/ 『友引忌』
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『light as a feather』トップページに戻る友引忌
英題:“Nightmare” / 監督:アン・ビョンギ / 脚本:アン・ビョンギ、ウォン・ジョンフン / 撮影:イ・ソッキョン / 音楽:イ・テボム / ノヴェライズ:吉村達也『ナイトメア』(角川ホラー文庫・刊) / 出演:ハ・ジウォン、ユ・ジテ、キム・ギュリ、チェ・ジョンユン、ユ・ジュンサン、チョン・ジュン、チョ・ヘヨン / Mythosフィルム製作 / 配給:松竹
2000年作品 / 上映時間:1時間37分 / 日本語字幕:根本理恵
2004年07月03日日本公開
公式サイト : http://www.tomobiki.jp/
新宿シネマミラノにて初見(2004/07/03)[粗筋]
大学卒業後二年間、アメリカに留学したきり音沙汰のなかったソネ(チェ・ジョンユン)が、ある日突然ヘジン(キム・ギュリ)のもとを訪れた。在学中と比べて暗い雰囲気になった彼女を気遣い部屋に泊めるヘジンに、ソネは奇妙なことを告白する。「ギョンア(ハ・ジウォン)に追われている」と。ヘジンは耳を疑う。ギョンアとは、大学在学中に自殺した娘の名前だった……
ヘジンは学生時代、“A Few Good Men”というサークルに所属していた。弁護士志望のジョンウク(ユ・ジュンサン)をリーダーに、将来有望な野球選手のヒョンジュン(ユ・ジテ)、映画監督を志すセフン(チョン・ジュン)、学生時代からモデルとして活動を始めていた美女のミリョン(チョ・ヘヨン)、そしてソネとヘジンの古くからの友人ふたりで構成された仲の良いサークルに変化が生じたのは、どこか神秘的な雰囲気を湛えた少女ウンジュが加わってからのことだった。ソネはヒョンジュンに片想いをしていたが、ヒョンジュンはウンジュを見るなり一目惚れし果敢なアタックを繰り返すようになる。当然ソネの心は穏やかではない。また、ウンジュの行くところ、何やら説明のつかない奇妙な現象が起きることが少なくなかった。ソネは彼女を避けて通るかと思えば聞こえよがしに「不吉な感じがする」と揶揄するが、そんな彼女に向かって無人の車が襲ってくるという事件まで起きる。ウンジュを庇いながら、次第にこれはたたごとではない、とヘジンも感じるようになっていた。
ある日の会合の席で、ソネは突然こんな昔話を始めた。ヘジンとソネが育った田舎には、近づくと不幸が起きると恐れられていた少女がいた。彼女は乗客が全滅するようなバス事故からも生還し、ヘジンの父が死ぬきっかけをも作った、という。自分たちには関係ない、と突っぱねる仲間たちに、ソネは告げた。その少女こそ、ギョンア――いま自分たちのなかに、ウンジュとして紛れ込んでいる女なのだと。
誤解だ、と言うウンジュ=ギョンアに、「私の記憶から永遠に消えて欲しい」と言い捨てて、ヘジンはその場を離れた。しばし哀しみにくれたあと、戻った彼女が目の当たりにしたのは――ビルの屋上から転落するギョンアの姿だった。
ソネが韓国に戻ってきてから、ふたたび不吉な出来事が彼らの身辺に頻発し、ついにはひとり、またひとりと犠牲者が出始めるのだった……[感想]
意表を衝いた怪奇現象を描けばホラー映画になる、というわけではない、という事実を解り易く示した、悪い方の一例。
怪奇現象を怖く感じるのは、生命の危機を感じさせるという理由からのみではない。常識的にありえない、どうやっても説明のしようがない現象や出来事が目の前で展開するから、それが何か不吉なものを予見させる、或いはそれ自体に生理的な不快感を感じさせる、など負の情動を誘う。つまり、怪奇現象を恐怖として描くために必要なのは、常識的なものを常識として描くことなのだ。普通死んでいて開くはずの瞼が開いてしまう、先刻までたったひとりきりで乗っていたはずの車の後部座席に人影がある、だからこそ怖い。
ところが本編はおしなべて、この常識部分の裏付けがいい加減すぎる点が多い。たとえば作中に登場する警察の捜査の仕方もそう。たとえば大学卒業二年足らずで「敗け知らずの弁護士」などと呼ばれていることもそう。たとえばヘジンが幼い頃のギョンアに対して抱いていた感情もそう。クライマックスでヘジンがギョンアの怨みの源を知るきっかけとなるビデオテープの編集の仕方もそう。いずれも、あまりに非常識であるが故に、本来非常識として恐れられるべき怪奇現象から怖さを奪ってしまっているのだ。
評価できるのは上で例にも挙げた冒頭の、どうしても閉じない瞼を縫いつけるが、それでも開いてしまう瞼というシチュエーションと、見送る車の後部座席に映る女の影あたりぐらい。しかしそれとて恐怖を増幅させるために活かす方策をまったく取っておらず、単なる無駄遣いに終わっている。特に前者など、もっと執着的に瞼を閉じようとする表現があったほうが良かったはずだし、また何故瞼が開いてしまうのか、或いは瞼が開いてしまうという現象と関わり合う形で活きてくる別の怪異があって初めて印象づけられるのに、完全に放り出されたままなので、場面として浮いてしまっているのだ。『ボイス』における冒頭のエレベーターもそうだったが、この監督はつかみとして面白そうなものを提示してもそれを有効に使う、という考えがまったく働いていないように感じる。
更におしなべて役者が下手だった。台詞はわざとらしいし恐怖はほとんど伝わってこない。電話ボックスのなかで殺された若者は動きが大袈裟すぎて残虐性が消し飛んでおり、観ていて「もうその辺で死んでおけや」という気分にさせられるし、終盤生者のふたりが精神的に危険な状況に陥るのだが、そのときの言動や演技も(そうでなくても脚本が自然でないというのに)わざとらしすぎて興醒めだった。何より、あれだけ怪奇現象づくしでやっておいて終盤がただの三流アクションになっているのはどういうわけなのか。
ホラーとして以前に物語、映画としての演出が拙すぎてお話にならない。『ボイス』はまだひとり気を吐いていた少女のお陰でそれなりに不気味な余韻を残すが、本編では怪異の中心となる少女が何を求めていたのか、どういう理由であの時期に呪いを本格化させたのかのきっかけなどがまるで掴めず、なおかつ生きているあいだについても描写・演技力ともに不足していたために散漫な印象しか残らない。あとで考えてみると、どうやらそれについて監督はひとつの特殊な説明を用意していて、それがあのラストシーンになったようだが――だとしても、その発想自体がラストシーンを不自然なものにしていて、余計監督の配慮の乏しさを浮き彫りにしているだけだと思うのだが。
本当はネタバレまで含めて徹底的に解体して大半の要素を否定してやろうか、と思っていましたが、長ったらしくなりますし面倒なので止めます。とにかくホラーとしては落第。こんな監督が第一人者呼ばわりされているとしたら、韓国のホラー映画事情は相当に劣悪なんだろうな、と同情を禁じ得ません。そのくらい駄目。
……とは言え、劇場を出るとき、私の後ろを歩いていた女性は「怖かったね〜」と仰言っていた様子なので、もしかしたら初心者や免疫のない方にはこれでも充分“恐怖”を堪能できるのかも知れません。でも私は薦めない。(2004/07/04)