cinema / 『スウェプト・アウェイ』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


スウェプト・アウェイ
原題:“Swept Away” / 監督・脚本:ガイ・リッチー / 製作:マシュー・ヴォーン / 共同製作:アダム・ボーリング、デヴィッド・リード / 撮影監督:アレックス・バーバー / 美術:ラッセル・デ・ロザリオ / 編集:エディ・ハミルトン / 衣装:アリアンヌ・フィリップス / 音楽:ミシェル・コロンビエ / 出演:マドンナ、アドリアーノ・ジャンジーニ、ブルース・グリーンウッド、ヨルゴ・ヴォヤギス / 配給:Sony Pictures
2002年イギリス・アメリカ作品 / 上映時間:1時間29分 / 日本語字幕:稲田嵯裕里
2003年08月02日日本公開
公式サイト : http://www.spe.co.jp/movie/worldcinema/sweptaway/
シネマメディアージュにて初見(2003/08/28)

[粗筋]
 三組の金持ち夫婦が一隻の船をチャーターし、ギリシアからイタリアへの長い船旅を含むヴァケイションに発った。退屈な日々をそれなりに満喫する一同のなかで、アンバー(マドンナ)だけが頻繁に不平を並べ立てた。料理を貶し、刺激を求め、食料の調達と身の回りの世話を任されたぺぺことジュゼッベ(アドリアーノ・ジャンジーニ)に難癖をつけてはストレスを解消している。
 表面上は服従しているものの、ぺぺのほうも不満を抱えていた。本来彼は漁師であり、船長(ヨルゴ・ヴォヤギス)たっての頼みでこの仕事を引き受けただけだった。料理の魚が腐っているといい、買い出しのとき自前で魚を用意してきたアンバーたちに、ぺぺの釣ってきた魚を料理して出すというみみっちい仕返しはしたものの、それで下がる程度の溜飲ではない。
 ぺぺの我慢も限界に近づきつつあったある日、アンバーの夫トニー(ブルース・グリーンウッド)を含む他の面々がアンバー抜きでボートを出して、近くにある洞窟まで探検に行ってしまった。置き去りにされたことに憤ったアンバーは、ぺぺの忠告も顧みず無理矢理ボートを出させ、あとを追う。だがその途中、ボートのエンジンが停止し、よりによって犬猿の仲のふたりきりで漂流する羽目に陥った。いずれ捜索隊が来る、と暢気に構えるアンバーは、こんな状況にあってもなおぺぺに尊大な態度を取り続け、彼を苛立たせた。
 やがて辛うじて陸地を発見し、アンバーはぺぺたちを訴えてやると鼻息荒く言い放つが、そこはふたりを除いて人一人いない小さな島――無人島だった。この期に及んでなおも悪口雑言を並べ立てるアンバーにとうとうぺぺは激昂し、ふたりは別行動を取ることになった。
 だが、漁で糧を得、野生児に近い資質のあるぺぺが素速く状況に順応し、前に漂流した人々の物資を利用して新鮮な水や食料を調達し始めたのに対し、アンバーは闇雲にうろうろするだけで何の成果も得られない。しまいにはぺぺに金をちらつかせて食料を寄越すよう要求するが、ぺぺは対価として自分のために働け、と言い出す。自分のことは「御主人様」と呼べという条件まで付け加えて。

[感想]
 1974年に発表され、物議を醸した映画『流されて…』をリメイクした作品である。監督は『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』『スナッチ』の二作品でイギリス流ギャング映画のスタイルのひとつを確立させたガイ・リッチー、主演はその妻であり長年に亘って世界のミュージック・シーンを牽引してきたマドンナ――と聞くと非常に贅沢な仕上がりを期待してしまう、が。
 はっきりしているのは、この作品のテーマと物語性には、ガイ・リッチーの演出手法もマドンナの魅力もあまりそぐわしくなかった、という点だろう。もとがミステリでいう“モジュラー形式”を想起させる、複数の視点と事件を並行して描きそれが終盤で収束していくカタルシスを魅力のひとつとしていたリッチー監督の前二作に対して、本編は基本的にメインとなる男女一組に物語が集約されており、舞台も分裂することがないため視点人物が明確でなくても視点そのものがぶれることはない。物語の繋がりを読み解かせる、という要素が欠如したため、台詞ひとつひとつは従来の作品通りの皮肉とヒネリを感じさせても、話運びが一本調子に見えて、1時間半に満たない尺にも関わらず間延びした印象を与える。
 マドンナのほうは、とにかく演技に緊迫感がない。これはガイ・リッチーのコメディタッチのシナリオにも一因があるのだろうが、洗練されたところのない船員の言動や自分の欲求がまるで満たされない船の暮らしに対する苛立ちがどうしても伝わってこない。加えてマドンナが演じるアンバーは幼い頃から甘やかされており、万事口だけですぐに音を上げる女性、というキャラクターなのだが、それを裏切るくらいに外見がごつい。体格がいいのと生活能力の高低は客観的に無縁なのだが、それでも人間は外見から来るイメージに第一印象を左右されがちなのが現実だ。中盤以降でアンバーが見せる弱さや頼りなさを表現するのに、宇宙飛行士となるために鍛え上げたという肉体は非常に邪魔なのだ。
 一方で、数々のミュージック・クリップに携わり映画監督としてのデビューもスティングの後押しがあって実現したという経歴のあるガイ・リッチーらしく、要所要所で見せる音楽と映像の融合の巧みさは相変わらずだし、無人島漂着後、とくにアンバーとぺぺが心を通わせあうようになってからの幾つかのショットにははっとさせられるものが多い。全体にはほとんど貢献していないが、相変わらず有名無名を問わずキャラクターのたった役者を起用しており、船旅の場面における細かなやり取りはなかなか楽しいと感じるところも少なくなかった。
 また、現代屈指のアーティストでもあるマドンナの本領が発揮された場面もちゃんと存在している。特に目を惹くのは中盤、ぺぺがアンバーに「自分で歌って踊れ」と命じる場面、踊り始めたアンバーに、いつの間にかバックで演奏するフルバンドとドレスで着飾り豪快で華麗なダンスを披露する姿を夢想してしまう、という箇所だ。流れるのはマドンナ自身の曲ではなく、ローズマリー・クルーニー『カモナ・マイ・ハウス』だが、動きと表情だけでぺぺを挑発するこの場面は作中最も興奮させられるハイライトとなっている。
 他にも観ていて興味深い演出はあるし、苦い雰囲気の漂うラストシーンはベタながら秀逸なのだけど、全体を通してみると、テーマ性とガイ・リッチーの演出技法などのバランスが悪く、歯切れの悪さばかりを感じさせる出来になってしまった。監督の前二作や、製作総指揮として携わった『ミーン・マシーン』を鑑賞して、ガイ・リッチー監督の演出スタイルなどに惚れ込んでいたり理解を示したりしている人、或いは映画を裏事情や欠陥まで含めて楽しむことの出来る人であればけっこう楽しめるが、一般的な映画ファンや、整った恋愛劇・心理ドラマを期待する向きにはお薦めしません。

 携わった作品すべてで、無名有名問わずキャラクターの立った役者を起用するのがガイ・リッチー監督のスタイルであり、本編でもその手法は変わりない。船をチャーターした側であるブルジョアな人々のほうは、代表的ではないがそれなりに活躍した役者が名前を連ねているものの、アウトローである船長や船員のほうはあまり画面で観た覚えのない人々が並んでいる。
 マドンナと共に常に画面を飾るラテン系の色男ぺぺ=アドリアーノ・ジャンジーニもまた、比較的無名に近い俳優である。元々カメラ・オペレーター助手として映画界に入り、イタリア映画二本に出演してのち本編に参加した――という経緯だから、日本ではスクリーン初登場だろう。それにしては雰囲気があり、何処かぎこちない粗雑さが味を出している、と思った。
 ――がしかし、この俳優、実は他でもない本編のオリジナル『流されて…』に同じ役柄で出演したイタリア俳優ジャンカルロ・ジャンジーニの息子なのだという。監督はオーディションを行った上で彼以上に適役はいない、と判断したと言っているようだし、事実ピッタリなのだけど……

(2003/08/29)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る