cinema / 『スイミング・プール』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


スイミング・プール
原題:“SWIMMING POOL” / 監督:フランソワ・オゾン / 製作:オリヴィエ・デルボス、マルク・ミソニエ / 脚本:フランソワ・オゾン、エマニュエル・ベルンエイム / 撮影:ヨリック・ルソー / 音響:ルシアン・バリバー / 美術:ウォウター・ズーン / 衣装:パスカリーヌ・シャヴァンヌ / メイク:ジル・ロビラード / ヘア:ミリアム・ロジャー / 音楽:フィリップ・ロンビ / 出演:シャーロット・ランプリング、リュディヴィーヌ・サニエ、チャールズ・ダンス、マルク・ファヨール、シャン=マリー・ラムール、ミレイユ・モセ / 配給:GAGA Communications G-CINEMA
2003年フランス作品 / 上映時間:1時間42分 / 日本語字幕:松岡葉子
2004年05月15日日本公開
公式サイト : http://www.gaga.ne.jp/swimmingpool/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2004/05/15)

[粗筋]
 ヒットシリーズを抱えるイギリスの推理作家サラ・モートン(シャーロット・ランプリング)は苛立っていた。類型に陥った自らの作風に感じつつある限界に加え、付き合いの長い出版社の社長ジョン・ボスロード(チャールズ・ダンス)は若い新人作家の面倒に付きっ切りでサラはほったらかし、疎外感に見舞われたサラはいつにもまして不機嫌だった。
 そんな彼女を見かねて、ジョンは南仏プロヴァンスにある彼の別荘でしばらく精気を養ってはどうか、と提案する。こだわりもなく頷いたサラだったが、このヴァカンスは思いのほか功を奏した。移動中の車内でもインスピレーションを得、静かな環境はサラの集中力を高めてくれた。
 だが、静寂は間もなく、ひとりの闖入者によって打ち破られる。夜中、別荘の側に停まる車の音と、邸内に人が侵入する気配に恐る恐る様子を窺ってみると、そこにいたのは整ったスタイルに蠱惑的な顔立ちをしたひとりの女(リュディヴィーヌ・サニエ)。ジョンのひとり娘のジュリー、と名乗った彼女は、仕事を辞め気分転換のつもりでこの別荘へとやって来たらしい。明くる日の夜に早速男を連れ込み、人の好い管理人のマルセル(マルク・ファヨール)を呼び立てて枯葉で汚れたプールの清掃をさせる。食事の後かたづけもせず、ジュリーのさながら欲望の赴くままの行動に、ようやく平静を取り戻しかかっていたサラの胸中はふたたびかき乱された。
 一方で、自分の殻に閉じこもりがちの老嬢である自分とはまるで正反対なジュリーの言動に、少しずつ魅せられている自分も、サラは自覚していた。清掃されたプールの傍らに横たわるジュリーの腹部には大きな傷痕がある。ある晩には目の縁を赤く腫らして帰ってきた。痛みを隠しながら虚勢を張るような彼女の様子は、推理作家としてのサラの好奇心をかき立てた。サラは仕事のために持ち込んだノートパソコンに、新たに「ジュリー」と名付けたフォルダを作成した。サラの筆は、ふたたび勢いを取り戻す……

[感想]
 ……さて、どう書いたらいいものやら。
 とりあえず、フランソワ・オゾン監督作品ということで、『8人の女たち』のような作品を期待しているのだとしたら裏切られることは確実だ。華麗さや切れ味のある仕掛け、シンプルながら強烈な結末など、あの作品にあった持ち味はほとんど存在しない――いや、あるにはあるのだけれど、コインの裏と表のようなもので、あちらとはほぼ対極にある。
 悩むのは、その理由を説明するともしかしたら、本編を謎解きの物語として楽しむうえでひとつの大きな勘所を明かしてしまう結果になるのでは、という恐れを抱くからだ。恐れを抱く、という表現になる程度には、製作者の企みの本質からは隔たっている、という確信はあるのだけれど、虚心に楽しむためにはそれすら知らない方が無難だろう、と思う。
 一方で、そういう予備知識がなかったとしたら、これほど困惑させられる作品もそう滅多にはない。もし些細な違和感をあっさりと見捨ててしまうような漫然とした鑑賞の仕方をしていたら、その困惑は不快感にすり替わることだってあるはずだ。そう考えたら、着想のある一点だけは(どうせ説明も簡単なのだから)予備知識として提供するのが、親切というものかも知れない。
 色々と迷った挙句、こういう奥歯に物が挟まったような書き方になっている。ただ、断言していいと思うのは、本編は一見無造作なようでいて、ヒントとなる要素は冒頭から無数に投じられていること。そして、極めて野心的な試みを実行に移した“ミステリー”である、ということ。これと同じような趣向を描こうとして成功した映画を、寡聞にして私は知らない。
 本編が充分に成功している、とは言い難い部分もあるように感じるのだが、いずれにしても一度観ただけで判断するのは難しい。そのためにもう一度鑑賞してみたい、と思わせるだけの牽引力はある――この点、『8人の女たち』から持ち越しのふたりの女優がよく貢献している。いずれもそれぞれの年代・立場から見て不自然さのないキャラクターを、しかし圧倒的な存在感で演じきっている。思わせぶりなカメラワークも、作品のミステリアスな雰囲気を否応なしに盛り上げている。
8人の女たち』とはまったく意味が違う。だが、あちらとは別種ながら、確かに“ミステリー”を描くことに執着した作品であることは確かだ。その深遠な企みに思い至ったとき、もう一度鑑賞してみたい、という感慨に陥ったなら、たぶん確実にあなたはこの罠に捕らわれている。

(2004/05/16)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る