cinema / 『うつせみ』

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うつせみ
原題:“空き家”(空き家) / 英題:“3-iron” / 監督・脚本・編集・製作:キム・ギドク / 製作総指揮:鈴木径男、チェ・ヨンベ / 共同製作:カン・ヨング、ス・ヨンジョ / 撮影監督:チャン・ソンベク / 美術監督:チュ・ジンモ / 助監督:オク・ジンゴン / 衣装デザイン:ク・ヘホン / 音楽:スルヴィアン / 出演:イ・スンヨン、ジェヒ、クォン・ヒョゴ、チュ・ジンモ、チェ・ジョンホ / Happinet Pictures&KIM ki-duk Film製作 / 配給:Happinet Pictures×角川ヘラルド映画
2004年韓国・日本合作 / 上映時間:1時間29分 / 日本語字幕:全雪鈴
2006年03月04日日本公開
公式サイト : http://utsusemi-movie.com/
恵比寿ガーデンシネマにて初見(2006/03/30)

[粗筋]
 バイクに跨り、あちこちの家の鍵孔にチラシを貼って廻る青年テソク(ジェヒ)。夜になってもチラシの剥がされていない家にはその晩、人がいない可能性が高いと彼は知っている。工具で鍵をこじ開けると、彼は留守宅に侵入し、勝手に冷蔵庫を開け、蓄えられた食材を調理して食事を摂り、風呂を使い、ベッドを借りて心地よく眠りに就く。その代償とでもいうふうに、テソクは必ず奉仕をした。放置されている洗濯物を拾い集めて、機械を使わず自らの手で洗い、植木には丁寧に水を振る。壊れているものを見つければ、修理して元通りに使えるようにした。
 その家を訪れたときも、彼のすることは変わらなかった。庭に置かれた練習用のネットを借りてゴルフクラブを振るい、食事を作り、風呂を使ったあとベッドに横たわる。だが、視線を感じて何気なく目を向けた先に、ひとりの女がいることにテソクは驚愕した。
 鍵のかかった家にひとり息を潜めていた彼女――ソナ(イ・スンヨン)は、突然ふらりと入ってきたテソクの様子を、ずっと物陰から観察していた。物取りを働くわけでもなく、まるで住み慣れた我が家のように振る舞う彼の姿を訝しがりながら、咎めることもせずに、ただ静かに。テソクはバツの悪い表情で身支度を調えると出ていこうとしたが、そのとき家の電話が鳴り響いた――ソナの夫(クォン・ヒョゴ)からである。出かける前に自らの暴力を詫びながら、しかし相も変わらず手前勝手な怒りをぶつける内容に、渋々受話器を手に取ったソナは悲鳴を上げて電話を切る。
 彼女の縋るような眼差しを感じながら、いちどは出ていったテソクだったが、顔に殴られた傷をつけたソナの姿が脳裏にこびり付いて離れず、道を引き返して彼女のもとに戻る。孤独と夫からの絶え間ない束縛と暴力に打ちひしがれていた彼女にとって、たとえ見知らぬ他人であっても、傍に誰かがいることは救いとなった。
 だが、心安らぐ時間はすぐに終わった。彼女の電話での応対に憤った夫が、出張から急遽帰宅してきたのである。彼女の服装にまで難癖をつけ、詰り暴力を振るう夫――その様子に、身を隠していたテソクは庭に現れた。夫に向かってゴルフボールを叩きつけ、言葉も出ないまでに痛めつけると、表に駐めておいたバイクのエンジンをかけ、盛大に空ぶかしをする。やがてソナが現れ、彼の後ろに腰を下ろした。
 その日から、空き家に侵入する奇妙な犯罪を繰り返す者がふたりに増えた。最初こそ戸惑っていたソナだが、初めて遭遇した日にテソクが見せた“作法”を真似て洗濯をし、食事を作り、テソクがデジカメで行っていた“記念撮影”に混じるようになり――そうして次第次第に、ふたりは心を通わせていく……

[感想]
 同じキム・ギドク監督の前作『サマリア』もそうだったが、非常に説明に悩む映画である。傑作であることは疑いないのだが――あれこれと解説して、予断を持って鑑賞してしまっては、せっかくの解釈の余地を奪ってしまう気がするのである。ただ、もしキム・ギドク監督の作品を、難解であるとか暴力描写が合わないといった理由で避けているのであれば、こと本編に関しては勿体ない、と申し上げておきたい。
 もともとキム・ギドク監督は台詞による説明を避ける――というより、ほとんど台詞を使わずに映像だけで語ろうとする。『サマリア』にしてもメインとなる少女二人が会話を交わす場面は極めて少ないし、本編に至っては主軸となるテソクに台詞はひとつとしてなく、必然的にやがて同行することとなるソナともまったく会話はない。
 にも拘わらず、本編は話が極めて解りやすい。テソクの設定こそ特異だが、最初に侵入する家で彼の行動を丁寧に追い、その個性的な“儀式”を提示する。次に侵入する家で、もうひとりの主人公となるソナがあっさりと登場する。ソナはソナで、愛していることは確かでも、それが束縛と暴力に転じがちな夫によって虐げられている、という決して珍しくはないが重い背景を抱えているが、それもまた説明台詞を用いるのではなく、テソクを中心としたカメラの動きに合わせて状況を積み重ねていき、極めて解りやすく伝えている。テソクがいったんソナの家を出たあと、再び戻ったときには観客は既に彼らを結びつけた感情的な経緯を完璧に把握できているはずである。
 その後の場面選択にも無駄がない。少しずつソナがテソクの流儀に馴染み、テソクのほうでも彼女を受け入れていくさまを着実に、かつスピーディに綴っていく。その解りやすさは、なまじ変な陰謀を組み込もうとしたり、場当たり的なスペクタクルを導入したりする大作などよりもその手管はよっぽどエンタテインメントを弁えている。
 とはいえ、キム・ギドク監督にただ映像が美しい、哲学的なテーマを描いている、というだけに留めない個性を齎している所以の暴力描写はやはり健在で、いざそれが登場すると、比較的許容力があるはずのわたしでさえもしばしば躰に力が入り、目を背けたくなるときさえあった。だがそれにしても、本編では“ゴルフ”という素材にこだわり、揺らぐことを知らない。テソクは目の前で暴力を振るわれるソナを助けるために、ゴルフボールを彼女の夫に向けて打つ、という手段を用いた。のちにテソクが逮捕され、“誘拐”されたソナを引き取りに赴いた夫が報復にああしたやり方を思いつくのは必然であろう。そして、ソナとの旅の途中で発生したある悲劇もまた、ゴルフボールと結びついている。天真爛漫なテソクの心的な傷も肉体的な傷も、彼らの振るう暴力同様にゴルフボールに集約している一貫性は見事だ。訳して“空き家”となる原題に対し、英題をまるで趣の違う“3-iron”(三番アイアン)としたのも頷ける。
 冷静に検証していけば、奇妙な点は多い。テソクの手口はいささか無防備に過ぎ、ソナと合流する以前に逮捕歴がないというのは少々解せない。現代の警察があそこまで暴力的だとも思えないし、夫がソナを引き取りに来たとき、彼女をテソクと共に取調室に置いたままにし、被害者が加害者に報復出来る機会を与えるような真似をするものだろうか。まして、看守までも暴力的であるというのはどうなのか。
 但し、そうした過剰さは見え隠れしていても、人々の態度は一貫している。“復讐”を要望する被害者から金銭を受け取って一時的に加害者であるテソクを委ねるくだりは、時として暴力を辞さないような警官だからこそ納得できる流れであろう。そして、看守があれほど横暴であったからこそ、実は終盤のより幻想的な展開に辿り着いている。暴力性でさえ、物語の必然性に奉仕しているのだ。
 しかし、何だかんだと言って本編の白眉は、あまりに意表を衝いた、だが極めて自然とも感じられる結末である。観たそのときに驚くか唖然としていただきたいので詳細は伏せるが、およそこれほど現実離れしていて、しかしテソクとソナという奇妙な絆で結ばれた男女にとって幸いなラストは他にないだろう。
 現実的であるかどうか、は問題ではない。そもそもテソクという青年の行為と二人の巡り逢い自体が一種ファンタジー的なのである。空想的なはじまりを告げた物語が、より空想的な結末を迎えることは寧ろ自然なことだ。奇妙な結末ながら伏線は丹念に張られているし、その象徴の扱いも端的である。特に最後の最後、「現実と夢はもともと区別がつきにくいものだ」という趣旨のテロップの背景として描かれる場面そのものが、物語の巧緻な組み立てと結末の幻想性とを極めて意図的に、かつ効果的に高めている。そうあるべくして辿り着いたラストシーンは、随所に鏤められた暴力性と、また善も悪も峻別しきれない本当の意味での純粋性によってよりいっそうその美しさが際立たされ、観ている側の胸に強烈に刻み込まれる。これほど計算され尽くした作品も滅多にない。
 わたしは、折しも次回作のキャンペーンのため来日中だったキム・ギドク監督自身が作品の意図や創作哲学などを語るイベントつきの回で鑑賞する機会に恵まれたのだが、その際監督は本編を「主要登場人物の誰かが見た夢の話という捉え方もある」と言っていた。なるほど、と頷かされるものがあった。
 それがいったい誰の夢なのか、或いは過度に幻想的に陥ってしまった現実を綴ったものだったのか、結論は観客に委ねられる。どんな答を出すにせよ、その豊潤な解釈を許す懐の深さと、驚異的な構築美を誇る本編が途方もない傑作であることは間違いない、と思う――その上でどうしても受け付けられない、という人が現れるのもまた仕方のない類の作品ではあるが。
 何にせよ、キム・ギドク監督の稀有の才能を改めて立証する一本である。

 ちなみに、わたしが鑑賞した際に行われたトークイベントにて、キム・ギドク監督は裏話として、実は本編のテソクにあたる役柄に、日本の俳優を起用する案が出ていたと打ち明けた。だが、基本的にプロダクション作業も撮影も短期間で行う監督の手法と俳優側のスケジュールが折り合わず、結局韓国にて発掘した俳優を充てた、ということらしい。作品的には正しかった、と思う一方で、日本人俳優による主人公像も観てみたかった、と少し惜しまれる。
 行定勲監督と交流も深く、極めて支持者の多い日本にキム・ギドク監督自身愛着があるようで、行定監督はキム・ギドク監督の無国籍的な作風を逆手にとって、行定監督自らが製作を手懸け、俳優やロケーションを日本で調達して一本完成させる、という計画を練っているという。
 ――是非とも実現させて貰いたいものだ。そうすればよりいっそう、キム・ギドク監督という才能が国籍に縛られないものであることを証明することが出来る。

(2006/04/01)


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