファに足をかけただらしない格好で、しかし誰よりも真っ当なことを話していた男、と言えば解る方もあるだろう。
 その彼が素顔で、しかもミュージシャンであるときのカリスマ性をかなぐり捨てたような役柄で登場している。どのくらい凄い話かというと、デーモン小暮閣下が素顔、もとい人間の扮装でカメラの前に姿を現したというぐらいに凄い出来事である。この一事だけでも、アメリカのアーティストたちがJTリロイという作家に寄せる関心と敬意の大きさが窺われようというものだ。
 監督・脚色・主演を兼ねるアーシア・アルジェントは、日本でも人気の高いイタリアン・ホラーの先駆者ダリオ・アルジェント監督と初期アルジェント作品の看板女優であったダリア・ニコロディのあいだに生まれた娘である。いわば芸能人一家の生まれであり、その生い立ちには色々と鬱屈したものがあるようで、こういう言われ方は間違いなく彼女にとっては不本意だろうが、それでも本編の映像センスには父ダリオに通じる面が多々感じられる。人物を撮すときのカメラの動き、人物視点からのアングル、またどぎつくも決して下品に陥らない色彩など、ダリオ・アルジェント作品を知っていると妙に勘繰りたくなる箇所が多い。
 但し、主題そのものが異なるのだから当然だが、そうしたセンスをショック演出や恐怖感の醸成に用いるのではなく、作品全体に一貫したスタイルを与えスピード感を齎すことに利用しているのが父との違いになっている。
 ナレーションを排除し、ほとんど説明もなく展開する物語は正直なところ親切とは言い難い。里親のもとからサラに引き取られ、一時的に借りたと思しい家を離れ旅に出て、その過程で次第にジェレマイアが彼女に打ち解けていったらしいことは察せられるのだが、それを示唆するのが断片的な映像のパッチワークのみで、気づくといきなりサラがどこの馬の骨とも知れない男と結婚しており、新婚旅行と称して置き去りにする。この間の事情が掴めないので観客はジェレマイア以上の置いてけぼり感を味わわされる危険が高い。あとに続く、祖父の運営する“神の家”での儀式の様子や若い叔父アーロンの言動なども、あちらでは常識に類する知識が絡んでいるのかも知れないが、いまいち内実が把握しにくいのだ。途中からドラッグや飲酒の影響と見られる幻覚にジェレマイアが見舞われており、そのイメージ映像が突然紛れ込んでいることも混乱を助長している。
 だが翻って、その混乱ぶりが作品全体に独特の酩酊感を齎し、主題と一致してイメージを完成させているのも事実だ。やや支離滅裂に陥りがちで、実際の生活にあった“痛み”から敢えて目を逸らしたような表現のなかで、少しずつサラとジェレマイアとのあいだに育まれていく、愛想半ばする絆をそのまま象徴しているかのようだ。作中、あからさまにギミックと解る特殊効果で、赤い鳥に自らの躰を蝕まれていくさまをジェレマイアが夢想する場面が何度か登場するが、あれなど“痛み”からの逃避をある意味ストレートに描いたもので、負の部分をそうしたイメージに投げ入れながら、サラとジェレマイアの絆にとって重要な出来事を抽出して羅列している。独自の映像センスと相俟って、作品のテンポの良さは類を見ない。
 物語が進むごとに増していくスピード感の果てに突如到来する結末は、だが結構呆気ない。何らかのカタルシスを齎すものではなく、苦悩と恍惚との悪循環を繰り返すだけのものだと悟れば、この上なく救いのないラストシーンだとも言える。だが、苦痛も快楽もひっくるめて絆に還元してしまった物語の決着としてはこれが相応しいのだろう。だから、救いがないと感じられるにも拘わらず、妙な爽快感がある。
 出てくるのは悪人やアウトローばかり、ドラッグや偏執狂、悪徳が絡みあう物語は間違いなくアメリカの暗部を覗かせるものだが、そこに一種崇高とも映る愛や美しさを感じさせる、不思議な作品。

(2005/06/03)


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