従来のこのページでは、変化を常態とする世界に身を置きつつ状況の変化に常に適切に対応できる心の準備に役に立てばと思い、私自身がそれまでに心の安定を得たくて学んだり、感じたり、考えたりしてきたことを載せてきました。これからは、「思いつくままに」で書いてきた文章を含め、これまで書いてきた文章の中から一人一人が「気づき」を得るのに参考になりそうな文章を選び出して加筆・修正するとともに、私自身が気づいたり感じたりしたことを載せてゆきたいと思います。
なお、タイトルについては従来のものをそのまま使用したい思いますので、こんなタイトルとした理由を付記しておきます。
私は1947年、昭和22年亥年の生まれです。そのため、ごく親しい人から”ウリちゃん”とか”ウリ坊”というニックネームをいただいています。そのニックネームをもじってこんなタイトルを付けてみました。
(1) 魂
まず最初に「魂」について私が感じていることを書いておきたいと思います。「魂」の存在を信じるか否かは一人一人の自由であって「魂」の存在を信じることが必ずしも「気づき」を得るための前提となるわけではありません。けれど、私にとっては「魂」の存在を信じる方がその後訪れた様々な「気づき」を理解しやすかったので参考になるのではないかと思います。
私たちは、生物の体内における化学反応が極めて高度に発達した結果、発生した「心」と言うものを持つ生き物というのではなく、本来は「魂」という存在なのであって、それが肉体に宿った結果なのではないかと私は考えています。従って肉体は魂の乗り物ということになります。では魂とは何かということになりますが、それは永遠なるものの一部ではないかと思います。以下はそれを前提として私が学び、考えてきたことです。
永遠なるものは肉体を持ってはいません。言ってみれば観念あるいは想念とでもいうべき存在なのではないかと思います。観念あるいは想念であるが故に、有りとあらゆることを想い描くことはできますが、生身を持って体験することだけはできません。肉体を持たないからです。そこで想い描くことを具体的に体験するために魂という形をとって肉体に宿るのではないでしょうか。
つまり私たち人間は何かを体験するためにこの世に生まれてくるのではないかと思います。何を体験するのかは個人個人によって全て異なります。10人いれば10通り、100人いれば100通り、10億人いれば10億通りの体験があるのです。
どんな体験をするのかは生まれてくる魂が予め計画をしています。この計画をバースビジョンといいます。人間が表層意識において、このバースビジョンを正確に知ることができるのは現世を終える時だけです。生きていく過程においては漠然としか知ることができません。人間は自分の未来を予測することはできても100%確実に知ることはできないからです。
(2) 運命論
「魂」の項で私は、人間は魂の存在であり、魂はあらかじめ体験することを計画して生まれてくる、それがバースビジョンだと書きました。では、私は人間の運命はあらかじめすべて決まっていて選択の余地はないと考える運命論者なのかというと、必ずしもそうではないと思っています。
何故なら、われわれは自分の未来を確実に知ることができないからです。たとえ、未来が決まっているとしても、それを知ることが出来なければ、われわれは今、何らかの判断をし、選択をしなければなりません。
逆に未来が分かっているならば選択の余地はなくなります。分かっているたった一つの未来に向かうための、ただ一つの今しかあり得ないからです。つまり、選択の余地が残されているから、未来を確実に知ることはできないからこそ、われわれは自由なのではないのでしょうか。
私は自分の未来を知ることと自由とは量子力学で言う相補的関係にあるのではないかと考えています。相補的関係とは、互いに相手を補う関係にありながら同時には双方を知るあるいは確定することができない関係を言います。
量子力学では粒子の位置と運動量がこの関係にあたります。位置を測定しようとすると運動量が確定できなくなり、運動量を測定しようとすると位置が確定できなくなる関係にあります。つまり、現在の自由を確保しようとすると未来は確定できなくなり、確定した未来を得ようとすると現在の自由は失われるという関係にあると思うのです。
未来は自分が確定していかなければならないものと言っても良いのかもしれません。では、確実に知ることができないバースビジョンには、どんな意味があると言えるのでしょうか。
(3) バースビジョンの意義
魂はバースビジョンを実現するために様々な出来事を現世に用意しています。その一つ一つをあなたが受け入れ、体験し、学んでゆくならば現世はとてもスムーズに流れてゆきます。別の言葉で言うならばとても順調な現世を生きることができると言うことです。何故なら、永遠なるものの一部つまり万能の神の分け御霊である魂が計画したとおりの流れに沿ってるからです。
けれどあなたの表層意識が誰か他人の言葉だとか、世間体だとかに囚われた場合にはスムーズな流れが阻害されることも起こります。他人の言葉や世間体があなたのバースビジョンに沿ったものであるならば問題はないのですが、往々にしてあなたのバースビジョンとは異なる場合が多いからです。
あなたがそうした言葉などに囚われバースビジョンから外れようとすると魂は本来の道に引き戻すために色々な合図を送ってきます。それでもあなたが気づかずにいるとトラブルを引き起こして軌道修正を図ろうとするのです。つまりあなたの現世にもし様々なトラブルが発生しているとするならば、それはあなたの今の生き方があなたの本来の生き方とどこかで外れているという証なのです。
そんな時は、いたずらに抵抗するのではなく、一度立ち止まって今の生き方を見直してみるべきないでしょうか。きっと自分が本当に望んでいることとは違うことをやっているのに気がつくはずです。バースビジョンとは、具体的にそれが何であるかは分からなくても、それが存在するのを知ることで、自分の生き方を点検するためのバロメーターになっているのだと私は思うのです。
(4) 現世を離れる時期(=死ぬ時期)
バースビジョンについてもう一つとても大切なことを書いておきます。それは、魂は現世を離れる時期と方法についてもバースビジョンの中で決めて生まれてくるということです。つまり、どの時期にどんな方法で死ぬのかをあらかじめ決めてくるということです。けれど残念ながら普通の人はその時期や方法を表層意識で知ることはできません。
もちろん例外はあります。ダラ・イ・ラマのように高い悟りを得た人は、その時期や方法を表層意識であらかじめ知ることもあります。ですが知ったとしても彼らはその時期や方法を決して変えようとはしません。表層意識では変えることができないと知っているからです。つまり、現世が限られたものであることを知り、なお、その限られた現世をいかに有意義に生きようとするのかが悟りの一つだと言うことです。
では、知ることも変えることもできないのにバースビジョンでそれが決まっているということにどんな意味があるのでしょうか。それは、表層意識がどんなに苦しく厳しい状況だと感じたとしてもその時期が来ていないかぎり決して死ぬことはないし、逆にどれほど順調だと思っていたとしてもその時期を迎えていれば確実に死ぬことを意味しています。
違う言い方をするならば、魂がバースビジョンで計画した出来事を全て経験しないうちは決して死ぬことはないし、逆に全てを経験してもうやることがなくなれば現世を離れることになるのです。このことは、医師から末期癌と診断され余命幾ばくもないと告げられながらも癌を克服してしまった人、多数の死者が出た列車事故で同じ車両に乗りながら助かった人、逆に不慮の事故や災害に巻き込まれて命を落とした人などの事例が端的に現しています。運が良かったから悪かったからと言うことではないのです。
この真実からは多くのことを学ぶことができますが、ここでは二つだけを書いておきます。
一つは、長生きをするための努力は必ずしも願ったとおりの結果が得られるとは限らないと言うことです。この世に生を受けた全てのものが少しでも長くこの世に存在していたいと願うのは自然なことです。しかし、この世に生を受けた全てのものが一定の期間を経て元の場所へ帰って行くこともまた自然の摂理です。重要なのは、この世にいられる限られた期間をどう過ごすのか、どんな現世を生きようと選択を行うのかにあります。そしてその選択を行えるのは貴方だけなのです。何故なら、他の誰でもない、貴方の魂が計画した現世だからです。
なお、長生きをしたいと願い、健康に十分留意し、食べ物に気をつかい、良い生活習慣を身につけようと努力することは、長生きをするという意味での効果はなくても、限られた現世をより快適に生きて行く上ではとても重要なことです。
二つ目は、今を大切に生きると言うことです。当たり前のことなのかもしれませんが、人間はいつかは必ず死を迎えなければなりません。その時期があらかじめ決まっていて、しかも事前にそれを知ることができない。よしんばそれを知り得たとしても変えることができないとするならば、どう生きて行けばよいのでしょうか。確実に生きている今を最大限有意義に過ごすしかないのです。
このことは別の面からも言うことができます。我々が生きているこの世界では、物質的には時間はリニア(直線的)にしか流れません。過去の積み重ねが現在であり、現在の積み重ねが未来なのです。現在、即ち今をおろそかに生きれば、おろそかな結果しか得ることはできないのです。
だからこそ、何時、死が訪れても後悔することがないよう確実に生きている今を精一杯生き生きと生きて行くことがとても大切なのです。そして充実した今を生きることができれば、その結果として充実した未来、充実した現世を生きることができるのです。
(5) 変化
現世をどう生きるかについて、私がこれまでに学んできた幾つかの考え方は「気づき」を得る上での参考になるのではないかと思います。これからそれをお伝えしてゆきたいと思いますが、それらの考え方の前提となるものが二つあります。一つは「変化」ということであり、他の一つは「違い」ということです。
まずは「変化」についてですが、現世においては、この世の中に存在する全てのものの本質の一つが「変化」であり、その「変化」をいかに受け入れてゆくのかが基本ではないかと思います。この「変化」を認め、受け入れることが出来ないと「執着」を起こし、本来の自分を見失うことになります。そして、そこから様々な葛藤や悩み、苦しみなどが生まれてくるのではないでしょうか。
この世の中に存在する全てのものは、生成し、転成し、消滅するのが定めではないかと思います。魂の世界を除き、永遠に存在し続けるものは有り得ないし、全ては確実に変化してゆくのではないでしょうか。執着とは現状の維持を願うことですが、変化を本質とする存在にどんなに執着してみたところで、この大きな流れを変えることは出来ません。われわれに出来るのは変化を受け入れることだけなのです。
また、執着しているときは、執着している対象しか目に入らず、自分が見えなくなっている場合がほとんどです。だから、執着する対象だけが変化するのではなく、自分も変化して行くのだということに気がつかないのではないでしょうか。対象が変化し、自分も変化していることに気がつき、それを受け入れることが出来れば、執着に基づく悩みや葛藤も手放すことができるのだと思います。
数年前、私は富士山に向かって瞑想をしている時に富士山から語りかけられたことがあります。その時の言葉は次のようなものでした。
「私(富士山)も永遠ではないのですよ。形のあるものは滅びるのではなく変化して
行くのです」
この言葉がもとになって、その後いろいろと勉強して行く中で今の考えに辿り着くことができたのです。
(6) 違い
次は「違い」についてです。この世の中に存在する全てのものは、一つとして同じものはありません。全てが異なります。一見、同じように見えても実は異なるのです。例えば自動車を見てみましょう。年式も形式もカラーも同じだったとしてもプレートナンバーは違うし、製造番号も異なります。そんな複雑なものではなく、もっと単純なもの例えば10円玉を比べてみても同じ事が言えると思います。10円玉には番号はついていませんから同じ年に製造されたものは一見区別がつきません。けれど時の経過とともに錆や汚れ、擦り減り方などによって違ったものとなって行きます。
物でさえ異なるのだから人間ならば尚更です。一卵性双生児で外見がそっくりであったとしても成長とともに考え方も生き方も異なってこざるを得ないのです。何故なのでしょうか?それはわれわれが元々は一つであったものの異なる側面を演じているに過ぎないからなのです。神は様々な存在を生み出すことによって、存在することによってしか味わうことのできない体験を創り出しているのです。
劇場などにあるミラー・ボールを思い思い出してみてください。数えきれないほどの側面が寄り集まって一つの光り輝く美しい球体を作り上げています。あの一つ一つの側面は全てが違う方向を向いています。同じ方向を向いているものは一つもありません。しかし、どれ一つとして欠くことはできません。欠けたなら完璧さが失われてしまうからです。
つまり、一つ一つのものはすべてに存在の意味があり、しかも全てが異なっているのです。けれどわれわれ人間はともすれば他人と同じであることを好みます。同じであることによって一人ではないという安心感が得られるからです。特に日本人は横並び意識が強くて異なるものを排斥したがる傾向にあります。
でも思い出してみてください。われわれは元々は一つだったのです。神という概念など使わなくても、現代物理学では常識となっているビッグバン理論でさえ元は一つだったといっています。 元々が一つであったことを忘れ、他者との分離を刷り込まれることによって恐れや不安が生まれたのです。そして、その怖れや不安が違いを受け入れられなくしているのです。
逆にまったく同じであるならばどちらか一方は存在する必要がありません。神はまったく同じ経験を得る必要はないからです。寸分違わずまったく同じであるならば、どちらか一方があれば神にとってはそれで十分なのです。極端な言い方をするならば、違っているからこそ存在していられるのだと言っても良いくらいなのです。
そこで極めて大切となることは、違いを認め、受け入れていかに共存を図って行くかと言うことです。他人と違っていることに恐れや不安を感じる必要はありません。むしろ違いを排斥しようとすれば、いつか自分が排斥されることになるのだと言うことを人間は忘れるべきではないのだと思います。
(7) 二者択一
現世を生きて行く上で私たちは常に何らかの選択を迫られます。その選択方法の一つとして「二者択一」という選択方法があることは御存知のとおりですが、その選択方法が持つ落とし穴について書いておきたいと思います。
「二者択一」という選択方法は、白か黒か、二つのうちの一つを選ぶということで、とてもシンプルで分かり易い選択方法だと思います。だから世の中の様々な局面であるいは日常生活の中でも頻繁に使われているのではないでしょうか。現代社会に欠くことのできないコンピューターも究極的には0か1かの世界であり、その影響もあるのかもしれません。
けれども人間が現世を生きて行く上での選択方法は「二者択一」だけなのでしょうか。どんな複雑な問題も厳密に分析してゆけば必ず「二者択一」になると言う考え方もあるでしょう。でも、ちょっと見方を変えてみるとどうなるでしょうか。当たり前のことかもしれませんが白と黒の間には無限と言っても良いだけのグレーがあるはずです。限りなく黒に近いグレーもあれば限りなく白に近いグレーもあるというのが現実の社会だと思います。
さらに言わせてもらうならば、色の3原色、光の3原色と言うこともあります。3つの色を適切な割合で混ぜ合わせればすべての色を表現できると言うことを学校で学んだと思います。絵の具では赤、黄、青であり、光では赤、緑、青です。そして3つの色を均等に混ぜ合わせると絵の具では黒になり、光では白になるのです。
この考え方から行けば白と黒の間にはグレイだけではなくすべての色も含まれているという見方も出来るのではないかと思うのです。
私は「二者択一」という選択方法を否定するつもりはありません。ただ、便利だからと言って安易に使うのは如何なものかと思うのです。あなたの現世にはきわめて豊富な選択肢が用意されています。ほんのちょっと見方を変えるだけでとても豊かな生き方が選択できるのです。選択肢を狭めることなく自分の可能性を信じて生きて行くべきではないでしょうか。そのために時々ちょっと立ち止まって自分の選択方法を点検してみることが大切だと思います。
(8) 波動
私は、この世に存在するすべてのものが持つ性質の一つとして波動があるのではないかと思っています。その波動について書いてみたいと思います。
魂あるいは意識も波動としての性質を持っています。波動そのものだという考え方もあるようですが、私はそうは考えてはいません。魂や意識が波動だけで説明できるような存在だとは思わないからです。光が波動としての性質と物質である粒子としての性質の両方を兼ね備えているのと似たようなものだと言った方が分かり易いかもしれません。
皆様ご存知のように波動には幾つかの性質があります。代表的な波動の一つである音波を例にとってみると、高低、強弱、波長、周波数、干渉、共鳴などです。これらの性質の幾つかは魂あるいは意識にもそのまま当て嵌まるのではないかと思います。ここではそのうちの何点かについて書いてみます。
波動は振幅、波長、振動数によって構成されますが意識も似たようなものです。振幅によって音に強弱があるように意識にも強弱があります。振動数によって高低があるように高い意識状態、低い意識状態があります。そして波長によって音色が異なるように人それぞれに性格も異なります。
ここで大切なのは、この三つの側面を持つ意識は人によって全て異なり全く同じということはないということです。よくあの人とは波長が合う合わないと言いますが、それは三つの側面のどれかが似ているに過ぎないのではないでしょうか。周囲の波動に引きずられずに自分のペースを保つことが重要だと思います。
つぎに干渉と共鳴についてですが、干渉は波動がお互いに打ち消しあう現象であり共鳴はお互いを増幅しあう現象です。これと同じ現象が意識にも起こります。高い意識どうし、低い意識どうしは共鳴しあい、高い意識と低い意識は干渉しあいます。
つまり高い意識どうしが触れあえばお互いを高めるし、低い意識どうしが触れあえばお互いを低くします。高い意識と低い意識が触れあえばお互いを打ち消しあってしまうのです。これは意識どうしだけでなく意識と意識以外の存在についても同じことがいえます。
だから高い意識、ポジティブな発想を持つように努めることがとても大切になるのです。ポジティブな発想を心がければ共鳴現象によって幸運を呼び寄せることになります。逆にネガティブな発想をしていると不運を招き寄せるし、高い波動と出会っても打ち消しあって幸運を手にすることはできないのです。
また、身の回りに波動の高い物を置くようにし波動の低い物は置かないようにすることも重要です。波動の高いものは共鳴現象によって意識を高めてくれるし、波動の低い物を置いていると、折角、意識を高めようとしても干渉現象によって十分高めることができなくなってしまうからです。
何が波動が高く何が波動が低いのかは、貴方が望めば誰でもいずれ感じ取れるようになりますが、はじめは意識の高い人の意見や本を参考にするとよいと思います。ただ、それは貴方にとってあくまでも参考に過ぎないのだと言うことを忘れないようにする事が大切です。
(9) 偶然
「この世の中に偶然はない」という考え方について書いてみたいと思います。「この世の中に偶然はない」などと書くと「そんな馬鹿な」と思われる方も沢山いるのではないかと思います。「偶然の出会い」だとか「偶然の一致」だとか「偶然」と思われる出来事はこの世の中に一杯あるではないかと反論されそうです。でも、ちょっと待ってください。それらは本当に「偶然」なのでしょうか。
確かに、私たちの日常生活の中で「偶然」という言葉は数多く使われています。けれどその言葉が使われる理由についてきちんと考えてみたことがどれくらいあったのでしょうか。また、私たちが日常生活のどんな場面でその言葉を使っているのかを反省してみたことがあるのでしょうか。恐らく忙しい日常生活の中でそんな余裕はなかったのではないかという気がします。
ここで多忙な日常生活を少しだけ脇に置いて、自分がどんな時に「偶然」という言葉を使っていたのか振り返ってみては如何でしょうか。多分、その言葉は、ある出来事が生じた時にそこに必然性が感じられない場合、別な言い方をするならば何故その出来事が発生したのかについてそれまでの自分の経験や学んできた知識、或いは常識では合理的な説明が見出せないときに使っていたのではないでしょうか。
けれど、私たち人間はこの世の中に働く法則の全てを知っていると断言できるのでしょうか。私たちがまだ見出せないでいる法則が働いていると考えることはできないのでしょうか。つまり、一見すると「偶然」としか思えないような出来事にも、この「未知の法則」が働いていると考えることは許されないのかと言うことです。私はここに「神の意図」或いは「この宇宙を貫く未知の法則」が働いているのではないかと思うのです。
そうは言っても例えば抽選のように、そこで当選することは誰の眼から見ても明らかに「偶然」ではないかという事象もあると思います。しかし、私は、そこにも私たちには知ることのできない法則が働いているのではないかと思っています。主観的、非科学的だと言われそうですが、「非科学的云々」という言葉を言う前に「未知の法則」を「未知」と素直に認めることができる姿勢の方がはるかに「科学的」なのだと言うことを思い出してほしいのです。
つまり私は、「偶然」という言葉を使うことによって謙虚さを失ってしまってはいないか、「エゴ」に囚われ傲慢になってはいないかと言う気がするのです。「無知」という現実を認めたくなくて「偶然」という言葉を使っていることがままあるのではないのでしょうか。「エゴ」が表面に出てくると「気づき」を得ることはできません。神様からの微妙な通信は受け取れなくなるのです。
何かが生じたときに、表面的には「偶然」のように思えても裏側に深い意味が隠されている場合があります。「偶然」という言葉を安易に使う前に、一度は立ち止まって何故それが発生したのか、そのことが自分にとってどんな意味を持っているのかを見つめ直してみることが必要なのではないのでしょうか。それがきっかけとなって、とても大きな「気づき」に導かれたり、偉大な発明や発見に繋がる場合もあるのですから。そんなチャンスを逃さないために日頃から「偶然はない」という考え方を身につけておくことが大切なのではないかと思うのです。
(10) 食事
食事について感じていることを書いておきます。我々は生身の肉体を持った存在ですから食事をせずに生きて行くことは通常は困難です。そして顕在意識は肉体に属しているものですから意識の状態も食事の影響を受けざるを得ないのではないかと思います。
それは単に空腹の時は怒りっぽくなり満腹の時は眠くなりやすいというだけではなく、また、肉体の健康保持のためと言うだけのものでもないような気がするのです。食べ物や飲み物の種類や摂取の量によって顕在意識は微妙な影響を受けているのではないでしょうか。
顕在意識に「気づき」を得やすくし、神或いはハイヤーセルフと繋がりやすい状態とするために私が日頃、食事について注意している点を幾つか述べてみたいと思います。或いは当たり前のことと思われるかもしれませんが、それらが結果的には肉体の健康保持にも結びついているのではないかと思います。
まず第一に、食べ過ぎないよう飲み過ぎないように注意をしています。食べ過ぎ飲み過ぎは肉体に負担であるだけでなく、自分の心の微妙な動きを知る上でも大きな障害となるようです。ウェイトのコントロールは美容や健康のためだけでなく「気づき」を得やすくするためにも大切なことではないかと思います。
第二は、肉食を減らし野菜を多く食べるようにしています。肉食が多くなると身体を動かす為のパワーを得るという意味では良いのかもしれませんが、繊細な心の働きを感じ取るためにはマイナスとなるような気がします。肉食を減らしても肉体が必要とする蛋白は大豆などによって十分摂取することは可能です。
けれど私はヴェジタリアン(菜食主義者)になれとお勧めしているわけではありません。ヴェジタリアンでなければ「気づき」が得られないと言うわけではないからです。相対的に野菜の摂取量が多いほうが「気づき」が得やすくなると感じているのであって、バランスの問題ではないかと思います。なお、野菜は可能な限り有機栽培のものを摂取することをお勧めします。
第三は、出来るだけ自然なものを食べるようにし、合成食品は避けるようにしています。毒ではないのかもしれませんが、合成食品を食べると意識の鮮明さが失われるような気がするからです。人間の身体は機械ではなく意識は極めて精妙な存在だと思います。ただカロリーを摂取すればよいと言うのではなく、可能な限り自然な状態を保つべきではないのでしょうか。
第四は、自然界にはない添加物が含まれる食品は出来るだけ避けるようにしています。理由は三とほぼ同じですが、「気づき」は極めて微妙なものです。一応の安全性は確かめられているのかもしれませんが、自然界に存在しないものを摂取することによって受ける影響も可能な限り避けるべきだと思います。
第五は、水を出来るだけ飲むようにしています。御存知のとおり人間の身体の80%は水分でできています。ですから十分な水分の補給が必要ですが、それだけではないと思います。現代社会、特に都会に住んでいる場合には、空気中やその他から本来は身体に必要がない不純物が進入しがちです。水をたくさん飲むことで、それらを効率よく体外に排出し循環を良くすることが「気づき」を得やすい体質とするのに必要だと感じるからです。
以上述べてきたこと以外にも注意している点は幾つかあります。例えば、週に一度は「蕎麦」を食べるとか「ニンニク」や「生姜」を出来るだけ食べるようにしているとか。けれど、それらは好みの問題となりますのでここでは省略します。以上5点を実行するだけでもかなり体質を変えることが出来ると思いますので参考として下さい。
この項の終わりにとても重要なことを書いておきます。それは、
「見栄や世間体、常識などに囚われることなく、自分の身体が何を欲しているのかに充分耳を傾ける」ことです。その時、「拡張された胃袋」や「エゴ」「我」の声に惑わされないよう注意することが大切だと思います。
【思いつくままのコーナー】
このページではここまで、「気づき」に参考になればと言うことで自分が気づいたり感じたりしたことをテーマ毎に載せてきました。今回、設けたこのコーナーでは、その時々に私が思いついたこと、感じていることを散文的に書いてみたいと思います。「気づき」の一助にしていただければ幸いです。
2008年4月7日
現在の文明が現状のままでは衰退に向かわざるを得ないのではないかという内容です。
2008年5月28日
この世界の大きな流れを滞らせないよう、自分の身辺の滞りにも注意を向ける必要があるのではないかという内容です。
2008年7月21日
パターン化されたものの見方、考え方には注意が必要ではないかと言うことと常に謙虚さを失わないことが重要ではないかという内容です。
2008年9月1日
「意識が現実を作る」という考え方を理解するために、私が必要だと感じている四つの前提について書いてあります。
2008年10月13日
ニュートン力学では説明できない現象が現実に存在していることを「原子のモデル」を例に示し、ニュートン力学に囚われない柔軟な発想が必要だという内容です。
2008年12月1日
「意識が現実を作る」という想念は、単なる観念論ではないことを最先端の物理学が明らかにしつつあり、心の世界をもっとしっかりと見つめることが大切だという内容です。
2009年1月26日
「意識が現実を作る」理由の例示と自分を見つめることが出来ず他人に干渉したがる人々に対する注意について書いています。
以上の内容を読んでみたいと希望される方は電話又はFAXで連絡先をお知らせ下さい。
電話・FAX 043−272−4527
2009年3月9日
今回は私が魂について考えたり感じたりしていることを書いてみたいと思います。まず、当たり前のことかもしれませんが、魂は目で見たり物理的に器械で測定したりすることは出来ません。従って、信じるか信じないか以外には魂の存在を客観的に証明する方法はないと考えています。人間が死ぬ時に体重が数グラム軽くなると言う話を聞いたこともありますが、私は魂は物質的な存在ではないと考えていますのでここでは触れないこととします。
では、魂は信じるか信じないかという言ってみれば宗教のような存在なのでしょうか。私は違うのではないかと感じています。宗教の存在を否定するわけではありませんが、魂は宗教の分野だけで扱うべきものと決めつけるのも違っているのではないかという気がします。宗教でも魂は取り扱いますが宗教を離れても魂について考えることは可能であり、魂イコール宗教と考えるのは余りにも物質に囚われすぎた考え方ではないでしょうか。また、魂をカルト的にしか扱わない考え方は極めて愚かと言わざるを得ないでしょう。
私は魂の存在を信じています。私が魂の存在を信じる根拠には積極的な側面と消去法的な側面とがあります。今回は消去法的な側面について書いてみたいと思います。積極的に信じる根拠については様々な考え方があり、自分なりに納得が出来るほど整理できているわけではありません。また、整理する必要はないと感じています。何故ならば、スピリチュアルな探求は極めて奥が深く、存在の根拠という言ってみれば入口だけで現世を終わりたくはないと考えているからです。
消去法的な側面で魂の存在を考えてみる場合に、魂が存在しないとするならば我々の意識或いは心とはどういう存在であると考えることが出来るのでしょうか。生物に存在する脳と呼ばれている部分の化学的反応が極めて高度化したもの。言い換えるならば生物が生命を維持して行くために必要な記憶と反応が高度に集積され、抽象化されたものとでも言えばよいのでしょうか。そうではないとするならば如何なる定義が出来るのでしょうか。
どのような定義付けを行おうとも私は幾つかの点で魂の存在を前提としなければ説明しきれない部分が残るのではないかという気がしています。一つは、音楽、絵画、彫刻などの芸術によって表現される美を何故認識することが出来るのかということです。美は主観によって異なるし、生命或いは生物の生存に直接的に結びつくものではありません。美を認識し得なくても生物学的には生存には何の影響もないのです。その美を何故認識することが出来るのでしょうか。
美については、古来、様々な説明が為されてきてはいますが、100パーセント納得の行く説明に出会ったことはないような気がします。主観によって異なってしまうからやむを得ないのかもしれませんが、物質万能の科学では説明は不可能なのではないでしょうか。私はここに、魂の存在、或いはスピリチュアルな世界の真理が潜んでいると考えています。
もう一つ例を挙げてみたいと思います。それは宇宙の大きさに関する認識と言うことについてです。現在観測されている地球から最も遠い星は128.8億光年彼方にあるのですが、そこまで遠くなくても例えば60億光年彼方にある星について考えてみたいと思います。60億光年とは、光がその星を出発して地球に届くまで、つまり我々がその星の存在を確認できるまでに60億年がかかる距離にあると言うことを表しています。
違う言い方をするならば、我々は60億年前のその星の存在を知ったに過ぎないのです。今、その星が存在するか否かは60億年経たなければ科学的には確認できないのです。何故ならば科学では光より早くその存在を確認する方法を持たないからです。では、60億年とはどのような年月なのでしょうか。現代の科学では人類と呼ばれるホモサピエンスが誕生したのが60万年前、地球が生まれたのが45.5億年前、太陽が生まれたのが50億年前と推定されています。
60億年前とは、人類はおろか太陽系さえ生まれる前だと言うことになります。そんな以前のことを我々は何故、認識できるのでしょうか。生命どころか太陽系さえ誕生していない昔が生命の存在、我々の存在にどう関係してくるのでしょうか。私は証明され得ない仮説以外には納得の出来る説明を聞いたことはありません。むしろ、永遠なるもの、無限なるものへの強い憧憬、つまり魂の存在を信じる方が遙かに腑に落ちるような気がするのです。
この他にも物質万能の科学では説明しきれない事柄は幾つもあるのではないかと感じています。現代の最先端を行く理論物理学が魂の世界と紙一重の所まで迫りつつあるという話を聞きます。私には物質万能の二十世紀型科学にしがみつくよりは遙かに人類の未来に希望が持てるような気がします。
2009年4月13日
今回は「自分を見つめる」と言うことについて書いてみたいと思います。「汝自身を知れ」とはデルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言として有名ですが、自分を知るとはどういうことを意味しているのでしょうか。自分を知るとは、自分について抱いているイメージを確認することではないでしょうか。
自分を確認するための方法として直ぐに思いつくのは、自分の外にある鏡に映し出される自分を見るというやり方です。最も簡単なのはガラスでできた鏡に映し出される自分の姿を見るという方法でしょう。ただし、この方法は「自分を見る」ための手法を知らないと、物理的な映像しか見ることができません。
次に考えられるのは他人を鏡として自分を見る方法です。「人の振り見て、我が振り直せ」とは昔から言われている格言で、自分を知るためのポピュラーな方法の一つと言えるでしょう。けれどもこの方法は、スピリチュアルな側面から言うと大きな欠陥を持っています。見方が浅い内は表面化しませんが、より深く自分を見つめようとすると、他人が持つ価値観による歪みを避けることができないのです。
他人を鏡とすることは、他人の価値観を通じて自分を見る、オスカー・ワイルドの言う「意見の鏡」でしかないのです。これは、鏡とする対象に聖人・賢者を選択したとしても変わりはありません。一般の人を選択するよりも正確に自分を映し出してはくれますが、相対的な問題に過ぎず、価値観による歪みを避けることはできないのです。本質的に自分を知りたいと願うのであれば、他人を鏡にする方法では困難なのです。では、価値観を持たない自然を鏡とする方法はどうでしょうか。
魂の三部作(「魂との対話」「魂の絆」「魂への旅」)を書いたマイケル・J・ローズは、この方法で自分の意識を魂の高みへと持っていった人の一人だと思います。ただ、この方法は、ガラスの鏡のところでも書いた「自分を見る」ための手法を知らないと、イメージを受け取ることはおろか映像を見ることさえできません。また、「自分を見る」ための手法を知っていたとしても、今度はイメージを受け取る側の自分の価値観による歪みを避けることができないのです。
つまり自分の外に鏡を設けて自分を映し出すという方法は、どんな遣り方をしても、ある種の歪みを避けることはできない、単純には本当の自分を見ることはできないのだと思います。では、マイケルの場合はどうだったのでしょうか。マイケルの場合は、自分の価値観による歪みに気づき、それを補正する方法を見つけ出したのです。
その方法とは、既存の価値観の全てを手放すこと、一切の価値判断を行わないことなのですが、必ずしも簡単なわけではありません。よほど深く自分を見つめ、細心の注意を持って点検しなければ、必ず何らかの価値判断が入り込んでしまうのです。けれど、自分を見つめる方法を手に入れるために深く自分を見つめなければならないでは、「鶏が先か、卵が先か」の話になってしまうので、ここではこれ以上は触れません。
ただし、誤解の無いようにしておきたいのですが、鏡は必要のないものだと言っているわけではありません。鏡に映し出される映像を正しく認識する能力が必要なのです。自分の外に鏡を設ける前に、ストレートに自分を見つめようとする姿勢そのものが大切ではないかと思うのです。鏡は自分が認識した映像を確認するために、とても重要な存在ではないかと思います。
では、鏡を見ずしてどうやって自分を知れば良いのでしょうか。私はその方法の一つとして「書く」ことがあるのではないかと思っています。「書く」とは言っても書いたものを他人に読ませたり、見せたりするわけではありません。自分を知るために書いてみるのです。他人に見せるわけではないので、ありのまま、赤裸々、正直な自分の気持ちや思い、考えていることを書くことが前提となります。
「ジャーナル・ライティング」と言って、何も考えず、ただ心に浮かんできたものを書きとめるという方法があり、それも自分を知るための効果的な手法の一つだと思いますが、ここで私が述べようとしているのは「ジャーナル・ライティング」ではありません。私は人間の意識はとてもフワフワしたものだと思っています。目が覚めている間は、一瞬たりとも休むことなく、次から次へと様々なことを意識しています。しかも、そこには必ずしも論理的な一貫性があるわけではありません。
そのため往々にして飛躍や見落としが生じがちです。特に、理屈だけでは表現しきれない自分などと言う対象を観察するときには余計にそうではないかと思います。ともすれば自分に都合の良い部分だけを見て済ませてしまおうとする傾向さえ起こりがちです。そんな時、文章に表現してみることは、自分が考えたり感じたりしていることが客観化され、思わぬ見落としや飛躍に気づかせてくれると共に自分の想念に論理性を与えてくれたりもするのです。
ありのままの自分を知るための極めて重要なポイントは、正直、素直であることです。価値判断は可能な限り避けることが大切です。この方法を使えば、頭の中だけで考えているよりも、それなりに論理的かつ客観的に自分を知る事、見ることができると思います。けれど、この方法でも自分の価値観による歪みを完全に払拭することは困難です。普通の人が価値観による歪みを排除して、本当の自分を見つめるための方法としては、現時点では「瞑想」しかないのではないかと私は感じています。
「瞑想」というと難しいことと考えがちですが、決して難しいことではありません。ただ、極めて奥が深いことも事実です。その深さ故に難しいことと考えられがちなのではないかと思います。試しに、1分でも2分でも構いませんから目を閉じて自分の思っていること、考えていること、感じていること再確認してみてください。それが「瞑想」の入口なのです。そして、この方法を続けて行けばいずれ、自分の価値観さえも対象として見て行かざるを得なくなるのです。
「瞑想」について書き始めると長くなってしまいますので、今回はこの辺にしておきますが、一つだけ注意して欲しい点を書いておきます。それは居眠りを恐れないで欲しいと言うことです。専門の書には「眠ってはいけない」とよく書いてありますし、眠ってしまったのでは「瞑想」にならないとも言われます。ですが、目を閉じるとすぐ眠ってしまうから自分には「瞑想」は無理だとと考える方が私にはナンセンスだという気がします。
眠っていて構わないと言うのではありません。居眠りをしても永遠に眠ってしまうわけではありません。必ず目が覚めます。目が覚めたら再び試みればよいのです。眠らないよう努力してゆく内に目を閉じていても覚醒している時間が少しずつ長くなって行くのだと思います。それでもなお、眠くなると言う人は、目を閉じたまま何故、眠くなるのかを考えてみてください。そして、自分が居眠りに入る瞬間を確かめてみてください。
目覚めた状態、覚醒、催眠、睡眠、夢、これらの間には、人間存在或いは自分自身を知る上で、極めて重要な意味が隠されているのではないかという気がします。
2009年7月6日
今回は「記憶」について私が感じていることを書いてみたいと思います。「記憶」とは言っても、自分は記憶力が弱いから頭が悪い、成績が良くないと言う意味での「記憶」ではありません。私達が現実の世界を生きて行く中で経験する或いは体験する様々な出来事についての「記憶」です。これは記憶力の良し悪しに関係なく誰でもが持っているものだと思います。
私は、この「記憶」にはかなり深い気づきが隠されているのではないかと感じています。まず、自分以外の人との共通の記憶について眺めてみましょう。楽しいもの、哀しいもの、面白いもの、苦しいものetc.どんな種類の体験であれ同じ体験をした人とは共通の記憶を持っていると私達は考えがちです。でも、本当にそうなのでしょうか。
同じとしておかなければ意思疎通が困難となってしまうから同じと言うことにしてあるだけではないのでしょうか。例えば親しい友人と旅行に出かけたとしてみましょう。旅先では美しい景色や美味しい食事など様々な経験をすると思います。それを私達は同じ体験をし、共通の記憶を持っていると考えます。でも、それは本当に同じ体験、共通の記憶なのでしょうか。
同じ景色を見、同じ食事をして共に美しい、美味しいと感じたという意味では同じ体験をし、共通の記憶を持ったと言えるのかもしれません。けれど、何を美しいと感じ、何を美味しいと感じるかは人によって異なるのではないのでしょうか。或いは、どう美しい、どう美味しいと感じるかと言っても構いません。それを美しい、美味しいという言葉に抽象化することによって同じ或いは共通と思い込んでいるだけではないのでしょうか。
私がここでお伝えしたいのは、思い込みを同じだ共通だと考えているだけであって、実は違うものなのかもしれないという可能性に気づいているかと言うことです。そのことに気がついていれば思い込みから生じる誤解を避けることが出来るのではないでしょうか。そして、記憶と言うことに関して言うならば、他人との関係だけでなく個人の記憶についても同じようなことが言えるのではないのでしょうか。
つまり、個人が過去に体験した出来事は、本当にその人が記憶しているとおりの事実が存在していたと言えるのでしょうか。私は過去はその人の記憶の中にしか存在しないでのではないかと考えています。例えば過去に何かを経験したと記憶している場所に行ってみてください。そこには、あなたが過去に経験したのと同じ事実が存在しているでしょうか。
あるいは過去と似たような情景が今も存在しているかも知れません。けれどそれは、あなたが過去に経験した事実とは全く違う新たな現実が存在しているだけなのです。あなたは過去を再体験するのではなく、全く新たな経験をしているのです。そして、あなたにとっての経験はあなたの記憶の中にしか存在していないのです。
そして、もう一つ大切なことは、過去のその時にその場所に存在していたのは、あなたが記憶していることだけなのです。後になって再びその場所を訪れて記憶にはなかったものを見つけたり、或いは、誰かにその時に起こった出来事であなたの記憶にはなかった事実を教えられたとしても、それらは、あなたにとっては存在しなかったのです。それらは、あなたがその存在を知った時に初めて存在するようになったのであって、知らなかった間はあなたにとっては存在しなかったのです。
始めに存在ありきではなく、存在を知ること、認識すること、記憶することによって初めて、あなたにとって存在することとなるのです。ここでは存在論がテーマではないので深くは触れませんが、誰もその存在を知らなければ、その存在は存在しないに等しいと言うことなのです。そして記憶とは、あなたが存在を認識することなのです。
記憶とは、ともすれば曖昧なもの、あやふやなものと思われがちですが、我々は常にその記憶でしかものを考え、判断し、行動することができないのだと思います。この事が本当に理解できた時、自分の外に価値観の基準を持つことが、意味のないこと、他人に振り回されて生きることになる原因だと言うことが分かってくるのではないでしょうか。
2009年9月22日
「魂」「自分を見つめる」「記憶」と自分の感じていることを書いてきました。今回は「体験」と言うことについて書いてみたいと思います。「体験」とは広く言うならば、この物質世界に生を受けて生きていること全てが体験なのだと思います。強く心に残る印象的な出来事だけが体験なのではなく、食べること、寝ることから始まって呼吸をすることまで体験なのではないでしょうか。
「体験」をそんな形で捉えてみると、体験について考えてみることは自分の生き方、存在のあり方を考えてみると言うことであり、スピリチュアルな考え方と極めて密接に結びついているのではないかという気がします。「体験」と言うと、ともすれば現象面だけを思い浮かべがちになるのは、見方が浅いような気がするのです。
では、スピリチュアルな側面から捉えたとき、体験とはどんな意味を持ってくるのでしょうか。私は人それぞれの価値観に応じた体験があるというふうに考えています。その人が価値があると認める体験を求めて行動を起こしてゆくこと。お金、地位、芸術、学問、スポーツ,etcと人によって価値観は異なりますが、価値があると認めるものを求めて起こす行動の全てが体験だと思うのです。
何を追求しても構わないと思いますが、追求するものに囚われてしまうと体験も囚われたものとなってしまうことに注意が必要だと思います。自分が望んでもいないのに何故こんな体験をすることになるのかと疑問を感じた時は、自分が何らかの考え方に囚われていないかを点検してみることが大事ではないかと思います。
もう一つ注意すべき点は、何らかの価値を追求して様々な体験をして行くときに、自分が望んだとおりに旨く行く場合と旨く行かない場合とがあることです。旨く行かない場合は、過去に行った選択に誤りがあることが考えられます。与えられた状況の中で本当は望ましくない、或いは自分にふさわしくない選択を行っていないか確認してみることが大切です。
自分の体験を深く見つめること、それはそのまま自分自身を見つめることに繋がります。その時、生じてくる問題として価値の基準を何処に置くかと言うことがあります。価値の基準を自分の外におけば振り回されざるを得なくなります。自分以外の何者かにコントロールされてしまうことになるからです。ただし、価値の基準を自分の内側に持つ場合に注意しなければならないのは、エゴに囚われないことです。
エゴの正体は、注意深く見つめて行けば何であるか判るのですが、今回のテーマではないのでここでは触れません。もう一つ知っておいていただきたいのは物質世界、現象世界に囚われてしまうと物質世界、現象世界が果てるまで転生を繰り返すこになると言うことです。物質世界、現象世界を否定するというのではなく、物質世界、現象世界だけに囚われないことが大切だと思います。
今回の終わりに私は自分の体験世界をどう捉えているかについて書いておきます。私にとっての体験世界は二つの側面を持っていると考えています。一つは自分という存在が何であるかを知るために様々な体験をしているのだと言うこと。そして、もう一つは神が私に与えた役割を果たすための体験をしているのだと言うことです。後者の体験の意味を顕在意識が知ることは不可能なのではないかと私は感じています。
2009年11月30日
今回は「五感」について感じていることを書いてみます。「五感」とは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つであることは御存知のとおりです。我々が物質世界、自分の外の世界を知覚するための基本的感覚です。そして多くの人々にとっては「五感」で知覚し得ないものは、その存在を疑うくらいにその感覚を頼りにしており、あって当然と思っているのではないでしょうか。
空耳や幻覚など一つ一つの感覚は絶対ではないにしても、互いに補い合って確認しているのだから自分が知覚しているものは間違いなく客観的に存在している。それが多くの人々の物質世界に対する認識の根拠となっている考え方であり、スピリチュアルな世界に理解を持っている人も同じような考え方を持っているのではないかと思います。
けれどスピリチュアルな世界に疑念を抱く人々が信じているほど五感は確かなものなのでしょうか。私はそうではないと思っています。五感は意識の状態によって異なった情報を脳に伝えてしまい、違った判断をさせてしまう可能性を持っているのです。これから2〜3の具体例を挙げてみたいと思います。
まず最初は、スピリチュアルな世界に関心をお持ちの方ならよく御存知のお話しですが、絶海の孤島に住む現地の住民が初めて西洋の大型帆船を見た時のことです。カヌーのような小さなボートしか見たことのない彼らは、沖合に停泊する大型帆船をどうしても信じることができず、帆船の乗組員があの船で来たと説明しても、あくまでそんなものはないと主張して譲らなかったそうです。最終的にはボートで大型帆船の直ぐそばまで連れて行ってやっと納得してもらったと言うことですが、大型帆船の存在を信じられない現地の住民には沖合の大型帆船を見ることが出来なかったのです。
次の例は、そんな昔の話ではなく現代の日本に起きた話です。1〜2年前、6大紙の一部で報道されて知ったのですがオートバイ事故の話です。ある男性がオートバイで高速道路を走っている時に、縁石だかコンクリート塊だかと接触事故を起こしてしまいました。足にかなりの衝撃を受けたようですが何とか転倒は免れ、次のサービスエリアまで辿り着くことができました。そしてオートバイを駐車しようとして初めて足首から先が無くなっているのに気づいたという報道でした。次のサービスエリアまでどうしても無事に辿り着かねばならない理由が男性にはあったようですが、どんな理由だったかは記憶していません。
三つ目は特殊な事例ではなく、皆さんもその気になれば御覧になれる事例です。それは全国、幾つかの神社で行われている火渡りの神事です。燃えさかる炎の上を歩くわけではありませんが、意識の集中ができなければ確実に火傷を負います。けれど、意識の集中さえできれば特別な修行を積んだ人でなくても可能なのです。ただし、一瞬でも疑念が生じれば難しいし、朝から晩まで絶え間なく疑念を持つことを吹き込まれている一般の人には困難なのかもしれません。
私は我々の五感は日頃思っているほど確かなものではないと考えています。この三つの例からも分かるように外界を認識する唯一の手段である五感さえもが意識の影響を受けざるを得ないからです。心がそんなものは存在しないと信じ込んでしまえば見えているものさえ見なくなってしまうし、
意識が他に気を取られてしまうと感じるものさえ感じられなくなってしまうのです。
もう一つ重要なことは意識の状態は物質としての状態にまで影響を及ぼしてしまうと言うことです。熱いと思い込んでしまうと何でもないものに触れても火傷の症状が現れるし、意識を集中してしまえば火の上を歩いても火傷はしないのです。そこでは五感は本来の意味を持ち得なくなってしまうとも言えるのではないかと思います。
では五感は頼りにならないものなのでしょうか。私はそうは思いません。大切なのは自分の意識の持ち方にあるのではないでしょうか。スピリチュアルな世界に疑念を抱く人は勿論、スピリチュアルな世界を信じる人にとっても、このことは重要なのではないかと感じています。スピリチュアルな世界を信じる人は、ともすれば心や意識にばかり目がいってしまい物質を馬鹿にしたり謙虚さを見失いがちな傾向にあるような気がするからです。
けれど五感は、スピリチュアルな世界を信じる人にとっても信じない人にとっても外界を物理的に認識する唯一の手段であることに変わりはありません。そして、どんな認識を抱こうとも我々が現在は物質世界に存在していることは否定しようのない事実なのです。その物質世界において幻想に囚われることなく現実を認識するためには、五感を研ぎ澄ますことが極めて大切なことではないかと思います。恐れやファンタジーに囚われた愚かな人間にだけはなりたくないなと願っています。
2010年2月1日
努力と言うことについて少し書いてみたいと思います。この世界には努力マニアの方が沢山いらっしゃると思います。或いはほとんどの方が努力マニアなのかもしれません。私も努力は必要だと思っています。ただしそれは「我」や「エゴ」の願望を実現するためであって「魂」の目的を達成するためには必要ないものだと考えています。
「魂」は一定の目的を達成するために生まれてきているのだと思います。それは「神」から与えられた「役割」だと言っても良いでしょう。その「役割」を果たすために必要なことは願いさえすれば自動的に全て与えられるのだと思います。だから努力する必要はないのです。注意していただきたいのは「我」や「エゴ」の願望ではないと言う点です。
その意味では、どんなに高尚な願望或いはスピリチュアルな願望であったとしても努力しなければ達成できない願望は、「我」や「エゴ」の願望でああって「神」から与えられた「役割」ではないのです。また、刷り込まれた状態からの脱出には努力が必要となります。けれどそれは、「神」から与えられた「役割」に気づける状態になるだけであって「役割」そのものではありません。
「神」から与えられた「役割」が果たせる状態になれば、それが「悟り」を得ることになるのではないかと思いますが、残念ながら私はまだその段階には至ってはいません。また「我」や「エゴ」を完全に手放し切れているわけでもありません。だから、まだまだ努力が必要な状態にいるのではないかという気がしています。
そこで気がついたことが一つあります。幾ら努力しても達成できない願望があると言うことです。こんなに努力しているのに何故、達成できないのか。運がないからなのか、才能がないからなのか、或いは努力が足りないからなのか。そのいずれでもないと言うことなのです。どんなに努力しても達成できない願望とは、その実現が「神」に与えられた「役割」に反することになる場合なのです。
さっさと方向転換を図ることが必要ですが、どの方向に転換するかについては注意深く自分の内側を見つめることが極めて重要です。ここで他人の意見に振り回されたら同じことの繰り返しになる危険が極めて大きいからです。あなたの果たすべき役割はあなたにしか分からないのです。
2010年4月25日
私はこのページの中で機会あるごとに自分を見つめることの大切さに触れてきたと思います。昨年4月には自分を見つめるための方法論について書いてもいます。それは自分を見つめることが現世を生きて行く上で極めて重要なことだと考えているからです。けれど自分を見つめることは必ずしも簡単なことではありません。今回はその難しさについて私が感じていることを書いてみたいと思います。
自分を見つめることが何故難しいのか。それは自分に対して正直になることが難しいからではないでしょうか。自分で見たいと思う側面は誰でも見ることが出来ると思います。けれどそれは自分の全体像を見つめていることにはなりません。自分で見たいと思う限られた側面しか見ていないからです。それでは偏った自分しか見ておらず本当の自分を見ていることにはなりません。
見たくない側面を含めた、ありのままの自分を見ることが必要なのです。ありのままの自分を見つめ受け入れることが大切です。そこで初めて本当の自分が分かるのです。ありのままの自分を受け入れ理解するところから、その人の本当の生き方が始まるのです。けれどその為には幾つかの条件をクリアする必要があると思います。
まず最初にクリアしなければならないのは、見たくない側面を含めありのままの自分と向き合う勇気を持つことです。簡単なことではないと思います。ですが、ありのままの自分を見つめたいという強い気持ちがあれば必ず向き合うことが出来るようになると思います。ポイントとなるのは臆病な人々の言葉に耳を貸さないことです。
ありのままの自分と向き合う勇気のない臆病な人々はあなたの周辺にも数多くいると思います。彼らは臆病であるが故に群を作りたがり、一人でも多くの仲間を欲しがります。勇気を持とうとする人を恐れます。だから常に勇気を持とうとする人の邪魔をし、自分達の仲間に引きずり込もうとします。そうした人々の言葉に惑わされないようにすることが大切なのです。
次にクリアしなければならないことは、時期があることを理解し、待つことを知ることです。自分を見る、つまり他人を煩わせる訳ではないのだからその気になりさえすれば何時でも出来ると頭の中では考えがちです。けれど自分が見たくないと感じている側面を見ることは頭の中で考えているほど容易なことではありません。
自分が生きてきた現世の辛かった時、悲しかった時を考えてみてください。それも今の貴方を形作る一つの側面であることは確かなのです。向き合うためにはかなりの覚悟と勇気が必要でしょう。けれどそれだけでは向き合えない場合もあるのです。でも、諦める必要はありません。物事にはそれが訪れるためのタイミングというものがあるのです。その時期が来るのを待つと言うこともとても大切なことなのです。
三つ目は価値判断を手放すことです。価値判断に囚われているとポジティブな意味においてもネガティブな意味においても自分を正確に見ることが出来なくなります。価値判断は如何なるものであっても先入観となって自分を見る眼を曇らせてしまうのです。まず、あるがままの自分の全体像を確かめなければ本当の自分を生きることは困難となるでしょう。
では、価値判断そしてその基準となる価値観は必要のないものなのでしょうか。そうではありません。自分が何を選択し、どう生きて行くのかを判断するときには価値観は必要欠くべからざるものです。自分を確認することと自分がどう生きて行くのかと言うこととは密接不可分に繋がっていますが全く別のことなのです。
2010年8月23日
今回は意識の階層ということについて感じていることを書いてみたいと思います。人間の意識は実に様々なことを思い浮かべることができます。学問や芸術から愛情或いは仕事、果ては食欲まで極めて多岐にわたります。哲学では形而上、形而下といって経験的現象を越えた原理、経験的・感性的現象といった分け方をしたりするし、抽象的という言葉で分類することもあります。
分類方法は見方によって色々と変わると思いますが、世界観や価値観によって変化することはあっても人によって抽象的なことは考えないとか形而下的なことは思い浮かべないということはあり得ないと思います。そういう方向で努力することは出来ても全く意識しないでいることは困難でしょう。
私はここで人間の意識のあり方について述べるつもりはありません。ただ、意識というものは様々なことを思い浮かべるものなのだと言うことを確認しておきたいだけです。そして意識が思い浮かべる対象の上下は価値観によって異なりますが、一つ一つは必ずしもバラバラに存在するのではなく複雑に絡み合っているのではないかと思います。
では、「気づき」とはどのレベルを対象として生じることなのでしょうか。取っ掛かりは人によって色々だと思いますが、一般的には生きるか死ぬかの切実感が余り伴わない意識の上部構造が対象となる場合が多いのではないかという気がします。食べる、排泄する、呼吸する等と言った生命維持に必要欠くべからざるものと考えられていることが、いきなり「気づき」の対象となるケースは稀なのではないかと思います。
けれど「気づき」の対象となるのは意識の上部構造だけなのでしょうか。常識的には生命維持に必要なことは必然であって気づくも何もない、当たり前のことと考えがちだと思います。しかし、「気づき」が深まるにつれて自分の存在そのものへの疑問や「死」についても考えざるを得なくなってきます。そして、その段階では生命維持に必要なことも必ずしも当然とは言えなくなってくるのではないかと思います。
睡眠とか五感とか日頃自分が当たり前、当然のものと考えていた知識や感覚が極めて曖昧なものでしかないことに気づかざるを得なくなるのです。自分が当たり前と考えていたことが本当に確かなことなのか再確認せざるを得なくなります。つまり、意識の上部構造だけではなく当然と思いこんでいた生命維持に必要なことまでが「気づき」の対象となるのです。私は自分の存在を構成する全てが「気づき」の対象となるのではないかと考えています。
それでは「気づき」には果てがないのでしょうか。自分の存在を構成する全てが対象となり、人間の想念には限りがないという意味においては生きている限り果てなく「気づき」は続くのではないかと思います。けれど私は無限に続くと言うようには考えていません。人間の生命に限りがあるという意味からだけではなく、その人の現世において必要な範囲でしか「気づき」は起こらないのだと思います。だからこそ、ほとんど何も気づかないまま現世を終える人も沢山いるのではないのでしょうか。
最後に一言、ここで言う「必要」とは「エゴ」とは無縁のものなので念のため。
2010年10月27日
今回は大きな流れと言うことについて少し書いてみたいと思います。私が言う「大きな流れ」とは「神の意図」と言った種類のもので「社会の意図」とは全く関係がないことを最初にお断りしておきます。社会全体の流れのようなものは、大きな意味で「神の意図」の一部を為す場合もあるとは思います。ただ「意図」は「神の意図」を除けば全てが突き詰めて行けば何者かの「我欲」の変形に過ぎないのだと思います。
大きな流れに沿って動ける時は、特段の努力がなくても事態はスムーズに流れてゆきます。これに対して我欲に基づく願いや願望を実現しようとするためには、それ相応の努力が必要となります。そして如何に努力しても実現できない場合もあります。逆にその人の意図に関係なく行為が大きな流れと合致している時にはスムーズに流れる場合もあるのだと思います。
では、大きな流れを知るにはどうすれば良いのか。私は究極的には我欲を手放すことに尽きるのではないかと考えています。ただ、我欲を手放すことは必ずしも簡単なことではないし、何かの瞬間に大きな流れの一部を垣間見ることが出来ることがあるのもまた事実だと思っています。何時、見れるか分からない瞬間を漠然と待つのではなく、知りたいと感じた時に見る方法はないのでしょうか。
私は瞑想と五感を鋭く研ぎ澄ます以外にはないのかなと感じています。大きな流れというのは、決して人から教えてもらうことは出来ず、自分で感じ取る以外に知る方法がないからです。人から教えてもらうことが出来ないとすれば、外からの情報は全て大きな流れ以外の雑音に過ぎなくなります。その雑音を遮断する手法が瞑想ではないかと思います。瞑想を通じて自分を見つめることが重要なのです。
同時に自分で感じ取るためには五感を鋭く研ぎ澄ます必要があります。他の項でも書きましたが、人間の五感はそのままでは極めて曖昧なものになってしまいます。特に様々な面で便利となり同時に絶えず我欲の刷り込みが行われている現代社会では一層歪んだものとなっている可能性が大きいのです。五感が歪んでしまっていては大きな流れを感じ取ることは困難です。
現代社会は「我欲」と「大きな流れ」が混在している世界です。表面的には「我欲」が大半を占めているように見えますが、「大きな流れ」も厳然として存在しています。「大きな流れ」を見極める力を養うことが本来の自分を生きることに繋がるのではないかと考えています。
2011年1月31日
明けましておめでとうございます。私はこれまで幾つかの事項について私が考えていること、感じたこと、気づいたことなどを書いてきました。今回は精神世界についての感想みたいなことを書いてみたいと思います。私たちの周囲には物質世界が万能或いは全てと考えて生きている方々が数多くいると思います。その人々が誤っている、間違っているなどと言うことをここで書くつもりはありません。
繰り返される転生の中では、聖職者だったこともあれば暴力組織に属していたこともあるし、王侯貴族だったこともあれば奴隷だったこともあり、セレブだったこともあればホームレスだったこともあるでしょう。芸術家やスポーツ選手、政治家や学者だったこともあるでしょうし、平凡な全く目立たない一市民だったこともあるのだと思います。
現世で今、共に生きている人々が転生のどの段階にあるのかは人によって千差万別の筈です。だから他の人々の生き方が正しい、間違っているなどと価値判断をしてみてもあまり意味がないような気がします。大切なのは自分がどの段階をどういう生きるのか、なのだと思います。勿論、物質を万能と考え、物質に囚われた生き方をしている人々が己の価値観を他に押し付けようとすることはよくあることですが、全く次元の異なる話に過ぎません。
また、私は物質に囚われた生き方に対置される世界として精神世界があると考えています。物質及びその延長線上にしかない欲望に囚われた世界から解放される生き方だと思います。ただ、注意しなければならないのはアンチ物質の想いから、ともすれば観念論に陥りやすいことだと思います。観念論に陥ると物質に価値(=意味)を認めず無視しがちになります。けれど物質に囚われることからの解放であって、物質を無視することではないのだと思うのです。
では、私は魂の存在を認めないのかというと、そういうわけではありません。また魂が物質だと思っているわけでもありません。魂は肉体に宿ることによって、この物質世界に存在することになると考えています。肉体に宿った以上、肉体としての制約つまり物質としての制約を受けざるを得ないのだと思います。観念論に陥るとこの事実を見落としがちになるような気がします。
けれど事実であることに変わりはなく、受け入れなければ現実が見えなくなってしまうと思います。また、何のために物質世界で転生を繰り返すのかも分からなくなってしまうのではないのでしょうか。物質世界に囚われることから解放されるために観念の世界、想念の世界が必要となりますが、ある段階で再び物質の世界に戻ってくることになる。但し、囚われるために戻ってくるのではなく、全く新たな視点で体験するために戻ってくるのであり、それは現世を終えるまで続くのだと思います。
2011年5月8日
私はこれまで幾つかのことをこのページに書いてきました。それは私の想いであり、想念であり、願いでもありました。けれど私は最近、書く意欲を失いかけています。私の想い、想念、願い、どのように表現しても構わないのですが、所詮、我欲の一形態に過ぎないのではないかという気がし始めたからだと思います。
どのように高尚な想いであったとしても、我欲の一形態に過ぎないのであれば単なる我欲との違いは何処にあると言えるのでしょうか。ここが違う、あそこが違うと百万言を費やして述べてみたところで所詮、価値観の相違以上の何者でもないのではないかという気がしています。
言葉は自己の想念を抽象化して他に伝えるものであり、触媒としての役割以上のものは担えないのではないのでしょうか。伝えられた想念に真理が含まれていたとしても、知っているだけでは単なる知識に過ぎないのだと思います。自分が見つめ、感じ、考え、受け入れなければ本当の自分を生きる道には繋がらないでしょう。
自分にはそんな能力はないと思うのは経験が不足しているだけなのだと思います。全てを知りうるだけの経験をたった1回の現世だけで得られるのでしょうか。1回の現世は平均的には70年から80年です。120年、130年生きてみたところで多寡が知れています。何十回、何百回に及ぶ転生と比較にはならないでしょう。
転生などあり得ないという人には伺いたいと思います。1回こっきりの現世であるならば、何故、100年や200年ではとても埋め尽くせないほどの想念の差が存在するのでしょうか。初期の極めて幼稚な魂には、とても理解できないことであるとは思います。けれど自分もその段階を経てきているのだと言うことを忘れるべきではないと思います。
ここまでだけでも今回は、かなりシビアな話を書かせてもらいました。あらゆる意味での価値観を手放し、あるがままの自分を見つめようとすれば、ここに至らざるを得ないのではないかという気がします。では、全てが我欲に過ぎないとするならば、自分の存在には意味がないのかというと、私はそうは考えてはいませんが今日はここまでにしたいと思います。
2011年8月29日
物事には広がりと奥行きがあることは誰でも知っていることだと思います。気づき、悟り、或いは自分を見つめるという作業にもそれはあります。今回は広がりと奥行きと言うことについて書いてみたいと思います。
自分を見つめるという作業において広がりは無限です。何処まで追いかけても果てはありません。けれど4次元的にはその広がりは閉じられています。広がりが閉じられていることを認識する為には一定の奥行きが必要となります。意識は常に広がりと奥行きを持っていますが、奥行きが浅い間は広がりが閉じられていることを感じることは出来ません。
奥行きはある段階に達するとそれまでとは別の次元へと移行してしまいます。次元を移行してしまうと前の次元での広がりは意味を持たなくなります。また、広がりは元の位置へ戻ることも可能ですが、次元を移行してしまうと元の次元へ戻ることは出来ません。
何が広がりで何が奥行きであるのかは自覚する以外に理解する方法はありません。知識として教えられたとしても、それは広がりの一部でしかないのです。この事が理解できなければ奥行きを知ることは出来ません。
奥行きと広がりの違いを感じ取る為には深く深く自分を見つめるしか方法はありません。瞑想はその方法の一つです。深く自分を見つめられるようになれば音楽を聴いているだけでも奥行きと広がりの違いを感じられるようになります。
音楽と言っても別にクラシックを聴く必要はありません。クラシックでも構わないのですが歌謡曲でも十分なのです。では、どの歌謡曲を聴けば感じられるのでしょう。それは人によって千差万別です。Aさんがこの曲で感じたからBさんもその曲で感じるというような性質のものではないことに注意しなければなりません。
この世界に住む人々はマスコミ等の刷り込みによって、ああしなければならない、こうしなければならないという考え方に慣らされてしまっています。そのような考え方から抜け出さなければ意識における広がりと奥行きの違いなど感じ取ることは出来ません。けれどこの世界ではそれが最初で最大の難関であるような気もします。
2012年1月2日
明けましてお目出度うございます。一つの五千年期の最後の年を迎える事となりました。次の五千年期はなどと考えてしまうところに人間存在の本質が潜んでいるのではないでしょうか。五千年期はマヤの天文学とそれに基づく暦によって考え出された周期ですが、キリスト生誕を紀元とする現在の暦よりは科学的なのかも知れません。
マヤの伝承の中には五千年期は3回繰り返され、今の五千年期はその最後に当たるという考え方もあるようですが、私は物理的な大変動が起こるとは思いません。一つの五千年期から次の五千年期へ移行する時期には天変地異が発生しやすいとも伝えられていますが、昨年発生した東日本大震災は、その一つなのかも知れません。けれど人類の滅亡に結びつくような大変動は起こらないでしょう。
ただ、私はスピリチュアルな意味においては極めて大きな変化の時代を迎える事になるような気がしています。この半世紀の間に天文学と物理学は飛躍的な発展を遂げ、人口は爆発的に増加しました。次はスピリチュアルな側面における飛躍的な進化が必要となるのではないでしょうか。現在の経済構造、社会構造のままでは、そう遠くない時期に人類は行き詰まりを迎える事になるでしょう。それは今までが誤っていたという事ではなく、新たな時代に対応した新たな価値観が必要になると言うことだと思います。
多くの人々がそこを混同しているのではないかという気がしますし、自分を見ることの難しさがそこにあるのではないかと思います。