cinema / 『SPIRIT』

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SPIRIT
原題:“霍元甲” / 英題:“Fearless” / 監督:ロニー・ユー / アクション監督:ユエン・ウーピン / 脚本:クリスティン・トー、クリス・チョウ / 製作:ビル・コン、ジェット・リー、ロニー・ユー、ヤン・ブーティン / 共同製作:チュイ・ポーチュー、ハン・サンピン / 撮影:フーン・ハンサン,H.K.S.C. / 美術:ケネス・マック / 編集:ヴァージニア・カッツ,A.C.E.、リチャード・リアロイド / 衣装:トーマス・チョン/ 衣装(日本・田中の三着):ワダエミ / 音楽:梅林茂 / 出演:ジェット・リー、中村獅童、スン・リー、原田眞人、ドン・ヨン、コリン・チョウ、ネイサン・ジョーンズ / 配給:Warner Bros.
2006年中国作品 / 上映時間:1時間44分 / 日本語字幕:樋口裕子
2006年03月18日日本公開
公式サイト : http://www.spirit-movie.net/
VIRGIN TOHO CINEMAS ROPPONGI HILLSにて初見(2006/03/18)

[粗筋]
 1910年、上海のとある闘技場。外国人商会の企画により開催された異種格闘技戦――だが、その形態はいささか異様だった。たったひとりの中国の武道家が、西欧諸国の四人を立て続けに相手にする、というものなのである。素手、剣術、槍術と相手のスタイルに合わせながら、名だたる格闘家をあしらっていくその男の名は、霍元甲[フォ・ユァンジャ](ジェット・リー)。数十年来の親友農勁孫[ノン・ジンスン、スンは草冠に孫](ドン・ヨン)の不安げな眼差しに見守られながら、三人を蹴散らし、元甲はついに最後の相手である日本の武道家・田中安野(中村獅童)を迎え撃つ……
 幼いころの元甲は喘息を患い、躰が丈夫とは言い難かった。それゆえ、優れた武道家であった父(コリン・チョウ)は我が子を道場に出入りさせず、文人の道を歩ませようとするが、窓越しに父の美しい型を見、その雄々しい戦いぶりを眺めるにつけ、憧れと好奇心はいや増すばかりだった。書の稽古を勁孫に任せ、元甲は見よう見まねで型の稽古に精を出した。
 転機となったのは、街の広場にある闘技台にて催された一戦である。元甲の父と趙という武道家の戦いは拮抗しながらも、元甲の父が一歩抜きん出ていた。だが父はとどめを刺せる好機に手を止め、相手の勢いに押され闘技台から転落する格好で敗北を喫する。更にその息子と試合の真似事をし、手酷く痛めつけられた元甲は、以後決して何者にも負けないことを誓う。
 やがて青年となった元甲は、その誓いに忠実であり続けた。独学で武術を学び、父の流派に独自の工夫を凝らして更に昇華させた元甲の強さは既に故郷・天津において抜きん出ていた。やがて、幼き日に翻弄された趙の息子をも降すと、その自尊心は慢心にまで達する。訪れる者を無思慮に弟子として認め、勝利するごとに勁孫の営む飲食店に招いて酒を振る舞いつづけた。
 はじめこそ己の目指した境地へと邁進する元甲を応援していた勁孫だったが、人を選ばず招き入れ、湯水のように金を使う親友を次第に窘めるようになる。親友の気持ちを知らず自らの野望のままに戦い続けてきた元甲だったが、ある日、最大の敵と目する秦によって弟子が痛めつけられたことを知ると、怒りに身を任せ、勁孫の店を貸し切り誕生日の祝賀会を催していた秦のもとを訪ね決闘状を叩きつけた。
 死闘の末、遂に秦を倒した元甲だったが、勁孫に絶縁を言い渡されてなお激情の収まらなかった彼は、必要以上に秦を攻撃した挙句、死に至らしめてしまった。そうとは知らず、勝利を祝う祝宴を夜通し催していた元甲は、我が家に帰って、まったく予想外の出来事を前に立ち尽くす。そこにあったのは、父亡きあと繰り返し彼に人の道を説きつづけた母と、亡き妻の忘れ形見であったひとり娘の、変わり果てた姿だった。復讐のために秦の義子がやったのだと察した元甲は秦の家に乗り込むが、義子は自らの責任を認めると、元甲の刃が向けられるより早く自害して果てる。その傍らで、親しい者をひと晩のうちに失った母と娘の慟哭し怯える姿を目の当たりにして、やっと――やっと元甲は、自らの罪深さを悟る。秦によって傷つけられた、と訴えた弟子もまた、そのきっかけが弟子自身の非にあったことを知り、元甲は蹌踉と愛する故郷を離れた……
 失意のまま放浪を続けた元甲は、ある湖で気を失い、山村の人々によって助け出される。そして、そこでの日々が、自身の見失っていた“武”の道の本質を元甲に悟らせることとなる……

[感想]
 まさに、ジェット・リーのためにある映画、という趣である。
 彼が演じる武道家・霍元甲は実在の人物であり、かのブルース・リーや他ならぬジェット・リーにも多大な影響を齎したという。ただ、ちょうど清朝末期の渾沌とした時代に活躍し、その死を巡る経緯にも不明瞭な点があるために、生前の出来事から死に至るまで様々な伝説が存在し、本編はそのなかからイデオロギーに直結しない、武人としての側面に焦点を絞って描き出したものであるらしい。
 政治的な背景が曖昧に描かれていることにも一因しているのだろうが、本編は伝記というアプローチから評価するといささか心許ない。特に冒頭のシークエンスに採用され、最後の戦いの舞台ともなる異種格闘技戦に至るまでの心境の変化を支える山村でのひと幕が、比較的あっさり描かれているのが気に掛かった。その後の目覚ましい人間的な成長ぶりと、武道家としての発展を裏付ける箇所であるだけに、目の不自由な娘・月慈(スン・リー)とその祖母との触れ合いに絞らず、このシークエンス序盤で描かれた子供達との遊びや、ともに畑仕事をする村民との交流なども丹念に描き出した方が、のちに彼の打ち出す信念をより裏付けることが出来ただろう。その点が勿体なく感じられた。
 だが一方で、極端なほどシンプルに纏めあげられた心の成長過程は、実に解りやすい。理由は直接語られることはなかったが、躰の弱い我が子を慮り、暴力ではなく知性の道を進んで欲しいと父が望んだために、却って武道に対する好奇心と願望だけを膨らませた挙句に、武を説くに必要な“心”を学ばなかったがゆえに破滅を招き、武道を離れた世界で人心に触れてようやっと開眼する、という経緯は、いささか単純化が過ぎるようにも感じられるが、しかし描写の意味に悩まされることなくその変遷が伝わってくることは確かだ。
 この解りやすさが、敵を倒すためではない、己に打ち克つためのものである、という武の本質を描き出す作品の主題を阻害せず、ストレートに伝わりやすくしている。そして、それ故にジェット・リーの力強くも華麗なアクションが作品のなかで主役の位置に座り、いっそう光り輝くのを手助けしているのだ。
 現在、カンフーやマーシャル・アーツを用いたアクション映画において間違いなく突出した存在感を誇るジェット・リーだが、そのこだわりゆえに作品数は少なく、また翻って作品ごとでの格闘による見せ場は少なくなっているのが現状だ。わたしが個人的に彼の分岐点になる傑作と捉えている『ダニー・ザ・ドッグ』にしても、アクションと物語との融合という意味では素晴らしい出来だが、アクションシーンの絶対数が少なく、またカタルシスもアクションによって齎されていない厭味があった。
 その点、本編は冒頭から様々なスタイルに合わせた格闘を披露し、過去から現在に至るまでを綴る過程においても繰り返し繰り返し圧倒的な迫力に充ち満ちたアクションが堪能できる。幼き日の因縁を再現する高所を舞台にした決闘に、一対多の戦闘、料亭での天津一を決する死闘。人間的には愚劣に陥っている時期の元甲だが、それ故に鬼気迫るものがある。
 対して、山村での触れ合いを通して人の道を知ったあとのアクションのなんと静かで洗練されていることか。力強さは損なわず、だが闇雲に相手を痛めつけるのではなく、拳と拳で会話している、というやり取りに一変する。相手の攻撃を巧みに受け流し、きちんと一撃を繰り出しながら、決してとどめは刺さない。どの流派が最強である、などと訴えず、それぞれの力の研鑽のために拳を交える、という晩年の主張が、アクションによってきちんと表現されているのだ。だからこそ、最後の戦いを前に日本の代表である田中安野と対談したとき、語ったその信念に説得力が備わっている。
 そして、辿り着く結末のなんと雄々しく美しいことか。それまでの出来事を踏まえた行動と周囲の反応とが、どれほど優れたドラマを鑑賞したとしても味わえない、まったく別種の感動を呼び起こす。
 前述のとおり、ドラマの深みという点ではいささか批判的にならざるを得ないし、演出的にも凡庸な点が多く、決して大傑作とは呼べない。しかし、ジェット・リーが掲げる理想にとってこれほど忠実で完璧に誓い作品は、そうそう創り出せるものではないだろう。形だけ真似したようなアクション映画に飽き足らない向きや、ジェット・リーのアクションに惹かれている方なら満足すること請け合いの作品である。

(2006/03/18)


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