連載記事2


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決めつけ、思いこみ
選挙が済んで
物保ちの良さ
夏の食品に注意
体を鍛える
携帯電話
情報を読み解く
体を動かす
電子書籍
記憶力を補う
家事を手際よく01
家事を手際よく02
家事を手際よく03
家事を手際よく04
家事を手際よく05
家事を手際よく06
家事を手際よく07
家事を手際よく08
家事を手際よく09
家事を手際よく10
家事を手際よく11
家事を手際よく12
家事を手際よく13
家事を手際よく14
家事を手際よく15
家事を手際よく16
家事を手際よく17
家事を手際よく18
家事を手際よく19
家事を手際よく20
家事を手際よく21
家事を手際よく22
家事を手際よく23
家事を手際よく24
家事を手際よく25
家事を手際よく26
家事を手際よく27
健康増進、維持のために01
健康増進、維持のために02
健康増進、維持のために03
健康増進、維持のために04
健康増進、維持のために05
健康増進、維持のために06
健康増進、維持のために07
健康増進、維持のために08
健康増進、維持のために09
健康増進、維持のために10
健康増進、維持のために11
健康増進、維持のために12
健康増進、維持のために13
健康増進、維持のために14
健康増進、維持のために15
健康増進、維持のために16
整理整頓 気持ちの切換
整理整頓 計画を立てる
整理整頓 処分方法を考える
整理整頓 どれだけ残すかを考える
整理整頓 無駄に買わない
整理整頓 愛着を断ち切る
整理整頓 捨てるチャンスを逃さない
整理整頓 いつ捨てるか
整理整頓 こまめな手入れで長持ちさせる
整理整頓 目に付いたら掃除
整理整頓 汚れを取りやすくする工夫<
整理整頓 同じ物を買わないために使い切る



整理整頓 汚れが目に付かなくともきちんと掃除
整理整頓 掃除をする場所を計画し、マニュアルを作る
整理整頓 匂いに気を付ける
デジタル生活 青空文庫
デジタル生活 情報取得
デジタル生活 情報発信
デジタル生活 通販
デジタル生活 報道
デジタル生活 同好の士
デジタル生活 サークル
デジタル生活 連絡
デジタル生活 ダウンロード
デジタル生活 詐欺に気を付ける
デジタル生活 SNS facdbookやtwitter
デジタル生活 公的手続き
デジタル生活 メール
デジタル生活 文書、図形など
デジタル生活 資料をそろえる
デジタル生活 オークション
デジタル生活 計算式、各種素材
デジタル生活 ネット依存症
デジタル生活 ネットショップ出店
デジタル生活 商品モニター、クイズ、応募
デジタル生活 資産管理、投資など
デジタル生活 個人情報
デジタル生活 ウィルス
デジタル生活 素材販売 写真、イラスト
デジタル生活 パソコン、ネット以外
デジタル生活 ブックスキャナー
健康を得るために 運動
健康を得るために 運動ー2
健康を得るために 食事
健康を得るために 呼吸
健康を得るために 精神
健康を得るために ストレス
健康を得るために 日頃の心がけ
健康を得るために 服装
心の健康をケアする 体の健康を保つ
心の健康をケアする 本を読み文章を書く
心の健康をケアする 趣味を持つ
心の健康をケアする 感動する
心の健康をケアする 人と接する
心の健康をケアする 頭を鍛える
心の健康をケアする 身ぎれいにする、掃除をする
心の健康をケアする 技術を磨く
心の健康をケアする 周囲に関心を払う
心の健康をケアする 人の役に立つことをする
心の健康をケアする 好奇心を絶やさない
心の健康をケアする 適当に遊ぶ
心の健康をケアする 悪い習慣を断つ
心の健康をケアする ストレスを管理する
心の健康をケアする 目標を持つ
心の健康をケアする あきらめない
心の健康をケアする 何かを学ぶ
心の健康をケアする 年齢変化を受け入れる
心の健康をケアする 記憶力を鍛える
心の健康をケアする 年と共に幸福度が上がる
心の健康をケアする 年を取ること、劣化ではない
心の健康をケアする 高齢者による犯罪が話題になっている
心の健康をケアする 老成、老熟を評価する



健康のための食事 体は食物から出来ている
健康のための食事 小食は寿命を延ばす
健康のための食事 人間は雑食動物
健康のための食事 味覚を麻痺させないための薄味
健康のための食事 カロリー悪者説
標準体重は本当か
健康のための食事 毎日同じものを食べる
健康のための食事 調理に時間をかけない
健康のための食事 棄てる物こそうまい
健康のための食事 欲するものを食べる
健康のための食事 日本食が健康食と言われるわけ
健康のための食事 たばこは味覚を殺す
健康のための食事 コレステロール、尿酸、中性脂肪、血糖
健康のための食事 空腹は最良のソース
健康のための食事 腐敗と発酵
健康のための食事 臭い物
健康のための食事 調理の衛生管理
物作りの奨め
物作りの奨め 見回せば宝の山
物作りの奨め 頭を使う楽しさ
物作りの奨め 田中久重の天才
物作りの奨め 役に立たない物を作る
物作りの奨め 何処にも無いものを作る
物作りの奨め 工夫が楽しい
物作りの奨め 家のリフォーム
物作りの奨め 作ってみたいから作る
物作りの奨め 買えないものを作る
物作りの奨め 完全を求めない
物作りの奨め 他に方法がない
物作りの奨め 頭の訓練
物作りの奨め 廃物利用
物作りの奨め 実用品を作る
物作りの奨め 思いつきで造る
物作りの奨め 金儲けになる?
物作りの奨め 段ボールで実用性のある物
物作りの奨め 芸術作品を作る
物作りの奨め 修理も物作りの内
物作りの奨め 手作りの技術
物作りの奨め 必要だから作る
物作りの奨め 頭の訓練になる
物作りの奨め 作ること自体を楽しむ
健康で生活するために 健康の意義
健康で生活するために 決めつけない
健康で生活するために 日常生活の運動習慣
健康で生活するために 文章を書く
健康で生活するために 酒は程々に
健康で生活するために 好奇心を持ち続ける
健康で生活するために 新しい事もやってみる
健康で生活するために 出来るか出来ないかを考えない
健康で生活するために 脳を育てる
健康で生活するために 筋肉を鍛える
好奇心を保ち続ける
健康で生活するために 頭の体操
健康で生活するために 洗濯はこまめに
健康で生活するために 勉強の奨め
健康で生活するために 生活の規格化
健康で生活するために 自家製食品
健康で生活するために 安全を確保する
健康で生活するために 長生きをするために
健康で生活するために 具体的な目標を持つ(NEW)




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決めつけ、思いこみ

これを書いているのは6/27日であり、ワールドカップで日本がデンマークに大勝 し未だ興奮さめやらぬ時期だ。29日にはパラグアイ戦があり、その結果がわ かってから記事を書いても良いかと思ったが、あえてまだ結果が出ない内に書く。

それにしても、ワールドカップの直前、親善試合で岡田ジャパンは未曾有の4連 敗をし、岡田監督の進退問題まで出てくる始末だった。だから、彼が4強入りを 目指すと言っていたのをあざ笑い、地区別リーグ戦で敗退すると多くが予想し、 これで、日本のサッカーは終わった、などと言う声もネットにあふれていたし、 またサッカー関係者達もそれぞれ厳しい発言をしていた。

ところがところが、いざ幕開けしてみたら、アフリカの強豪、カメルーンを蹴散 らし、オランダには負けたが予想以上の善戦でオランダを苦しめ、そしてデン マークには快勝と言って良い勝ち方をした。

かつての予想とは裏腹に、日本は決勝トーナメントに駒を進めた。となると、今 のネット上には岡田ジャパン万歳の記事があふれ、専門家達もかつての酷評は影 を潜めて、期待の声があふれている。中には油断しないで自信を持てのような発 言もあるが、まるで最初から自分は岡田監督を信頼していたかのようなことを言 う関係者まで居て、唖然とする。

しかし、実は私も以前は岡田監督はだめだめ論に傾いていたのだ。選手の心をつ かんでいない、その場限りの戦術、すべてに負け犬根性・・・いやはや我ながら 忸怩たる物がある。しかも私にはサッカーを論ずるほどの知識など無く、ワール ドカップが迫るに連れてなんとなく興味がわいてきただけに過ぎない。だから、 自分で試合の評価が出来るわけでもないのに、事前の岡田ジャパンに対する評価 をそのまま鵜呑みにしていただけだった。

考えてみれば、自分では判断する知識も基準も持たないのに、専門家や、多数の 意見をいつの間にか基準として決めつけてしまう事がかなりあるような気がする。

私はもともとスポーツには興味がないので、野球でもサッカーでも相撲でも自分 自身で持っている基準はない。だから、どうしてもテレビやネットなどでの多数 意見が自分の意見として勘違いされてしまうのだろう。

まあ、私のスポーツに対する意見は、大勢には影響しないが、それでも自分の基 準が本当に自分で判断した結果なのか、あるいはなにかを鵜呑みにしているのか の区別はつけなくてはならないだろう。

仕事上の判断は、自分で可能な限り確認した事を基準にしているが、当然一人で 何もかも確認するわけには行かないので多くのデータを照合して参考としている。

今回の岡田ジャパンを見て、無意識のうちに自分の基準は自分の物か借り物かを 考えなければならないと痛感した次第だ。

いずれにせよ、岡田ジャパンには勝ち上がってほしい。

by ロクスケ


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選挙が済んで

今月の11日は参議院の改選選挙だった。結果はご存じの通りで、支持する政 党により、良かったという人もいれば、残念だったという人もいるだろう。それ はその人それぞれの立場なので、ここではそれをとやかく言うことはしない。

私も投票に行って来た。どうも毎年選挙の投票率が芳しくなく、今回も前回よ りも下回ったという。それは非常に残念だと思う。せっかく自分の意見を政治に 反映できる貴重な機会であり権利なのに、それを行使しないのがどれほどもった いないことなのか、もう少し考えてもらいたいと思う。もちろん、事情があって 投票にいけなかった人もいるだろう。

また、支持する政党がないから行かなかったという人もいるかも知れないが、 その場合は白票を投ずることで意志を示すことが出来る。

一番もったいないのは政治に関心がない、分からない、どうせどんな結果が出 ても日本は変わらないと考えて、投票をしない事だ。

日本では世界でも珍しい自己記入方式の選挙であり、有権者が自分で立候補者 や政党名を記入する投票方式であり、だからこそその日の夜にはおおかたの予想 が固まり、翌日未明には結果が出てしまう。これは世界でもほとんど類のないこ とであり、多くの国では結果が出るまでに2,3週間、時には一月以上かかる場 合がある。

日本の開票結果が早く出るのは、自己記入方式だからだが、当然それは国民の 識字率が高いから出来ることなのだ。海外では国民の半数以上もが文字の読み書 きが出来ないために、投票用紙一枚一枚に、候補者の写真やシンボルマークを記 入するが、候補者が多いと、一枚一枚の投票用紙が新聞紙並の大きさになり、そ れが開票の手間取る原因となる。また、買収や脅迫による投票などの不正が少な いのも日本の選挙の特徴と言っていい。

しかし、どんなに機能的でも効果的でも正直でも、投票率が毎回低くては意味 がないのではないか。一般に投票率が低い場合は組織票がのび、浮動票が落ちる 傾向がある。組織票自体も実はあまり感心したものではなく、投票はあくまで個 人の意志による物であって、誰かに依頼された、義理がある等の理由で、自分が 知りもしない候補者に投票するくらいなら、それこそ白紙投票をした方がよい。 そして、なにより、そんなもったいないことをするくらいなら、今ではネットで も、新聞でもテレビでも、とにかくどこの政党が何を主張し、どの候補者が何を するつもりなのかが分かるはずだ。

資料を読んでみても、何をするつもりなのか書いてない場合は、立候補者とし て信頼できないと見て良い。とにかく候補者の選択の基準を自分でもつことが何 より必要なのではないか。テレビ一つ買うのでも、値段、色映り、寿命、感度、 安定性等々様々な性能を調べ、その上で自分が納得した製品を買うのと、どれを 買って良いか分からずに単に店員が勧めた、安かった、見かけが良かった等の理 由で買うのとは全く結果が違うだろう。後から後悔しても、それは自分の責任な のだから文句の言いようがない。

選挙をどうでも良いと考え、その結果自分が思っていたような政治にならな かったら、それは文句を言ってもしょうがない。自分の勉強不足と関心の薄さが 招いた結果だからだ。



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物保ちの良さ

私の年齢だと、戦後の貧しい時期を子供時代に過ごしているのと、当時の親の しつけから、物を粗末にしてはいけないと言うことが骨の髄までしみこんでい る。これはもう自分でもどうしようもない習性となっており、無意識にそのよう に行動しているのであり、これには自分でも理解を超えることがある。

もちろん、物を大切にすること自体は非常に良いことだと思っているし、日本 をはじめ世界中で省資源、リサイクルが大きな課題になっている。その意味で、 日本は世界でも相当優れた技術を持っていると言っていい。またmottainaiは世 界でも知られるようになり、如何に資源を無駄遣いしないか、有効利用するか は、産業の大きな分野になっていることは喜ばしく、私の多少行き過ぎた習性も 決して恥じることはないはずだ。

しかし、困ることもある。物を捨てられないのだ。気が付くと押入やクロゼッ トの中はとっくに着られなくなった衣服が詰め込まれている。年齢的、体系的理 由、色あせ型くずれほころびなど様々な理由で着られなくなったからであり、 さっさと捨てるべきなのだが、なぜか着もしないのに場所ふさぎになっている。

仕事柄、様々な機械の部品、壊れた道具、鉄や銅、アルミなどの金属片等々が 作業場に転がっている。電子部品も、今では到底使われなくなった真空管やコン デンサ、抵抗、IC、トランジスタなどなど山を為している。電子部品は、技術の 変革が激しく、実際にはまったく使い道がない物がほとんどなのだが、入手した ときは大変な価格を払った。

今でも覚えているが、一番最初に買ったダイオードという部品は、当時の金で 1000円以上したから、おそらく今では1万円くらいに当たるのではないかと 思うが、現在買えば5円くらいだろうか。逆に当時数百円で買ったオーディオ用 の真空管が今では一万円くらいする物がある。いずれにせよ、今は使わないのだ から、場所ふさぎであることは間違いがない。

今では家電製品も捨てるのに金がかかるし、知らない間にビデオデッキ、パソ コンモニター、プリンター、パソコン本体、アンプ、カセットデッキ、餅つき 機、ジューサーなどが積み重なっており、以前はばらして部品を取った残りを細 かくして捨てたりしていたが、それも追いつかない状態だ。

物を大切にするのは良いことだが、住居スペースは非常に貴重であり、無料で はないのだから、使う当てのないがらくたでその貴重なスペースをふさぐのは非 常に無駄であることは十分に理解している。しかし気が付けばがらくたがたまっ ている。DNAレベルまで染みついた習性とは恐ろしい物だ。1年使わない物は捨 てて、使うときにまた買った方がよいとされているのだ。

せめて、最近がらくたの山をほじくり返して大小の扇風機を作り、今便利に 使っているくらいが、リサイクルの成果だろうか。器用な人なら簡単に作れると 思うが、パソコンのCPUクーラーについているファンを利用して、卓上の小型扇 風機を作ったのなどはなかなか使い勝手がよい。古い機械からはずした冷却ファ ンを4つ組み合わせてカメラ三脚に取り付けた扇風機は今活躍している。日頃が らくたに埋もれそうになっているせめてもの言い訳にしている。

by ロクスケ


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夏の食品に注意

今年の猛暑は記録破りの高温続きで、しかも春が寒くて急に暑くなり誰もが暑 さになれない内にこの猛暑にさらされたため、例年になく熱中症で倒れる人、亡 くなる人が増えている。

私は北国育ちなので、冬の寒さは別に何ともないが、夏の暑さは応える。一番 駄目なのは食欲が無くなり、ついつい面倒くさくて食べるのを止めてしまうと、 結局体力を損なうことになるし、運動不足もあってますます空腹にならない。

消化吸収力も衰えているので、夏の食事は本当に気をつけなければならないと 思っている。もうひとつ、夏は本当に食べ物が傷みやすく、ちょっと油断をして いると作り置いた物が駄目になっている。毎日3食食べていればそんなこともな いのかも知れないが、つい食べ忘れて10時間くらいも置くと大半はアウトだ。

本当はあら熱を取ったら冷蔵庫に入れればよいのだろうが、次に食べるときに 加熱すればいいと思って、油断をするのだ。そこで、今ではなるべく作り置きを しないことにしている。ご飯も炊かない場合が多い。私は炊飯器を使わず、鍋で ご飯を炊いているのでそのままにしておくと保存が利かない。いずれにせよ、一 食分くらいを炊くのだが、それでも余る。結局、今一番食べているのは麺類と言 うことになる。

作り置きのおかずも置かないようにしたので、結局うどんにその場その場であ り合わせの物を茹でた麺に乗せて食べる。これが結構簡単に済むので気に入って いる。

今日などは、ゴーヤチャンプルうどんを食べた。ゴーヤのワタを抜き、一セン チ幅に切り、さっと湯がいて、あとは炒め、最後に豆腐、卵、おかかを加え、醤 油で味付けをした物を茹でたうどんの上にかけ、いりごまと海苔を散らして食べる。

店先でゴーヤを見て買ってきた物を単にうどんと一緒に食べてみようと思った からだが、ほろ苦い味が結構食欲も増進するらしい。おもしろい味で、是非試し てみてはいかがだろうか。

結構食べでがあるし、それなりに栄養もとれていると思う。なにしろ、簡単に 出来るし、どんぶり一つ洗えば済む。これは、食器洗いから食中毒菌に感染する 危険性を減らす意味にもなる。他にも麺に野菜炒めを乗せたり、納豆と卵、刻み ネギ、海苔をのせ、醤油をかけて食べるとか。

夏などはこれですませば便利だ。また本来刺身などの生ものが好きだが、夏は 自分ではやらない。刺身を勝ってきて食べるが、どうもあまりうまくない。そん な場合は刺身の茶漬けにするなどもよい。ご飯の上に(これはうどんは駄目で、 パックご飯などを使う)刺身を並べ、わさびと醤油をかけ、海苔を散らしてから 熱湯をかける。夏はお茶漬けかうどんに限ると、最近は思っている。

それではちょっと栄養が偏る気もするし、胃腸にも優しい補完食品として自家 製のヨーグルトを食べることにしている。夏場は簡単に出来るのがうれしい。牛 乳パックとプレーンヨーグルトを買ってきて、牛乳パックを開けてヨーグルトを 入れ、蓋をしてよく混ぜてから、今度はヨーグルト容器に牛乳パックから入れ る。交互に混ぜるように入れ替えて、互いの容器の中で混ざり合ったら、あとは 蓋をクリップで留めて、エアコンのない場所に一晩おいておけばヨーグルトになる。

次からは、牛乳だけを買ってきて、作ったヨーグルトを混ぜれば、次々と作る ことが出来る。

ヨーグルトは単に食べるだけではなく、料理に使っても結構うまい。野菜炒め に入れたり、みそ汁に入れるのも試してみる価値がある。

by ロクスケ


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体を鍛える

私は中高年の、後年の方に入っており、知らない間にずいぶん年を取った物だ と、今更ながら気が付いたりしている。日頃、年の割には体力もあり、目立った 不具合もないし、運動能力も同年齢の中では高い方だろう。自転車で坂道を駆け 上がったり、駅の階段を駆け上るくらいのことは出来る。

しかし、それでも確実に体は年を取っているのであり、特に今年の猛暑では日 本各地で高齢者が大勢熱射病で亡くなった。年を取ると、温度に対して鈍感にな り、暑くてもそれに気が付かなくなるのだそうだ。本来なら、人間は外気温が高 くなると、体の温度を下げるために大量に汗をかき、また暑さを感じてそれを対 比する行動、つまり日陰に行ったり水を飲んだり、風に当たったりして体温の異 常上昇を防ぐ。しかし、高齢者はそれが出来ないので、気が付いたときは体温が 以上に上がってしまい、熱中症になって命を落とすのだとか。

幸いなことに私は暑さを感じてはいるから、嫌いなエアコンを今年は欠けっぱ なしだし、目の前の机の上に工業用の温度計(昔の物で正確に動く)と、部屋の 反対側には私が自作した電子式の温度計を設置してある。そうやって、気が付か ない家に室温が高くなりすぎるのを防いでいるのだが、結構温度計表示は高く、 それに対応して暑さも感じている。

また仕事上いつもエアコンの風を浴びているわけにも行かず、体を動かすこと もあるが、そうなると、シャツが絞ればぼとぼとしたたるほど汗をかく。つまり 私はまだ汗をかく能力を失っていない訳で、汗をかきながら安心した次第だ。

しかし、それでも今年の夏めっきりと体力が衰えたと思った。駅の階段を駆け 上る気力が起きないし、たまに駆け上がると少し息が切れる。前ならまったく平 気だったのだが。たしかに運動不足は著しく、また大量に水を飲んでいて、多い ときは一日5リットルくらい飲んでいた勘定だ。また、どうしても食欲がないの で、簡単な物を流し込むことが多く、そして熟睡できない。これが体力を損なっ た原因なのだろうが、一番の原因は年を取った、と言うことだ。

年を取るのは誰にもどうにも出来ないが、年を取れば比例して体力が衰えるわ けではない。鍛えれば回復する機能もたくさんあり、今まで年齢よりも体力が あったといえるのは、おそらくそれによる物であり、今年の夏はあまりの暑さに それが出来なかったと言うことだ。

後1,2週間は暑いと言うが、それでも朝夕の風は涼しさを含んでいる。もう 少ししたら積極的に体を動かし、もう少しましな物も食べられる様になったら体 の鍛え直しをしなければならないと思っている。幸い、耳も眼もそれほど衰えを 自覚していないし、多分大丈夫だろう。



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携帯電話

先日、携帯電話の充電が出来なくなり、そろそろバッテリーが消耗したのだろう と考えた。なにしろ、今使っている機種は使いやすくて気に入っていたので、か なり長期間使っている。製造時期が2005年6月とのラベルが貼ってあるので、 遅くとも5年前には買ったのだろう。一時期紛失して別の機種を買ったが、その 後見つけたので、またこの機種に戻したという経緯がある。

通算4年くらい使っているはずなので、電池が駄目になるのも無理はないと思っ たのだ。そこで、電話ショップに行った。そろそろ、新しい機種に買えなければ ならないかも知れないと思ったからだ。そこのスタッフの対応がかなりいい加減 でいらいらさせられたが、結局機種の買い換えは止めて、今の機種を使い続ける ことにした。それほど、この機種が使いやすく、形も気に入っていると言うこと だ。

なにより、電池がもう少し使えると言うことだし、電池も本当に消耗すれば新し い電池がポイント利用で無償でもらえる。まあ、通常販売停止から7年が一般の 部品供給期限収量だし、消耗品である電池はもっと早いと考えられるから、電池 が入手できるのも層永井時間官はないとは思うが。

機種変更を思いとどまった理由は、とにかく使いもしない機能があまりに多く、 形もしっくりとこない物が多すぎるのだ。私はカメラ機能も使わないし、携帯メ ールも、第一携帯でのネットは一切やらない。だから、お財布携帯もゲームも何 もかも一切やらない。私に必要なのは通話機能と、電話帳であり、ごくたまに便 利機能で電卓やアラームを使う程度だ。電話帳がつくからにはモニターが要るが、 電話メーカーとしては、モニターがついたら自動的にカメラもつけなければ気が 済まないのだろう。カメラをつけるからには画素数で競い、Qコード読みとりや ナビ機能も付けなければとエスカレートするらしい。使いもしないに、迷惑至極 だ。

といって、高齢者向けと称する簡単携帯で事実上仕事には使えない。どうしても 電話帳が要るのだ。また、閉じた形で時間が分かる機能も必要であり、つまり、 通話と電話帳と時計がついていれば、他の機能はいらないのだ。

私が携帯電話を使い始めたのはモトローラのアナログ方式であって、半ばに、ア ナログからデジタルに切り替わったとのことだから、おそらく90年代前半だっ たと思う。その時代から通話以外には使わないでいたので、今はPC以外でのネッ トはやろうとは思わない。なにしろ、見づらいし、セキュリティが信頼できない からだ。

電池が長持ちしたのはそんな使い方のためがあるだろうと思うし、また機種に よって電池の保ちがまったく違う。一時期紛失していた間に購入した最新機種は、 とにかく電池の消耗が早く、通話中にも切れそうになって到底使い物にならない と見切った。他の機種に買え買えようかと思っていたとき、無くしたと思ってい た今の機種を見つけたのは天の計らいか。

ところで、充電が出来ないのは、充電スタンドの不具合だと確認したので、今は 直接電話にケーブルをつないで充電している。ただ、この方法はコネクターを傷 めるので、出来れば充電スタンドを購入した方がよいのだろうが、あと使い続け るとしても今度こそそれほど長い期間とも思えないので、コネクターが壊れるま で使い続けることにした。


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情報を読み解く

以前は私は新聞に書いてあることは事実だと何の疑問もなく思いこんでいた し、テレビ報道も事実だけを伝えていると信じていた。むろん、子供の頃の話 だ。しかし、何時の頃か、多分高校時代くらいだと思うが、同じ事件を取り扱っ ても新聞記事が社によって大きく扱いが違い、しかもそこには新聞社のカラーが 反映されていることを知り、書いてあることをそのまま受け取ってはならないの だと気がついた。

それはテレビにも言える。したがって、私はテレビでも新聞でも、事実のみを 知る手がかりにはするが、それに関する評価は一切無視することにしている。た とえば、捕まった殺人者、Aは青ざめた顔でうなだれていた、と書いてあると き、それをそのまま受け取ればAが深い後悔とか、悲嘆にくれているのだと言う ことだが、もしかしたら夕べ飲み過ぎて二日酔いなのかも知れないとはあまり考 えない。だが、この手の、青ざめた顔とか、うれしそうにとなどの形容詞が記事 につく場合、一切無視しなければならず、結局事実として分かるのはAが捕まっ てそこにいたと言うことでしかない。彼が真犯人かどうかも、その時点では分か らないので、容疑者でしかない。

それなのに、未だに新聞やテレビのこのような形容詞を事実だと思いこむ人が 非常に多い様な気がする。以前、あるテレビ番組で見たのだが、ネット世代の若 いコメンテーターが、「ニュースを読む側にも責任がある」と言ったのに対し、 年輩のコメンテーターが揃って(その場には若い人は一人しか居なかった)「そ んなことはない。事実は事実だ」と総攻撃をしていたのに驚いた記憶がある。そ の場にいた年輩者達は長年報道の世界で飯を食っていて、自分こそ真実を伝えて きた、との自負があるのだろう。

しかし、私は、報道は読む側にも責任があるという意見に100%同意する。 報道に接する側にそれを分析し、判断する能力がなければ、先の、捕まったAが 青ざめうなだれていたとの記事から、Aが真犯人だとの記者の思いこみがそのま ま事実として報道されてしまうのだ。

青ざめた、うなだれたとの表現がまったく具体性のない、主観的な言葉だ、ま た起訴され判決を受けるまでAは容疑者であり、推定無罪なのだとの判断が出来 るには、それなりの読み手の教養というか、知識の集積が要る。

具体的に言うなら、たとえば規制の報道機関にたいし最近はネットでも大量の 情報があふれているし、そして一例を挙げれば政党支持率アンケートなどでは既 製メディアのアンケート結果と、ネット上のアンケート結果がまるで別物である かの様に食い違っている。しかし、選挙結果を見ると、既製メディアのアンケー ト結果が反映されている。ところが時間が経ってみると、最終的にはネットアン ケートの方が正しかった、と言うデータが何度も出ているのだ。

それから言えることは、多くの人たちは既製メディアの報道をそのまま受け 取っており、ネット情報を見ている人たちは、無数の情報をつきあわせて自分で 判断しているのだろうと推察できる。以前も書いたが、ネット情報の90%以上 は嘘であり、思いこみだと考えて良い。が、とにかく量が多く、また事件の内側 やすぐそばから発信され、すぐにそれに対する修正、反論、追記が出てくるの で、読む側がそれなりに全体像をつかむことが可能だと言うことだ。既製メディ アと違うのは、双方向であり、反応が格段に速く、圧倒的に量が多いと言うこと だろう。

私は今はテレビもほとんど見ないし、新聞は止めた。むろん、それは私の選択 であり、それが正しいというのではない。

ただ、情報とは送り手はむろん、受け手にもそれを受け取る能力が必要なのだ と言いたいだけだ。



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体を動かす

今日は所用があって8:30頃自転車で近所を走り回った。最近ではこんな時間に自 転車に乗ることはほとんど無かったのだが、確かにそれくらいの運動ですっきり する。

日本人はもともときまじめなのか、体力が落ちないためにも何か運動をするべき だとのキャンペーンがあるかのように、ある時から一斉に年輩者達が運動を始め、そのおかげで最近は年輩者達の体力向上が著しいそうだ。

世界での統計を見ても、日本人の肥満率は世界最低レベルであり、国民の中に肥 満とされる人が3%未満であって、これはアメリカなどの10分の1以下らしい。

確かに私の近所にも、また町を歩いていても、100キロを超すだろうと思われ る人には滅多に会わない。私自身が自分ではメタボだと思っているが、アメリカ の基準、すなわちBMI 30よりは遙かに数字が小さい。言い換えれば、日本の基 準 BMI 25を基準とすると、アメリカ人などは50%以上が肥満といえるだろう。

参考  http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2220.html

私は自分のメタボを気にして(BMI 27)、昔からダンベルやゴムひもを使った 運動などを使用としているが、ほとんど続かない。結局やっている運動と言えば、仕事で体を動かしたり、可能な限り歩き回ることくらいしかしていないが、聞い てみるとそれすらしない人が大勢いる。

医学的にも、運動をしない人は認知症になる確率が高いとも言われているし、意 識して運動をしなくとも、可能な限り日常生活で体を動かす努力は続けた方が良 いと、今朝の自転車運動の後改めて思った。

by ロクスケ


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電子書籍

最近やはり技術の進化に感謝したいことがあるとすれば、書籍の電子化だろう。 本来は、各種販売されている端末で、常に数千冊もの書籍を持ち歩けることと、 なにしろ、紙、印刷コスト、保管運送コストもかからない分、非常に出版コスト が安くなり、簡単にダウンロード出来る事が出版文化を大きく変えることになる と思われる。

国会図書館の蔵書は確か4400万冊で、そのための書庫、保管コスト、人員コ ストなどが膨大であって、利用するにしてもかなり時間を食い、簡単に多数の文 書を同時に利用するなどは不可能だ。

だが、今国会図書館の図書が電子化されつつあり、利用するにもモニター上に呼 び出せばよいだけだし、オンラインで利用出来る様になりつつある。これは世界 中の図書館で同じ事であり、世界各地の大学図書館などの図書をオンラインで読 めるようになったが、これは想像もつかないほどの恩恵だろう。ただし、まだま だ限られているので全面的にそうなるには後2,3十年はかかると思われる。

しかし、考えてみれば、私も自分のブログなどを毎日書いているし、ホームペー ジも開設していて、実質的なコストはほとんどかかっていない。昔は、同じ音を やるためには本の出版などをしなければならなかったのだが、今は誰もが出版出 来、誰もが自由に読めるのだから、やかり隔世の感がある。

私は外出するときに電子書籍を読むつもりはない。電子書籍はやはり目の負担に なるし、外に出て数千冊の本を持ち歩く必要はないし、その時読みたい本を1, 2冊鞄に入れておく方が未だしっくりする。紙の本を読んでいると、それだけ頭 にはいるような気がするのだ。ただし、パソコンの中には多数有る。ありがたい ことに、著作権の切れた古い文書が大量にオンライン上にあるので、それを探し てはせっせと蓄えている。

いずれ、出版のほとんどはオンラインになるだろう。それだけで、紙の消費が縁、 森林が守られるのはよいことだろうし、なにより出版コストが安くなるので今ま で以上に大量な出版が為されるのではないか。出版不況というのはあくまで紙の 本が出なくなったのであって、それに伴い、多くの出版社、書籍店などが立ちゆ かなくなるのだろうが、私の懸念が一つあるとすれば、大量に安く出版出来る時 代、出版物の質の低下がきわめて著しい事実だ。

本を出すのは本来相当難しくエネルギーが必要で、熟練の要求される仕事のはず だが、今では私のような素人が簡単にオンライン出版出来る。質の低下は避けら れない。したがって、読み手の方が質の高い出版物を選び出す能力が多く求めら れる時代になったと言っていい。出版社は、大衆受けをする物を大量に出して、 質より量で利益を得なければ生きてゆけないだろうから、その膨大な出版物から 如何に良質な物を探し出すかは、ひとえに読者の能力にかかってくる。能力のあ る読者だけが、真の出版文化を育て支えると私は信じている。



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記憶力を補う
前回の勉強の仕方でもふれたが、年輩になれば当然記憶力は衰えてくる。しかし、 これは必要な変化なのであり、脳の機能として衰えるわけではない。幼児期から 青年期にかけては人生で一番記憶力が優れている時期であり、特に10歳以前の 記憶力は、見聞きしたものを全く選別しないで丸暗記できる時期だ。この時期は、 いわばそれ以後の長い人生を生きてゆくためのデータベースを構築する時期であ り、データ収集が脳の一番の役目なのだから、当然のことだ。

そして、その時期を過ぎると、蓄えたデータを整理し、不要なものは捨て、必要 なものはいつでも出せる場所において、新しいデータと比較したり組み合わせた りするために使う。そもそも、どんなに膨大なデータがあってもそれが何を意味 するのか、何のために役立つのかが理解されていなければ何の意味もない。私が アラビア語の本をたくさん集めても、枕にしか使えないようなものだ。言い換え れば、子供時代、すべてに優先して記憶力を高める脳の機能とは、可能な限り膨 大なデータを、その価値を判断することもしないでとにかく集めるためにある。

故に、近年のゆとり教育とかで考えることをさせなければ子供は育たないという のはある意味間違っている。記憶力が最大限になっている時期は、とにかく丸暗 記、詰め込みがもっとも優先されなければならず、考える応用するとは、その元 になる知識があってこそのことだ。

むろん、子供の頃から考える習慣、応用する習慣を身につけるのは大切であり、 丸暗記がすべてではないが、丸暗記や詰め込みを否定してはならない。

子供の時期を過ぎると、記憶力はその役目を終えて抑えられてくるが、これは退 化ではなく、成長の一過程なのだ。それまでに蓄えた膨大な知識を整理整頓し、 記憶の戸棚に蓄え直す必要がある。そうして整理された知識をメタメモリー、結 晶記憶という。この記憶の量が、その後の人生の理解力、推理力、判断力を作り 上げる。

したがって、子供には詰め込み教育は欠かせない。それは非人間的な教育なので はなく、子供に絶対必要不可欠な教育なのだ。その時期に必要な知識を蓄えさせ ておかなければ、子供はその後一生判断力や推理力の欠乏に苦しむ。

さて、記憶力は、大人になっても無くなるわけではなく、個人差が大きいがこれ も訓練や集中力で相当なものがある。大人の記憶は必ず意味づけが関連しており、 無意味なものを記憶することが非常に苦手だ。

言語を例にするとよくわかる。子供にとって、たとえ母国語でも最初は単なる音 の羅列であり、意味を理解しているわけではないが、子供はそれを無条件で記憶 するからそれが頭の中で意味を持つようになり、そして言葉として使いこなすよ うになる。それはたとえ外国語でも同じことで、8歳前の子供ならどんな外国に 行っても2,3ヶ月で子供の生活には全く不自由のないレベルを身につけ、発音 でも現地の子供たちと同レベルで聞き取れるしはなせるようになる。つまり、通 常八歳以前であればどんな言語であれ、母国語として身につけることができるの で、帰国子女が二カ国語以上を同じように使いこなせるのはそのためだ。

しかし、大人になってから学んだ外国語は、あくまで母国語とはレベルが違い、 発音にしても完全に聞き取ったり発音したりはできない。私が本当にそう実感し たのは、私がかつてドイツ語を習ったドイツ人の先生は、すでに私より長く日本 語を話していたが、日本語並みの発音とはほど遠く、あくまで外国人の日本語だ った。ボキャブラリーなどは私より多かったかもしれないが。それは、たとえば ドナルドキーン氏など、長らく日本文学の専門家として日本語に接していたが、 それでも現在氏の日本語は母国語並みとはいえない。ただし、その内容や質は非 常に高く、ふつうの日本人がお手本にしても良いレベルだが。

繰り返すが、大人になっても外国語は学べるし、母国語を話す人以上の内容を表 現できるようになるが、それはあくまで理詰めで学び、それまでに蓄えた結晶メ モリーを組み合わせて可能なのであって、結晶メモリーを十分に構築していない 場合は、どんな言葉でも、たとえ母国語でも内容の豊かな言葉として使うことが できない。日本語でも、理論的な内容を表現できず理解できない大人がたまにい るが結晶記憶の欠如のためだ。

子供時代を過ぎても記憶は蓄えられるが、効率が悪いのは仕方がない。子供なら 一度聞いた言葉を意味も理解しないまま覚えるだろうが、大人な意味を理解しな い限り覚えられない。だから、意味づけをしながら覚えなければならず、そして 大人は理詰めで記憶をすることになる。

子供は無条件でどんな外国語でも身につけられるが、大人が外国語を学ぶ場合は、 単なる繰り返しだけではなく文法の基本と併せて覚える方が効率がよい。すべて の学習は、子供時代は詰め込み、大人になってからは理詰め、意味づけが必要不 可欠となる。

語学を例に挙げたが、すべての学習に通じるといえる。一方、単なる機械的な練 習なら、体で覚える方法がある。暗算などはどんな年齢になっても、著しい効果 を上げることができる。ただし、子供時代からやっている人には絶対にかなわな いが、自分なりに驚くほど効果があるのだから、やるとすれば十分その価値はあ る。

by ロクスケ


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家事を手際よく01

今回からは、何度かに分けて家事を手際よくやる方法を書いてみたいと思う。実 は、家事というのは私にとってまことに苦手で、人様に偉そうに講義するほどうまく できているとはとうてい言えない分野というより、まともにできないと自覚して いるのだが、皮肉なことに私は掃除も洗濯も料理も好きなので、それなりに工夫 してきた。したがって、これから書こうと思うのは、不得意だから工夫していか にうまくやるかということになる。

テレビでもネットでも、最近掃除や整理整頓(私にとっては鬼門だが)を並はず れて手際よくやり、それを人に教えている掃除名人、整理名人が多数いる。何度 かまねをしてみたがうまく行かなかった。結局、集中力が続かないことが最大の 原因だが、それならそれでできる方法を私なりに工夫してきた。そしていくつか のルールを作り上げた。

これは掃除、選択、料理全般に共通しているルールであり、あくまで私のルール だ。だから、もし私と同じ悩みを持っていて、何とかしたいと思う方がいらっし ゃったら、とりあえずこの方法を取り入れてみて、あとはご自分のやりたい方法 に改良してみてはいかがだろうか。万人にベストの方法はないと思うが、個人個 人ではベストの方法があるはずだ。

私は、まだこれがベストだとは思っていないが、少なくとも私にとってベストに 近づきつつあるとは思っている。

大原則

1)完全完璧を目指さない。掃除を例に挙げるなら、確かにシミ一つ無い壁、塵 一つ落ちていない床は気持ちがよいが、それを維持するためには一日のかなり の部分を掃除に当てなければならず、またほんの少しのシミや埃に気をとられお ちおち気が休まらない。

人により妥協点は変わるだろうが、多少の不完全さには慣れるだけの余裕を持て ば80%でも70%でも気持ちよく暮らせる。人生の大半を心身共に掃除に捧げるのは 止めるべきだし、極端にすぎると潔癖症にいたり、精神的に良くない。完璧な掃 除は、それを売り物にしている旅館や料亭などに任せておけばよい。

2)買わない。気がつけば何年も使わない品物、着なくなった服、年に一度も使 わない道具などが家中にあふれている。それなら必要なもの以外はさっさと捨て て、新しく買わないことが整理整頓につながる。とはいえ、私はものを捨てられ ない世代なので、とても割り切れないから、この数年使っていない餅つき機や、 いつ使ったか覚えていないジューサー、製麺器、寿司桶などが袋に入って積み上 げられている。使わなくなった食器類が段ボールに二つ以上ある。少なくとも新 しく買わなければならないものは見あたらない。だから、買わないことにしてい るし、また修理できるものは修理して使っている。

3)やりすぎない。私は基本的には鍋の外側を磨かない。ガス台やトースターな どは磨きすぎると壊れるので、適当に掃除しているし、ガス台などは全体をアル ミホイルで包んで使っている。品物によっては、掃除をしすぎることで壊れる。

4)目的のためには手段を選ばない。だいたいにおいて食器を私は洗剤で洗わな い。亀の子たわしとお湯で、大半の食器は十分きれいになり、雑菌もきちんと除 去できることが証明されている。ただし、油汚れの強いものは洗剤を使う。

私が普段使っている食器は、瀬戸物とせいぜいステンレスなので亀の子だわしで よいが、むろん漆器、クリスタルガラス、銀器などはたわしは使えない。

別の意味で、戸棚の扉や床、窓枠など、汚れが染みついている場所は、金属たわ しなどでこすれば一発で落ちる。むろん、細かい傷が付くし塗装が落ちるが、そ うなったらビニールシートでも貼ればよい。やろうと思えば今の時代、自分で再 塗装もできる。長年の間にはふつうの手段では落ちない汚れが染みつくので、そ んなときは金属たわしで落とすが、考えたほど傷みはしない。

5)ついでにやる。普段からこまめにやっておけば、一時に大変な思いをしなく て済む。シンクやガス台などは使った後にきちんと拭いておけば、いやになるほ ど汚くなることはない。本式に磨くのは一ヶ月に一回とか半年に一回、念を入れ てやればよい。食器も食後すぐに洗えば汚れも落ちやすい。調理器具も、調理し ながら手順を考えて洗ってゆけば、調理が終わったとき全部きれいになっている。

テレビやステレオなど、気がついたときにこまめに拭いておけば、汚れがたまる ことはないし、半年に一回でも徹底して掃除すれば大丈夫。

6)使ったものは元に戻す。実は私はこれができない。だから、目標としている が、基本中の基本だろう。自分でできていないことでも目標からはずすわけには いかない。

料理などでも、台所が汚いとやる気が失せる。しかし、ぴかぴかのシンク、整理 された調理器具が用意されていれば、いつでも気分良く始められる。その差は大 きいので、とにかく自分で納得できるレベルできれいにしておくことがまず第一 歩ではないかと思う。




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家事を手際よく02
年も明け、例年よりは気持ちよく片づいた部屋の中で過ごしているが、その片づ いた状態とは、おそらくテレビなどで活躍している収納名人、掃除名人の目から 見れば完全な落第点なのだろうと思う。なにしろ、台所でも隅を見渡せばゴミが 落ちているし、壁にはまだシミがあるし、窓ガラスもすかしてみると汚れが付い ている。

しかし、私がこれでまあいいだろうと言うレベルには達しているので、もしその 気があってその時間ができたらもっと徹底した掃除をするだろうが、今のところ、 当分これでよいと思っている。異論はあろうが、私は完全無欠の掃除をするつも りは全くない。

ただ、もちろん私だって汚いよりはきれいな方が好きだし気持ちがいいし、何時 間もかけて掃除をしてその結果部屋がぴかぴかになればうれしい。私は掃除は好 きだが、不得意なだけのことだ。

前回も書いたが、年に一度大掃除をするのは大変な骨折りだし、考えるだけでは 実行できず、いつも途中で投げ出してしまうので、掃除はとにかく毎日すること が大切だと思っている。ただし、その掃除はせいぜい10分でできる程度の掃除 であり、いわば洗顔を毎日するようなものと考えればよい。普段洗顔しないで、 年に一度念入りに顔を洗うことを考えれば(我ながら無茶なたとえだった)、毎 日こまめに掃除をするのは当たり前のことだ。ただ、その掃除が私は不得意なの だ。気がつけば同じ所ばかり掃除をしていて、知らない間にがらくたが押入にた まったりしている。

そこで、私が考えたのは、小箱に手箒、ちりとり、布巾、コロコロクリーナー (これは優れもので、床の上でコロコロ動かすと、中にゴミが取り込まれる手動 掃除機)、トイレットペーパー(テレビ画面や窓ガラス、ポットなどの汚れを拭 き取り磨くため)、粘着ローラーなどを一式入れておき、小さな汚れを見つけた らすぐにその場でその部分だけを掃除するというやり方だ。これは効果がある。 テレビや照明器具など、気がつかないで居ると、ある日非常に汚れているのを発 見することがあるが、常にそんな汚れを拭き取り、テレビの縁などにたまった塵 を払い、床に落ちたゴミを掃除すれば、それだけで掃除としてまとめてやる必要 もあまり無い。

手近にゴミ箱を置き、ゴミをすぐに捨てられるようにするなどが大切だ。それが ないと、以前ならサンドウィッチの包み紙や使い切った電池がそれとなくあたり に転がることになる。とにかく、気がついたらすぐにきれいにする。それだけで だいぶ違う。

それと定期的に念入りに掃除をする日を決める。台所のシンクやガス台などは 使った後には拭いてはいるが、週に一度と決めて念入りに磨いてみると知らない 間に汚れがたまっているのがわかる。換気扇も3ヶ月に一度は徹底的に汚れを取 るなどしないと、いつのにか手のつけられないほど汚れがたまることになる。毎 日見ていると、少しずつ汚れてゆくのが見えないものだ。

つまり、常に気がついたらきれいにする習慣を身につけると、たまにする大掃除 もそれほど対したことはない。あちこちに汚れがたまるから、掃除を始める前に いやになるのだ。


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家事を手際よく03
人間が生活をしている以上家の中は毎日ゴミが出るし、生活をしていなくても埃 がたまる。目に付く汚れは常に気がつくたびに始末をしていればよいし、当然だ が食事の支度などでは必ず生ゴミや包装パック、空き瓶空き缶などの込みが出る。 それぞれは地域の分別の取り決めに従って分けておき、決まった日に出せばよいが、 ものによっては前処理をして出さなくてはならない。

空き缶などは軽く洗ってすっかりつぶしておけばかさばらないし、ペッボボトル なども洗ってつぶしておくことでかさばらない。それは牛乳パックなどでも言え るが、これらはスーパーや地域の公共施設などで回収資源箱を設置しているとこ ろがあるので、買い物ついでなどにそこに入れておけば一石二鳥だろう。

できれば過剰包装は要らないのだが、実際には日本の今のシステムでは量り売り などほとんど無いのでそれも実際はできない。また、小売店などでは野菜や魚の 包装は市内店もあるが、それが目的で小売店に行くのは本末転倒だろう。品揃え や品質、値段で小売店やスーパーを使い分けるはずだ。

最近増えている通販などでは、やはり大量の包装ゴミがでる。これらもつぶして 分類して、大抵は資源ゴミに回せるので基本的にはすべてのゴミは分類し、必要 であれば洗ったりつぶしたり切り開いたりの前処理をして捨てることになる。こ うしておけば、所定の回収日にすぐ出せるので、面倒くさくなってゴミ屋敷にな ることはない。実際、私もそれが面倒で、いつの間にかゴミ屋敷になりかけ大慌 てで処理をすることが何度もある。

とくに、生ゴミや包装ゴミは洗っておかなくては出すまでに腐って臭いを発した りゴキブリやハエが出てくることになる。これはなんとしてもさけたいので、要 は早く捨てるし、捨てられないときは洗って前処理をすることは絶対に必要だ。 どうせ捨てるのだからとそのままにしておくと、後で泣くことになる。

そして、最も頭を痛めるのは生ゴミだろう。魚のあらなどはとにかくすぐにでも 捨てたいが、次の生ゴミ回収日までに腐ってハエが飛び交うなどは想像するのも いやなので、私は魚のあらなどは小さなポリ袋に入れて冷凍してしまう。どうせ、 さっきまで食材だったのだから意識的にもフリーザーに入れること自体は全く抵 抗がない。そうしておいて、回収日に出せばよい。

結局ゴミを捨てるにも唯漫然と分類しておけばよいのではなく、それなりの前処 理が必ず必要だと言うことだ。分類もしないのであればそれ以前の問題であり、 ゴミ屋敷の住民になる覚悟をしなければならない。

さらに、台所の排水溝や三角コーナーは少し油断をするとぬめりが出てさらにい やな臭いが発生する。三角コーナーは、以前はプラスチック製のものを使ってい たが、今は金属製のものに替えている。本当は銅製のものがよいといわれている が、そこまではしていない。実際にそれほどの違いがあるとは思えないことをほ かの状況で感じているからだ。ステンレスのものを使っているがそれなら多少乱 暴にたわしで洗っても大丈夫だし、何より熱湯をかけて処理ができる。そうすれ ば臭いもぬめりも発生しないがプラスチックのものはその点だめなので今は使っ ていない。

排水溝もできれば中のバスケットを金属製のものに替えて(ふつうはプラスチッ クのものがついているが、交換用の金属製のものがホームセンターなどにあるか ら、寸法を測って行けばよい)たわしで洗い、熱湯をかけておくとそれだけでか なり汚れや臭いが違う。排水パイプはどうしても限度があるが、これも熱湯を最 後に流せばかなり違う。

自分では気がつかないが、家の中には特有の臭いが立ちこめているもので、人間 が生きている以上仕方がない。自分で気にならなければかまわないようなものだ が、それも限度があるし、それに相当な臭いがしても普段住んでいると気がつか ない。また、ペットを飼っている家では、その臭いもかなり気になるが、本人達 はもちろん気がつかない。

冬でも頻繁に窓を開けて空気を入れ換え、ゴミ処理をきちんとしておけばまあよ しとするしかないだろう。実際にはそれ以上しようがない。なお、私はやたらに 消臭剤をふかすのは嫌いだし、消臭材の臭いが立ちこめているのもいやなので、 そのたぐいは使わないが、たとえばレモンを搾った後の残りを皿に入れて部屋に 置く位のことはする。あとは、何か植物系で消臭作用のあるものがあるようなの で、そのための観葉植物を部屋に置くなども良いだろう。あと、私がやるのは、新しいお茶っぱ、 あるいは出がらしでも、それを燃やすことで消臭している。あとは、ポプリなど も利用できるだろうがあまりきついのはそれが気になるので、私は使わない。

日常出るゴミは大概これで始末できるはずだが、たまに出る粗大ゴミや整理をす る旅に出てくる古い衣類や使わなくなったがらくた類の処理も、唯漠然とやるの ではなく、それなりの手順をきちんと踏んでやらなくては、結局それらの捨てる タイミングを逸し、やはりゴミ屋敷への道を歩み始めることになる。これについ ては次回にでも書く。



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家事を手際よく04
ゴミを出さない工夫の一環として前回に少々付け加えたい。ゴミの基になる過重 包装のものは買わないのが良いのだろうが、実際に今のスーパーで買い物をした 場合など、どうしてもトレイやラップに入ったものが主であり、どうしても買い 物の度にそのようなゴミが増えてしまう。

エコバッグは私も使うが、しかしレジ袋自体家に持ち帰ってそのまま捨てるわけ ではなく、様々な利用をしているので、受け取ってくる場合も多い。たとえば、 しばらく使わない鍋、調理器具、ザル、ボウル、などなど次回使いたいときにも 埃がついて取りきれないものは、私はレジ袋に入れて保存する。そうすれば、使 うときに全く埃のついていない状態で軽く洗うだけで使えるから便利なのだ。ま た衣類をレジ袋に防虫剤と一緒に入れてしまうこともする。湿気が問題になるか もしれないがよく乾燥しておけば大丈夫だ。ゴミを捨てるのにも、いろいろなが らくたを整理するのにも、そして切り開いて食器棚の引き出しに敷いてもレジ袋 は役に立つ。

次に、スーパーで生ものなどを入れる薄い袋があるが、これはレンジでチンをす るとき、ラップの代わりに容器ごと入れて口を閉じて使っている。これでラップ を無駄にしなくても済むし、また食品を小分けにして冷凍するときにも使う。流 しのゴミもこれに入れて捨てるとすっきりする。単にスーパーから帰ってきたか ら捨てるだけではなく、少なくとも再利用はすべきであり、これでゴミはそれだ け減らせるのではないかと考えているし、節約になるだろう。

まだまだある。様々な容器類は、いろいろ使い道がある。牛乳パックなどは洗っ て切り開いて、魚などを切るときにまな板の上に置いてその上で切ると、まな板 に臭いがついたり血で汚れたりしないで済む。ヨーグルト容器は洗っていろいろ な食品を冷蔵庫に入れるときに使えるし、佃煮や漬け物などが入っている蓋付き 容器はそのまま食品保存、漬け物作りなどなどに使える。私は小分けした自分で 造った味噌や梅干し等を入れているし、大量にたまったキムチのネジ蓋付き容器 は作業場で部品入れに使っている。

海苔やごまなど一部ジッパー付きの袋があるが、これは密閉容器として使える。

また、米や味噌などは袋で買ってきたら、別容器に移すことはしないでそのまま 端を少し切り、絞り出したり降り出して使う。その後きちんと絞り洗濯ばさみな どで止めれば、空気に接する面積が減るし、湿気も防げるし、虫の浸入も防げる。 したがって、袋入りの食品は別容器に移す理由はなく、そのまま使った方が変質 も防げるしコンパクトに収納できる。また、そうすることでよけいなゴミを出さ なくても済むわけだ。

ゴミを買わないのは良いが、利用できるものは再利用することも大切だと考えて いる。

その意味で、私は母の遺伝子を受け継いだせいかどうしてもいろいろなものをた め込む癖が直らない。母は、包装紙、ひも、空き缶空き瓶空き箱をとにかく捨て ずに取っておく人だったが、昔はそれでもそのような資材は貴重だったし再利用 する機会があったのだ。今は何を買っても包装がついてくるので改めて空容器を 保存しておく必要がないということだ。だから、工夫してなるべく再利用をした いと思っている。そのいみで、空容器を保存する母の遺伝子は役立っているよう だ。

再利用といえば、家で身につける衣類は結構私はぼろになっても繕い縫いをして 着ている。厚手のシャツは袖と襟を取ってチョッキのようにしてきているし、厚 手の毛糸のカーディガンも破れた袖口を切り取り、襟を付け替えて着ている。暖 かいので重宝しているが、その意味で黄ばんだワイシャツや、襟の伸びたTシャ ツも非常に利用価値がある。また何しろ長く使うのも私の趣旨で、たとえば数十 年使ったと思われるタオルがある。もうすっかりぼろぼろになっているが、もち ろん毎回洗い、漂白しているので汚くはない。こうなると、意地で使っているよ うなもので、結果として省資源になっているのかもしれない。

次回は、粗大ゴミの始末について。


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家事を手際よく05

粗大ゴミの始末はきわめて面倒くさく、それに私の地域では月に一回ほどしか 集めに来ないし、さらに事前に予約しておいてそれもかなり金がかかる。

私の場合は仕事柄家電品が粗大ゴミになった場合はばらして部品を採ったりす るが、それでも油断をすると結構たまる。今処分しなければならない粗大ゴミと いえば、古いCRTモニター、ビデオデッキ二台、電気ポット、据え置き型テレ コ、アンプ、PC、などなど。

まあ、次に述べる方法は誰にでもできるわけではないことは知っている。むし ろ私のように必要な工具や設備を持っているからできるのだが、しかし、根性と 時間があれば全く不可能というわけではあるまい。

私の場合、徹底的にばらし、不燃ゴミとして出してしまうのだ。大型テレビで も中を完全にばらせば小分けにして出せる。キャビネットなども私は電動工具で 切り刻んでしまうが、二,三人の力を合わせれば人力でもできるのではないか。

以前はエアコンをそうやってばらし、中も切り刻んで非鉄金属屋に売れる物は 売り、捨てられるものは不燃ゴミで捨てた。洗濯機もそうやって捨てた。中の モーターは今は作業場に転がっている。

金属製のキャビネットなど、道具がなければ手に負えないし、労力を考えると 処理費を払って粗大ゴミに出した方がよいのかもしれない。間違っても不当投機 など絶対にしないようにしなければならないだろう。

もう一つ、私の場合だが、金属製のキャビネットを切り開いて、客からの注文 品のケースを作り商品として売ったことがある。これは思いもかけない利用法 だったが、本棚に転用したり、木星の扉をつけて収納ケースにしている例を何か で見たこともある。

捨てることばかり考えずに再利用するようにしても良いのかもしれない。



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家事を手際よく06

前回粗大ゴミの捨て方を書いたが、何が何でも捨ててしまえば良いというものではない。とはいえ、これには様々な考え方があり、何が何でも捨ててしまえばよいという考え方もある。前々回に書いたことだが、まず買わないことが先決、次に再利用するものはすることを私はやっている。

昔はものがなかったから、それこそ、空き缶空き箱包装紙にひも、寄付類した衣類、その他がらくたを何でもかんでも採っておく人は多かった。それこそ私の子供の頃であり、戦争直後の話で、私はそのころ躾を受けたから、何も捨てられない母親の癖が骨の髄まで染みついている。

しかし、時代は変わり、今はものがあふれていて少し油断をすると家中が使わないもの、壊れたもの、不必要なものが家中を占領し、只でさえ狭い家をさらに狭くしている。日本は土地が狭く、空間もまた相当な価値を有しているので、その貴重な空間をがらくたで塞いでいるのは大きな損失だから、とにかく捨ててしまえというのもあながち間違いだとは思わない。

原則として、1年使わないものは捨てても困らないと言うのがある。もし次に使うときが来ても、新しく買った方が得だというのだ。つまりそれだけ保管にコストがかかっていると言うことだし、また電化製品なら新しいものの方が性能が上だし、コストパフォーマンスがあがるという意味もある。これは、私はある程度ほんとだと思うが、毎日使う冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどは寿命まで使ってから交換するのがふつうだろう。あるいは、3,4年と年限を区切って交換し、機能が向上したものを使うのがよいというもの分かる。なにしろ、修理して使っても性能は落ちているしエネルギー効率も悪い。

だから、電化製品に限って言えば私はそうしている。幸い日本の家電製品は十分長持ちするので、それが通用するが、最近大量販売されている某国製の製品などは買ったときからまともに使えない、壊れても直らないなどが多いので、結局はあまりの安物は買わないのが良いと言うことになる。最近も電気ポットを買ったが当初から変な臭いがしたり温度が上がらなかったりしていて、今はもう全くのゴミになっている。そのため、昔使っていた古いものを引っ張り出して使っているが、これなら買い換える意味がなかった。

使わないものの代表として餅つき機、フードプロセッサー、ビデオカメラ、ビデオレコーダー等々がある。結局、これらは精々1,2回買っただけで埃をかぶっている。つまり、流行に飛びついて買ってもすぐに飽きることを考えると、買わない方が良いものが結構ある。衣服などにもそれは言える。2,3回着てみたがどうもしっくり来ないので後はタンスの肥やしになっているものが結構ある。そう言ったものは、思い切って捨ててしまい、二度と買わないのが良いのではないだろうか。

また、以前書いたが、再利用も十分あり得るが、それも再利用するよりも新しく買った方が安くつくものが結構あるので、再利用が必ず得というわけでもない。となると、再利用は最小必要限のものに限って、後は捨てる方がよいと思う。私は、古い衣類は修理して、もっぱら家で着ると書いたが、それも修理した衣類ばかりがやたらに増えることになるから、古い衣類のすべてを再製しているわけではない。やはり捨てる方が多い。

ただし、買うときに衝動買いがいけないように、衝動捨ても良くない。捨ててしまってから、しまったと思うこともあるので、捨てる前に、本当に捨てて良いのかどうかをちゃんと考える必要があるだろう。

その上で、可能な限り捨ててしまうのが良いと思う。

一時期鍋がやたらに増えて、気がついたら台所に鍋がたくさん使わないまま積み重なっている状態になった。大きな土鍋、圧力釜二つ、おでん鍋、寸胴、蒸し器、琺瑯鍋などなど。そしてある日それらを全部捨てた。今は琺瑯鍋一つ、厚手のアルミ鍋、雪平鍋、鉄鍋、そして小さい土鍋と大小のフライパン、ステンレス鍋一つにした。これでも多いと思うが、とりあえず使っているのでこれで良しとしたが、この倍以上の鍋を捨てた。結構それだけで台所が広くなったような感じがする。

実は二月ほど前給湯器が壊れた。直せそうな気がしたが守備範囲のガス器具であり危険があるのでそれは止めたが、電気給湯器を何とかしようと思っている内に2ヶ月経った。そして2ヶ月経ってみると、この冬の最中、給湯器が無くても別に不自由がないと気がついた。つまり慣れの問題であり、お湯はその都度薬缶で沸かしても結構間に合うのだ。ということで、今まで使っていたが無くてもかまわないものも結構あると気がついた。私にとってテレビは最たるもので、地デジ化していないが、このままアナログが終わったらテレビも終わりにしようと思っている。本当にテレビはBGM以外に使っていない。むろん、有るから観るが、別に観なくても良い、時間の無駄だったと思える番組しかないと思うようになったからだ。

昔は衝動買いで食器を買ったが、今は日常使うものを中心に20個くらいにまとめ、後は段ボール箱に詰め込んだらそれが二箱になった。おのおのが一抱え以上ある大きさだ。探してみると、使わないものがたくさんある。何を使わないか、家中を見回しリストアップして見るのも、家の中をすっきりさせる手段だろう。

by ロクスケ


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家事を手際よく07

 掃除の手順をいろいろ書いてきたが、もちろん、ベテランの奥さんならいちいち言われなくても出来ることばかり、私など裸足で逃げ出したくなるほど手際よくやっている。私が書いているのは、掃除が苦手という人相手なのであって、私も掃除が大の苦手だから書いているのだ。

私は掃除自体は好きだ。誰でもそうだろうが、散らかっている部屋のゴミの隙間で暮らすよりは、きれいに片づいた部屋で過ごす方が気持ちよいに決まっている。それでも掃除が上手くできないから、どうやれば手際よくやれるかを私なりに考えたと言うことであり、もちろん、ベテランの奥さんがもっと手際よくやれるわよ、とおっしゃるのは分かる。是非そのようなお知恵をおかりしたいものだ。

 さて、毎日の掃除はそれこそ体に覚え込んだ手順でほとんど何も考えずにやれるのだろうが、どこから手をつけて良いか分からないほどものすごい状態になっている汚部屋など(幸い今はそんなことはないが、かつてはそうなりそうな状態になることもあった)、単に目をつぶって見ないことにしても解決は出来ない。私の言う掃除法はそのための解決策と考えていただければ良いのではないか。

そのような部屋を片づけるには、一日で出来るなど夢にも考えてはならない。部屋、家の大きさによるが、私がかつてやったときは、対して大きな家でもないのに一月の予定を立てた。

まず、掃除をする区域を細かく分けてリストアップした。

台所、居間、廊下、玄関etc。

そしてたとえば居間の、本棚、PCデスク、テーブル、壁、窓、テレビ周りなどなど細かにリストアップし、私の場合は簡単な平面図を描く。

まず、ゆかのゴミを大体分別してゴミ袋に押し込み、要る物が出てきたら段ボール箱に放り込む。そうしてから本棚、デスク、テーブルと特定の場所を徹底的に掃除するわけだ。たとえばテーブルを掃除するときは、大きな段ボール箱を2,3個脇に置き、要らない物を分別しながら放り込む。要る物は別にとりわけ、テーブルの上にもしたにも何もない状態にしてから、テーブルをよく拭き清める。そしてテーブルの上に置くものがあったら、それぞれきれいにしてから置くが、代替はテーブルの上に置きっぱなしにする物など無いので、本来の場所に戻す物とする。しかしその時点では段ボール箱に入れておき、最後に本来の場所に戻すまでそのままにしておく。

そのまま本棚、PCデスクと作業を進める。途中出てきたゴミが段ボール箱に入り切らなくなったらゴミ袋に分別して入れ、ゴミ出しの日に備えて廊下にでも置く。それらが済んだら、ゆかのゴミも徹底して拾い出し分別して段ボール箱へ。最後に掃除機をかける。

ゴミ類はすべてそうやって捨ててから、段ボール箱の中の要る物を分別し、要ると思ったけれど、捨ててもかまわない物は思い切って捨てる。すると、要る物が半分から三分の一になるので、それぞれの元の場所に戻す。もちろん、戻す前に、戻す場所の掃除を済ませ、また戻す物の掃除も済ませておく。

このようなことを他の場所でも繰り返してゆくと、計算上最終的に家中がきれいになる。ただし、計算通りにはなかなか行かないので、それは次回に。



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家事を手際よく08

今回は予定を変えて今のような災害時の生活について書いてみたい。

あの大きな揺れのあった少し前、私は珍しく家の中を整理していた最中であり、かなり片づいていたのだが、あのとき揺れが収まらず大きくなってきたので、家の外に出た。電信柱がみしみし揺れ、トランスが落ちてくるかもしれない、高圧電線が落ちてくるかもしれないとの思いもあり、それらから遠ざかる場所で揺れの収まるのを待っていた。幸い、さしもの揺れも収まり、外に出ていた近所の人たちと無事を喜び合って、それから家の中に戻ったら、様々なものが落ち、ひっくり返り大変な有様だった。

単に整理のためにものを積み重ねたことがこのようなことになったわけで、日頃から重くて堅いものが落ちてくるようなことのない様には気を遣っていたが、一番の問題は避難路がふさがってしまうことだと気がついた。

しかし、昔と違い、地震の時は火を消すよりも何よりも自分の安全を確保するのが大切なので、その時どこにいるかによるが、頑丈な机やテーブルの下、それからトイレ等。トイレは狭い場所に柱や壁があって非常に壊れにくい構造なので、かなり安全性が高いと考えれら手いる。便器にしがみつくのも仕方がないだろう。

いずれにせよ、あわてて外に飛び出すのは却って危険だと言われているし、直下型ならそんな時間はない。今回は初期微動から本震までの時間があったので外に出る余裕があった。

家の中にとどまり、揺れの収まるのをまつのが最も安全だとされている。地震の犠牲者の多くは日本では火災であり、また今回は大半が津波によるものなので、現在の耐震構造で出来ている建物ならその崩壊のために犠牲になる人は少ない。今回も、地震自体で崩壊した建物はかなり少なくそれで犠牲になった人も非常に少ないと言われている。

そこで、揺れが収まってから火の始末を確認しなければならないが、仮に火の気が無くてももしガス管が破壊されていれば何かから引火する可能性もある。外に避難しなければならないかとどまった方がよいかはその時の判断だろうが、それはケースバイケースに夜としか言えない。とにかく、日頃から、落下物や転倒家具でけがをしないように注意は必要だろう。私は主な家具は固定しているが、それでも避難路の確保に問題があると見直した。

また、食器棚から織機が散乱したりガラス扉が砕けて散らばっていると逃げるとき足に大けがをする。かならずスリッパの用意をしておく必要があるし、逃げるときは座布団や段ボールなどを床に敷いてその上を移動するなどの用心はしなければならない。

結局大災害の時どこにいるかで助かる率は大きく変わる。これは本人の努力ではどうにもならないことだが、少なくとも家にいるときに被災した場合を想定しての家の中の安全を普段から考えて於かなくてはならないとつくづく思った。



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家事を手際よく09
ふと思いつく。節電対策のために、電圧を10%下げるなんて、どうだろう。どうせ100V供給といっても実際にはかってみると98vくらいの場合が多いし、場所によっては96Vくらいの時もある。

大体の家電製品は、電源電圧がブラスマイナス10%範囲でもちゃんと動くようになっているし、電力会社の基準ではこの範囲ならかまわないことになっている。だから、一律電圧を10%下げてしまってはどうか。電力は電圧x電流であり、同じ抵抗だと電圧が10%減れば電流も10%減る。つまり、電力は81% となり、19%の節電となる。ものすごいアイデアである・・・とまあ、すべてがこの通りになるわけではないが、多少の効果があるのではないか。実際には大規模にやってしまうと厳しく電圧規制がある機器では大変な支障が出るので、電気器具個別に対策しなければならない。それくらいならこまめにスィイチを切ったり設定温度を変えたり、明るさを替えたりする方がよほど効率的なので、まあ、実用性はない。

で、実際に出来る節電対策として、大体家の中で電気を使っている物は何かを見回してみると、やはり相当有ることが分かる。エアコンは家庭でも大口の消費電力要する機器だ。これはとにかく設定温度を冬は低く、夏は高くすることがまず最初だろう。

それと、夏なら風を家の中を通して、扇風機などを使うなどすれば、朝夕などはエアコンが要らない場合もかなりある。冬なら、室内で重ね着をしたり、こたつを使ったり、膝掛けなどでかなり暖かくできるし、目張りですきま風を防ぎ、室内干しなどで湿度を上げて体感温度を上げたり、余裕が有れば2重サッシなどの断熱工事、そこまでしなくともガラスに梱包用のエアパック(いわゆるプチプチ)を貼って断熱効果を上げるなどがある。また、小さな扇風機を壁にあてて、上にたまっている亜多々高い空気を循環させるなども効果がある。

次に冷蔵庫も消費電力が高いが、内部の設定を冬はかなり上げても問題はないし、夏なら頻繁にドアの開け閉めをせず、出す物入れる物はまとめてやる、レトルト食品、缶詰、佃煮梅干しなど入れる必要のない物は入れないなどで、かなり節電できる。

照明は、白熱電球をLED電球に替える、蛍光灯にするなどをして、さらに、いない部屋の照明はこまめに切り、いる部屋も、蛍光灯なら3本2本にするなどにする。慣れてみると、かなり暗いと思っても平気なものだ。

テレビは、見ないに超したことはないが、少なくとも人がいないときはつけない。

パソコンも不必要には使わない。

洗濯機はまとめ洗いをする。小物は風呂のときにでも手洗いする。パンツやハンカチ、靴下などは、この方がきれいになる。

今は様々な機器に待機電力が使われているが、電気を切るときは主電源を切り、エアコン、テレビ、ビデオデッキ、コンポなどなどの待機電力を使わない。電気ポットはお湯が必要なときだけ使って、通常は切っておく。電気釜の保温もせずに、食べきるだけを炊いて、冬場なら一日分くらいにし、冷めたご飯はチンして温める。

これらをこまめにやってみると、却ってかなり無駄に電気を使っていたことに気がつき、実行してみても全く不自由ではないことが分かる。

節電はそれが習慣になれば別に苦労は要らないし、意識してやることでもなく、それが当たり前になれば良いと思う。


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家事を手際よく10

普段から片づけ物が不得意で、気がつくと家の中が乱雑になっているのだが、今回の震災で思い知ったことがある。二次元的に狭ければどうしても三次元的に物をしまう。つまり、高いところにいろいろ積み上げるのだが、先月の地震の時、多くの物が落ちてしまった。幸いけがはしなかったし、万が一を考えてぶつかったらけがをしそうな重い物は高いところには置いていなかったし、今回は初期の揺れが長かったので外に出ることが出来たが、収まってから戻り、かなりの物が散乱しているのに驚いた。これがもし、直下型で震度六以上だったりした場合、まず大けがをする可能性があると思ったのだ。

かつて十勝沖地震の時、私の居た建物が旧館と後から継ぎ足した新館の部分でまっぷたつに裂けあわや崩壊という事があった。単に廊下などで継ぎ足したのではなく、全く旧館と同じくらいの建物を継ぎ足し、中の壁を取り払ってもともと一つの建物であったかのように増設してあったのだ。

その時は、様々な什器や備え付けの物が倒れるなどと言うより飛んでくる有様で、まともにぶつかったら大けがをするところだった。じっさい、何人かけがをした様だ。少し離れた場所にあった大学の一階部分が完全につぶれたくらいの激しい揺れだった。震度の発表があったかどうか覚えていないが、おそらく今の基準なら震度6を超えていたのではないだろうか。とうてい立って避難できる状態ではなかった。

今回の震災で当時の記憶が蘇った。家の中であれと同じ事が起きれば、仮に家が倒れなくても(耐震基準は当時とは全く違うので)いろいろな物が飛び交い、ぶつかったら大けがをするだろうし、寝ているときに頭でも直撃されたら命も危ない。それに、避難するにも避難路が完全にふさがれてしまう。

そこで、今はまだ当時落ちてきた物はそのまま床に積み上げてあるが、いつまでもそう言うわけには行かない。そこで、とにかく次の作業をすることに決め少しずつやっている。

1)家具は柱に固定する。壁などでは弱くて固定できないので、必ず柱、あるい  は壁の中のしっかりとした柱を探してそこにしっかりと固定する。

2)上にのせる物はすべて段ボールに収め、段ボール毎下にひも、あるいは粘着  テープで固定する。

3)引き出しは飛び出してこないように、ひもなどをかけられるようにする。

4)観音開きの物は取っ手にゴムなどをかけて開かないようにする。

5)ガラス戸は透明シートなどを貼り砕け散ることがないようにする。

6)普段一番多くいる場所の安全を考え、たとえば寝ているときに物が飛んでき  てけがをすることのない様安全な空間を確保する。

7)避難路になる場所を想定し、そこが倒れたり落ちてきた物でふさがれること  がないようにする。

8)最小限の貴重品はいつでも持ち出せるようにまとめておく。

9)最低限二日間は生きてゆける防災用具はまとめておく。ただし、持ち出せな  くとも後から取り出せる物を別にまとめておくと便利。

以上いろいろ考えてはあるが、すべてがまだ実行できているわけではない。最終的に自分を守るのは自分以外居ないので、一番大切なのはその時行動できる心構えと、体力だと思っている。



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家事を手際よく11

今まで部屋の整理整頓について書いてきたが、当然ながら部屋をきれいすること も整理整頓と同時進行でやらなければならない。整理するために食器棚を一旦空 にしたときは誰でも食器棚の中を掃除するだろうが、私の場合はとりあえず小さ な箒で埃を掃き出し、固く絞った布巾できちんと拭く。しかし、それでも隅にた まった埃は取れないので、歯ブラシや時にはつまようじまで動員してつつきだし、 拭く。余裕が薄目の家庭用潜在で固く絞った布巾で拭くが、下手をすると妙な臭 いがついたりするので、通常は洗剤は使わない。

食器棚全体はやはり固く絞ったぞうきんで拭くが、外側は洗剤を使う。臭いがこ もることもないし、内側とは違う汚れがこびりついているから、水ぶきだけでは すっきりと取れない。

中の食器は乾拭きだけにしているが、どうせ使うときは洗うので、整理の時は単 に埃が取れればよいと割り切っている。物によっては、ポリ袋に包んで置くよう にしておけば、次に使うとき簡単に濯ぐだけでよいので便利だ。

気がつくと、家中にある物に埃が積もっている。たとえば毎日使うパソコンも定 期的に掃除をしないと、くぼみなどにけっこう汚れがたまっているし、毎日さわ っているキーボードなど、気がつけばぞっとするほど汚くなっている。一説によ れば、キーボードやマウスなどは、トイレの便座以上に汚いそうだ。そう考える と、トイレの便座とはかなりきれいな物だと納得せずに、気がついたときは掃除 をした方がよい。

キーボードは水気厳禁なのですべて乾拭きとなるが、なにしろ凹凸がたくさんあ って簡単にきれいにはならない。そこで、私は何度かに一度の掃除では、キーボ ードを完全に分解し、フレームとキーもすべて外して、洗剤液につけておき、歯 ブラシやスポンジを駆使して徹底的に洗う。そして完全に乾燥してから再度組み 立てるとほとんど新品のようにきれいになる。それだけでもけっこう気分が良く なるので、私の気分もかなり単純に出来ている。同じ方法でマウスもきれいにす るが、キーボードは何度かそのように掃除をしていると、キーの文字表示が消え てしまっている。幸いブラインドタッチをしているのでキーボードの表示は関係 がないが、最近はキーボードもマウスも1000円未満で買えるので、一年に一 回くらいは買い換えた方がよいのかもしれない。いずれにせよ、毎日酷使してい るので消耗品と考え、キーボードなど5,6個以上ある。使えるキーボードなの で捨てる気にならずに保存しているが、このあたりが私の欠点なのだろう。使わ ない物は捨ててしまえればよいのだが。

パソコンのモニターも知らない間にけっこう汚れが付いているので、たまにアル コールなどで拭くが、汚れが取れると見やすくなるので、これは頻繁にやった方 がよい。私は燃料用アルコールを使っているが、蒸気を吸い込むのは健康に良く ないので、消毒用のエタノールの方がよい。シンナーなどは、プラスチック製品 には絶対に使ってはならない。

ガラス面などはベンジンでも良いが、たれるとプラスチックを侵す場合があるの で使わない方がよい。やはり、パソコンや家電などはアルコールで拭くのが一番 良いようで、汚れがひどいときは、薄目の洗剤を固く絞った布巾を使い、後で乾 拭きをするのがよいようだ。

まあ、パソコンでもキーボードでも、汚くても使えるが、きれいだと気分がよい。 普段使っているデスクトップも、ごくたまにすっかりケーブル類を抜いて拭き、 マザーボードなどはエアーで拭いて塵を落とすことで確かに故障率が下がるよう だ。もちろん、CPUクーラーなどは念入りに掃除して放熱をよくすることが、故 障を未然に防ぐためにも大切だが、下手に掃除をするとそれで壊してしまうこと もあるので、自信のない人はパソコン内部の掃除は誰か詳しい人に任せた方がよ いかもしれない。

閑話休題。部屋の整理整頓をしたときにクリーニングもきちんとしておくと普段 の掃除も楽だという話だ。



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家事を手際よく12

洗うと言えば、毎日使う調理器具や食器の洗浄も注意をしなければならない。不完全だと食中毒の原因になったり、なにより、きちんと洗えていない食器は食欲もうせる。今は、各種の食器用洗剤もあり、お湯も出るので昔よりは楽だが、それでも神経は使わなくてはならない。

私の記憶だが、幼い頃外から帰ってくると祖母は私を捕まえてそこにある雑巾をしめらせ泥だらけの私の顔をぬぐった。ついでにそれで床を拭き、またそれで流しを拭いたり、時には鍋の中を拭いたりしていて、母はそれを非常にいやがっていたと、後で聞いた。

祖母の年代では、汚れが見えなければきれいになったと納得するのであり、母の世代では目に見えなくても汚い物は汚いと思っていたのだから仕方があるまい。今の私はもちろん、母と同じ感覚だがよく考えてみると祖母の感覚も受け継いでいるかもしれない。

たしかに、同じ雑巾で床を拭いたりシンクを磨いたり鍋を拭いたりはしないが、基本的に洗剤を使わない。洗剤はいくら流しても安心できないと思っているからだ。よほど油汚れがきつい場合は洗剤を使うが、普段は流水中で亀の子だわしでこするだけだ。それでほとんどの汚れはきちんと落ちるし、別にそれで食中毒を起こしたこともない。

ただ、必要に応じて熱湯消毒をする。

さらに、たわしで洗うのは瀬戸物やガラス食器、普通の木製食器であり、当然ながら私が普段使っている安物に限る。高級瀬戸物、ガラス器などは当然ぬるま湯とスポンジ、及び洗剤を使って洗い自然乾燥をする必要があるし、漆器などは乾燥さえ気をつけなければならない。熱湯やたわしなどもってのほかだが、私は普段そんなものを使っていないので、問題はない。

また、私は使っていないが、食器洗い機は信頼できるし、よく落ちるが、たわしの手洗いに慣れているので食器洗い機を使うつもりはない。大家族の場合は食器洗い機も役に立つと思う。

鍋も遠慮無くたわしを使う。洗った後は軽く火にかけ空だきで乾燥しておく。アルミ鍋やホーロー鍋にたわしを使うなというのは定番だが、孫子の代まで鍋を使い続けるつもりもなく、消耗品と割り切っているからだ。ただし、鍋の外側は洗わない。見かけは良くないだろうが別に中身に汚れが移るわけではない。もっとも、あまり汚れがひどいと熱伝導率が落ちるので、それも程度問題だろうが。

包丁やヘラなどはやはりたわしで洗い、よく乾燥しておけば問題はない。乾燥した金属表面でほとんどの細菌は死滅するし、心配なら熱湯をかければよいだろう。ただし、熱湯をかけすぎると包丁の焼きが戻って切れ味が落ちるといわれるが、鋼の包丁でなければそんなに神経質になることはない。

また板も除菌が大切であり、私はプラスチック製を使っている。木製は使い勝手がよいが、衛生面で管理しきれる自身がない。使い終わったまな板はやはりたわしでよく洗い、熱湯をかけて立てかけ乾燥しておく。

次第に黒ずみなどが染みついてくるし臭いも染みつくので、時々台所用の漂白剤でしめらせたキッチンペーパーを貼り付け、乾燥を防ぐためにその上からラップを密着させて置いて一晩放置すると消毒にもなるし漂白も出来る。

食器用に私は布巾を使わない。自然乾燥か空だきで乾燥する。

まあ、この方法が一番良いかどうかは分からないが、私は別にこれで問題を感じていないので、簡単で確実な方法だと思っている。

by ロクスケ


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家事を手際よく13
食器がきれいになったところで、冷蔵庫、食器棚、シンク、洗い籠などをとりあえずきれいにしておきたいものだ。とはいえ、これらを徹底的やるのは相当時間がかかるし、あまりに壮大な目標を立てても挫折して自己嫌悪に陥る。したがって、必要最小限の掃除で良しとして、あまり細かいことは気にしないことにしている。

食器棚に限らないが、必要最小限しか入れないようにしている。昔は何か気に入った食器があるとすぐに買ったがいまは最小限しか買わないし、ずいぶん捨てた。基本的な食器なら、おそらく一人あたり10個もあれば全く不自由しないのではないか。私はまだ10個まで減らせないが、それでも延べ数百個の食器は捨てた。

今使っているのを思い出してみると、丼大小各一個、茶碗、小鉢、小皿、中皿各二枚、大皿一枚、お椀一個くらいだと思う。

しかし、食器棚には、なにやら使わないグラスや焼き物、雑多がまだたくさん入っているが、それらを処分すれば、おそらく食器棚自体が要らないと思う。今使っている食器棚はだいぶガタが来ていて、なんならお払い箱にしても良いかと思っている。工具や材料入れに転用するかもしれない。今は時々ふき掃除をしている程度だが、無くなればずいぶんすっきりするだろう。

冷蔵庫も昔買ったずいぶん大型の物があるが、日頃からかなり無駄だと思っているので、近々買い換えるつもりだ。今使っているのは230リットルだが、おそらく100リットルで十分だろう。それに昔の冷蔵庫と違いずいぶん小型になったし、節電技術も進んでいる。掃除もその方が楽だろうし、それに冷蔵庫がどれだけ必要なのか試したことがある。なにしろ、昔子供の頃は冷蔵庫なんか無かったのだ。

さすがに冷蔵庫の全廃は無理だった。冬は良いが、夏場はちょっと油断をすると、食品が怪しくなる。それにフリーザーがどうしても要ると痛感した。いずれにせよ、冷蔵庫を使わなくても済む生活が出来たらずいぶん楽だろうと、思うが、いまのところ、つきに一遍くらい中身を出して、固く絞った布巾で拭くくらいしかしていない。中の棚やトレイなどは、外に出して洗剤で洗っている。外側は気がついたら拭く程度だが、けっこう手垢が付いているようだ。ただ、私があまり気にしていないだけだから、気になるなら徹底的に拭いて、ワックスがけなどすればいい。かつて私はそうしていた。

シンクは無いと困るが、普段は乾拭きする程度だ。ただし、三日に一回程度、クリームクレンザーとたわしで磨いている。シンクに直接食材や食器を置くようなことはしないので、これですませているが、もし、そうするなら、熱湯消毒などをした方がいいだろう。

汚れがたまるのはガスレンジやレンジ周りだが、本当は頻繁に掃除すればよいのだろう。だが、私はレンジにはアルミホイルをかぶせ、レンジ周りは目に見えるところは拭いたりするが、徹底的な掃除など半年に一回やればよいと思っている。

もちろん、きれいにするに越したことはないが、ある程度で別に実用的にはかまわないと私は思っているので、各自の納得するレベルでよいと思っている。鍋の外側を磨かないのもそんな基準でいるからだ。

本格的に台所全般をぴかぴかに磨き上げるのは大変な時間と労力が要る。貴重な人生をそのために捧げたくはないと思っているからであり、何に優先順位を置くかはもちろん人それぞれだという話だ。

by ロクスケ


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家事を手際よく14

不完全ながら、とにかく食器をどの程度洗うかを前回紹介した。要するに自分で納得すれば神経質に全くぴかぴかに磨き上げることはしないのだが、とはいえ、それで食中毒など起こしてはたまらない。

見かけがきれいになっていればもちろん食中毒菌も落ちている可能性は高いが、汚い布巾で拭いた食器には細菌が残っている可能性はあるし、まな板や包丁から細菌が繁殖する可能性はある。

大体は加熱調理する場合は、私も程々に洗うだけにしている。洗剤が残るのは嫌なので、食品を洗剤で洗うなど絶対にしないし、調理器具も洗剤は基本的には使わない。ほとんどのの細菌は70℃以上で数分間加熱すれば死滅するので、あまり心配することはないと思っている。

ただし、加熱で細菌は死ぬが、細菌が出した毒素は分解されないので、細菌が大量に繁殖してしまった食品は加熱しても中毒になる可能性があるから、その用心はしなければならない。また一見腐ったように見えない食品がむしろ中毒性の細菌の固まりになっている場合があるので、古い物は新鮮に見えても食べない方がよい。一方ご飯などは、昔は糸を引くようになっていても洗って食べるのが普通だったし、そして別にそれで病気になったこともない。冷蔵庫のある今、そんなことをして食べることはなくなったろうが、腐っているように見える物が安全で、腐っていないように見える物が危ないことが多々あるので、怪しい物は口にしないことを徹底する必要があるだろう。

さて、生ものなどを扱う場合は、私もそれなりに神経を使うが基本は調理器具を熱湯消毒することにしている。まな板やボウル、包丁、菜箸などは沸騰した熱湯を十分にかけ、布巾で拭くことはしない。問題は手だが、熱湯消毒は出来ないので、とにかく除菌石けんを使って流水で念入りに洗うことにしているが、その際は水道のハンドルや蛇口にもあらかじめ熱湯をかけておく位のことはしている。

おかげさまで今まで食中毒になったことはないが、(鯖でじんましんになったことはあるが)基本的には免疫力の力もあると思っている。考えてみれば、空気中にもカビ、細菌、ウィルスの類は無数に漂っていて、いくら熱湯消毒をしてもそれらの再付着は避けられないが、人間には元々そんな病原体には負けない免疫力があり、細菌が数百個体内に入ったくらいでは全く健康に問題はないから、消毒ばかりにノイローゼになる必要はない。常日頃の体力向上が、もうひとつ食中毒を防ぐ手段だろうし、あまりの無菌生活をしていると免疫力が衰えるとも言われている。そこは兼ね合いだろう。むしろ、洗剤を体内に取り込む方がよほど危ないと私は思っている。



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家事を手際よく15




食材や調理器具を十分に洗い、消毒することで食中毒は防げるだろうが、それでも万全ではない。幸い私は食中毒らしいものにかかった記憶がないが、食品の貯蔵などにも神経は使っている。

食品は開封したら短期間で使い切るのが原則だろうが、一人暮らしなどではそうも行かない場合がある。そう言った場合は、とりあえずは冷凍するが、一旦冷凍したが最後、二度と娑婆には戻れないのが普通だ。

そうならないように、私は強引に使ってしまう。缶詰類などはみそ汁や煮物やスープなどに入れてしまうし、佃煮類は吸い物にするとか、混ぜご飯にするとか、麺類の出汁にするなどいろいろ使える。

野菜類、特に夏野菜は基本的には冷蔵庫には入れない方が長持ちするがとはいえ、一週間以内には使い切る。葉物は冷蔵庫に入れなければならないとしても、新聞紙で包んでからビニール袋に包むなどすればよい。また使う場合も、葉先から使うようにして根本は後から使うようにすれば全体の保ちもよい。一束を買ってそれを小分けにして使うよりはよい。ニンジンなどは何本有っても先の方を使う。一本を使ってまた次の一本というより、全部の先をまとめて先に使う方がよい。

卵は常温保存で2,3週間は大丈夫だが、精々1週間で使い切るようにする。そのためにも安いからと言って、まとめ買いはしない。

キャベツは中をくりぬいて濡れティシューを詰めるなどと言われているが、私は外葉からむしって使うようにしている。

未開封の瓶詰め、缶詰やレトルトなどは冷蔵庫に入れる必要はない。調味料は、塩や砂糖など以外は開封したら冷蔵庫に入れて置いた方がよい。ただし、安いからと言って大きな容器入りを買うのではなく、小さなものを頻繁に買い換えた方がよい。

基本的には冷蔵庫は魔法の箱ではないので、加熱したものでも2,3日が限度と考えて置いた方が無難だし、冷凍したものは保存だけなら一年でも保つが、酸化したり変質したりするので良いところ一ヶ月、おおかたは1,2週間で使い切るよう心がけた方がよいし、たまには中までよく見て、あまりに古いものがあったらさっさと捨てるべきだ。冷凍庫の主など存在させて置いてはならない。

私は、もしかしたら冷蔵庫のない方が健全な生活を送れるのではないか考えることがある。要するに冷蔵庫に頼らないような食生活の方が結局は新鮮なものを食べられるのだろうが、実際の生活でそれは不便だ。近くにスーパーでもあって、お金がたくさんあるなら、冷蔵庫は要らないなどと言えるかもしれないが、そうは行かない。

だから、私も冷蔵庫を使っているが、基本として冷蔵庫に頼らない生活の方が安全なものを食べられると考える思考方法のことを言っている。

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家事を手際よく16

連日猛暑が続いているが、ちょっと油断をするといろいろなものが腐ったり変質したりする。前回書いたように、私は冷蔵庫が要らないくらいいつも新鮮な食材を新鮮な内に使い切るような食生活の方が健康的ではないか、と書いたが、これはあくまで食料の鮮度を重要視した話であって、実際の生活で毎日消費する分だけを買ってきたり、そして毎日食べる分だけを調理することの出来る人はむしろ少ないと思える。したがって、私のこの言葉もあくまで一つの考え方と言うことであって、実際は、まとめて調理して保存したり、糧来た食材を上手に保存することはしなくてはならない。

冷蔵庫がせっかくあるのだから、それを十分に利用するやり方も否定してはならないと思う。

私は今の所、一日1食か精々2食だし、普通に作るとほとんどが食べ残すので、自分なりに工夫している。すなわち、一回で食べきるだけの物を調理し、食べきり、作り置きをしないことにした。

その結果、作る物は毎日が野菜炒めとうどん、野菜炒め汁にすいとん、野菜炒めを混ぜたチヂミ、野菜炒めを挟んだ薄焼きナンのような物になってしまった。

私は以前から、毎日同じ物を食べても全く苦にならないし、そう言う食生活でも栄養学的にそれほど貧弱ではない内容にしている。また頻繁に冷凍の魚を焼いて食べたり、納豆と卵と刻みネギ、海苔をよく混ぜて焼いた卵焼き、みそ汁、サラダ、そしてヨーグルトや野菜を食べるようにしているので、自覚するような体調不良はない。

気が向けば、刻んだ生野菜をヨーグルトで和えて食べたりしている。

本来は食は人間生活の楽しみの最たる物の一つの筈だが、私はその方面の欲望がきわめて希薄で、食べないで生きてゆけるならよほどその方がよいと考えるから今のような食生活が可能なのだろう。外食嫌いで、薄味好みで同じ物を食べても飽きないのはかなり私なりに便利だと思っている。

話が脱線したが、栄養不良にならず体調が保てるなら、食べる物は可能な限り簡単なのがよいというのが私の結論だ。あまり参考にはならないと思うが。

ただし、体調をキープするには運動も大切で、今はほとんど毎日夕方から平均数千歩は歩くようにしている。少し脚を伸ばすと1万歩は歩く。また、水分の補給も欠かせない。私は大量のお茶を飲んでいる。












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家事を手際よく17
今年も連日猛暑続きで、先日の台風の折急激に温度が下がり、また急上昇した。そんなときはどうしても食欲が衰え、ただでさえ食べるのが面倒くさいのに叱咤激励しなければ食事が摂れない。結局私の場合は取りやすいヨーグルトや果物などをつまみ食いしてごまかすが、それでもまとめて馬力のある物を作ったりする。

食欲のない時でも簡単に出来て簡単に食べられる物は案外暖かい物だったりするので、冷たい素麺や冷や麦のような物はあまり食べない(好きではあるが)

夏向けのレピシをいくつか紹介する。

野菜うどん

ニンジン千切り(皮のまま)、タマネギスライス、ピーマン千切り(種ごと)、セロリの葉っぱ(軸は前日一束すっかり生で食べた。おかげでセロリだけで満腹した)、キャベツ、長ネギなどを刻み、みじん切り生姜とスライスニンニクをたっぷりのサラダ油で炒めてそこに刻み野菜を入れ、適当に火が通ったらゆでた麺(通常のゆで麺は柔らかすぎて好きではないが、別に使ってもかまわないと思う)を加えて炒め、醤油、胡椒、鶏ガラスープの素などで味を調えれば一丁上がり、おそらく麺をゆでながら野菜調理が出来るので、15分くらいで出来ると思う。ヨーグルトを入れると味が深まる。もちろん、豚バラ肉やベーコンなどを先に入れても良いと思う。

納豆オムレツ

納豆をよくかき混ぜ、そこに溶き卵、刻みネギ、刻み海苔などを加え、熱々に熱したフライパンに注ぎ込み最初は混ぜ全体が固まりかけてきたらそのまま。大体固まったら、ひっくり返して火を消せばできあがり。

夏に限ったことではないが、とにかく調理に時間をかけたくない。作っている内に食欲が無くなるので、冬場はおでんと決めて毎日食べていれば済むが、夏はすぐに駄目になるので、外都度作るようにしている。すると、刻んだ野菜を炒めて、スープを入れるとか、ご飯を入れてチャーハンにするとか、うどんを入れるとかそのようなものになる。

先日友人とフライドチキンを食べ、2,3日胃がもたれて酷い目にあった。野菜だとそう言うことがない。新鮮なら、そのまま何もつけずに囓ることで堪能できるが、量的に食べられないので、やはり火を通した方がよい。

いぜん、夏は野菜だと書いたことがあるが、やはり体力を保つのは野菜が一番だと、これは信仰に近い思いを持っている。薄味の野菜に限る。












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家事を手際よく18

どうも夏は食欲が出ないので手をかけない物を手早く作る、と前回書いたが、一番簡単なのは野菜を生のまま囓ることだ。これは結構食べ応えがあり、腹保ちも良い。それで、最近よくやるのが、セロリ、ニンジン、キャベツ、ピーマン、長ネギなどを良く洗い、そのまま適当な大きさに手でむしって皿に盛りつけ、それをテーブルの上に置いて、仕事をしながらでも囓る。何もつけない。新鮮な野菜であれば、口に放り込んでじっくりと噛んでいると結構食べ応えがあり、下手なスナックよりよほど良い。

以前はマヨネーズや塩などをつけていたが、今は全くなにもつけない。なれてしまうと、その方が良い。とはいえ、気が向くと味噌をつけたり、ヨーグルトをかけて食べるが、そうなると何かをしながらつまむのに不便だし面倒くさいので何もつけない食べ方に変わった。

ただ、芋類などは生では食べられないので、適当に切ってオーブントースターに放り込み焼いて置いて好きなときにそれを皿に取りだして食べるようなことはする。それだと、カボチャなども食べられる。時にはそれと一緒にセロリやナス(新鮮なナスは生で食べられるが、普通買ってくるナスは駄目だ)ニンジン、ピーマン、ネギなども軽く焼いて、これはサラダ油と酢などをかけて食べる。こういう物は食欲がないときでも結構知らない内に大量に食べられるし、なにしろ健康な排泄につながる。

少し前、その健康な排泄が滞って憂鬱だったが、野菜を大量に食べて(本来私は生野菜は食べない方なのだが)意地になって歩き回り、歩数計で観ると 6000歩から13000歩くらい歩いている。そうすると、さすがに健康な排泄が蘇る。

ただし、カロリー不足の傾向があると思うし、夏場結構私は汗をかくのだが、塩分が不足しがちだと思うので、本当は意識して塩分を摂らなくてゃはならないのだろう。なにしろ、放っておくとどんどん薄味になる傾向がある。どうもかったるいことがあるが、暑さのためだけではないだろう。塩分不足ではないかと最近思うようになった。

今回は家事というより、私の食生活になってしまったが、そうやってもべつに不自由は無いという一つの例だ。新鮮な野菜なら生で食べても中ることはまず無いだろう。

by ロクスケ











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家事を手際よく19
洗濯は家事の中でも結構ウェイトを占めているので、それなりに工夫しなければならないのだろうが、案外私は簡単にやっている。家事など、そもそもそれぞれの家の生活スタイル、人数などで大きく変わるのだからその事情に合わせてやればよいのだが、私もそうだ。

私は普段作業着を着ていることが多い。むろん、仕事のためだが、外に出るときもほとんどそのままだ。ただし、実際に仕事で着ている作業着は油汚れ、錆汚れ、塗装汚れなどでそのままでは外に出られないから、仕事以外出来ている作業着は、実は仕事では着ない衣服として着ている。

作業着の良いところは、とにかくポケットがたくさんあるので、手帳や財布、携帯、鍵類、時にカメラ、音楽プレーヤーなどなど多くのものをそのまま持ち歩けるのが便利なので使っている。また作業着はもともと気安くできているので楽だし、汚れたらすぐに洗って干しておけばそのまま着られるから便利なのだ。何より安いし、何本でも買って、簡単に洗いながら着ることが出来れば便利だ。

そうして古くなったり本当に汚れが取れなくなったら仕事で着ている。

ちなみに私は汚いジーパンなどよりよほど洗いざらした作業ズボンの方がましだと考えているが、もちろんそれは人それぞれのおしゃれ感覚に拠るのでだれもが作業ズボンをはけばよいわけではない。

そんな作業服を洗う場合、襟、袖口、ポケットなど、汚れの集中して付きやすい所はあらかじめ洗剤をつけたブラシでこすってから洗濯をするときれいになるし、洗濯石けんが効果抜群だ。これはワイシャツや作業服などでもおなじで、前もってこのような部分をブラシ洗いをしておくことで、きれいになる。

また、夏は汗でぐっしょりになるが、そのようなときは軽く洗剤を溶かしたお湯を満たしたたらいにつけて置いてもみ洗いをするだけでも良いだろう。ブラシ洗いをするにしても、何も毎回洗濯機を使う必要はない。シャツやタオルなどはブラシ洗いと手洗いだけで、あとはべつにしぼらずに水が切れるまでぶら下げておき、水が切れたら改めて風通しの良いところで干せばよい。

私は洗濯は割合好きで、結構頻繁にやるが、毎回念入りに素材ごとに分けてやるようなことはしない。簡単な洗濯を頻繁にやる方がましだと考えている。

by ロクスケ











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家事を手際よく20

私にとって家事の中でも特に大変なのは片づけだ。定期的に片づけてはいるが、徹底的な掃除など滅多にはしない。少し油断をすると大変な散らかりようになる。別にそれが好きなわけではないので片づけるのだが、あたかも壁や床から沸いてくるようにいろいろなものが散らかってくる。ものの整理が出来ていないからだとは痛感しているのだが。

そこで、私も収納について考えた。



画像 牛乳パックで作る蓋付き箱

この箱なども便利で、牛乳でもジュースでも一リットルパックを良く洗って乾燥し、後は図のように切って折り曲げると、蓋付きの箱になる。これの外側に、私は、電池、充電器、つまみ、ターミナル等々赤のマジックで大きく書いて積み上げているが、同じ大きさなのできちんと整理が出来て便利だ。

最近はジッパー付きの食品が多いので、使った後は、二三回は食品を入れて冷凍に津賀田利している。衣類はゴミ袋に分類ごとに入れてそれをタンスの引き出しに押し込んでおけば場所を取らないし汚れないし、取り出しやすい。

冬物夏物などは私は二重にしたゴミ袋に詰め込み、ナフタリンと一緒にして押入に積み重ねているが、場所を取らないシムしも付かないし便利だ。

それでも散らかるがらくたは捨てる。それに決めた。そのつもりで、昔から膨大な数貯まっている電子部品を取り出し、捨てるものを分類したが、・・・元に戻した。人から観ればがらくただろうが、とうてい捨てることの出来ない私の歴史だと撫で回しながらまた元あったところにつっこんでいる。

衣類などもかなり長持ちさせる方だし、普段着ている作業着などは頻繁に洗って、少しほころびたりしているものは結構こまめに繕っているが、いよいよ駄目になったものは作業場で油拭きに使って最後はゴミになる。それ以外の衣類は、洗ってほころびてきたものは、油拭きに使うこともしないで捨てることにしている。

これで書類の類が多くパソコンの中に入ってしまったし、カタログなどは最新版をメーカーのサイトからダウンロードするので昔のように山をなしたカタログと格闘する必要が無くなったのは助かる。それと大きいのがビデオ関係が無くなり、おそらく山のようなビデオテープ(ほとんどが映画とテレビの特番など)がなくなり、音声カセットテープが無くなればもっとすっきりするだろう。それでも、がらくたとの戦いは終わらないのだが。











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家事を手際よく21

家事と言えば、掃除洗濯料理であり、今まで私なりが心がけている方法を書いてきた。次に、近年意識が高まってきたという防犯について書いてみたい。

元々日本は世界でも桁外れに犯罪の少ない国で、特に田舎などでは泥棒など考えられず、人々は家に鍵をかけずに出かけ、窓を開けっ放しで寝たりしているところがまだたくさんある。私が子供の頃は、地方都市ではあったがやはり同じような物だった。

今でも真夜中に女性が一人歩きをし、世界最高密度で自販機があり、商店は目の届かない店の前にまで商品を広げている。

日本人はこれも当たり前と思っているが、海外から日本に来た人々には信じられないようなことなのだ。自販機荒らしは日常茶飯事なので、自販機も所有者の目の届く場所に置いて実に頑丈に出来ている。商品が目の届かないところに並んでいるのは盗んでくれと言っているようなもの、女性どころが男性でも夜一人歩きをしていればそのほうが悪いと警察でしかられるのが普通だ。

そのほか、落とし物が戻ってくるなど世界ではほとんどあり得ないのに、日本では普通にあるし、私も20万ほど入った財布が警察に届いていたことがあり、こんなに持ち歩くな、何かいいことがあったのか、と言われた。別にいいことがあったのではなく、その日に限って必要だったから持っていたに過ぎないが、それはともかく、落とした財布の金がそのまま戻ってくるのは、日本くらいしかない。

とは言いながら、日本にも泥棒はいるし女性は被害に遭うし、なくした財布が戻ってこない所かすられる場合もかなりある。いくら世界では希なほど少ないにしてもゼロではない。

そう考えると、やはり家の防犯はそれなりに考えなければならないだろう。少なくとも玄関の鍵は二つ以上付け、ドアスコープやドアカメラで相手を確認しない限りドアを開けない、窓には防犯用ガラスを使う、普段から不審者がいないか気を付けるなど必要だろう。

私も玄関に鍵を二つ付け、訪問者は事前に確認し、外に出るときは不審者が見ていないかくらいは気を付けている。家に大金をおかない(これは、おきたくても持っていない私の場合は心配ないが)、通帳と印鑑を一緒におかない、カードや免許証などは盗む方にとっては金以上の価値があるので貴重品の最たる物として扱うなどの注意をしている。

それなりの金庫(手提げ金庫ではなく、一人で持ち運びの出来ない耐火金庫くらいは持つようにした方がよいのかもしれない。なにしろ、犯罪被害は会うまでは実感できない。だから、分かり切った手口で振り込め詐欺に引っかかったりする。犯罪に会わないと言う理由は何一つ無いのだから、会うという前提で普段から用心をしておかなくてはならない。すなわち、最大の防犯は心構えだろう。

by ロクスケ











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家事を手際よく22

補修。長年住んでいると家の中がかなり傷んでいることに気がつく。ただ、毎日眺めているとそれに気がつくのが遅れるのだ。たとえば、壁紙が相当汚れていたり、襖が汚れていたりすると、ある日それに気がついて驚くことがある。

実は私も最近気がついたのだが、とりあえず襖の張り替えをすることにした。幸い、今ではどこにでもあるホームセンターに貼り替え用の襖紙が売っている。昔は糊を用意して、広い場所で糊を付けしわにならないように貼らなければならなく、素人ではほとんど不可能だった。家の中が糊だらけになり、しかも乾いてくるとしわが目立つ。

本当は襖の張り替えは、引き手や枠を外し、古い紙をきれいに剥がし、骨だけにしてから下張りをし、そして襖紙を貼り替えることになる。これだけのことをやるのは大仕事で、ついそのままにしたり、専門の建具屋に頼むことになるが、かなり高い。

そこで、手抜きをやることになる。引き手だけは外さなければならないが、糊付きの厚手の襖紙を買ってきて、枠を外さないまま、古い紙の上から、新しい紙の裏紙を剥がしながら徐々に上から貼ってゆく。けっこう厚手だし、また水で濡らして伸びたりしていないので、しわになりにくい。ただ、曲がっていると下の方で大きくずれ、また模様が曲がってしまうとかなり目立つので、とにかく曲がらないようにまっすぐ貼ることには注意をしなければならない。

その方法だと、襖を外さなくても、そのまま出来るので簡単だ。枠の上からそのまま貼ってしまい、最後に枠に長い定規を押し当てるように使いながら、紙の端をきちんと枠の内側に押し込み、そしてカッターで切り取ると、きちんと貼れる。あとは引き手の部分に十文字の切り込みを入れてその部分の紙を中に押し込み、その上から引き手をはめると完成だ。これだけの作業で室内の感じが大きく変わる。

その要領で壁の貼り替えも出来る。ただし、板壁、土壁、布貼りなどでは出来ないが、普通の壁紙なら、比較的簡単に出来る。

もちろん本格的に壁紙を張り直すとしたら家具を全て移動し、壁全面を出さなければならないが、それを考えるだけで、後回しにしてしまう。したがって、大きく手抜きをする。

つまり家具を移動しないのだ。移動できる小さなものだけを移動して、普段目に見える部分の壁を顕し、きれいに水拭きをして汚れを取ったら、その寸法を測り、メモをする。当然長方形とは限らない。目に見える部分だから不規則な形になるがその形をきれいに図に書き取り、必要な壁紙のサイズを計算する。

糊付きの壁紙がまた便利だ。普通は1800mmx900mmで売っている。或いは600mm幅のロールで売っている。どちらでも良いが、少し余分に買っておかないと模様あわせが出来ない場合があるので、それは注意したい。

水拭きをした壁の見える部分より一回り大きく壁紙を切り、矢張り上から、曲がらないように、徐々に裏紙を剥がしながら貼ってゆく。もちろん、空気の泡が入らないように、空気を追い出しながら貼るが、どうしても泡が残ったらあまり神経質にならないように、泡をまとめるような形で貼ればよい。神経質に貼ったり剥がしたりをする方がよほど汚くなる。

張り終わったら、針で空気の泡をつついて中の空気を絞り出せば、それできれいになる。

模様あわせをしながら必要な面、即ち家具で隠れている部分以外はそれですませてしまう。壁紙も少なくて済むので一石二鳥だ。後で模様替えをして家具を動かすことになったら、その時やり直せばよいと割り切ることだ。とにかく思いついたときにやれる方を優先する。

なお、模様あわせは先に貼った紙に一部重ねながら次の紙を貼り、長い定規を当てながらカッターで切れ目を入れ、上下の紙のそれぞれ余った部分を剥がせば、きれいに模様あわせが出来る。今の壁紙は水も要らず、厚手なのでしわにもなりにくく、思ったより簡単に壁の貼り替えが出来る。

見えるところだけ貼り替える。そのような手抜きも、汚いままの壁よりはましだと私は考える。











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家事を手際よく23

前回はちょっとしたリフォームについて書いたが、リフォームに限らず、全てにいかに手を抜くかが私の生活スタイルになっている。料理も洗濯も掃除も、完璧にやろうとしたら他のことが出来なくなる。時間は限られており、優先順位がある。

全力を尽くし完璧にやるのであれば仕事の分野だろうが、それすら価格を下げるためには、性能や安全性に関係のないところはかなり手抜きをする。むろん、それは価格を下げる条件として客と事前に確認をしてからのことだ。

それで、客が納得し、不必要な部分のコストが削減できればお客も喜ぶ。つまりどのように性能を下げずに、要らない部分の手を抜くかもまた私の技術だと思っている。

まして、家事も完璧にやっている時間も精神的エネルギーも無い。以前にも書いたが、慣れさえすれば掃除一つとっても70%くらいなら簡単に出来るものだ。それで、生活に不便がないのであれば、私はそのようにする。なぜなら、90%まで仕上げるには70%までにかけた時間と精神力の少なくとも3倍かかるし、もし100%完璧に仕上げるなら、70%の10倍の時間や精神力では足りない。

もちろん、ホテルや料亭などは掃除もまた商品だから完璧にやらなければならず、そのためのスタッフが居るのだが、掃除が商品ではない一般家庭では、趣味ででもない限り掃除は70%でよいと割り切っている。自分で納得すれば50%でも良いかも知れないし、80%かもしれない。

洗濯でも調理でも、同じことだ。生活スタイルは自分で決めるのだから、誰もが同じ規準であるわけがないが、とにかく100%完全であろうとするのは精神的にも良くない。100%完全にしなければならないのは仕事だけで良いと思っている。

たとえば私は商売柄か、物作りが好きだ。身の回りの物をいろいろ作る。或いは物作りが好きだから今の商売をやっているのだろうが、そのため普通の人よりは多少器用だし、多少技術もある。また普通の人が持っていない工作機械や工作道具もたくさんあるから、普通の人が作るよりはおそらく手際はよいのだろう。

が、それでも完璧ではないし、完璧を求める趣味もない。自分で納得できるレベルで使えれば十分だと考えている。

私の趣味の一つにアンプ作りがある。アンプは金をかければきりがないが、簡単に作るなら本当にそこいら辺りのがらくたを集めても作ることが出来る。ネットを見ると、真空管アンプなどに数十万円をかけて超高級アンプを作る人が居る。実に見事な作品だが、私はがらくたで作る。超高級品の価格のおそらく数十分の一で出来ると思うが、音質が数十分の一とは思わない。せいぜい7,80%くらいの音質だと思っている。

また、昔と違い年齢の関係で可聴音域がかなり狭まっている。十代の頃は16Hzくらいから、15000Hzくらい、また、蚊の囁きから高架下の轟音まで聴き分けられるが、今はせいぜい数百Hzから、数千Hzくらい、猫の囁きから駅のホームくらいの範囲しか聴こえない。誰もが年齢が上がってくるとそうなのだ。

しかし、数十万円をかけてアンプを作れるようになるのは大抵定年退職し、お金と時間がある人が多いのが悲劇だ。超高級アンプを作っても、それを聴き分けられる耳がもうないのだ。

私が自分でアンプを作るのは自分の耳に合わせるためであり、別にそれで問題はない。また真空管アンプにこだわることもしない。真空管アンプの音質はトランジスタやICアンプより絶対に優れていると信じている人はこだわるのだろうが、私は自分の耳がその違いを聴き分けられるとは思っていないので、ICアンプをもっぱら作っている。特に最近はICアンプを作るにしても異常なほど安くなっており、私のように手持ちのがらくたを組み合わせ、心臓部のICだけを数百円で買えば良いのだから、気楽に作ることが出来る。

最近の傑作は、100円ショップで買った丼に小型スピーカーを入れたスピーカーボックスだが、陶器はこのためには最適の素材であり、数万円の品と私には区別が付かないくらいの音が出ている。材料費は、丼ニ個の210円だけだった。

話がそれてしまったが、家事でもいかに手を抜くかが大切な要素になっていると言いたかったのだ。

by ロクスケ











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家事を手際よく24

買い物の仕方。とはいえ、こんなことを今更書くのもどうかと思うが、つまりは、要らない物を買わない、無駄な物を買わない、同じ品質なら安い物を買う、本当に買う意味があるかを考えると言うこと等だろう。

これを書こうと思ったのは、私自身が考えて買っているつもりが後から考えてみると無駄な物を買ったとかなり頻繁に思うからだ。

先日、カラーレーザープリンターのトナーが無くなった。以前はインクジェットプリンターを買っていたが、なにしろ、維持費が高いのと、定期的に使わなければすぐにノズルが詰まり使えなくなるので、おそらく数台はプリンターを駄目にしている。

それでカラーレーザープリンターを買ったのだが、以前と比べかなり安くなっていたし、なによりランニングコストが安い。それと商売柄時々大量のカタログの様な物を刷る必要があるので、大量に刷れてコストの安いレーザープリンタは魅力的だった。問題は発色がインクジェットに比べて極めて劣る点だが、私が作るカタログでは大した問題ではない。

確かに、期待に応えて大量のカラー印刷物をすることが出来たが、なにしろカラーのべた刷りが多いので、いくら大量印刷できると謳っていても2,3年でトナー切れになったわけだ。

カラートナーは4色要る。純正品だと16000円/色なので、まともに買うと6万円を超す。リサイクルトナーがあるが、それでも4万くらいだろうか。ところが、カラーレーザープリンターはその後も値段が下がり、今ではトナーを買う値段で、当時よりも性能の良いプリンターが買えるのだ。

はたと気がついた。私はカラーレーザープリンターを買うべきではなかったのだ。インクジェットプリンターも要らなかった。白黒のレーザープリンターがあればそれで全て事足りるのだ。たまにカタログを刷るとしても、ほんのたまにだし、それなら原稿をメモリーに入れて写真屋に持って行けばきれいな原稿を印刷してくれるし、それをコンビニのカラープリンターで印刷すれば良い。100枚刷っても5千円だし、それより数量が多ければネットでいくらでもオフセット印刷をしてくれる印刷屋がある。

プリンターを買った当時の値段は、多分10万くらいだろうと思うが、それだけあれば十分私の需要を満たせるカラー印刷が出来る。今新たに買えば、安い物なら4万以下で買える。当然ながら、仮に買うとしても、トナーを買うより新しいプリンターを買った方がよい。そして、買う必要もない。写真屋で原稿を作りコンビニでコピーするか、少し数量が多かったら(そんな数量の必要性はほとんど無いが)オフセット印刷をすればよい。

そもそも、今はメールで資料をやりとりすることが大半で、カタログ自体も要らない。

実は同じような経験があったのだ。以前、仕事に必要だとコピー機を買った。しかし、すぐに駄目になり、その間コンビニのコピー代金が大幅に下がったので、コピー機はほとんど使わないでばらしてしまった。何しろ場所ふさぎだったのだ。

商売道具の測定器は、買えば目の玉が飛び出すほど高いが、普通は測定精度はそれほど要らないので、大半の測定器は私は自分で作っている。それすら、今は安い測定器が出てきて、作るよりも買う方が多い。まあ、本式の測定器は相変わらず高いが、使用頻度が極端に低いし、どうしても精度が必要なときは余所に頼む。工作機械も似たような物だ。

長くなったが、一般の生活でも、滅多に使わない調理器具や滅多に使わない掃除器具など、場所ふさぎでがらくたになる物を結構買っているようだ。製麺器、圧力鍋、餅つき機 etc.。

長い目で見て、買わないで済むし買わない方が得だという品物は結構たくさんある。なにしろ、都会では場所のコストが結構高いし、使わないまま放っておけば結局は価値が無くなる。減価償却みたいな物だが、ライフスタイルを考えてみると、ずいぶん無駄な物に取り囲まれていると改めて思う。

by ロクスケ











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家事を手際よく25


無駄な物を買わない様にすると前回書いたが、そもそも誰も最初から無駄だと思いながら買うことはない。必要と思ったから買って見たが、気がついたら使わなくなっていた、邪魔な場所ふさぎになっていたということが大半だ。

それと、私も若い頃は欲しいと思ったらすぐに飛びついた、いわゆる衝動買いが多かったが、散々無駄な物を買った経験を繰り返すと、さすがにそのような衝動買いはなくなる。まず思い返してみれば何か新しい物を見ても欲しいと思うことが無くなった。

昔なら差詰めスマホがでたら飛びつき、ネットブックがでたら買い、物珍しい文具がでたら考える前に買い便利そうな調理器具が通販にあったらすぐにメールをすることが多かった。だが、今ではスマホは買わない。なにしろ、使う意味が私にはない。ネットブックも外で使うことはない。たまに出張に行くときはもう7,8年使っているノートブックを持って行けば未だ使える。OSがもう更新を受け付けなくなっているし、そのため最新のブラウザも使えないが、そもそも外にでたらネットにつなぐことは滅多にない。文書作りや表計算が利用できれば良いし、どうしてもネットにつなぎたければ、最近はホテルに備え付けのPCがあったり、貸してくれるところが多い。どうしてもそれがなければ、最近はどこにでもあるネット喫茶を利用する。

7,8年使っているが、電池は駄目になり画面も暗くなっているだけで、普段は使わないのでそれほど劣化はしていない。もうすこし働いてもらうつもりだ。

そう考えると、昔ならとっくに買い換えているはずのノートブックも買わないで済んでいる。

実は、最近ホームセンターに行ったところ、某ノートブックメーカーのキャンペーンとかで、無線LANに申し込めば、ネットブック本体が1円だという。ふと、久しぶりに買いたい虫が騒いだが、考えてみれば外でネットにつなぐことなどないし、無線LANには不信感を持っている。大きく書かれた立て看板には、今日だけの特典、PC本体1円と書いてある。販売員に聞いたみたら今日だけ特別価格ですとのこと。まあ、買う理由がないので止めてきたが、次の日また買うものが出来て同じ店に行ったら同じキャンペーンで、同じ看板が今日だけの特典、PC本体1円のままだった。販売員は私の顔を覚えていないのか、声をかけてきそうになったので、すぐにその場を離れたが、まあこんなものだ。今日だけ、あなただけ、今だけ、この店だけというキャンペーンは止めた方がよいと散々学んだとおりだった。

前回から悩んでいるカラーレーザープリンターは新しいプリンターがもっと安くなりそうだし、未だに買わないでいる。インクジェットプリンターは何台も買ってもうすっかり嫌気がさしているので買うつもりはない。当分はモノクロレーザープリンターで済みそうだし、もし次回大量印刷が必要になったら、それこそ、写真屋で原稿を作りコンビニでカラープリントをするか、もっと多かったらネット上のオフセット印刷を頼むつもりで居る。

衝動買いを克服することでかなり無駄な買い物は避けられると最近思うようになっている。台所にも、使いもしない便利グッズがたくさんある。圧力鍋やミキサー、ジューサー、野菜絞り機、スライサー、炊飯器、極めつけは餅つき機。

あるドイツ人女性だが、全く金を使わないで生きてみようと、自分の財産を全て処分し、金も処分して人の厚意だけで生きているそうだ。自分が何かを持とうと思わなければお金はいらないと言うのだが、人の厚意で生きているのでは何か違うと思う。が、自分が考えているよりもずいぶん少ない物を持つだけで、結構生きてゆけるのだとは最近思っている。

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家事を手際よく26

無駄な買い物と言っても、別に高価な物の衝動買いだけでなく、日常品や食品なども、小学ながら頻繁に買うのでつもりつもれば少しの無駄も結果として大きくなる。そのためには、細かい物もきちんと把握しながら買うようにしなければならないが、たとえば、野菜を例にとってみる。

野菜には旬があるので、当然ながら夏野菜は夏に、冬野菜は冬に買うのが安いし、旨いし、そして新鮮なので、私は季節はずれの野菜はほとんど買わないことにしている。今は真冬でもスイカが買えるし、夏も白菜が買える。が夏場の白菜よりも冬の白菜の方が、サラダにしても漬け物にしても煮物にしてもとにかく夏の物よりは別格だ。

1)食品は旬に買う

次に、近県の物を買う。私は東京に住んでいるので当然買う野菜は東京近郊の物が多い。日本中都市の近くにはその市場のための野菜農家が必ずあるから、何も遠くの野菜を買うことはないだろうと思っているし、そしてその土地の野菜が安くて旨い。

2)近くの産物を買う

形にはこだわらない。時々一山いくらで曲がったキュウリやいびつな大根が安く売られているが、味は全く変わらないので率先してそのような物を買うことにしている。ただし、余り大量に買っても食べきれないうちに駄目にしてしまうことが多いので、安売りだからといって余り大量には買わない。特に葉物などはせいぜい2,3日で食べきれる量以上は買わない。

3)形が悪くても安売りを利用する。ただし、食べきれないほどは買わない。

それでも食べきれない食品は、加工してしまう。私の場合、漬け物にする場合が多い。例によって味の濃い物は嫌いなので、私が漬ける漬け物は非常に塩分が薄いが、主として乳酸発酵をさせているので、サラダ代わりに食べても塩分の採りすぎにはならないと思っているし、どうせ大半の塩分は水分の中の出ている。このようにして漬けた漬け物は、むろんそのままでも良いが、炒めたり、煮物に入れたり、サラダなどに入れることも出来る。

また、塩だけではなく、味噌とヨーグルトを合わせた物に漬けたり、醤油漬けにしたり酢漬けにしたりも出来る。ただし、塩分が少ないので長持ちはしないから、余ったからと言ってやたらには漬けない。

4)野菜は漬け物にして保存する

さらにそれでも余る野菜は、干しておく。日頃から大根の皮などは干しておいて料理にするが、人参、大根、タマネギなどは薄切りにして陰干しをしておけば非常に便利に使える。

5)一部の野菜は乾燥野菜にして保存する

大量に買った人参などは、カッターで細切りにして、きんぴらにする等すれば、時々レンジで加熱しながら結構長持ちする。きんぴらとして食べるのはむろん、チャーハンや炒めうどん、野菜炒め、スープなどあらゆる料理に使える。油で料理した物はこのような利用がしやすい

6)人参、大根の皮、レンコンなど、きんぴらにしておけば便利に使える

大根や人参などはおろして小分けにし冷凍しておけば、使う分だけ解凍して、そのまま使えるし、みそ汁の具にしたり、ドレッシングと併せてフライにかけたりも出来る。葉物野菜などは茹でてから冷凍すればいつでも使える。ただし、物によっては冷凍することで全く食べられなくなる、つまりすかすかのスポンジ状になる野菜も多いので試してみるしかない。だいたい、家庭でそのまま冷凍できる野菜はほとんど無いと考えて良い。

7)野菜はやたらに冷蔵庫に入れない

野菜をなんでもかんでも冷蔵庫に入れるのは間違いであり、常温で保存した方がよい野菜はたくさんある。そもそも、冷蔵庫で保存しなければならないほど大量の野菜は買っても無駄になる可能性が高いので、私は冷蔵庫に野菜はほとんど入れない。

大半の野菜は、新聞紙に包んで風通しの良いところに置くだけで、生きているから結構長持ちする。ピーマンやタマネギ、芋類など、常温で保存するのが原則の野菜もかなりある。

8)新鮮な野菜を見分ける目を持つ。

新鮮に見せるために、わざと泥を付けていたり水をかけている野菜があるが、敬遠した方がよい。葉の色、色つや、持った重みなどで鮮度が分かるものであり、その見分け方を日頃から身につけておけば、同じ値段でも新鮮で旨い物が買える。とにかくただの見かけに騙されて買わないようにするのが大切。

9)安い店は決まっている

店により、野菜の得意不得意があるようで、ネギは安いが大根は高いなど様々なようだ。スーパーなどでもその違いがあるので、日頃どの店ではどの野菜が良くて安いかをチェックしておけばよい。面倒くさいからと一カ所でいろいろ買うと無駄な物を買うケースが多い。

10)葉っぱや皮も食べる

大根の葉っぱ、皮、キャベツの外葉など捨てるべきではなく、それぞれきちんと料理をして食べるべきであり、干した大根の皮などは、他ではちょっと見つからない旨い一品になる。

以上、野菜を例にとって説明したが、肉類、魚類、調味料全てに言える。心がけ次第でつもりつもる無駄を省ける。当然それらの心がけはしているはずだが、見直してみるとまだ工夫の余地があるものだ。

by ロクスケ










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家事を手際よく27

物を大切にとは、私の年代の人間が親からやかましくしつけられたことで、親の世代はそれこそ、戦争で物が不自由な時代を過ごしているから、私たちが物を粗末にすると非常に怒った。たしかに、穴の開いた靴下やシャツなどは、母や祖母が丹念に繕って私たちに着せていたし、当時継ぎの当たったズボンなど誰もがはいていた。継ぎの代わりに動物や花などのアップリケを付けた女の子達が居て、そのアップリケを自分も付けて貰いたくてわざとスカートにかぎ裂きを付けた子も居た。私が希望の場所にかぎ裂きを付けるために手伝った張本人なのでそれは事実だ。今そんなことをすれば、礼を言われるどころの話ではないのでやらないが・・・

閑話休題。

物を大切に使うと長持ちする。当たり前のことだが、今の電子機器などは修理を想定していない。以前買った液晶モニターが壊れたので修理をメーカーに問いあわせたら、新品よりも高い見積もりが出た。個別の電子部品を買って自分で直すことも出来ると考えたが、メーカー修理の半額くらいで、これならまだ新品を買った方がよい。たしかにモニターの値下がりはすさまじく、直すよりは新品の方が性能も良いし安い。

またカラーレーザープリンターのカラートナーが無くなりかけているとの表示が出たので、新しいトナーの値段を見たら一式で4万以上する。しかし、最新型のカラーレーザープリンターがネットで見ると1万円で売られていた。中古ではなしに、歴とした日本の一流メーカーの製品だ。到底これではトナーを交換する気になどなれず、カラートナーが完全になくなったらしばらくはモノクロプリンターとして使って、必要なら新品を買うつもりだ。

そのような電子製品は、修理が前提にならないが、3年ほど前に買った電気カミソリが未だに使えるのに驚いている。なぜなら、それ以前も電気カミソリを買ったが1年もしないうちに使えなくなるのが普通だったからで、今回のカミソリはどうせ長持ちしないと安物を買ったのだ。ただ、以前と違うのは、使うたびにきちんと掃除をし、充電もしっかりと放電してから規定の時間をまもってするようにした。その結果、以前なら数回の充電で使えなくなる電池が未だに十分使えるし、以前なら中で引っかかる回転刃が全く問題なく回っている。

そもそも、充電電池が充電回数何百回とあるが、それは管理して使った場合であり、出鱈目に充放電を繰り返していると簡単に電池が駄目になる。メモリー効果がないとされる携帯電話の電池も、管理しながら充放電をするのと出鱈目にやるのでは保ちが倍以上違う。また、私は携帯電話が傷だらけになるのが大嫌いなので、クッション材の入ったケースを自作してそれに入れて使っている。裸でストラップに小物を付けたままポケットに突っ込んでいると、傷だらけになるだけではなく、故障の元になる。音楽プレーヤーも同じで、私は専用ソフトケースを作って、ベルトに装着している。

全ての物に言えるのであり、電気製品もきちんと掃除をしながら管理をしながら使えば極めて長持ちする。

この違いは、やってみるとよく分かるが、商売道具の工具や機械なども、使いながら手入れをして初めて手になじみ、長持ちしいつでも気持ちよく使えるし、刃物類も研ぎ減りして刃が無くなるまで使える。そこまで使い込むと、手の一部としてなじむので、新しい物に買い換える気にはならない。

衣服も昔と違い穴が開くどころか、型くずれしたり色落ちしても着なくなるのが普通だが、私の場合は家の中なら最後に雑巾にするまで使うことにしている。親から教えられたやり方がどうしても抜けないのだ。そのかわり、使いもしないがらくたを捨てられずに家中に貯まるのがどうも良くないとは思う。そう言えば、母親は使いもしない包装紙、ひも、箱などを家の隙間という隙間にため込み、父に、まるでリスだと言われていたのを思い出す。気がつけば私も同じことをしているようだ。

by ロクスケ











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健康増進、維持のために01

年も改まったので、連載記事を別タイトルにすることにした。いずれにせよ、生活を快適にするためには必要不可欠な要素であり、私が日頃考え出来るだけ実践している方法を書いてみたいと思う。

家事の件でもそうだが、むろん、個人による条件の違いや心情の違いがあるのであくまでこれも私の生活上のやり方であり、もし参考にされるならそのつもりでお願いしたい。

さて、健康は人間にとって最大の宝、財産であると私は思っている。確かに、私もお金は欲しいし、遊ぶのも旨い物のを食べるのも嫌いではない。しかし、それらが叶うのは、体力があってのことだ。寝たきりでは遊びにも行けないし、糖尿病や高血圧では旨いものも食べられないだろう。

確かに人間はわがままな物で、体に悪いと知りながら遊び、暴飲暴食をするのだが、程々で制御できれば、十分に楽しめるしそして長く楽しめる。私はその方を取る。遊びほうけて暴飲暴食をしてそれで短命にぽっくりと死ねればよいだろうが、そうは問屋がおろさない。

半身不随になったり厳重な食事管理を強いられたりすることがままあるし、なにより家の大黒柱がそのような状態になれば家族をも自分の不摂生の犠牲にすることになる。自分の健康は家族や職場など多くに人間にとっても責任を持って管理しなければならないと考えるべきなのではないだろうか。

ところで、誰も好きで病気にはならない。癌にしても本人の不摂生が原因であるケースはほとんど無く、現在の所原因不明の場合が多い。また高血圧や糖尿病、脳梗塞、心筋梗塞など等確かに本人の責任、即ち自己管理の悪さが原因であるケースは多々あるが、他にも原因不明のケースは非常に多いし、遺伝的要素や本人の不可抗力による、たとえばアスベストスによる発癌、車の排気ガスによる疾病もある。老齢による病気も不可抗力だろう。

かくいう私も何時原因不明の病気で倒れるかもしれない。が、多くの病気に、明らかな自己責任による物があるのは事実だ。大量の飲酒、喫煙、運動不足、カロリー過多による肥満、塩分脂肪分の摂りすぎ、偏食、栄養無視、不衛生、睡眠不足などが実に多くの病気の原因であることが判明している。

それらはどのように言い訳をしても本人の(子供の場合は親の)責任だろう。それなら、可能な限り自己管理をして健康を最良の状態にしておくのも社会人としての責任ではないだろうか。一人が病気になり治療を受けると、多かれ少なかれ社会に負担をかけているのだ。

自己管理で出来る健康増進、維持を書いてみたいと思ったのはそのような理由による。私も完璧であるはずがなく、偉そうなことは言えないが、それでも確実に目に見える成果を上げている。それでいて、別に人生の楽しみを全て放棄したわけではなく、むしろ昔は楽しめなかったことが今楽しめるようにもなっている。

タバコの楽しみを止めたおかげで味覚が鋭くなった、嗅覚が鋭敏になった、タバコ代で他の楽しみが手に入るなどなど、いくらでもある。肥満を解消したために手に入った快適さは、到底食の楽しみなど足元にも及ばない。

風邪をひかない状態がもう10年以上続いているが、この快適さは年中風邪をひいている人には想像もつかないだろう。

べつに私の方法が最適だ等と言うつもりはない。だが、健康は努力をしなければ手に入らず、そして努力をする価値は十分ある。時間的、精神的投資は100倍になって還ってくる。少なくとも、その努力はしていただきたいし、健康を手に入れる目標を持っていただきたいと切に願う次第だ。

では次回から具体的方法を

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健康増進、維持のために02
健康維持のために、などと偉そうなことを書いた途端に、10年振りくらいの酷い風邪をひいてしまった。かなり咳と鼻水、くしゃみが酷くなり、健康だと高をくくって油断をし、初期の症状が出たときにきちんと対処しなかったせいだ。いくら健康だと言っても、調子を崩すことはある。その時に無茶をするか、きちんと対処するかで後の状態は大きく変わる。健康に自信を持つのはよいが過信するのは禁物だと、身を以て体験した。

幸い、1週間ほどで完全に治り、症状もかつての風邪のように夜も寝られないほど酷くはならなかった。以前なら、そんな状態が数ヶ月続くのが当たり前だったから、1週間で治ったのはやはり体力が昔よりあるのだろう。過信は禁物だが、改めて自信は持った。

さて、健康維持の要素としては、かつての私の生活が反面教師になる。

 1)暴飲暴食をしない。
 2)偏食をしない、食べる物に気を付ける
 3)タバコを吸わない
 4)運動を適度にする
 5)体重管理をする
 6)姿勢を正す(生活態度ではなく、文字通り身体の姿勢をきちんとする)
 7)ストレスを減らす
 8)きちんと呼吸をする。腹式呼吸を身につける
 9)厚着をしない
 10)健康維持を意識する

などがあるが、私が30代の頃は全て無視していた。むろん、7)のストレスを減らす等は、簡単に出来ることではないが、つまらないことをくよくよ考えないなどから始めれば、なんとかなるさと思うことでストレスは減るのではないか。ストレス皆無の人間は居ないし、ストレス皆無だと長生きできないと言うデータもあり、ストレスをきちんと解消できれば良いと言うことだろう。

一時に全てを書くことは出来ないので、これから順次書いてゆきたい。また途中で追加項目もあるかもしれない。

さて、

 1)暴飲暴食をしない。

これはおそらく基本中の基本だろう。成人男性が必要とするカロリーは一日2400KCal、女性が1800KCalとのことだが、むろん個人差がある。これは日本人の標準だが、日本人は世界でも小食で有名であり、確かに同じアジア人でも中国人などは日本人の倍くらい食べているのではないかと思える。西欧人なら、軽く三倍と想像してしまうほど大量に食べる。したがって、アメリカでは肥満が国家的問題になり、彼らの規準BM130でも肥満率が30-50%と言われており、確かに元々アジア人より体が大きいのもあるが、町を歩いていても100キロ所か200キロ以上はあると思われる人々が大量に目に付くし、自力で歩けなくなって電動カートで移動する人もかなり居る。が、それでもとにかく食べる食べる。見ているだけで満腹になりそうで、肥満の人たちは一日 10000KCalを消費するというのも頷ける。

食事の質は後で書くとして、ここではカロリーについて書いているが、様々なデータから、カロリーは少ない方が寿命が延び、健康であるとの結論が出ている。ネズミなど、同じ餌を唯与える量を変えるだけで、餌の量が半分のネズミは寿命が倍になるとのことだ。

最近の日本人は昔に比べて食事量が増えたのかもしれないが、欧米や他のアジア諸国に比べてもかなり少ないのは事実だ。だから、肥満率もかなり低いし、町を歩いていても100キロ超と思われる人には滅多に会わない。それが、日本人の超寿命に関係していることは、一致して世界の医学者達が認めるところであり、日本食が健康食だと言われる所以だろう。

一日2400KCalが標準だと言うが、私の周囲にもその半分くらいで平気な人が居ると思える。なにしろ、大変な小食であり、大丈夫なのかと思えるほどだ。人はそれぞれ体質が違うので、ある人が大丈夫だからとやたらに食事を減らせば逆効果だとは思う。体を使う仕事とそうでない人では要求量が違うし、年齢によっても違うし、本人の新陳代謝量によっても違う。だから、2400KAclはあくまで規準であって、適正量は自分で決めなければならないだろう。とにかくやたらに減らせばよい物ではないだろうし、私も夏場食欲が落ちてて体重が十キロも減ると、確かに体がだるくなる。

通常に生活しているなら、一日に摂ったカロリーが次の日には空になるわけではなくきちんと蓄積されているので、理屈ではその分を差し引いてカロリー補給をすれば一日大丈夫の筈だが、むろん、そのまた次の日の蓄積量を確保しなければならないから、結局は同じカロリー補給が要る。

ただし、人間の身体とは良くできていて、飢餓状態が続くと蓄積スイッチが入って、可能な限りカロリーを蓄積(具体的には脂肪として蓄える)ようになるので、小食を続けていると身体がそれに適応し、少ない食事量でも脂肪が付くようになる。つまり、食料の最後の最後まで搾り取って吸収するようになるので、一度食べた物は死んでも離すものか身体が必死に脂肪に変えるので、小食でも脂肪が目に見えて減ると言うことはない。

よく分かる例が、一時ブームになった大食いの人たちが、常人の何倍も食べるのに思ったほど太っていないのは、彼らの身体が食料を素通りさせているからだ。痩せている人間同様の吸収力を保っていたら、あっという間に超肥満になる。身体は入ってくる食料の量で消化吸収効率を変えている。だから、上手に食事量を減らすことが出来れば、十分に必要な活動量と蓄積量を確保する状態になれる。とにかく食べなければ最終的にはやせるが、体力を徹底的に損なうので、自殺行為だ。あくまで必要量を確保しての少ない食事量と言うことになる。

私は今の年齢で、今の仕事内容で、十分な食事量を確保していると考えているが、多分三十代の頃の半分以下だし、通常は一日一食か二食で足りている。昔に比べ健康になったと明らかに自覚しているのは、食事量を大幅に減らしたためだと思うし、別に食べたい物を我慢している自覚もない。結構食べたいものを食べているつもりだし、時に食べ過ぎたと思うこともあるが、昔の食べ過ぎに比べたら可愛い物だ。

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健康増進、維持のために03

2)偏食をしない、食べる物に気を付ける

引き続き食べ物の話だが、当然ながら食べる物の質も大いに注意を払う必要がある。偏食をしない、まんべんなく食べることに尽きるのだろうが、私自身は気がついてみるとかなり偏っている。

まず炭水化物の量がかなり多い。また肉類が極端に少ない。動物性タンパク質はほとんど魚でとっているようだし、あとは卵やヨーグルトなどでとっている。植物性なら豆腐や大豆製品がほとんどであり、栄養学的にはかなり偏っていると言わざるを得ないのだろう。が、私はこれで調子がよい。

多分食品の大半が野菜であり、動物脂肪はほとんどとらない。塩分も極めて少ない。ただし、漬け物が好きでほとんど毎日食べているが、自分で漬けたものであり、冬場などはおそらく塩分濃度は1%をかなり下回っており、しかも大半の塩分は水分に出ているので、食べる部分にはほとんど塩味がない。私は乳酸発酵をした漬け物以外食べないから、漬け物を食べると言っても塩分はほとんどとっていない。

もうひとつ、私が偏食だと思っているのは、毎日同じものしか食べないからだ。冬場は半年間おでんを食べる。同じ鍋に同じ出汁を足しながら、具を足しつつ毎日食べているわけだ。他に今の所毎日食べているのが野菜炒めであり、セロリ、キャベツ、人参、ピーマン、大根、タマネギ、長ネギ、小松菜、菠薐草と何でも炒め、塩をひとつまみ入れた物を一回作れば、それが2,3日のおかずになる。それにうどんや、鉄板焼きで作った薄焼きパンなどを入れて食べているが、全く不足はない。

毎日何を食べようかと考えるのが面倒くさいのだ。体調に問題がなければ、何ヶ月でも同じものを食べ続けて一向に苦にならない。野菜炒めうどんとおでん、それに頻繁に納豆を入れたり卵をかけたり海苔を散らしている。別に魚を焼いたり、刺身などを買ってきて食べることもある。同じ野菜炒めだと言っても、それに何かを付けることはしているので、毎日野菜炒めだけを食べ続けているわけではない。

ただ、昨日などはサツマイモがあったのでそれをオーブントースターで焼いた物を食べたら他の物が入らなくなった。一日一,二食で足りるので、いろいろな物を作る気にもならないのが、同じものを食べる理由だろう。

問題はそれで良いのかと言うことだが、私は今の所全く問題がない。体重もまあ適切に保たれているし、体力が落ちたとの自覚もない。特に老けた感じもしないし、疲れることもない。

栄養学を馬鹿にしてはいないが、一日三十品目を食べるなど私には無理だし、まあ人は人、自分は自分と割り切り、身体の反応を見ながら自分の食生活を決めるのが一番良いのではないか。医食同源というが、栄養学にとらわれすぎて不本意なものを食べるのは却って体に悪いのではないかとも思っている。少なくとも、アメリカ人の死因の最大は肥満とそれに関係する心臓病だそうだが、彼らの肥満度は常軌を逸している。あれを見れば、私は自分の食生活など健康そのものだと思っている。なにしろ食べるのは面倒くさい。食べ物について毎日考えるのも面倒くさい。時間をかけずに体調を保てるなら今の食生活が何で悪いか、と開き直っている。

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健康増進、維持のために04

3)排泄を管理する

内容が内容だけに書き方に苦労するが、しかし、避けて通れないのでやむを得ない。昔、子供の頃だが、母も祖母も、そして子供だったのに姉までが大変な便秘で、女性はみんな便秘なのだと思っていた。祖父も父も兄も、そして私も全くその苦労がなかったのだ。

確かに女性はその傾向が強いようで、大人になってからも実際それで苦しんでいる女性を多く見聞きしたし、一般に言われているようだが、その私が若い頃は大変な便秘で大変だった時期がある。例によって生活習慣が全く出鱈目の時期のことだが、一週間くらい出ないことがざらにあった。トイレに行っても、1時間くらいかかる始末で、昔の母達の苦労がよく分かった。

今では全くそんなことはない。排泄感を感じたらすぐにトイレに行くが、座って通常は数秒でお終いだ。あとは洗ってすっきりとする。長引いても一分かかることはない。

ほぼ毎日だが、今は小食のためか、一日おきでも余り状態は変わらない。そして作品は余り事細かに描写は出来ないが、要するに申し分ない。この気持ちよさは、かつて苦しんだだけに実に嬉しい。子供の頃は当たり前だったので特に嬉しくもなかったが、今は二度と昔に戻りたくないと思っている。

それに便秘の害はここで私が挙げるまでもなく誰もが知っているのにそれが実現しない人が多いのは問題だ。場合によっては命取りになるケースもあるとのこと。

さて、私がなぜ今の状態になれたかは自分では明らかだ。野菜の多食と、歩くことを主とした運動だと思っている。食べる物の大半が野菜であり、主食もジャガイモを焼いた物、サツマイモを焼いた物ですませることもかなりある。それも皮毎食べる。簡単なのだ。今なら皮毎洗ってアルミホイルに包んだジャガイモサツマイモをガスヒーターの上に転がしておけばいいし、オーブントースターで焼いても良い。2,3個焼けば十分な主食になる。

他にも繊維質をねらって食べるわけではないが、結果として相当量の繊維質を摂っているようだ。納豆なども多食するし、発酵した漬け物も食べる。そして、一日1時間ほどは最低歩く。少し前まで自転車を使っていたが、体重が減り膝に負担がかからなくなったので歩くことにしたのだ。効き目はてきめんで、万歩計に依れば一日7千から1万歩を歩いている。音楽プレーヤーで語学教材(今はフランス語)や飽きれば音楽を聴きながら早足で歩く。寒いときでも汗ばむほどの速度で歩き続けると、かなりの運動量になっているようだ。

野菜の多食、運動、これで私の管理は万全になったと自負している。

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健康増進、維持のために05

4)発酵食品

世界中に微生物による発酵を使った食品はたくさんあるが、日本は特に発酵食品が豊富なことで知られている。日常普通に使われる物としても、味噌、醤油、みりん、酢などの調味料が発酵食品であり、酒、慣れ寿司、多くの漬け物、パン、納豆、一部の茶、チーズ、ヨーグルト、そして肉加工食品の一部、また地方に行けば地方独特で今では日本全体に広がっているクサヤなど、鮒寿司や塩汁、柚胡椒などもそうだろう。

世界規模で見れば私たちが知らない発酵食品もたくさんあるし、知ってはいるが見たことはない物もたくさんある。

発酵食品が何故これほど多く作られるのかと言えば、むろん、発酵により様々なうまみ成分が生成され、味がよくなることが第一の理由であり、また保存性がよくなることも理由だろう。作られた当初は理解されていなかったろうが、近年では栄養学的にも極めて有用な物質が生物によって作られ、発酵させることで余り栄養の無かった物が優秀な栄養食品になっていることが確かめられている。

また、発酵食品は、割合簡単に作ることが出来る場合が多く、それも高温多湿の気候である日本で非常に発達した理由だとされている。

私は気がついたら発酵食品がかなり好きで、頻繁に食べているが、よほど好みに合うらしい。昔は大いに酒もたしなんだが、今はほとんど飲まないが、むしろ最近は心して発酵食品を摂るようにしている。納豆はほぼ毎日食べるし、ヨーグルトも頻繁に食べる。これらは自分でも簡単に作れるので、よく作る。とはいえ、納豆などは買った方が結局は安上がりでよほどでないと作らないが、漬け物にしても私は乳酸発酵した物が好きで、塩分の強い物や浅漬けは余り食べない。

味噌も自分で造るし、醤油と共に毎日食べる。幸い今は私の健康状態はかなり良いと思っているが、それが発酵食品とどれだけ関わっているかはよく分からない。が、発酵食品が体によいとは科学的にも証明されているので、おそらく私の健康にも役立っているのだろうと確信している。確かに、ヨーグルトを食べると腹の調子がよいし、多少腹下しをしてもヨーグルトを食べるとそれだけで治ってしまう。下手な薬など飲む必要はない。

本来、発酵とは腐敗と同じ現象であり、ただ、人間にとって有用な変化を発酵と言い、有害な物を腐敗と言っているに過ぎない。食品は管理が悪いとすぐに腐るが、同様にすぐに発酵もする。それを理解すると、発酵食品とは実に簡単に作ることが出来る。ヨーグルトなどは、牛乳にプレーンヨーグルトを混ぜて保温しておくだけで出来る。納豆も茹で大豆に納豆を混ぜるだけで出来るし、味噌なども分量に従って茹でた大豆、麹、塩を混ぜて雑菌やカビが着かないように管理すると自然に出来る。

発酵系の漬け物、たとえばぬか漬けなども管理さえ間違えなければあとは自然に作れるし、慣れ寿司などもそれほど難しくはない。以前はそれでカブラ寿司や鯖寿司などよく作った。

発酵食品をたくさん摂る、自分で作るようにすることで、確実に食生活は豊かになる。それだけでも健康につながるのではないか。

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健康増進、維持のために06

5)タバコを喫わない

 以前にも書いたことがあるが、今でこそ全くタバコを吸わない私も、かつてはかなりのヘビースモーカーだった。なにしろ、両切りのピース50本入りの缶をほぼ毎日開けていたし、ハイライトなどフィルター付きでも強いタバコを一日3箱喫っていた。

 その時は、別に旨いから喫っていたというのではなく、本当に癖でしかなかったし、気がついたらタバコに火を付け口にくわえていた様な有様だった。
 
 ある日、突然タバコを止めようと口にくわえていたタバコを捨て、持っていたタバコをゴミ箱に放り込み、そしてそれから全く一本も喫っていない。タバコを止めてもう40年になるが、一度も喫いたいと思ったことはないし、むろん今ではタバコの煙が大嫌いで、近くでタバコを吸われるとそれだけで気分が悪くなる。

 よく、タバコを止めることが出来ず、何度も禁煙を試してみたが上手く行かないと嘆く人が居る。私にしてみれば不思議で仕方がない。私は一日60本の喫煙数をいきなりゼロにして別に何ともない。多分体質的に、ニコチン依存にはならなかったのかも知れない。それまでは、フィルターギリギリまですっていたし、もちろん、煙は深く吸い込んでいた。おそらく今でも肺の中にはヤニが残っているのかも知れない。
 
 止めたと言えば酒もそうで、かつての私はほとんど毎日浴びるように酒を飲んでいた。結構強く、また接待酒が多くて客の居る席では酔うことも出来なかったから、接待が終わってから改めて一人で飲み直すほど、飲んでいた。一人で飲みに行って、一晩でウィスキーを一本開けるなど珍しくもなかった。おそらく自分はアルコール依存症なのではないかと本気で心配していた。
 
 が、会社を辞めたのを機会に、酒も止めた。そうしたら、アルコール依存症など全く杞憂に過ぎないことが分かった。何ヶ月飲まなくても全く平気だったのには自分でも驚いた。仕事で日本中を歩いたので、地元の酒などを飲むのが楽しみで、確かに酒を楽しんでいたのであり、タバコのように単に癖で飲んでいたわけではない。それでも、一度酒を止めたら、全く飲みたいと思わないのだ。酒を止められなくて苦しんでいる人が居るのは知っているが、私は何だろうつくづく思った。禁酒にもかなり苦労するだろうと覚悟していたからだ。
 
 今は、おつきあいの時や、夏にビールなど、時にはちょっと寝酒にたしなむことはある。週にビールショート缶一本か、ワンカップ一つくらいだが、飲まないときは一ヶ月くらい全く飲まない。これが依存症であれば一滴でも駄目だろうが、私の場合はそうではないし自分の意思で別に飲まなければ飲まないので、時には良いだろうと思える程度にしている。
 
 たしかにきちんと管理出来るなら酒は百薬の長なのだろう。食欲も出るしよく寝られる。昔と違い、普段飲まないと缶ビール一本でいい気持ちになるし、本当に味わって飲めるしワンカップなども結構銘酒が出ているのでたまに楽しむ気持ちにもなる。決して二日酔いなどに苦しむことはない。
 
 タバコの話から酒の話にもなったが、禁煙をしたときは他の不摂生で体調が最悪だったが、今から考えてみればそれでもなんとか保ったのは禁煙したためではないかと思っている。なにしろ、当時はすぐに息切れがしまともに体も動かせなかったのだ。タバコを止めてから、確かにその点は以前よりもましになっていたと思う。
 
 正直言って、酒を止めてから目立って体調が良くなったというより、退社をきっかけに食生活を完全に切換、運動を積極的にしたことが体力を驚くほど向上させた時期と重なるので、断酒がどれだけそれに関与しているかは分からない。が、間違いなく禁酒は体力向上に寄与していると思う。
 
 なぜ私か自分でも驚くほど禁煙禁酒が出来たのか、それと何故かくも簡単に食生活を切り替えることが出来たのか(これはもともと今の食生活の方が本来の私の嗜好にあっている為とは言えると思う)は分からない。別に意思の力ではない。全くと言っていいほど苦労がなかったから。まあ体質的な物と、例によって執着しない性格も幸いしたかも知れない。
 
 禁酒は絶対に健康な生活にとって必要不可欠であり、禁煙はこれ無しで他の健康法など無意味だと思う。他の何が出来なくても、禁煙だけはすべきだろうとつくづく思う。
 
 禁酒は絶対に健康な生活にとって必要不可欠であり、禁煙はこれ無しで他の健康法など無意味だと思う。他の何が出来なくても、禁煙だけはすべきだろうとつくづく思う。
 
 調べてみたら、60歳までに禁煙をすれば肺ガンのリスクが減らせるが、それ以降の禁煙は喫煙者とさして変わらないとのこと。また、禁煙をして20年経てば非喫煙者と同等のリスクまで下がるというので、私の場合は理論上安全圏にいることになる。ただし、福流煙をすっている場合は本人よりも被害が大きい。
 
 また、70歳までに禁煙すれば、肺ガンリスクは減らないが、他の要因が改善され75歳以降の死亡率が下がるとのことで、つまり禁煙は何時やっても良い。むろん、早いほうがよいし、喫わないのが一番良い。
 
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健康増進、維持のために07

6)運動を適度にする

これはもう何故という解説など要らない。運動はした方がよいのではなく、しなければならないと言うことだ。おかげさまで私の体調はすこぶる良いが、その一つの理由が運動にあると思っている。とはいえ、ジムに通ってバーベルを持ち上げるようなことはしていない。もっぱら歩くことにしている。

少し前まで自転車で移動していた距離も今では運動のために歩くことにしている。毎日おそらく一時間は歩いているが、そうするようになってから確かに体が軽くなった。いや、体重は目立って減ってはいないのだが、筋力が付いて体の重さを感じなくなったのだと思う。

筋肉を動かすことで血行が良くなるし新陳代謝も良くなる。筋肉は単に栄養を消費するだけではなく、心臓と同様血液の循環を司っているし積極的に体の老廃物を排出する機能もある。体の大きな筋肉はほとんど下半身にあり、歩くことでそれらの筋肉が全て動かされる。つまり歩くことは運動の基本だと言えるだろう。

以前は下半身ばかりではなく上半身も鍛えなければならないと思い、自分でダンベルをつくってダンベル体操などをしてみたが何しろ続かない。面白くも何ともないのだ。本当はやった方がよいと思うが今の所ダンベルは沙汰止みになっている。

無理しなければならない運動は、スポーツ選手などの目的がない限りすべきではないと言われている。スポーツ選手が短命なのは隠しようのない事実であり、それは無理な運動のために体が消耗しているからだという。マラソンの女子選手がそろいもそろって骨年齢が五十,六十代並だと発表されたことがあるし、相撲の力士で長生きした人は余りいない。相撲ばかりではなく、運動選手で長寿をまっとうした人は余り聞かない。むしろ、政治家、芸術家などに八十、九十になっても心身共にかくしゃくとしている人が多いのは運動をしないからだとさえ言われている。

まあ、全く運動をしないのではなく、聞いてみると日常の散歩などは几帳面にしているようだ。つまり健康のための運動は、スポーツではないと言うことのようだ。

そう思えば、運動など気楽な物だ。会社の行き帰り電車を一駅歩くだけで大分違うし、階段を使うだけでも違う。それなら、無理せず長続きするのではないか。趣味で筋肉を付けたい人はジム通いも良いだろうが、健康のためには余りならないことも知って置いた方がよいと思う。

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健康増進、維持のために08

7)体重管理をする

 図録肥満比率の各国比較(OECD諸国)

によると、世界主要国30ヶ国のうちで日本の肥満率は最低であり、3.5%だそうだ。これは07年の統計であり、BMIを30としている。日本は国の規準としてBMIを25としているので国内の統計ではそれよりもふえることになる。私は日本規準では肥満にはいり、国際基準では見事正常範囲に入る。

毎日アメリカ軍の英語放送、AFNをかけっぱなしにしているが頻繁に、アメリカの肥満のことが報道されており、肥満による糖尿病の恐ろしさなどが、本当に毎日数回放送されている。それほど、アメリカでは肥満が問題になっているのだろう。上記の統計に依れば世界で最も肥満率が高く、人口の3分の1が肥満ということだが、確かに彼等の肥満は桁が違う。

世界最大の肥満では500キロを超えて自分で立つことも寝返りも打てない状態になるが、それはほとんどアメリカ人だ。体質的に日本人はこれほどの肥満にはなれないのだそうで、彼等が一日10000Kcal以上の食事を続けてもとりあえず生きてゆけるのに、普通の日本人はそんな食事を続けると生きてゆけないのだそうだ。確かに、日本で100Kを超す人は滅多にいないし、余り見かけないが、アメリカでは2,300Kクラスの人々が普通にいる。自分で歩けなくなって電動車椅子のような物に乗っている人もかなりいる。これでは心臓病世界一、糖尿病世界一なのも無理はない。

日本食が今世界でブームだが、一つの理由が健康的だからという。確かに諸外国に比べ、植物性が多く、発酵食品が多く油分が少なく味も淡泊であり、なにしろ量が少ない。私達は当たり前だと思っていても、中国人などは日本食の少なさに驚き、良くあんな量で日本人が生きてゆけるなどとネットでは書かれている。日本では食料が少ないからだろうなどと同情されているようだが、日本で毎年無駄に捨てられている食料は1000万トン以上であり、それは夜レストランの裏口などに捨てられている食材なども日本は先進国の中でも異常に多いのだそうだ。新鮮なものしか食べない国民性のためだと言われている。

たしかに、全く手つかずの食品が捨てられているのを見てもったいないと思ったことは何度もある。

日本は、食料が足りなくて肥満率が低いのではなく、食生活が外国と違うのだ。その結果、日本人の平均寿命は世界一だし、健康寿命も長い。日本の高齢者の若々しさは世界の垂涎の的だ。私自身、50代の頃だが、長い間私よりずうっと年上だと思いこんでいたアメリカ人が実は42歳だったことを知り仰天したことがある。相手も私が自分より年下だと思っていたとのこと。まあ、日本人が若く見えるのは知っていたが自分より10歳以上も年上だとは想像していなかったのだそうだ。別に彼が特に老けて見えたわけではない。アメリカ人の平均だろう。

日本のある43歳の主婦がネットで騒がれたのは少し前のことだ。美魔女として紹介された彼女はどう見ても18歳で、20歳のお嬢さんがいるとのこと。18歳はともかく、確かに若々しいし、彼女ほどではないにしても非常に若々しい女性も男性も日本には多い。

例外無しにそう言う人たちはほっそりとしているが、体重管理がうまく行っているのと、健康だから若々しく見えるのだろう。ということは、結局カロリーを採りすぎず、体重管理をきちんとすることがやはり若さと健康のキーポイントになりそうだ。

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健康増進、維持のために09

8)姿勢を正す(生活態度ではなく、文字通り身体の姿勢をきちんとする)

祖父のことは余りよく覚えていないのだが、それでも印象に残っているのは極めて姿勢が良かったことだ。背中を丸めているのを見たことがなかった。外を歩くときも杖はついていたがしゃんと背中を伸ばし、かなりの大股で歩いていたのを覚えている。

若い頃警察官だったの、でもしかしたらそれが関係しているのかも知れない。祖母は私が覚えている限りすでに背中が丸くなっており、家の中で動き回るのでも背中がきちんと伸びていた記憶はない。只でさえ小柄な体が背中を丸めて大柄で姿勢の良い祖父の側にいるとまるで半分くらいの大きさにしか見えなかった。背中が丸いのであって、腰が曲がっているのではないと今では思うが、当時子供だった私と大差ない大きさだったような気がする。

話が逸れたが、私の両親もかなり姿勢は良く、私自身姿勢を良くするようによく言われた。今ではその教えをかなり破っているような気がするが、それでも気がつけば姿勢を正すようにしている。

一般に日本人は姿勢が悪いと良く指摘される。おそらく余り目立たないように生きる日本人特有の性質があるのだろうが、仕事柄外国人と多く接し確かに彼等の姿勢はきちんとしていると思った。

姿勢が悪いとどうしても精神的にも縮こまってしまうのではないかとおもう。気宇壮大の時は自ずと背中もしゃんと伸び、視線は正面を向く。失恋したときなどは背中も丸くなり伏し目がちになる。つまり姿勢は非常に精神状態に影響を与えていると思う。普通の時でも、背中を丸め視線を落としていると、あまり楽観的な事は考えられない。落ち込んだときほど、背中をしゃんと伸ばし正面を見据え、空元気を出す方がよほどましだ。

また姿勢が悪いと内臓を圧迫し血流が衰えるので長い間には内臓に負担を与える。人間はほとんどの時間を直立して過ごすので、他の動物に比べその影響が大きい。確かに猫背の猫もそれで内臓に負担がかかるわけではないだろう。本来動物は体が水平になっており、内臓はその背中側からぶら下がるような形で固定されているので、人間のように直立すると内臓がずれやすい。いわゆる内臓下垂は人間だけの問題であって、人間の体は直立姿勢に完全に適応するまで進化していない。したがって、姿勢を正し、内臓に充分血液を送る必要がある。

また人間は直立することで肺呼吸がしにくくなっているそうだ。肺呼吸も本来体が水平になっている構造に適した形で進化しており、直立姿勢にはまだ適応していないのだとか。だから、殊更姿勢をしゃんとし肺を大きく伸ばし呼吸をするようにしなければ、十分な呼吸が出来ないのが人間の宿命と言える。

姿勢をきちんと保つには、背筋や肩周りの筋肉などを意図的に鍛えないとならないので、時間を見つけて腕立て伏せやうつむけに寝て背中を反らせる運動などをすると良い。もともと、多少疲れても背中をきちんと伸ばし胸を張る姿勢を採ることがこれらの筋肉を鍛えるトレーニングになるので、気がついたら背中を伸ばし、胸を張り、深呼吸をすることを習慣にすれば、それが無意識で出来るようになる。

確かに、多少疲れたときでもそうすることでかなり疲労感が取れるが、深呼吸で新鮮な酸素を大量に吸入することも大きな効果があるのだろう。

第一、先に書いたように、多少の落ち込みでも姿勢を正すと気分が明るくなる。それだけでも価値がある。

by ロクスケ











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健康増進、維持のために10

9)ストレスを減らす、ストレスへの耐性を付ける

医者は二言目には病気にならないためにもストレスを遠ざけなさいと言うが、そんなことを言われるたびにストレスが貯まる。現代生活をしていてストレスと無縁に生きるわけには行かないのだ。金が足りない、どうしよう、あの人を怒らせてしまったどうしよう、納期が間に合わないどうしよう、猫に威嚇をされた、どうしようとストレスの種は尽きない。寝ていてさえ時には悪夢にうなされる。おちおち寝ても居られない。

文明生活はストレスの塊みたいな物だが、だからといって山の中の仙人生活もそれはそれでストレスの塊だろうと思うし、私には到底出来ない。

田舎だとストレスが少ないというのも単に都会人の無い物ねだりであって、実際田舎の生活もそれなりにストレスが多いようだ。結局ストレスとは人により耐性が大きく違う。私は人間関係でストレスを溜める方だが、人に言わせると、ロクスケさんは人間関係で悩むことなど無いんでしょうねとのことだ。まさかそんなことはなく、ストレスを避けたいが為に、なるべく人と争わないようにしているだけであり、これでかつては営業活動をしていたし、それなりの成績も上げていた。人間関係のストレスは、むしろ社内での物の方がよほど大きかった。

意外なことだが、人間のストレスの大きな部分に家族関係があるそうだ。一番遠慮が無く本音で接することの出来る家族関係が非常に大きなストレスの元になるそうで、たしかに家族間での暴力、殺人事件など一度たがが外れると悲惨な状態になるし、ネグレクトや兄弟間の確執親子間の不仲は、離れられないだけに他人同士よりもこじれると深刻になるらしい。

私の場合は、一人で居ることが好きで、側に誰かが居ないと寂しくてつらいという人が多いのは不思議だ。まあ、一人で知らないうちに孤独死すれば多くの人に迷惑がかかるのでそれはしたくはないが、それさえ無ければ、体が動くうちは一人で生きて行きたいと思っている。たしかに、体が動かなくなり頭がぼけてきたら一人では生きてゆけなくなるのだろうが、そうなればなったで人に負担をかけることがストレスになるのだろう。

だから、と言うわけではないが体を兎に角健康に保ち、頭をシャープにすることに最大の留意をしている。優先しているのは頭の健康であり、意思の維持だ。それが無くなると、体の健康に対しても意欲が衰える。今はまだ努力をして体力を保つことが出来ており、健康にはこれと言った不安がない。結局これがストレスを一番減らすことになっていると思っている。

頭の方は、兎に角ネットでも本でも読み、自分で書き意見を発信し、同時に体操の意味で語学をやっている。今更語学を身につけても別に就職に使うわけではないが、語学は確かに頭を鍛えるにはもってこいで、それに楽しい。

以前は聞き取れなかった英語放送が楽に聞き取れ、ネットの英文でも普通に読めるようになればそれはそれで嬉しいし、前は全く読めなかったフランス語やドイツ語が読め、聞いて分かるとなればどんな年齢でも語学の学習は効果があると実感出来る。つまり成果が実感出来るし、実用価値もあると言うことで語学は最適だろうと思っているわけだ。それ以外に日本人が語学をやる理由など無いと思っている。これは暗算などでも同じことが言えるだろうし、文字の練習もその効果があったと実感している。

何度も書いているが、私は元々非常に速書きでありそのためもあって、後から自分でも判読に苦労するほど字が汚い。まして、パソコンで文字を書くようになってから、手書きはメモ程度しかしないので文字の汚さには拍車がかかってしまった。

そこで、この数年、思いついたときだけだが文字の練習をしている。その結果、今では見違えるほど綺麗な文字を書けるようになった・・・とはいえ、以前の私の文字に比べてと言う意味で、人様に見せられるような文字ではない。

とりとめもなく書いたが、ストレスは単に遠ざけるのではなく積極的に自分からそれを解消する努力をすれば良いと言いたいわけだ。人間関係でも健康でも仕事でもストレスはどんなに逃げても新しいストレスの元になるのだから、自分の努力でストレスを克服してしまえば違うストレスに悩まされることもないのではないか。

それに、ストレスのない人間は知能が急速に衰え短命であることが明らかになっており、人間にとって生きて行くためにストレスは欠かせないと言うことでもある。

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健康増進、維持のために11

10)きちんと呼吸をする。腹式呼吸を身につける

これは前回の姿勢と切り離せないが、現代人は呼吸が浅くなっていると指摘されている。さまざまな理由があるのだろうが、一番大きな理由が、姿勢が悪くなった点と、運動不足で十分な呼吸をするだけの筋肉が無いとのことだ。

女性がお産の時、腹式呼吸を指導されるのは、それが本来の人間の呼吸形式なのだが、どういう理由か、女性は特に普段胸式呼吸をしている人が多い。それは子供を産むとき必要な腹筋を弱めてしまうからだと聞いたことがある。

十分に深い腹式呼吸をしてこそ、十分な筋力を生み出せるわけだ。スポーツ選手は例外なく呼吸が深いし、当然胸式呼吸はしない。生まれたばかりの新生児は最初の呼吸が腹式呼吸で、子供の間は腹式呼吸で過ごすのがいつの間にか胸式呼吸になってしまう人が多い。

人間は肺で呼吸しているが肺自体は筋肉ではないので自力で膨らんだり縮んだりしているわけではない。動物が哺乳類に進化してから出来た仕組みとして横隔膜があり、これが強力に上がったり下がりをして、下がったときに肺が膨らみ、空気が中に吸い込まれる。空気が入るから肺が膨らむのではなく、肺が膨らむから空気が入るのだ。むろん、空気をはき出すときはその逆であり、横隔膜が上に持ち上がり肺を圧縮するから内部の空気が外に出る。空気が出るから肺が縮むのではない。

その理屈が分かると、横隔膜を十分に動かすことが肺に出入りする空気の量が増えることも分かるだろう。

この横隔膜を動かすのが腹式呼吸だ。従って、横隔膜が下がるに従い肺に空気が入るのだから、横隔膜に押し下げられた腹部の内臓、特に腸が前にせり出す。したがって、正しい腹式呼吸で空気を吸うと腹が膨らむ。吐くと腹がへこむ。胸式呼吸だとこれが逆になる。

呼吸は自発的に行われるので普段本人が意識してする必要はなく、これは心臓の動きと同じだ。が、心臓と違うのは、人間が呼吸を意識してコントロールできる点だ。その気になれば呼吸を止めることも出来るし、ゆっくりも速くも深くも浅くも出来る。したがって、呼吸は訓練で仕方を変えることができる。

簡単なことで、姿勢を正し背中を伸ばし、意識して腹を膨らませ同時に空気を吸う。吐くときは逆にする。実際は、空気を限界までゆっくりとはき出し、吸うときは一気に吸い込む。これを機会あるごとに練習すれば腹式呼吸を身につけることが出来る。

現代人の肺活量は成人男子で大まかに言って3500cc、女性は2800cc程度だそうだが、肺の容積はこの倍以上有るとされている。私が中学生の頃は 5000ccだった。平均よりかなり多かったが、心当たりがあるとすれば発声練習をしていたことと、比較的体を動かしていたからだろう。今は分からないが、特に問題は感じていない。

なにしろ、人間は空気を吸って生きている。新鮮な酸素が体の隅々まで行き渡ることで細胞が活力を保つのだから、心臓の力を高めて血流を増やし(これは運動をすることで達成される)、肺の機能を高めて血液に十分な酸素を溶け込ませる必要があると言うことだ。

当然ながら、喫煙は肺を徹底的に痛める。運動選手で喫煙習慣を持ている人が居たら、おそらく一流にはなれない。

呼吸は食事と同様、人間の体を作る基本要素であるから、正しい食事同様、正しい呼吸を努力で身につけなければならないだろう。

 姿勢を良くする。
 運動をする
 腹式呼吸をする

に尽きるようだ。

by ロクスケ











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健康増進、維持のために12

11)厚着をしない

昔から健康な人は厚着をしないと言われていた。つまり寒い時期でも薄着で十分にしのげるからで、それだけ新陳代謝が高く体温の維持が出来るからだろう。じっさい、大人が寒さで縮こまっているときでも、子供達の中には驚くほど薄着の子がいる。時には真冬にランニングシャツの子供がいたりして度肝を抜かれるが、それだけ新陳代謝が高いと言うことだろう。

考えてみれば、私も寒い地方で育ったので結構寒さには強かった。氷点下10度くらいの戸外で、オーバーコートなど無しに遊び回っていたし、寒くて動けない等と言うことはなかった。今でもおそらく同年輩の中では寒さに強い方だと思うが、それでも昔に比べればずいぶんだらしなくなったとは思う。

最初にこちらに出てきた日は真冬でその冬の最低気温、氷点下3度だった。叔母の家にいたのだが、庭に出てランニングシャツ一枚でラジオ体操をしていたら、叔母が驚いて「あんた寒くないの」と聞いた。「別に、さすがにこちらは暖かいですねぇ」と返事をしたが、今ではそんな真似などしたら肺炎になりそうだ。

年齢のために新陳代謝が衰えたことと、体温調整能力が落ちたためと思われる。若いうちは外気温が下がると、筋肉を細かくふるわせて熱を発生したり体表に近い毛細血管を縮めて血流を抑え体温が逃げるのを防ぐが、年齢が高くなると外気温を正確に感知できなくなるため、寒いと思っても体がそのように反応してくれない。

これは暑い場合でも同じで、高齢者がすぐに熱射病で倒れるのも、体が外気温の暑さを感知しにくくなるため、体表面に近い血管を広げて血流を増やし体内の熱を排出したり、汗をかいて気化熱で体を冷やすことが出来なくなるためだ。

年齢と共に暑さ寒さに鈍感になり、体の調節機能が衰えるために、高齢者は寒いと肺炎になり、暑いと熱射病になる。それをすこしでも防ぐには、薄着をしてなるべく外気温に体を慣らす必要があるとのことだ。人間の体は鍛練すると結構なれる物で、かなりの年輩者が寒中水泳で元気に泳いだりしている。

昔及川羅漢さんという人が裸で、笑って暮らせば病気知らずだと全国を本当に裸で回っていた。身につけているのは半ズボンだけだったのを見て、よく風邪をひかない物だと思っていたが、鍛えると普通の人はそうなるらしい。また昔は乾布摩擦などがはやり、中には束子で全身をこするなどをしている人が居たが、そうすることで寒さに強くなると言われていたし子供の頃は学校でそれをさせられた。そのおかげもあるかも知れないが、確かにかなりの薄着で平気だった。

実際に出来るからと言って裸で外歩きは出来ないし、ランニングシャツやTシャツで外を歩いても奇異な感じを人に持たれるだけだからある程度の厚着はしなければならないだろうが、確かに薄着で過ごせる状態だと風邪もひきにくいし、体も良く動くし健康状態は確かに良いようだ。夏のうちから鍛えておけば、或いは今年の冬などは風邪知らずで過ごせるようになるかも知れない。人に比べれば私は薄着だろうしそれで風邪もほとんどひかないから、薄着の効用は確かにある。











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健康増進、維持のために13

衛生管理

これは言わずもがな、別に特別に書くようなことではないし、普通の日本人であれば特に問題があるとも思えない。世界から見ると、日本は異常に清潔な国なのだそうで、確かに欧米でも余り近づきたくない汚い人間がかなりいるし、途上国では言っては悪いが大半そう見える。体や着る物だけではなく、食べ物や水、生活環境も日本人では到底耐えられないレベルの衛生環境で生きている人たちが大勢いる。

日本は昔から世界でも突出した衛生観念の発達した国であり、300年前に常に水が流れる上水道は江戸にしかなかった。裕福な商人や武士の家には風呂があり、また庶民も毎日銭湯に通っていた。トイレも、長屋には必ず一つずつあったし、裕福な家には自前のトイレがあり、定期的にくみ取ってそれを農家が肥料にしていた。

そのころ、世界の先進国と言われたヨーロッパでは風呂に入る習慣が無く、エリザベス一世は、異常にきれい好きな女王と言われたが、それは年に二回入浴したからだと言われる。フランスやイギリスでも宮殿内にトイレが無く、庭の隅や、オマルを使うのが普通で、それを朝道路にぶちまけていたという。

道路にあるそれらを踏まないようにハイヒールが発明され、上から振ってくる物をかぶらないように晴天でも傘を持って歩く習慣があったとか。したがって、体臭を消すために香水が発達したとか、実に信じられないような状態だったとのことだ。私自身の経験だが、30年以上前、ある大使館の館員のご婦人達に会社から編み機をプレゼントすることになり、その説明に私がかり出された。冬の寒い日でかなり大きな大使館の一室に30名ほどのご婦人達が集まり、部屋を閉め切り、私がメーカーから来た人の通訳をしたのだが、実際は立っているのがやっとだった。強烈な体臭が直に目に来る程酷かったのだ。欧米人の体臭は日本人に比べて確かに強いが、あれはそれだけの問題ではなかったようだ。

なんとか乗り切り、外に出て深呼吸をしたときは思わずメーカーの人と顔を見合わせ生きている幸せを噛みしめた。

実際江戸時代、日本に来た宣教師達が、あまりに日本が清潔なのを見て驚いた話がたくさんある。

ヨーロッパでは、そのような衛生状態だったので、当時ペストやコレラが大流行し、最悪の時は14世紀、ペストの大流行で人工の3割が死んでいる。

一方日本ではそのような疫病の大流行は無く、開国後コレラなどが流行ったが、比較的早く終焉し何度も大流行を繰り返したことはない。

そもそも、日本では生ものを昔から食べる習慣があったが、これは調理時の衛生管理が極めて厳重だったからで、他国では日本人が生魚を食べると聞いて本当の野蛮人だと思っていたという。が、今ではスシや刺身は日本だから昔から伝えることの出来た料理だと理解されているようだ。なにしろ、生卵を日常的に食べるのは日本人だけだが、海外で同じ事をするとサルモネラ菌にやられる。日本の卵だけが海外では不可能なほど衛生管理が行き届いているのだ。

今年も日本人の平均寿命が世界一だと発表された。そして、自立して生活の出来る健康年齢も日本が一番長いが、これは医学レベルの高さ、医療制度の充実そして何より国民の衛生概念が突出して高いためだ。

事ほど左様に衛生観念は大切だが、戦後特にアレルギー体質の人間が増え、また花粉症なども、私の子供の頃は聞いたこともない。これは、日本人があまりに清潔すぎて、免疫力が異常になっているとの説がある。じっさい海外で集団食中毒事件などが起きると、真っ先に日本人が倒れ、次に欧米の人間が倒れ、現地の人間はケロリとしている事が多い。

衛生概念は大切だが、度が過ぎて潔癖強迫観念にとらわれるようではまずいと思う。これも私が見たのだが、あるレストランで一人の女性が座るなりバッグから缶に入れだ脱脂綿を取り出し、丹念に自分の手を拭き更にテーブルや椅子を拭いていた。おそらくアルコールなのだろうが、むろん、普通のレストランであり、別に汚いわけではない。これはもう強迫観念にとらわれているのだろうと見ない振りをしながら見ていたが、大体に於いて健康な人間には免疫力がある。普段吸っている空気には無数の病原菌、ウィルス、ダニの排泄物や糞、他の人が吐いた空気、放屁まで含まれている。異常潔癖症になると、それらすら気になって外に出られなくなる。家にいてもそれは同じなのだが。

今の日本人の衛生レベルで十分だと思うし、もう少し自分の免疫力を高め、それを信頼する用にした方が、結局は健康にも良いと思うのだが。

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健康増進、維持のために14

13)健康維持を意識する

誰でも健康に過ごしたいと思っているはずなのだが、そうは考えていないとしか見えない人がかなり居る。暴飲暴食をし、或いはダイエットを気に過ぎて極端に小食、猛烈な偏食をし、酒浸りでヘビースモーカーで、更に全く運動をせず100メートル先のコンビニに行くにも車を使い、毎晩朝まで飲んでろくに寝ないなどをむしろ自慢にしているような人たちだ。

私自身、30代の頃などはこれが自分でそうしたいと思っているのではないのに今から考えてみればこの状態だった。これについては何度も書いているが、おかげさまで体重は今よりも10キロ以上常に有ったし、なにしろ年がら年中風邪をひき、一度引くと数ヶ月治らず、治ったと思ったら次の風邪をひく有様。常に体がだるく、寝足りず、異常に寒がりだったり、疲れやすく酷いときはまともに100メートルも歩けなかった。

今すくなくとも体を快適に動かし快適に過ごすことを心がけ、30代の頃よりも若返った感じでいる。なにしろ、風邪はほとんどひかない。今年の正月にひいたが数日で治ってしまった。毎日早足で1−2時間歩くが別に苦にならないし、歩道橋や駅の階段は駆け上がっても息も上がらない。実際年を取ってからだが若返ることはないだろうが、それだけ若い頃の体力が酷かったと言うことだ。いま、私の周りにも昔の私と同じような人たちがいる。それが当たり前のようになっているのだが、実に人生を損していると思う。

私自身の体験からはっきり言えるのだが、いつも酷くだるくてその体にむち打って何かをやるのと、今のように体のだるさなどほとんど感じず(むろん激しく体を動かした後は疲れはするがすぐに回復するし、だるいのとは全く違う)、風邪もひかず軽々と動けるのでは同じ24時間を過ごすのでも大きく違う。

これはかつての反省から私が自分で健康状態を上げようとそれなりの努力をした結果であり、そのために費やした時間もあるが、その費やした時間を十分に補って余りある余裕を生み出している。

一日1時間以上歩くのを日課にしているがその1時間以上音楽や何かを聞きながら歩けばそれなりの時間の過ごし方だし、第一だらだら過ごす時間が非常に減った。そして、その運動のおかげで体が軽く動くなら十分に投資すべき時間だと思っている。忙しい人間ならむしろ、体が軽く動くようにした方がそれに対応できるというものだ。

また体だけではない。健康は頭の方もむろん重要であり、そちらを鍛えることにも時間やエネルギーの投資が必要なのではないか。人様からはどう見えるかはともかく、自分では記憶力や学習能力が昔より衰えたとは感じていないし、つまらないことでくよくよすることもない。何か問題が起きても積極的に解決策を考えるようになっていると思う。

むろん私がやっていることはかなり限られており、運動と言っても以前考えていたようなダンベルやストレッチ、筋トレなどは到底続かず、結局は歩くことしかやっていない。がそれでも大きく違う。食べる方についても、特にカロリー計算や栄養バランスなどを計算しているわけではないが、薄味で野菜中心、小食気味になれているだけだが、それだけでも大きく違うと思っている。

完全な健康状態を目指すにはそれなりの専門的知識に基づいて計画的にやるべきなのだろうが、私は日常的に自分で出来る範囲でやっているだけだ。思えば30代の頃の酷い状態は10年ほど前まで少しは改善したかも知れないが同じような状態で続いていて、年を取ってゆく分自分では状態が悪くなっているような気がしていた。一念発起してまずやったことは酒を止め、間食を止め、歩くことと過食を避けることから始めた。そのころはダンベル体操や筋トレ、ストレッチなどいろいろやってみたがとても続かず、続いたのは歩くことだけだったし、そして次第に早足になり距離も伸びた。

一時体重の負荷を避けるために自転車で動き回ったが、結局は今は歩くことにしている。かなり遠くか、荷物でもあるとき以外は自転車は使わない。

次第に変わってきたのが食生活であり、野菜中心の薄味になるに従って量も減ってきた。食べられなくなったのではなく、時々体重が減りすぎて心配になるが、まあそれくらいなら多少の食べ方を変えることで調整できている。酒は今もほとんど飲まないが、それでも週一くらいで缶ビール等は飲むことがある。以前のようにだらだらと何時までも飲むことはない。缶ビール一本で十分だし、時にはそれで酔っぱらっている。まあ、二日酔いは全くないのが嬉しい。

長生きもしたいが、それよりも元気で体が動いて自立できる生活を続けたい。そのためには大決心をしなくても出来ることを心がけるだけで10年続ければ知らない間に驚くほど改善される。それで良いのではないかと思う。

幾ら私でも、これからもっと年を取れば、今出来ていることが出来なくなってくるのだろう。が、世の中には70過ぎてエベレストに登る人もいるし、100を過ぎても現役で働いている人が居る。私にも出来るだろうと思うだけのことだ。

実は身近の人が一人暮らしになり、高齢者マンションに入った。医療設備付きで三食提供され、個室で生活できるというふれこみで、相当の金を払って入居したのだが、その事業者が倒産してしまい、この先どうして良いか判らないと呆然としている。まあ、子供がいるので路頭に迷うことはないだろうが、こんな事を見聞きすると、死ぬまで自分一人で生きて行きたいと思う次第だ。

by ロクスケ











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健康増進、維持のために15

14)神経質にならない

良く聞く話なのだが、一度医者にかかると驚くほど病気が出てきて、結局医者通いがやめられなくなるという。私の兄姉達などがそれで、週に2,3度車で2,30分かけて病院へ行き、2,3時間待って数分の診察を受け、山ほど薬をもらってきて毎食前後にそれを飲んでいる。

今回帰省してその様子を見、これほど薬を飲んでいたら食事が出来ないのではないか、薬の飲み過ぎに効く薬も必要になるのではないかと思ったほどだ。

まあ、二人とも当然私より高齢であり、年齢から来る衰えがあるのは仕方がないとしても、私とそれほど年が違うわけではない。が私はこの数年病院に行ったことがない。人間だから多少調子が悪くなることはあるが、気にしないでいると治ってしまう。

たしかに、医者からすれば私はとんでもない人間なのだろうし、なにしろ日本人の平均寿命が世界トップであり、健康寿命も世界で一番長く、そして肥満率は世界最低で、新生児、乳幼児の死亡率が世界最低、感染症がほとんど発生しないなど、日本は世界に冠たる健康大国なのだが、むろんこれは進んだ日本の医療制度と医師達の努力のおかげだ。

が、どうしても私は病院に行く気がしない。どうせ、検査をすれば悪いところは当然あるのだろう。現に、姉の血圧計を借りて計ってみたら自分が知っている値よりは相当高かった。危険レベルではない物の、要注意レベルだ。

姉は早速病院に行けというが、とりあえず私は血圧計を買い、自分で測定しながら運動と食餌で対処してみてそれで効果が上がらない場合、病院に行こうと考えている。思い当たることがあるとすれば、ちょいデブのBMIがそうだが、実際これよりBMIを下げてしまうと、私自身疲労が激しく、体力が衰える。

素人判断が時に重大な結果をもたらすことがあるのは重々承知だが、私の知人で、何日も宿泊しての人間ドックを受け、消化器に若干問題があるが食生活を改善すれば問題ないと言われて大安心をして帰ってきたその1週間かそのくらいで心筋梗塞を起こし、救急車の中で亡くなった。日頃から用心深い人物で、暴飲暴食などはしなかったが、思い当たることがあるとすれば相当のヘビースモーカーだったことくらいだ。それと、焼き上がった遺骨が真っ黄色で、担当の人がいつも大量の薬を飲んでいる人がこうなる、と言っていた。

もう一人は、60直前で、それまで病気など何一つしたこともなく、筋肉質で疲れ知らずの体をしていた人物が、家人の知らない間に朝、台所で倒れ亡くなっていた。奥さんは寝室にいないことは気がついていたが、いつも早起きをして何かをすることが多かったので気にしなかったのだが、朝台所で見つけ、すぐに救急車を呼んだが、死亡していると宣告されたとのこと。

医者嫌いで全く医者に行っていなかったが、その予兆は何一つ心当たりが無いという。ただ、私も忠告していたのだが、毎晩尋常ではない程の酒を飲むのが習慣になっており、しかも悪酔いもせず愉快になる酒で、それが思えば原因だろう。死因は不明だが、脳卒中やくも膜下出血などの類ではないのか。それこそ、全く動いた形跡のない即死状態だと思われた。

さて、何を言いたいのか。要するに病院で検査を受けて安心だと言われても、日頃から全く健康状態に不安が無くてもそのように死ぬ事がある。そして、一度病院に行けば誰でも病気の一つや二つは見つかる。しかし、病気の中には命に関わらずまあ不便なだけの病気もあるし、進行が遅くて老衰死の方が先と言うこともある。結局運なのだろう。

だから、私は健康については、実際に体が動く限り気にしないことに決めた。ただし、これはあくまで自己責任であり、誰もがそうすべきだ等と言うつもりはさらさら無い。私だって、異常を感ずれば医者に行く。医者に行って異常を見つけることまではしないと言っているのだ。

病は気から。これもまた真実であり、自分の体が一番正確に健康状態を伝えてくれていると思う。私は、それを医者よりも信じたい。

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健康増進、維持のために16

15)生活に目的を持つ

今まで主として体の健康のための手段を書いてきたが、人間は体だけが健康であればよいものではない。心身共に健康でなくてはならないと思っているのだが、私の同年輩の人々の中には、自分がすでに人生の表舞台から降りた引退者であり、後はついでに生きて行けばよいと思っているのではないかと見える人たちが居る。彼らの一日は大半がテレビの前で過ごされるなど、正直言ってあまり付き合いたくない人々だ。

体の健康はむろん大切だ。血圧が高すぎる、糖尿病になった、骨粗鬆症になったなどの理由で食べたいものも食べられず、行きたいところにもゆけず、やりたいこともやれない高齢者が多くいるし、若くても体が思うように動かないために幾ら金や時間があっても何も出来ない人間も大勢居る。その意味で、やりたいことをやるためにはまず体力を付ける事が大切だと私は思っている。

私は若い頃は全く体力が無く今から考えれば病気の塊だったが、一念発起して体調管理を行い、およそ10年以上をかけて体質改善を行った。今では同年齢と比べても相当体力があると思っている。体力が付いたことで私のもうひとつの変化は、精神的にも相当積極性がでてきたと実感することだ。

体が動いても頭が動かなければそれもかなり悲しい。一日テレビを観て過ごすしか時間をつぶせなくなるのはなんとしても残り少ない人生の過ごし方としてもったいないのではないか。

私はテレビは観ないし、情報はほとんどがネット経由だが、今ではネットを使って発信をしている。いろいろな物を自分で作るなどもやっている。頭の体操のつもりで語学もやっているし、実感だが学習能力が昔に比べて衰えたという自覚がない。確実に聴き取り能力も会話能力も上がっている。自分の知的な能力が決して衰えていないと自覚出来るのは(あくまで自覚であり、他から観てどうかは別問題だが、劣化を指摘されたこともない)自信につながる。

結局体力を増強維持するのもむろん大切だが、増強維持した体力で何をするか、何を学んで自分の財産とするかは大きな目標になるし、喩えあと一年で寿命が尽きるとしてもその日まで精神的な向上が自覚出来ることは大切だろうと思う。健康になって何をするか。即ち生活に明確な目標を設けることは、健康維持の目的ともなり、絶対に必要なことではないのか。そして、そう決めて努力をすれば思いがけない程大きな事が出来ると私は信じている。

以前、私が勤めていた会社の上司が言っていたのだが、学ぶのは30代まで。それ以降は蓄えた知識を使って活動し、それ以後は、唯惰性で生きるのだとのこと。確かにその上司は極めて優秀で仕事も良く出来る人だったが、まさか本気でそんなことを考えているとは思わなかった。

人間生きている間目標を持ち、学び続けその知識を使いつつ新しいことを学ぶべきだと思っていたのだ。その上司は、自分の知識で活動するとき新しい知識が邪魔になる事が往々にしてあると言うのだが、到底信じられない。むろん、それは自分の筋道を簡単に変えるなと言う意味であり、文字通り学ぶのを止めろと言うことではないことは理解しているが、ただ、今周りを観てみるとそんな人間が多すぎる様な気がするのだ。

何かのために学ぶ必要はむろんある。が、学ぶことが目標になることも人間はあっても良いと思う。

by ロクスケ











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整理整頓 気持ちの切換


いよいよ生活をシンプルな物に変える決心をし、先々週辺りから大清掃を始めている。私が生まれた頃は日本はまだまだ貧しく、親はとにかくなんでもかんでも保存する習慣が付いていた。私もしっかりとそれを受け継ぎ、使いもしないがらくたを何時までもため込む習慣が付いてしまっている。

しかし、都会ではスペースにかなり金がかかっており、使わないがらくたを保存するために膨大なスペースを使っているのは非合理であるとは常日頃言われていた。それは尤もな理屈だと理解しているのだが、いざ捨てるとなると、いやもう少し置いておこうとか、もう少し考えようと言うことになる。

が、私も生活を簡単にしなければならないと本当に痛感した。先日帰省して兄姉達の生活をみると、とにかく使いもしない物がうずたかく積み上げられ、圧巻は巨大冷蔵庫の冷凍庫では収まらず、別のフリーザーにぎっしりと食品がつまり、しかもそれぞれが何ヶ月も経っていて幾ら冷凍していても食べられなくなっている物がみた時だ。

田舎の家だからとにかくスペースはあるが、私の今の環境では到底無理だ。何度も要らない物は捨てているつもりなのだが、改めてみると数年以上使っていない物が山ほど有る。それぞれは思い入れがあって買ったのだが、現実に今後も使わないと思う物は、よほど思い出に関係する物以外は捨てる決心をした。

今まで私は数十年に渡ってビールのショート缶をコレクションしていたが、正式な保存方法ではないのでコレクションとしての価値はない。思い切ってそれら2000本の空き缶のまず半分くらいを出した。とんでもないボリュームだが、割り切ってみると案外簡単だと思った。おそらく惰性で集めていたのだろう。まだ半分近くあるが、それらはがらくたの奥にあるので改めて捨てることにする。

衣服が大量にあるのを目をつぶって捨てた。若い頃の体型と今は大きく違うので到底着られないと思っていたのだが、試しに来てみたら着られる物がかなりあった。つまり、一時期のだらしのない体型から今はかなりすっきりとしていることが分かって嬉しかったが、しかし形や色で到底着られる物ではないので、喜びは別に捨てている。十着以上の背広などもあるが、どうせこれからは背広を着る機会もないので、2着ほど残して捨てた。

食器が呆れるほどたくさんあるので、食器棚をすべてからにした。あれこれ考えず、手に触った食器はすべて袋に詰め込み不燃ゴミの日に出すべく準備をしている。調理器具も70%は捨てることになるだろう。パスタ製造器、フードプロセッサー、ローラー式粉砕器、餅つき機などなど、最後に何時使ったか分からない様な物もすべて処分する。

木材の破片、ポリタンク、バケツなどはすべて電動工具で切り刻み(道具があるのはこのようなとき非常に助かる)燃えるゴミとして出した。

それでもがらくただ減ったように見えない。まだまだがらくたと格闘しなければならないが、あと二月ほどでおそらく家の中はスッカラカンになるだろう。昨日などは、パソコンデスクの脇にあった大きな組み立て式のスチールラックを空にしてばらした。それだけで部屋がかなり広くなり、改めてがらくたを整理する意味を理解した。このようなスチールラックが家中にある。乗っている物はほとんど一年以上使ったことはないので捨てても不便はない。だから、スチールラックも処分して、広々とした空間を楽しむつもりだ。

整理をするには、気持ちを根本から切り替えなければならないことを痛感した次第だ。

次回から、いかに物を捨てるか、空間を確保するかを何回か書いてみたい。

by ロクスケ











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整理整頓 計画を立てる

前回は気持ちの切換で、とにかく使わない物は捨てる、と書いた。が、それは口で言うほど簡単ではない。使わない物というが、買ったときは使うつもりだったのだ。それに、思い入れもある。買いたくてかなり無理をして買ったものも多い。

むろん、衣類などは20年前30年前の物は幾ら傷んでいなくても着られないから捨てるのに躊躇はしないが、本などは考えてみればこの十数年以上読んでいないのに、どうも捨てるのがためらわれる。何度も本は整理しているが、それでもそうして残った本が今はかなりの量になる。

食器、家具などすべてそうなので、整理をするときに捨てるかどうか考えてしまうのが、どうもまずいようだ。

そこで、整理整頓をする前に可能な限り目標を立てた。整理整頓をしてどれだけのスペースを確保したいのか、最小限の必要な物とは何か、いよいよ使いたくなったとき、買えない物かなどのさまざまな要素を並べ、残す理由ではなく捨てる理由をリストにしてみた。

すると本当にいろいろな物が捨てる物リストに集まってきて、自分でも驚くほどだ。前回書いたように、数十年集めてきた缶ビールの缶も、結局はすべて資源回収に出したが、出してみるとそれだけでスペースがかなり出来すっきりする。

売るのをためらっていた本も、捨てるのではなく図書館に寄付出来ないか聞いてみると、かなり出来るようだ。ただし、図書館で扱わない種類の本もあるし、また寄贈を受けても書架に並べるとは限らず、地域の図書館同士で融通しあい、さらにリサイクルとして来館者に無償で提供するとのこと。

それでもゴミ扱いで捨てるよりはよほど有意義だし、最近大きくなった古書店に買値を聞いてみると、中身の査定ではなくまさにキロ当たり幾らの値踏みしかしないようだ。彼らの店で価値があるのはあくまで漫画本くらいの物で、それは私には用がない。

あと、ネットで捜してみると、宅配で送れば買ってくれる店も幾つかあるようだが、そこに出すためのリストを作成するのが大変なようだ。しかし、いずれはそうしようと思っているし、またそれでも惜しい本は、どうせ読みはしないものの自分でデジタル化しようと考えている。

デジタル化と言えば、私は今までの作品はすべてデジタル化しているし、大昔の手書きの物も折に触れてデジタル化しているのでその意味ではすでにほとんど処分をしている。その意味では、古い写真なども捨てることが出来るし、アルバムも処分出来る。

食器は10個あればよい、鍋は3個あればよい、包丁は2本あればよいと考えてみると、食器や調理器具なども大半は捨てられる。

冷蔵庫を覗いたら、食べないまま放り込んである物がたくさんあり、全部捨てたら冷蔵庫がすっきりした。すると、この冷蔵庫ももっと小さいので済むし、どうせ古いタイプでものすごく電気を食うので、近い内に買い換える事にした。

達人は冷蔵庫を使わない生活をするそうだが、そうする必要があるとも思わないので、とにかく小さな冷蔵庫にすることに決めた。おそらく今の半分以下で十分なはずだ。

最初にどれだけのスペースを必要とし、そして今後私が生きて行く間に何が最小限必要か、また将来使うことになったとしてもその時買った方がよほど経済的な物がたくさんあると気がつき、そう思うと今後1年間に使うものが有れば基本的に他は何も要らないと決めた。

そうやって今大量の物を捨てているが中には行政が引き取らず捨てられない物もあるので、それはまとめて業者に依頼し処分してもらうことにした。

すべての計画が完成するのは、今から50日ほどあとになるが、多分今の倍ほどのスペースを確保出来ると確信している。その方がよほど楽しみだ。

by ロクスケ











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整理整頓 処分方法を考える

整理整頓につきものは大量のゴミの発生だが、むろん小さな物は日常の行政のゴ ミ収集日に出せばよい。が、それでも処分しきれないゴミが次第に溜まってくる。

数十年も一カ所で生活をしていると、自分でも驚くほどそのような不要品が出て きて、それぞれ普通に捨てるもならず、結局またしまい込むことになる。今回、 それではならじと方法を考えた。

古い家具などはばらして細かくし、処分しやすいようにまとめた。家電製品でも 洗濯機や冷蔵庫などはリサイクルに出すそれ以外の家電製品は、ばらして捨てら れる物はそうするが、それが出来ない物はまとめる衣服は少しずつ燃えるゴミと して出す食器や調理器具は不燃ゴミとして出す。本は、資源ゴミとして出す。ビ デオ、カセット、レコードなども燃えるゴミとして出す。

これで今まで処分が出来なかった物の大半が処分出来るが、その具体的な方法と しては、リサイクルに回し、家具などを欲しい人に譲るなどがあるが、それは現 実にはほとんど無理で、捨てるほどに古く汚れ壊れた家具をほしがる人は居ない。 私も修理や手入れが利かなくから捨てるのであって、それを誰かに譲るなどは考 えない方がよい。それは当然衣服や食器、本などにも言えるのであり、よほど新 しい物、不具合のない物以外は自分で処分することを考えた方がよい。

本などは自分では読みたくて買ったものでも、すでに内容が古かったり専門分野 の物が売れるわけがない。図書館に引き取ってもらえるか聞いてみたが、実際は 駄目のようだ。売れるような貴重な本はほとんど無いし、そのような本は私も手 放さない。

服を途上国に送るというアイデアがあるが、着古したものは対象外だし、途上国 へはTシャツやジーンズ等ならともかく、背広やワイシャツなどは需要がない。 着古した下着などもってのほかで、洗濯もしていない下着やぼろをそのような支 援団体に送りつけてくる不届き者が後を絶たないそうだ。

結局、自分で捨てるような者は、他の人にとっても利用価値がないのだから無駄 な使い手探しをするのではなく、自分で責任を持って処分するしかない。

そこで私が執る手段は、不要品をすべてまとめて、専門業者に引き取ってもらう やり方だ。車で持ち込んで引き取ってくれるところもあるが、実際やってみたこ とがかつてあって、電話で聞いた話の3倍位を請求されたなどがある。

またよく粗大ゴミ回収者ですと言いながら回っている車があるが、あれはトラブ ルが頻発し、時に警察沙汰になる。すべての業者がそうだとは言わないが、やめ た方がよい。私は行政に業者を紹介してもらって何軒かに実際にゴミを見てもら い見積もりを取る形を考えている。それなら、ネットでもゴミの回収業者がたく さん広告を載せているので、後から話が違ったなどのないように、きちんと見積 書をもらい、出すゴミの写真などを撮っておく方がよいかも知れない。くれぐれ も口頭でこのくらいの筈、と電話で口約束をしてもトラブルの元になることは考 えて置いた方がよい。どれだけちがうかは分からないが、行政から紹介を受けれ ば、それだけでも信用度はちがうのではないか。何かあったら後から行政にクレ ームを付けるしかない。

また時間的余裕がないと、問題が起きても処理出来ないので、出来れば時間的余 裕が必要だろう。

なにより、出すゴミの種類、大きさ、などを自分でもはっきり把握しておくこと で、そのためにもゴミをまとめてから業者と交渉すべきだ。

by ロクスケ











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整理整頓 どれだけ残すかを考える

何が必要で何が不要かの見極めはかなり難しい。目安として一年使わないものは永久に使わないという法則があるが、すべてにそれが当てはまるわけで はない。私の姉の例だが、かつて小学校の教員だった関係で、研究用の専門書や、自分でまとめたレポートなどが膨大にある。いま仕事を辞めて、さら に教育関係からも遠のいている状態で、過去の専門書やレポートは明らかに不要なのだ。が、だからそれを捨ててしまえとは言えない。自分の人生の大 部分を費やしてきた結果がその形になっている。

私の場合、過去に書いたものは膨大な量になるが、ほとんどはデジタル化しており、爪の先ほどのマイクロSDカードにすべて収まる。今はスキャナー も相当高速化しており、デジタル化はそれほど難しくないので、姉の手書きのレポートもそうしてはどうか、と勧めたらほとんど処分をした後だった。 もうすこし早く言ってよと怒られてしまった。

本なども中身だけならデジタル化できるが、本という形で持っていたい気持ちもあるので、私も本の処分は相当悩むが、それでも今回おそらく4分の3 ほどは処分した。案外気楽だったのは衣類で、どうせ体型が変わったりデザイン的に無理なものは全くためらい無く捨てた。そうしたら、背広がほと んど無くなったが、実際背広など今の生活では年に一度も着ない。とっておいても次に着るときはまた体型に合わなくなっているだろう。したがって、 シャツや作業ズボンみたいなものだけが残った。要するに私の今の生活ではそれで足りるのだ。

ためらったのは食器。使わない食器をおそらく200個くらい捨てたが、食器というのはかなり思い入れがあるものだと改めて思った。かつて毎日使っ ていた湯飲みや茶碗なども、結局今でも残っているが、せいぜい20個くらいになった。調理器具も大半は捨て、圧力釜やおでん鍋など、かつては毎日 使っていたのに今は有ったことさえ思え出せなかったほど使っていなかったのだ。

思い入れのある品は別として、私はまだこれからも現役として社会と関係してゆくつもりなので、それなりに相当多くの品物がいる。たとえば各種の工 作機械、測定器、材料などはそうだろう。仕事を辞めるときはそれらも処分しなければならない。

姉はすっかり社会との関わりを持たない生活を選んだ。引きこもりではないが、教育関係に関わることもなく、そのころの知人たちとの関係も切れてい る。新しい周りの知人たちとの接触だけで生きてゆくと決めたので、持ち物は最小限で良いと割り切ったようだ。

現役と引退生活者では必要なものが違うだろう。結局、自分がこれからどうやって生きてゆくのかを考え、どうしてもいるものは残すがそうでないもの は思い切りよく捨てることで生活も楽になると思う。今回、まだまだ整理整頓は終わらないが、自分でもあきれるほどたくさんのものを捨て、業者に回 収を依頼している。現役で生活を続けるのにそれだけ捨てるものがあるのは、いかに無駄なものに取り囲まれているかがよく分かった。

後一月足らずでこの計画も終わるが、そうとう私の生活も整理されすっきりするのではないかと期待している。


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整理整頓 無駄に買わない

不要品がたまるのは、それらを買ったからだ。買ったときは必要だと思ったのだが、壊れたり好みに合わなかったり古くて不便になったりといろいろな理由で使わなくなったから不要品になったのだが、それらの不要品も別な使い道が見つかれば不要品ではなくなる。つまり捨てる物が減るという考え方がある。

誰でもすることだろうが、古くなったタオルを雑巾にする、古い歯ブラシは細かい掃除をするときに便利。牛乳パックは物入れに使える、特にパスタや乾麺を入れるのには便利、切り開いて魚を調理するときまな板の上に敷けばまな板の掃除が楽になる、などなど捨てる前に利用できる物がたくさんある。

ただし、問題は雑巾に使うつもりの古タオルが知らないうちに何十枚もたまっていたり、使うつもりの牛乳パックが結局山になっていたりすることだ。使うのはせいぜい1,2舞い有れば足りるから、後は捨ててもかまわないだろうし、どうせ次に使うときまでには古タオルや牛乳パックは手元にあるこ とになるのだ。

昔は、とにかく衝動買いでいろいろな物を買った。年輩になって知恵が付くと、衝動買いは減った。買う前に本当に必要かどうか考えることが出来るようになったからだ。大量に買えば安くなる物も、結局は使い切らないうちにだめにしてしまう例が多いので、安売り品の大量買いだめも結局は無駄になる。特売日に買わないことで却って経済的になることを知った。むろん大家族で短時間に大量に使うなら大量に買いだめるのは必要な知恵だが、今の時代、家族数は減りつつあり、単身家庭もかなり多い。自分でどのくらいの基幹にどれくらい消費するかを日ごろから知っておけば、無駄な大量買いを防ぐことが出来る。

トイレットペーパーが安いと言われ数百ロールを買った知人が、結局無駄に使う癖がついてちっとも節約にならなかったといっている。私の家にも大量に買って食べきれずに冷凍庫の肥やしになっている物が大量にあり、今回それをきれいさっぱり捨てた。

むしろ冷凍庫を使わない工夫をした方が経済的なのだろうと思った。なにしろ、姉の家では、冷蔵庫のほかに大型冷凍庫にぎっしり食品が詰め込まれ、大半が冷凍やけをして食べられない状態になっているのを見て、自分のところではふつうの冷蔵庫の中がそうなっていることに気がついたのだ。

無駄に買わない。これが整理整頓の基本だと思う。











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整理整頓 愛着を断ち切る


今回の整理整頓で私が一番感じたのは、使いもしない品物に対する愛着だった。たとえば、今回、永年使ってすっかり冷えが悪くなった冷蔵庫と、洗濯コースが選べなくなった洗濯機をリサイクルに出したのだが、やはり愛着があって、永年役だってくれた物を簡単に捨てても良いのか、という気持ちがあった。これは人それぞれだが、全くだめになるまで使うのが品物に対する礼儀でないか、などと思ってしまうわけだ。

もちろん、省エネタイプではなく、冷却能力の落ちた冷蔵庫は、電気を無駄食いしているので最新の省エネ型にした方がよい。洗濯機もきちんと、洗濯物量や材質、時間帯、汚れ具合などで細かく設定できる機能を使えば省エネ省水になる。

最初からリサイクルに出すことを決めていたので最終的には出したが、わりあい自分にはこの種の執着があるのだと気がついた。その意味で、着られなくなった衣料品、読まなくなった本、聴かなくなったラジオ、テープもなくなったカセットデッキなど、一つ一つを手にとって、もう少し持っていようかなどと逡巡した。

これらの品々は最初から捨てるつもりでいた物だがそれでも実際に手に取るとそのような状態になる。整理していたら初めて気がついた無数の物にいちいちそのような愛着を感じていたり、まかり間違っても本などのページに見入ってしまったらとうてい整理など出来ない。そこは、目をつぶってまとめて捨てるしかないだろう。

実は、整理整頓が一番必要なのは、自分の心ではないのだろうか。

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整理整頓 捨てるチャンスを逃さない

私の母は、何でもかんでも保存しておくのが癖だった。絶対に使うことのない包装紙やひも、箱などを家中の隙間に押し込み、結局単なる場所ふさぎで、最終的にはすべて捨てることになった。

私もそのDNAは引き継がれているが、それよりも色濃く引き継いだのは姉で、先日姉の家に行った時、冷蔵庫、冷凍庫に食べかけの食品がぎっしり。つまり、戸棚のあちらこちらにいつ空けたのか分からない海苔、お菓子、ふりかけ、調味料の瓶などがぎっしり並び、どこに何があるか分からない状態だ。食べないなら捨てればいいのではないか、と言ったところ、食べ物は粗末には出来ないと言う。無論その姿勢は大切だが、一度使って同じ料理をしない、飽きたなどの理由でそのままにしておけばすぐに傷んで食べられなくなる。それなら、傷んでいなくてもその場で捨てる方がましだと思うのだが、すぐに食べると思って取っておくのだそうだ。

姉の家には、冷蔵庫に冷凍室が二つ、ほかに冷凍専用庫があって、食品が隙間無く詰まっているが、多くが相当以前に保存期限を過ぎている。魚や肉などは酸化しているし、野菜類なども水分が分離して食べられるものではない。冷凍すれば永久に保存できるかのような思いこみがあるのだろうが、せいぜい3ヶ月と考えれば食べきれないものを処分しない限り冷凍庫も冷蔵庫もすぐに満杯になり、必要な物が入れられないし、電気の消費も相当無駄になる。

冷凍庫冷蔵庫の食品、常温で保存できる乾燥食品や調味料なども、食べないと思ったらその時点で捨てるべきだろう。家族の人数によっては、どうしても食べきれないものが出てくる。だから、いくら安売りでも大瓶や大型パックは私は買わないと決めている。割高のようだが、後で捨てることや場所ふさぎになることを考えると、小瓶で買い、小型パックの物を買う方がよほどいいだろう。

またいくらきれいな箱でも、使い終わった箱や包装紙なども、中身が無くなったらすぐに捨てる、一度使ったビニール袋なども捨てるなどを考えるべきだと思う。コピー紙の裏をメモにするためにとっておいても、到底使い切れないでゴミになるなら、一定量以上は捨てた方がよいだろう。

ただでも狭い家で、スペースもまた貴重な財産であり、それをゴミでふさぐのは不合理だ。いつか使うと考えず、いつか使うなら使う時にまた買う、使い終わったら捨てる方が良いと私は思う。

by ロクスケ
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整理整頓 いつ捨てるか

前回は捨てるチャンスを逃さない件だったが、それが見極めにくい品物は確かにある。次第に劣化する物などがそうだ。ポリ袋やスーパーのレジ袋など取っておいても自然に劣化し、特に光に当たっている場合などは急速に劣化し、さわっただけでぽろぽろ崩れるようになるし、しまい忘れて永年どこかにつっこまれていた物なども、同じだ。ポリ袋などは、放っておいても使えなくなるので、一度使った物は洗って取って置くなどは余りしない方がよい。私は普通はゴミを入れて捨てるか、そのまま捨て、必要時には新しい袋を使う。そのために袋を買う。

靴下は破れていなくてもゴムが伸びたり、あるいはあまりに汚れがひどくなったり洗って色落ちした物などは、はける状態でも捨てる。これは衣服も同じ事で、外出来なくなったら室内で着る位のことはするが、それもあまりに傷みが進んだ場合は、例え着られる状態でも捨てる。

昔物のない時代に生きた人からすればとんでもないとは思うが、私は着古し洗濯を繰り返してぼろぼろになった高級衣服よりも、安物でも(むろん限度はあるが)新しい物を頻繁に交換した方が良いと考える。ただし、私の場合、普段の仕事着は作業服であり、仕事以外ではカジュアルな着やすい物が主であって、いわゆる背広ネクタイ着用は今はほとんど無いし、正装をすることも滅多にないから、一般論にはならないだろう。

もう一つ、電化製品などの捨て時も見極めが要る。私の家では未だにメインの照明は蛍光灯だが、蛍光灯は徐々に暗くなり効率が落ちてくる。むろん、こまめに掃除をすればある程度明るさは取り戻せるがいかんせん蛍光灯自体の劣化が進む。毎日見ているとこの劣化には気づかないが、ある日点灯しなくなって交換することになる。しかし、実際はその相当前から効率が悪くなっており、例えば両端が黒ずんできたら交換した方が目にも優しいし、電気代の負担も減る。照明器具も全く壊れる前に交換した方が同じ理由で望ましいし、その後は出来ればLED照明などに代える方がいいだろう。

同じ事は冷蔵庫、エアコン、テレビなど多くの物に言え、特に冷蔵庫エアコンなどは急速な技術革新で10年もしないうちに電気の消費量が半分になったりする。したがって、これも完全に壊れる前に買い換えた方が結果としてはコスト的にも有利になる。このような製品を壊れた時点で買い換えるのはかなりの出費を強いられるが、新しく買った時から次の買い換え時に備えてそのための資金をためておけば、最終的にはコストもかなりの削減になる。何しろ、このような製品は性能的にも省エネ的にも日進月歩であり、そして値下がりも大きい。リサイクルに出された古い製品は新しい資源として有効利用される。

寿命いっぱいに使うのではなく、最初から時期を決めて定期的に買い換えた方が良いと考える。

以上のように何でもかんでも長く使うことが良いのではなく、消耗品は長く保存しない、長く使わない方が結果としては環境にも省エネにも役立つと言えるのではないか。

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整理整頓 こまめな手入れで長持ちさせる


前回は、家電製品などは寿命いっぱいに使わず、捨て時を決めて新しい物に買い換えた方が得だと書いた。むろん、流行廃りのある服飾品だとか食器なども同じ事が言えるだろう。趣味が変わればそれらの物も使わなくなりやがて戸棚の肥やしになるならもう使わないと決めた時点で捨てる方がよい。

しかし、家具などはちょっと違う。むろん、趣味に合った物を買うのは同じだろうが、それこそ家具は長く使うことを前提として良い物を買い、こまめに手入れ修理をして長く使う方がよいと私は考える。ただし、小さな子供が居る、ペットが居るなどで家具がどうしても傷つくのを避けられない時期は、傷付いても落書きされても爪研ぎをされてもかまわない家具を買うのは当然だろうし、独身時代でも気軽に引っ越しするためには捨ててゆける簡単 な家具なども便利だ。

が、生活が落ち着いてくると、安物家具ばかりではどうも落ち着かない。今私の居る居間には家具が五つある。戸棚が三つ、パソコンデスクが一つ、座卓が一つ、付け加えるならそれにテレビ台(今はテレビはなく、いろいろな小物が突っ込んである)、パソコンデスク前の椅子がある。高級品は一つもない。パソコンデスクなどは、自分仕様に合わせて自分で作った物だし、椅子はぼろぼろに壊れた物を塗り直し、クッションを交換した物だ。

まあ、パソコンデスクは自分仕様なので随時作り直すし、最近もパソコンや周辺機器が近年小型化されたため小さくした。こういう物はいくらぼろでも飽きないから勝手だと自分でも思う。

座卓は比較的新しく、大切に使っているので今のところ不満はないが、3つの戸棚のうち、一つのぼろ具合が最近目に付いてきた。一番最初に買った特に安物で、作りも余り良くなく、方々にガタが来て、フラッシュ構造(木枠に薄いベニヤ板を張って組み立てた安い家具の典型)で、磨いているうちに表面のビニールシート自体がすり減ってきた。ゆがみが出て、ガラス戸がきちんと閉まらない。何度か直したがもう40年以上使っているので、このタイプの家具としては寿命なのだろう。

その後で買った家具は当時としては無理をして買った物でむくの木材を組み立てきちんと塗装をして仕上げているので、たぶん2,30年使っているが、全くガタも来ないし塗りもはげない。磨いてつや出しをかけておけば買った当時と余り変わっていないような気がする。ただし、永年光にさらしていたのでガラスが失透してきているのは分かるから、いずれガラスの交換はするつもりだ。形も永年使うことを考えていたので奇抜でもない当たり前の物であって、おそらく今後数十年も使えるだろう。私が使えるわけではないだろうが。

安物とそれなりの家具を比べて、結局はある程度の品質の物を買い、こまめに手入れをしながら使う方が生活の一部になって落ち着く物だと思うようになった。本当は狭い部屋に三つも戸棚があること自体が問題なのだが、何でもかんでも突っ込むからだ。客用の茶碗や紅茶茶碗、グラスなどを麗々しくこんな戸棚に飾っておく理由もない。気がついたら大量のCDやDVD、テープ、本なども突っ込んである。それらもいずれ処分して、戸棚は一つにしたいとは思っている。

家具は良い物を買って長く手入れをしながら使う。出来たら一つにまとめる。これが整理整頓にも大きく役立つと最近考えるようになった。

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整理整頓 目に付いたら掃除

私は現在壮大な計画を立て、3ヶ月以上をかけて家中の大掃除、大整理整頓をしている。すでに主な家電製品は買い換え、家具の多くも処分した。とにかく使わないと思われるものは全て捨てたが、後から改めて買う物があったりして全てがうまくいっているわけではない。が、現時点では我ながら今までないほど片づいたと思っている。まだまだ完成していないが、少なくとも居間などは非常に片づき、本当にゴミ一つ落ちていない。実は整理整頓の中には壁や柱の修復も入っている。かなり古い家でこれらも相当汚れており、単に洗剤で拭いただけでは落ちない汚れが付いているから、機械で表面を削り取り、傷はパテで埋め塗り直しを考えている。幸い専門家に頼めば目の玉が飛び出すこれらの作業も、私は商売柄自分で出来る。

しかし、どのようにきれいにしようと、人間が住んでいれば必ず汚れてくるのは当然であり、それをいかに少なくするかが、結果として壁や柱、床などの汚れを軽減し大げさな修復が要らなくなるはずだ。掃除一般に言えるが、日ごろからこまめに掃除をしていれば改めて大掃除なども要らない。ということで、せっかくきれいになった居間は、大掃除が不必要なほど日ごろから手入れをしてゆこうと固く決心をした。

具体的には何かが散らかっている、あるいはゴミがついていると気づいたらすぐに掃除をすることにした。ゴミがこびりついてしまうと取れにくく、無理に取ると傷める。照明器具などは掃除をすることで驚くほど明るくなる。パソコンモニターやテレビなどもこまめに拭くことでいつまでも明るく見られるし、結果として画面を暗く設定できるから省エネにもなる。実際、汚れていないと思っていたモニター画面など、少しガラスクリーナーを付けた布で拭いてみると結構汚れが取れるし、そして明るくなる。ガラスを掃除するには着古したシャツが適していると思うし、通常は息を吹きかけて拭けば取れるが、時々はガラスクリーナーなどを使えばいいのではないか。床、柱、壁、家具なども同じで、こまめに汚れがこびりつく前にふき取っておけばいつまでもきれいなままで保っておける。汚れてから拭くのではなく、汚れていなくても拭く位の事でよいのではないか。

トイレやシンクなども、きれいだからと掃除をさぼると知らない間に汚れがこびりついているが、毎日見ているとそれに気がつかない。気がつかないからまた掃除をしないと言うことになる。やはり汚れる前に掃除をすると言う心構えが必要だと痛感している。近いうちに家中のガラスを、家具のガラス、ガラス戸のガラス、窓のガラス全てを徹底的に磨くつもりでいる。これらは気がついてみると少々拭いただけでは落ちない汚れがこびりついており、様々な専用道具を使って一度徹底的にやらなければならないと見極めたからだ。

対して大きな家ではないが、そのように徹底して掃除し、修理などもするとなると、3ヶ月やそこらでは足りないとおもう。私も掃除ばかりしているわけには行かないからだ。

トイレの床も含めてそのような掃除のためには、古い下着や木綿の衣服を洗濯し細かく切って使い捨て布巾にしておくのがよいと気がついた。いちいち雑巾バケツを取り出してきて濯ぎながら掃除をするのは結構手間がかかるが(時々はそうしなければならないが)普段気がついたら拭くなら、使い捨て雑巾でよい。強力な洗剤やワックスを使うのは、私は余り好きではないのでやらない。こまめにやるなら、よほどの汚れでない限りきれいな布でからぶきあるいは水ぶきで十分だと思うが、慣れてみるとそれほど手間でもない。余り掃除掃除と考えていると余裕が無くなる。気がついたらで良いのではないか。どれだけ気がつくかは、これも自分で基準を作るしかない。無意識に出来る程度、そしてそのために神経質にならない程度ということで、これも 自分で慣れるしかない。

前にも書いたが、私は掃除は苦手だが、好きであり、シンク磨きなどは趣味の範疇に入る。それを家中の磨きに広げられれば楽しいだろうと思う次第だ。

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整理整頓 汚れを取りやすくする工夫

年末を控え、大掃除に精を出している方達も多いだろうが、私はこの何ヶ月か集中して掃除をしているので改めて大掃除と言うことはない。ただ、この掃除プロジェクトでつくづく思い知ったのは、普段からきちんと掃除をしておかないと汚れはこびりついて取れなくなると言うことだ。

普段の掃除でも余りやらない食器棚の中だとか、家具の裏側とか、押入の中など、かなり汚れが染みつきこびりつき、少々拭いたくらいでは取れないようだ。

とはいえ、毎日毎日そんな掃除をしていたら他のことが全く出来なくなる。私が掃除プロジェクトを立ち上げて何ヶ月もたつのは、掃除ばかりをしているわけではなく、まずゴミを捨てる事からはじめて、普段やらない場所の掃除をやるからだ。それも仕事の合間、やその気になった時に集中しているので、本当にプロに頼んで掃除をしてもらえば、おそらく数日で済む掃除だろう。

滅多にやらない場所の掃除を集中してやっても、次に掃除をする時にはまた汚れがこびりついているし、神経質にやると塗料がはげたり傷が付いたりする。白木の柱をきれいにするために細かいサンドペーパーをかければよいなどという記事があるが、余りそれを頻繁にやると、柱がすり減って大変だろう。したがって、仮に徹底して掃除をしても、次の掃除までに汚れが付きにくく、あるいは汚れが付いてもすぐに落ちるようにしておきたいと思った。

すぐに思いつくこととして、コーティングをしておくと、かなり効果がある。たとえば、床や壁の木部、家具などワックスを掛けておくと汚れが付きにくく取りやすい。トースターの下にアルミフォイルを敷いておけば掃除をしなくてもアルミフォイルの交換で済む。レンジにアルミカバーをかけ、戸棚にはシートを敷き、換気扇には洗剤をスプレーして乾かしておく。また、壁や家具などはそのためのコーティング剤などが売っているので、それを利用しても良いのではないか。ただ、あまりやたらに使うと、健康に何か影響があるのではないかと不安になるし、現実に先日塩素系の漂白剤を使いすぎて、その場所がかなりいやなにおいが立ちこめるようになり、改めて洗って臭い取りをしなければならなかった。

ただ、襖なども水性透明つや消しニスなどを塗っておくと、それほどにおいはしないし、汚れも付きにくく、そして水ぶきが出来る。そのような工夫をすれば、神経質にあちこちを拭いて回らなくても済みそうだ。掃除をするだけが良いのではなく、掃除をしなくても汚れない工夫をしておけば済むならそれに越したことはない。

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整理整頓 同じ物を買わないために使い切る
姉の話で恐縮だが、以前姉の家で風呂に入った時、シャンプーやボディソープの 容器がいくつも並んでいるのに気がついた。それぞれ、もちろん中身入りだ。そ れぞれ違う製品なので家族一人一人の専用かとも思ったが、それでも随分数が多 い。気がついてみると、風呂場の脇の洗濯機のそばには、いろいろな種類の洗剤 容器が並んでいる。その気で見ると、台所にもいろいろな種類の洗剤がそれぞれ 使いかけで置いてある。

なぜこんなにいろいろな洗剤を買うのか、と訊いてみると、油汚れや水垢取り、 さび取り、カビ取り、殺菌、漂白などそれぞれ専用の洗剤だと言う。が、結局は どれも効能書きほど効かないので、最後には使わずに残ってしまうのだそうだ。

昔から姉にはそのような癖があって、各種のお茶や調味料などを買ってはみるが、 気に入らないとそのままにしてしまい込んでしまう。使わないままに保存して置 いてもどうせいずれ使えなくなるのだから、捨ててしまえばいいのではないか、 あるいは買った物を使い切ってから他の物を買えばいいのではないかと言ってみ たが、どうしても買った物はもったいないのでいつか使うか食べるまで取ってお きたいという。少人数にもかかわらず大型冷蔵庫の、大きな冷凍庫には数年前の 食品もあった。買っては見たが、ちょっと食べてみて口に合わなかったのだそう だ。

お金の無駄、スペースの無駄、なによりものの無駄だろうと思うのだが、それは 姉自身も知っている。しかし、気に入らないものを無理して使うのはいやで、し かし、お金を出して買ったのだから捨てるのはもったいないそうだ。

考えてみれば私も人のことは言えない。気がついたら筆記具が100本以上たま っていたり、はさみが何丁もあったり、ステープルなどがホウボウにあったりす る。あるいは、マグカップや湯飲みが戸棚にあふれていたりする。衣類などでも、 昔は気に入って買ったは良いが、来てみるとどうも気に入らずにそのままタンス の肥やしになっているものがたくさんあった。その代わり、気に入ったものはよ れよれになっても着続けたりしている。使わないなら捨てる、あるいは使い切る まで次の物を買わない事にすれば随分無駄は省けるだろう。

考えてみて、自分が今十分使えるものを持っていることが意識になくなっている から、目に付いた新しいものを買うような気がする。

基本的には要らない物は買わないに越したことはないが、買ってしまったらとに かく使い切る。もしどうしても使えないなら、さっさと捨ててから新しく買い直 すだけでも、いつの間にかつかなくなるようなゴミが知らないうちに増えること をかなり防げるのではないだろうか。












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整理整頓 汚れが目に付かなくともきちんと掃除

わたしは台所のシンクが曇っていると気になってすぐ磨くが、クレンザーなどで磨くと傷が付くし、金属束子やナイロン束子などはもってのほかで、せいぜい束子に塩や重曹を付けて磨く程度だ。だが、ある日よく見ると、うっすらと水垢がついているのに気がつき、そう言う時はクリームクレンザーで磨く。本当は日ごろきちんと始末をしていれば水垢がつくこともないはずなので、磨いたつもりでも見落としているのだろう。

同じ事は、方々のガラス、戸棚などの塗装面、板張りの床などに言える。毎日毎日磨けば確かにいつも曇り無くきれいなのだろうが、私が毎日やる掃除は、せいぜい床に掃除機をかけ、目に付いた埃を拭き取る程度だ。徹底的にやる掃除は半年に一回、念入りにやる掃除は月に一回くらいしかない。

しかし、人間が生活している以上、毎日埃は降り積もるしこびりつくので、少しやらないでおくと相当埃が積もっている。目の前にあるpcモニターやデスクトップなどは結構頻繁に拭くが戸棚のガラスなどは一週間で相当汚れる。一度それに気がつくと方々拭いて回るのだが、ほうっておくと少々拭いたくらいでは落ちなくなる。私が掃除をするのは、そのようになった後で、洗剤を使って念入りにやるわけだ。

掃除のし過ぎや間違いは、塗装面やステンレスなどをいためる。それは寿命と考えるしかないが、なるべくいためないためには、常時軽く拭くことをしていればよい。が、それでは生活が成り立たない。

冷蔵庫も換気扇も洗濯機も毎日掃除すればきれいに保てるが、生活が保てなくなるので、そろそろと思う時期まで掃除はしない。この兼ね合いが難しいようだ。ただし、トイレだけは時間のある時は頻繁に徹底して掃除をする。使用状況によって汚れ具合も変わるからだが、そもそも汚いと出る物も出なくなるからだ。トイレは、未だ良いだろうと油断をすると、本当に掃除では汚れが取れなくなるので気を付けなくてはならない。

妥協策として、私は目に付く場所は頻繁に、目に付かない、あるいは見て見ない振りのできる場所は月一回、あるいは半年一回、あるいは生涯に一回の掃除で納得するしかないと思っている。

by ロクスケ












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整理整頓 掃除をする場所を計画し、マニュアルを作る
掃除のマニュアルについては折に触れて書いているが、とうぜん年に何回かの大掃除の時のことだ。日ごろゴミをためないようにし、目に 付いた場所を掃除していればたまの大掃除の時もそれほど大騒ぎをしなくてもすみそうだが、実際はそうではない。

家具の裏などにはゴミがたまっているし、猫が持ち込んだスリッパなどもあるかも知れない。また無駄な物だと思わなかったが、使わずに しまい込んだまま、あるいは修理しないままにしている家電製品などもあるだろうし、着なくなった衣類、日ごろの掃除ではきれいになり 切れていないガラス、戸棚のなどがある。

日ごろの掃除では完全な掃除など出来ていないことを前提に大掃除をするのだが、家具を動かしたり不要品処理の業者を頼んだりなどそう そう思いつき出来ることではないので、かなり前からきちんと予定を立ててやることになる。とうぜん、その手順を明確にしたマニュアル 製作から必要になるわけだ。

粗大ゴミやリサイクル対象家電が出る場合、自治体の回収がどうなっているか、業者はどうなっているかを事前に確認し、連絡をしておく 必要がある。また現代は高齢者の独居家庭もあることだし、体力的に一人では無理だと思ったら地域の便利屋などを調べたり、これも自治 体によっては高齢者の団体を紹介してくれたりする。ただし、手伝いに来た人たちが高齢者ばかりで役に立たなかったという話しもあるの で、そこは実際どれまで頼めるかも確認が必要だろう。大型冷蔵庫の運び出しなど、やはりそれが出来る業者の確保が必要だ。むろん、買 い換えなら販売業者がやってくれるが。

もし、誰か欲しい人が見つかったら引き取ってもらうこともあるだろうからその確認もしておく必要がある。衣類や食器などもし誰かの役 に立つなら捨てることはむろんしない方がよい。

また、室内で事前に捨てる物、処理する物をリストアップし大量に出る廃棄物を自治体の回収日に合わせて出せる準備も必要だ。ゴミの一 時保管が必要ならその準備もいる。

目的に合わせた掃除道具、洗剤などの準備も欠かせない。

結局掃除が終わった後でどのような状態になっているべきかがきちんとイメージできている事が大切であり、また捨てるのはよいが捨てて しまって不便になることはないかを考えておくことも必要だ。衝動買いは避けなければならないが、衝動捨ても避けなければならない。

いろいろ考えてみると、大掃除の前にはかなりのことを準備して置かなくてはならず、それがとりもなおさずマニュアル作成と言うことに なる。



by ロクスケ












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整理整頓 匂いに気を付ける


このシリーズもこれで最後としてまとめたい。整理整頓や掃除がきちんと出来ていても、それは目で確認できるので間違いはないが、案外気がつかないのは匂いだ。

住んでいる人間には分からないが、各家には特有のにおいがあり、時には訪問客が気になる場合がある。やっかいなことに、匂いは最も人が敏感に感じる物なので、よその家を訪問した時など一番気になるのが匂いだ。そして、これもやっかいだが、匂いには人はすぐになれる物なので自分の家の匂いには気がつかない。

誰も、人に家に行って匂いが気になるからといちいち指摘はしない。また他の人が気になっても住んでいる当人が気にならないのであればかまわないと言うことも言える。が、それも程度問題なので、そのようなことがあることは認識しておいた方がよい。

むろん、それを認識してやたらに芳香剤や消臭剤を使うと却って悪化する。芳香剤などにも住んでいる人間はすぐになれて感じなくなるので、不安になって芳香剤を増やしたりすると、よその人間にはたまった物ではない。

そこは割り切るしかないだろう。各家庭には固有の匂いがある物であり、無味無臭などあり得ないと言うこと。そして訪問者も数分でその匂いになれてしまうのだからそれを気にしても仕方がないと言うことだ。

親しい家などは頻繁に訪問することでその家の匂いになれてしまうものだ。考えてみれば、学校でも職場でも店でもそれぞれの匂いがあるのだが、結構人間はそれになれている物だ。ただし、言うまでもなく限度がある。最初に遭遇したとたんに逃げ出したくなるような匂いでは慣れるはずだなどと言ってはいられない。まあ、普通に片づけ掃除をしていればそんなことはないだろうが。

おなじ匂いでも、人間にとって快適な匂いはある。芳香剤や香水などはそれぞれ好きずきがあり、誰にとっても快適なわけではない。が、日本人にとってほぼ共通して言えるのは新しい木の香り、畳の匂いなどだろうか。その匂いを目指すのがよいのではないかと思う。が実際にいつも壁を新しい木で張り替えることも畳を取り替えることも出来ないから、せめて風通しを良くし、かび臭さを無くすることくらいしかない。あと、案外有効だと思ったのは、お茶を燃やすことだ。

お茶を(出がらしでも良いが)アルミホイルに包み、ろうそくのような物であぶるなどすれば結構消臭になるし、新しい畳系の香りがでる。

とにかく整理整頓をし、カーテンなどは頻繁に洗い、部屋干しをした時などは歓喜を十分に行い、天気の良い日は窓を開け放ち風を通すなどすれば、常識はずれの悪臭がこもることはないだろう。特有の匂いは避けられないが、それが当然だと思えば良いのではないのか。何処に行っても無臭の家など無い。むしろ、使いすぎる芳香剤や化粧品、飾った花などの匂いの方が気になる。

by ロクスケ











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デジタル生活 青空文庫


今回から新しいシリーズとして、主としてネットと生活の関わり方を書いてみた。私は仕事柄パソコンの黎明期から関わりがあったと思う。

プリント基板から自分で作り、秋葉で買った8ビットのCPUや周辺部品を個別に買ってはんだごてで組み立てた。

それからあっという間にネットが始まり、私がそれを始めたのはかなり後になってからだったが、私と同年代で周囲にパソコンやネットに親しんでいる人は殆ど居ない。メールさえやらない人もかなり居る。私はたまたま仕事柄パソコンに当初から関わってきたのでその種の抵抗は全くないと思うが、近年普及してきたスマホにはなじめない。一時使ったが、止めてしまった。メリットを見いだせなかったからだ。

昔と違い、今は外でパソコンを使うことはほとんど無いので、私が今使っているパソコンはデスクトップだ。しばらく前まではそれでも自分の要求に会わせて部品を買って組み立てていたが、今は要求通りの仕様で組み立ててくれるメーカーもたくさんあり、その方が結局やすいし確実なので、今回からはその方法で購入した。

毎日数時間はパソコンを使っているが、今では仕事にもプライベートにもパソコンが欠かせない。様々な分野で使っているが、このシリーズの第一弾として青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)をご紹介したい。

このサイトは、ボランティアがすでに著作権の切れた文学作品などを公開しているサイトで、すでに1万以上の作品が登録されており、今もそれは増え続けている。さらに、技術の進歩で今では一冊の本を数十秒でスキャンし、テキスト化することも出来る。将来は青空文庫もこの技術で飛躍的に公開書籍を増やしてくれるのではないかと期待している。

サイト運営者達の努力に感謝しつつ、私も多くの作品を読ませてもらったし、なにより日本文学の宝である様々な古典作品などが原文で読めるのはうれしい。例えば、源氏物語の与謝野晶子訳などが収録されているが、他サイトでは原文が公表されている。私は原文と現代文訳の両方をダウンロードして読むようなことをしているし、最近では電子書籍端末に入れて読んでいる。

青空文庫のようなサイトは海外にもあり、多くの古典が公開されていて、殆どがテキスト形式やPDFなのでそのまま電子書籍端末で読める。

ついでだが、一度電子書籍端末を使い始めると止められなくなる。私がこれを使い始めた理由は、文字が自由に大きく設定できることと、 Eインクを使っていて画面が光らないため目の負担が紙の印刷物と変わらず、文字が大きくできるだけ読みやすい。また、一度の充電で数週間保つことも魅力だ。外で本を読むことは余り無いが、家で読む場合も電子書籍端末を手にすることが多くなった。この端末には1000冊の本が入るそうだが、整理に困るので、私は今のところ数十冊しか入れていない。都合に合わせて入れ替えれば済むことだ。

必要であればネットで電子書籍を買えるが、いまのところ私は買いたいような電子書籍がない。もしかしたら手持ちの本や図書館から借りた本などをスキャンして端末に入れることもやるかも知れないが、そのための投資をしてまでやりたいとは思わない。それくらいなら紙の本を読む。もちろん、自分で書いた文書もそのようにして保存できればいつでも読めるし眺められる。

とにかく古典作品は全てと言っていいくらいネットを検索すれば日本語も外国語もフルテキストで手に入る。これを利用しない手はないのではないか。それに電子書籍端末があれば今まで整理に困っていた本の悩みもなくなる。

ネットを利用する理由はたくさんあるだろうが、少なくとも本の入手、管理には無限の可能性があると思う。

by ロクスケ












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デジタル生活 情報取得


今、社会の大きな問題になりつつある事でデジタルデバイドがある。具体的には、IT技術を使えるか使えないかで得られる情報量が大きく違うため、経済的な理由あるいは高齢などでIT関連の技術を使えない人は、情報に取り残されてゆくということだ。

IT技術と言っても様々だが、最もそれが顕著に現れるのがネットだろう。日本は世界でも情報に開かれた国で、個人情報や国家機密など以外は、その気になれば調べられる。従来人々が情報を得ていた手段は、新聞ラジオテレビなどの報道メディアなどであり、その面でも日本は先進国としてのレベルには達している。が、これらの情報を発信するメディアも情報という商品を売る企業であり、人々が必要とする情報に偏るのはやむを得ず、さらにスポンサーに対して不利な情報は抑える事もある。

が、ネットの登場はそれらを変えた。ネット情報により、規制メディアが伝えない情報に触れることが出来るようになったのは非常に大きな変化なのだが、いかんせんネットは極めて新しい媒体であり、未だ十分に整理されていないし、人々はそれになれていない。

これらのネットを使いこなす事の出来る人たちはどうしても新しい技術に親しんだ若い世代に偏り勝ちだし、必要な情報をネットから探し出す技術もそれになれない人にとってはかなり難しい。

なにしろ、個人が自由に情報を発信できるのだから、そのような情報の、極論を言えば90%以上は嘘、宣伝、間違いと言っても過言ではないだろう。なにしろ、2年前の東日本大震災の折りもとにかく無責任なデマが飛び交い、それで要らざる混乱が生じ、そして未だに尾を引いている。

が、従来のマスメディアの報道が全て正しいわけではない。なにより客観的な報道であるべきがメディアの主観がかなり入っていることは単に新聞やテレビの報道を各社比べてみるだけで分かるし、また従来はなかなか見ることの出来なかった公式な資料などが簡単に見られるようになり、さらに他国の報道も相当広範囲に見られるようになった。これらを検証することで自分なりにネットの玉石混淆の中から信ずるに足る情報を得ることが出来るようになったのは間違いがない。

従来の報道は一方的に与えられる物であり、与える方は最大多数が受け入れやすい報道に偏るのはやむを得なかったと言えよう。なにしろ、情報は商品なのだ。例え無責任な嘘が多数あろうと、自分が判断力を持てば正確な情報が得られる。情報を発する方の責任はむろんだが、受け取る側にもその能力がなければならない。その意味で、今のネットは真に受け取る側の能力によって価値が大きく変わると言っていい。

実際にネットは使っているが情報の収集や検証には全く関心のない人もいる。沢山いる。彼らもまたデジタルデバイドの情報弱者に分類されるだろう。

せっかくネットにアクセスできるなら、その中から信ずるに足る情報を選び出す能力を自分で身につけたい物だ。

by ロクスケ












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デジタル生活 情報取得

ネットをやっていて最も大きいメリットは膨大な情報が瞬時に得られることだろう。ただし、一般にネット上の情報の90%は個人の思いこみ、ねつ造、宣伝、嘘だとされている。しかし、残りの10%は情報源として役立つのではないのか。

無数にある情報には、おなじ事を伝えていながら真逆の内容になっているケースが実に多い。またある情報を得た人間が、自分では全く真偽を判断せずにそのまま拡散することでデマが広がるケースも、例えば例の東日本大震災などの折りには多く見られた。

さらに、中にはおもしろ半分でデマを広げる輩もいる。しかし、それでもネット上の情報量が極めて膨大であり、誤報やデマでさえ事実の検証の材料になる。すなわち、デマの出方の特徴からなぜそのようなデマが大量に出回るかを考えることも、真実を見つけるヒントになると言うことだ。

いずれにせよ、ネット上には膨大な情報がある。それも大半が嘘、ねつ造、宣伝だし、またそうとは言えなくとも書いた人間の主観が入っているのが普通だ。喩え著名な人物あるいはメディアの報道であってもそれをそのまま受け取ることは出来ない。

ではどうするのか。結局は自分で自分の価値観を作り上げ、それを基準として判断するしかないだろう。今日は暖かくなる、と気象庁が発表したとしてもそこには暖かいという曖昧な表現がある。実際は何度になる、湿度はこうで風速はこうなるとの発表から、自分ならそれを暖かく感じるか寒く感じるかを判断することになる。

同じ気象条件今日は暖かいという報道があっても、ある人は半袖シャツで快適だと言い、他の人は厚手のセーターでもまだ寒いと言う。どちらかがうそを言っているのではなく、双方とも自分の基準で正しいことを言っているのだ。ここで問題なのは、予報に暖かいという表現を使ったことになる。

1プラス1は2は誰が言ってもほんとうだが、10度は寒くて15度は暖かいというのはそれを体験している人間にとってしかほんとうではない。

当たり前だろうと思っても、実際は日本経済は不調だ、日本は安全だ、今の内閣は良いとか悪いなど誰の基準で言うかが問題なのであって、絶対的な真実ではない。

横道にそれたが、自分にとってどうか、なぜ自分はそう思うかを自分自身で明確にしておかないと曖昧な報道にだまされることになる。自分でその基準を明確にするためには、可能な限り多くの情報に接しそれを自分なりに整理し比較し理解しておく必要がある。だからこそ、いかに多くのでたらめや嘘が含まれていようと、ネット情報はだから駄目だと無視するわけには行かないのだ。

可能な限り多くの情報に接し、その中に自分で嘘を見つけ真実を見つけ、自分の基準を作り上げるためにもネットは必要不可欠ではないだろうか。

by ロクスケ












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デジタル生活 情報発信

ネットの利用で得られるメリットはなんと言っても膨大な情報量にある。しかし、私たちが情報を得るのは、従来もテレビ、ラジオ、新聞、各種の本など様々な媒体があった。それでもネットの情報量はこれら既存の媒体よりも桁違いに多いのだが、もう一つネットの際だって従来のメディアとは違う点として、双方向性にある。

まず、多くの情報源に対しコメントを送って説明を求めたり、発信者と意見を交わしたり、あるいは共通の話題に関心を持つ複数の人々と意見交換が出来る。これは従来も不十分ではあったがテレビ局に電話をしたり新聞に投書をしたりなどの形であったことはあった。がネットの場合は、時間差無しに発信者に向けて意見を言い返事を得ることが出来る。これは大きな違いだ。

さらに、自らがオリジナルの発信者になり広く自分の意見を知らしめることが出来る。今まで個人が公に意見を発信する手段はほぼ皆無に近かった。喩えテレビ局に電話をしても新聞に投書をしても、それを公にするかどうかはあくまで相手次第であり、自分が公に主張するにはそのようなことの出来る立場の人間になるしかなかった。

しかし、ネットではその事情が大きく変わった。だれでも自分個人のサイトを開き、世界中に意見を主張することが出来る。むろん、世界で数億もの人間がおなじ事をしているのだから自分のサイトを見てくれる人は非常に限られている。が、それでもやり方によっては一日に数万人以上の閲覧者がいるサイトはたくさんある。私自身、それほどの閲覧者は居ないとしても、のべ数十万人の目に私のブログは閲覧されている。これは従来とうてい考えられないことだった。

情報を発信すると言っても趣味の発信も有れば政治経済に対する自分の考えを主張することもある。またこのWingbrain委員 会のサイトも、その一つであり、すでに10年以上継続しているのだから閲覧者は延べ数百万に及ぶだろう。

それでも誰もが自分の主張に同意してくれるわけではないし、批判も反論もある。が、自分の価値基準が実際はどのような物か客観的に検証する手段としては、このような公に主張をすることは非常に有意義だ。

また、これとは違い、同好の士と趣味のネットワークを築くのも良いだろう。

ネットだからこそ、一方的に情報を受け取るだけではなく、発信することも大いに利用すべきではないのだろうか。

by ロクスケ












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デジタル生活 通販

最近日本人の購買構造が変わってきていると言うが、確かに従来あった町の小売店は何処も大変なようで、地方都市ではシャッター通りなどが話題になっている。デパートがふるわず、各地に大型電気店、ホームセンターなどが出来ているため、小売店よりも品ぞろいが豊富で割安なこれら大型店が小売店に代わって伸びてきたのだろう。

また、今では24時間営業のコンビニが、宅配の扱いや各種支払いなどを扱うようになり、たしかにコンビニエンス(便利)ストアと言える。従来の小売店が苦戦するのも無理はない。

それと忘れてならないのは通販が拡大していることだろう。従来通販というとテレビ通販や、カタログを取り寄せて発注する形式があったが、今ではなんと言ってもネット通販が非常な勢いで伸びている。

かくいう私もネット通販は非常に利用しているが、なにより近くでは買えない特殊な工具、材料などが簡単に買える。支払いはコンビニで行ったり、銀行振り込み、カード決済、代引きと様々あり、日本全国はおろか世界中から買えるのだから利用しない手はない。

今まで、地球の裏側の国の製品をすぐに買えるなど想像も出来ず、大手のデパートにでも行って見つけるくらいしかなかったのだからネット通販はいわば小売業の革命だろう。どんな品物でも検索して見つけ、それが買えるのだからわざわざ専門店に行く必要もなく探す時間も大幅に節約できるしコストも節約できる。

大手のネット通販会社なら店舗を持たないだけ大幅なコスト削減が出来るし、大量に扱うからその分でもコスト節約が出来る。私のような仕事をしていると本当に助かる。日本の場合は、他国にもないほどの宅配サービスが発達しているのでなおさらネット通販が便利に利用できるわけだ。

つまりネットは通販を利用することで大きく生活を便利にすることが出来るので、これを利用すべきだ。ただし、相手が悪ければ、何処の誰かが分からないだけ始末が悪い。すなわち、詐欺、偽物、不良品などもネットにはあふれているし、それどころかポルノ、違法薬品、銃器など犯罪がらみのものさえある。便利なネットだが、それには十分注意しなければならない。

また、買い物は実物を手に取り自分で選んで買うことに意味がある場合もある。買ってみたらサイズが合わない、イメージと違ったなど往々にしてあるので、それらを安易に通販で買うべきではないだろう。

私の場合、専門店に行かなければ買えないような特殊品を買うことが殆どで、身につけるものは自分で見て選びたいし、場合によっては近くで買える物を高値で買ってしまうことがある。兄が私に、ある特殊な調味料を探して買ってくれというので、探して通販で取り寄せ兄の所へ送るように手配した。しばらくして兄が、近くのスーパーで半値くらいで同じものが売られていた、と言っていた。正確な名前を知らなかったので探せなかったらしい。そう言うこともあるので、近所で買える物かも知れないから、簡単にネットで買うのが良いというわけでもない。

また通販はその場で支払いをしないので知らない間にとんでもなく金を使ってしまうなどもあるようだ。この点も十分考え、事前に良く買う必要があるかないか、優先順位はどうかなどを検討してから買うべきであり、これは一般の買い物でも同じだ。人によっては通販中毒に陥っている人がいるので、そうはならないように自分でコントロールできなければならない。それさえ出来れば、ネット通販は非常に便利で大いに利用し、時間とコストを節約すべきだ。

by ロクスケ











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デジタル生活 報道


これは以前書いた情報取得と重なるところがあるのだが、一般の報道記事に就いて書いてみたい。従来報道と言えばテレビラジオ、新聞雑誌、本、映画あるいは口コミなどだけだったが、口コミ以外は全て一方的に発信される情報を受け取るだけだった。

従来の報道機関は殆どが民間会社であり、つまりは報道自体が商品だと言える。商品であるからには、顧客が求めている物を売り出すのは当然であり、メーカーである報道機関が顧客に真実を伝えなければならないと考える理由は無い。新聞は社会の木鐸とは残念ながら建前と 考えた方がよい。

食品メーカーを考えれば分かる。顧客の健康を考えるなら、塩分控えめ、カロリー控えめ、野菜中心、食物繊維を豊富に、人工添加物を使わず一定量以上は売らないのが本当だ。しかし、現実にはそれとは真逆の食品が市場にあふれ、それは人々がそのような食品を求めるからだ。結局食生活は消費者の自己責任であり、健康を保ちたいなら自分でそれらの食品を制限し、自分で管理しなければならない。

酒もタバコもそうだろう。毒だと分かっていてもそれを求める人間がいれば商品になる。あとは買う方の責任なのだ。

食品についての消費者の責任とは、食品と健康の関係を消費者がきちんと理解している必要がある。

報道という商品を売る報道機関に対し、どの報道が真実なのか、ゆがめられていないか、誇張されていないか、伝えられていない事実はないのか、矛盾はないか、スポンサーの意向に沿った報道に偏っていないかなどは、それを取捨選択する消費者、すなわち報道を受け取る側の自己責任なのだが、食品の自己責任とは違い報道の自己責任についてはその認識が一般的ではない。

報道を受ける側の自己責任とは、受け取った報道の質を判断できるだけの知識が無ければならない。今でも新聞に書いてあるから本当、テレビで言っていたから本当だと思いこむ人が本当に多い。そう言う人に限って、同じテレビでも新聞でも会社によって、時期によって内容が変わり時に矛盾することに気が付かない。一度思いこんでしまうと、自動的に他の情報を排除してしまうのだ。

ネットが普及するに従って、デジタルデバイドと言う言葉が知られてきたが、これは一般的にデジタル機器を扱えないことの不利を被る人と使いこなしてその利便性を利用している人の格差を言う。が、報道についても言えることばだ。

ネットでは先に書いたように殆どが嘘、思いこみ、デマ、宣伝だが商品ではない情報が大半である以上、消費者の好みに合わせて作られているわけではない。膨大な嘘に紛れて真実をつかむヒントになる報道は確実に存在する。ただ、自分で無数の報道、情報に触れて自分で判断し比較し事実とつきあわせて真実を見つけだす能力がいるのは一般情報と同じだ。

私事だが、私は新聞を取っていない。新聞記事はネットで読んでいるし、昔は一週間遅れくらいしか読めなかった外国語の新聞も即日読める。おそらく延べ数十種の報道を読み比べている。テレビも今は観ていないが、情報を得る手段としては全く不自由を感じていない。

報道の受け取り方は人それぞれだが、すくなくとも規制の報道機関の報道は商品であり、消費者の好み、スポンサーの意向によって、さらに報道をする人々の思いこみ、無知によって相当歪んでいるのが普通だと認識すべきだ。そこに必ず悪意やプロパガンダがあるわけではないが、人間の発する報道記事が完全ではない事は最小限理解しておく必要がある。新聞に書いてあるから本当、テレビで偉い人が言っていたから本当だと闇雲に信ずることだけは止めた方がよい。

by ロクスケ












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デジタル生活 同好の士

普通、人は様々な趣味を持っている。それこそいろいろな趣味があり、多くの人が持っているものから、中には何でこんな事をするのかと思える趣味もある。もちろん、趣味は、人に迷惑をかけない限りどんな趣味でもあくまで本人が楽しければかまわないのであり、切手集めや鉄道模型など良く知られた趣味などはそれこそ全国には何万人もいるのだろう。将棋や碁などなら全世界で数千万あるいは億単位いるのかも知れない。

だが、ダニの飼育や、ゴキブリを食べる研究など本人は楽しいのだろうが、あまり吹聴はして欲しくない趣味もある。趣味の良いところは、一切責任を伴わないことだ。仕事なら、失敗したり中途で投げ出したりスキルが貧しいと人に大きな迷惑をかける。が、基本的に趣味では失敗しようと飽きようと、下手だろうと一切かまわないし、趣味である限り誰も利益を期待しないからその意味で何も問題はない。むろん、自分の趣味を他者に強要する落語の「寝床」のような場合は話は別だが、人に迷惑をかけない限り、趣味には何の制約もない。だからこそ、仕事と違い、自分が好きなことにのめり込むことが出来るのだ。

私も飽きっぽい割に色々趣味を持っているが、基本的に一人で楽しむ趣味が殆どだ。が、世の中には、同好の士が集まって技を競ったり、自慢しあったり情報交換をして楽しむ趣味も多い。草野球などは一人では出来ないし、そして試合をするとなれば、自分のチームだけで楽しむことも出来ない。将棋、囲碁なども結局は趣味が高じて全国規模の大会などになったりする。

かつて、このような同好の士を集めるのは大変だった。せいぜいご近所同士の口コミで情報を広げてゆくしかなかったが、ネットが出現して事情は一変した。

なにしろ、せいぜい自分しかこんな趣味は持っていないだろうと思っていたのが、ネットで調べてみるとおなじ事をしている人が見つかったりする。そこから連絡を取って、ネット上で情報交換や、自慢の仕合や、それが講じてくるとオフ会などをやったりする。ちなみに、オフ会とは、日ごろネット上でしか会話をしていない人々が、実際に一カ所に集まって顔を合わせることを言う。

隣近所や新聞ラジオなどのメディアを通じてしか同好の士と出会えなかったのが、ネットを使えば全国規模、場合によっては世界規模で集められる。これは考えてみればすごいことだ。

自分の趣味の輪を広げるためには、是非ネットを活用したいものだ。

by ロクスケ












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デジタル生活 サークル

前回の同好の士のためのサークルに似ているが、ネット上のサークルはむろんそれだけではない。同好の士のサークルの場合、現実にその運営が為される実態がない場合が多く、単にネット上の団体である場合が殆どだが(むろんたまのオフ会などはあるとしても)、今回説明するのは、難病、傷害、社会的弱者問題などで作られた団体を指す。この場合は、現実にこれらの活動をする実態としての団体、事務所などが実在するケースが多い。

したがって、ネット上のサークルとは言いながら、これらの団体はネットを情報交換、公開の場として利用しているケースが多い。なにしろ、例えば国内に少ししか居ない難病患者や家族達が支援を得るにも周りには支援組織や専門病院がないケースが多いし、何処に行けば良いのかを知らせてくれる人も居ない。なにしろ、患者数の少ない病気なのだから。

そのような場合非常に助けになるのがネット上の情報であり、ネットで調べることによりそれらの団体にアクセスすることが出来る。必要な情報を受け取ることが出来るし、何より精神的に大きな支えになる。患者の少ない難病では、ともすれば治療法が見つからないとされ、治療法や薬の開発も進まないのが現状だから、それによる精神的な落ち込みが生じやすい。

患者も家族も孤立しがちである事が多く、さらに自分の症状が何なのかさえも周囲で分かる医師が居ないので有ればなおさらだろう。

そのような時、ネットでこのような団体があることが分かれば非常に大きな励みになる。その団体が居住地から遠く離れていても、近くに同じ状況にある人がいるなどを紹介されたり、あるいは何処に行けば診断が受けられるか、治療や投薬が受けられるかなども知る ことが出来る。

その意味で、ネット上でのこれらのサークル情報は極めて有力だろう。自分がそれらを必要としている当事者でなくとも、もし周囲にそのような状況の人が居たら、情報を集めてあげるなどをしてはどうだろうか。

私の周囲にも難病指定されている症状に苦しんでいる人が何人かいる。そろって高齢者であり、自分でのネット利用は出来ないので、私が調べてあげている。それが結果として役立つかどうかはともかく、当人達が精神的に楽になっていることは事実だ。

by ロクスケ












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デジタル生活 連絡

子どもの頃は、電話のある家はそれほど多くなかったし、それも私の育った田舎では商売でもしていない限り個人の家で電話を持っている家はほとんど無かった。親戚などへの連絡はもっぱらお小遣い目的で私たちがメモを持って走らされたのだが、そのうちに家にも電話が来て相当便利になった。

それから何十年か、電話無しでは商売は成り立たなかったし、個人の家でも電話は生活必需品になった。電話は究極まで進化したと思っていたところへ、ネットが現れ、あっという間に電話を駆逐する勢いだ。

電話で伝えられる媒体は音声だけだが、ネットでは画像、音声、文字、動画などで情報を伝えられる。動画があれば、それこそ百聞は一見にしかずなのだ。しかも近年では様々な手段が開発され、物によってはまったく無料で通信が出来る。

ただし、テレビ電話や動画、画像などのやりとりは双方がネットを使っていなくてはならないが、IP電話は、ネットと通じて一般電話とのやりとりが出来る。しかも距離に関係なく一定料金で、同じプロバイダー同士なら無料でもある。

みんなが携帯電話を持ったために、街角から公衆電話が急速に姿を消しているが、維持費やリスクなどを考えると当然だろう。中には家の固定電話も無くして携帯電話だけですましている人もいるし、それがネットを介して行われるなら、正にネット通信が通常の電話を駆逐してしまっているわけだ。

むろん、今でもネットに無縁で一般電話を使っている人は大勢居る。が、いずれいまネット通信を使っている人は急速に増えており、将来は通常の電話網も消えて無くなるのではないか。

話は変わるが、昔私はアマチュア無線をやっていた。中学生の時に免許を取り、見よう見まねで通信機を自作して見ず知らずの人たちと通信をしていたものだ。今でもアマチュア無線はそれなりに非常に進化して続いている。昔と違い、通信機を自作することはなく、需要が少ないために非常に高額で、とうの昔に私はアマチュア無線を止めた。

それがネットを使い始めたことであたかも昔のアマチュア無線のような楽しみも出てきた。見ず知らずの、顔も住所も名前も知らない人とメールを交わし、画像をやりとりし、時に音声でやりとりしている。

ネットの主目的は情報だろうが、世界中の誰とでも、このように気楽にはなせる魅力も見逃してはならない。ツィッターやフェィスブックなどのような手段は、私は利用していないが、このような通信手段は、ネットがなければ誰にも思いつかない方法だったろう。もし、楽しめるならやってみる価値はある。私は肌に合わないので止めてしまったが。

by ロクスケ











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デジタル生活 ダウンロード

今は動画サイトが非常に発達しており、ご多分に漏れず私も利用している。ありがたいのは物作りを解説したサイトで、これは単なる文書や絵だけの説明とは違い、わかりやすいので助かる。中でも有用と思われる動画は、自分でダウンロードし保存している。

また音楽なども時折ダウンロードして音楽再生機に入れたりしている。また、時には昔の名画などが全編動画サイトにアップされていることがあり、それも作品によってはダウンロードしているが、これらで気を付けなければならないのは中に著作権を無視した違法にアップロードされた物がかなり多いことだ。

そのようなことを考え、ダウンロードした作品は自分の個人的楽しみ以外には用いてはならないだろうし、これを販売するなどはもってのほかだ。

著作権問題は、文学やイラスト、絵画など多くに言えることだが、明らかに著作権フリーな場合以外はやたらに二次拡散するべきではない。あるいは引用が許されている場合もその出展を明示しなければならない。

一部の国などではアニメ、映画、ドラマ、漫画、音楽などが何から何までパクリであることが国際的に非難されているが、パクリを放置することはその国にはオリジナルが育たないことを意味する。オリジナルを作りヒットさせるには相当の時間、エネルギーそして資金、また才能が要るが、それが全て盗まれるならそれらの投資がまったく無駄になる。

日本でも時々違法ダウンロードした物を二次拡散あるいは販売などをして摘発される例があるが、著作権を良く理解していない者がアップロードしている場合が多い。それらの作品を見るのもダウンロードするのも良いだろうが、くれぐれも日本のオリジナル作品発展の芽を摘むような行為はすべきではない。

あくまで個人の楽しみのため、あるいは学ぶためにダウンロードすべきだろう。だが、もしもし正規品があるなら言うまでもなくそれを購入すべきだ。

by ロクスケ












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デジタル生活 詐欺に気を付ける
もう何年来のことだが、私の処には毎日膨大な量のスパムメールが来る。そのままゴミ箱に直行しているが、タイトルだけで景気の良い話がごろごろしている。曰く、「1000万円が当たったので、入金手続きをしてください」「親の遺産6,700万円を譲りたいので受け 取ってください」「ロトで数千万円ならすぐに当たる方法を教えます」、それにナイジェリアなどからは「政府資金を横領して亡命したが、数十億円を管理するのを手伝ってくれれば10%謝礼をする(様々なバージョンがある)」などなどだ。

こんなばかばかしい詐欺に引っかかる人が居るのか、と笑うだけだが、これを何年も続けるためには手間も金もかかるだろう。それでもこの手のメールが絶えないのはそれに引っかかる人が居るからだ。実際、100万通のメールを出すと、2,3人は引っかかるという。

100万通のメールなど、今では自動的に出せるので非常に効率の良い詐欺だと言えるだろう。実際、政府から横領した金を管理する片棒を担ぎに、参加費数千万円を持ってナイジェリアに行き、身ぐるみ剥がされた日本人が居る。

こんなばかばかしい話にひっかかる人が居るのが信じられないかも知れないが、実際あれだけ毎日警告されているにもかかわらず振り込め詐欺に引っかかる人が後を絶たず、しかもその被害額は増える傾向にある。

つまり理論的に考えてばからしいと思うのは、その状況になく冷戦に判断できるときだけで、人間とは案外簡単に理性を失うものらしい。

ネットは非常に便利だが、そのネットを利用してこのような詐欺が拡大するのは、ネットの進歩に人間の判断力が付いてゆかないためなのだろう。詐欺ばかりではない。一緒に犯罪を犯そうとの呼びかけに応えて殺人をする奴もいる。もともとそう言う人間だったのだろうが、中には普段からはまったく想像も出来ない凶悪犯罪をネットで知り合った仲間と一緒に犯したケースもある。

日ごろ顔を合わせ良く知った相手ならその話の中身も冷静に判断出来るのだろうが、ネットは本質的に仮名でのつきあいでその人間の本質はまったく分からない。だから言葉だけでだまされるのかもしれない。常に素性を知らない相手なのだとの認識は忘れてはならないだろう。

by ロクスケ












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デジタル生活 SNS facdbookやtwitter

先頃の参院選では多くの立候補者達がツィッターやフェイスブックを通して自分の政策を訴えたようだ。今では政治家の多くがこれらを利用して毎日自分の思いをつぶやいている。政治家ばかりではない、タレントやスポーツ選手、有名企業などが利用している。そうやってファンや顧客との情報のやりとりをしているわけだ。むろん、一般人もおなじ事をしているし、フォロワーが多い人では数万、数十万、数百万人に及ぶのだから、情報発信ツールとしては極めて効果が大きいと言える。

しかし、良いことばかりではない。この機能を利用してデマを拡散したり、特定の人物のプライバシーをさらしたり、中小誹謗をしたりするケースが、これらツールの普及と共に爆発的に増えている。

個人のプライバシーと共に悪意有るデマを拡散された場合、その標的にされた人の被害は計り知れず、実際にそれを行った人物が警察に捕まったり、裁判沙汰になっている。

やった方は一時の興味、感情でやっただけでそんなつもりはなかったと言うが、それで済む問題ではない。ガソリンスタンドでタバコをすって、爆発事故を起こしてからそんなつもりはなかったと言っても通らないだろう。

つまり被害者の損害もさることながら加害者もそれによって結果的に大きな損失を被ることも多々ある。ツィッターやフェイスブックがなければ犯さなかったような罪を、本の軽い気持ちで犯してしまった、その結果被害者も加害者も人生を狂わせたような犯罪が多発している。車の免許を持っていない子供が軽い気持ちで車を運転して人をひくようなものだ。

それでなくとも最近、同様の機能を使って交流していた若い男女が、それまで親しくしていた少女をリンチで殺した事件があった。顔を合わせての言い合いなら、正確に相手の感情を理解出来たのだろうが、短い文章のやりとりでは言葉の上の罵倒が増幅し合って最悪の事件を引き起こした。使い方を理解しないままこのような機能を使った事が原因ではないのだろうか。

むろん、これらが急速に普及したのは、多くの人々にメリットがあると理解されたからだが、あくまで使い方やその限界を理解した上での使用にとどめた方がよいと思う。

私自身はかつてツィッターもフェイスブックもやってみたが、まったくメリットがあると思えず、さらにどうでも良い日常をその場限りでつぶやく趣味も無ければ、人様のどうでも良いつぶやきに興味を持つこともないので、すぐにアカウントを削除してしまった。

あくまで、自分はそれにおぼれることはないか、流されることはないか、機能をしっかりと理解しているかを確認してから本格的に使う方がよいと思う。

by ロクスケ











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デジタル生活 公的手続き

最近行われた選挙で、初めてネットが解禁され自分のブログやツィッター、FBなどで政権を訴える候補が多数居た。また政党によっては、専門家による民意の分析などをして、それに応えるような発言をするように各候補者に伝えたそうで、確かにその結果が非常に良かったのだそうだ。

閑話休題

ネットの急速な普及により、今まで役所に行ってしなければならない様々な手続きがネットを通じて出来るようになった。良く知られているのは税務申告や特許申請などだろう。将来は住民票、出生死亡届、戸籍抄本謄本、結婚離婚届などなど全ての手続きがネットで出来るようになる可能性がある。もしかしたら、選挙の投票などもネットで出来るようになるかも知れない。

とうぜん、それらには重要な個人情報が含まれているし、本人確認が出来ずにそれらがネットで出来るようになることが完全に防止出来る事を前提にだが、なにしろこれらの手続きは非常に面倒だった。大都市ならそれらの関連機関はすぐ近くにあるが、それでも会社を休み出かけてゆかなくてはならない。まして地方なら一日仕事になる場合もある。ネットで出来るなら真夜中でも家からやっておけばいいのでその便利さは言うまでもないだろう。

公的手続きではないが、試験的に病気の診断などもネットで可能だ。唾液や尿などを予め医療機関に送って置けばそれらに関する検査はできる。採血などは無理だろうが、それでもかなりの検査もできるしオンラインで問診などもある程度可能だ。むろん、触診やX線、MRIなどの診断、投薬、手術など多くは直截医師と接触しなければ不可能だが、現在私たちが病院に通う大半の軽い疾病ならネットで解決する可能性がある。

もちろん、ネットを利用出来ない人たち、すなわちデジタルデバイド問題があるが、今後ますますネットやハードウェアが簡略化し、デジタルデバイドは解消される方向にある。また、上記の公的手続きを使用する年代や環境にある人たちの殆どはネットを日常的に使っていると考えれば、あとは個人情報の完全な保護さえ完成した時点で全てがネットで出来るようになるのが望ましい。

なにしろ人々が都会に集まり地方が過疎化してゆくのは、都会が便利だからだが、何処にいても都会と同じ利便性が得られるようになれば、都会の過密化、地方の過疎化もある程度解消されそれに伴う社会の負担も大幅に軽減されるはずだ。なにしろ、物流はネットと宅配の完備で今では都会と地方の大きな違いはなくなってきている。通信にはまったく問題が無く、金融も問題はない。それによって、地方がだいぶ住みやすくなっているのだ。

ネットによる全ての各種手続きが出来るようになる時代が早く来ればよいと思う。

by ロクスケ












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デジタル生活 メール

別記事でも書いたが、今私が普段使っているパソコンが壊れ、あと何日かは古いパソコンを使わなくてはならない。単に文章を書いたり、ネットを見たりするには別にこれでも構わないが、一番困っているのはCAD(computer aided desigining)が使えないことで、普段はこれを使ってさまざまな図面を描いていている。また、あまり使用頻度は高くないが3DCG作成ソフトが使えない。画像編集ソフトも世代代わりをしているので古いパソコンでは使えない。一番困るのは、表計算が使えないことで、これも代替わりをしているので古いパソコンで使えないのだ。つまりまったくパソコンでやっている仕事ができないのだがしばらく前まではメールも使えなかった。

なんとか苦心してネット検索や文章作成、メールの送受信ができるだけでも幸いだが、このメール機能の回復がことのほかうれしかった。思えば、大昔私が海外の会社との連絡に用いていたのは航空郵便であり、急ぐ場合は国際電報やテレックスを使っていた。テレックスといっても見たことも無い人が増えてきているが、タイプ入力した文章を、電話回線を使って遠方に送り、受信先の機械で紙にその文字を打ち出すシステムだ。これか、後は国際電話をKDDに申し込んでつないでもらい、直接話したか、その後ではファックスができてきてそれがもっぱら使われるようになった。しかし、少し複雑な内容や記録を残したい場合は、航空郵便に頼らざるを得ず、往復1週間が普通で、国によっては返事が来るまで一ヶ月もかかった。

それがネットが普及し、今ではメールが当たりまえになった。文章どころか、写真、図面などの添付書類、そして映像、音声なども添付できる。それも事務所だけではなく、個人の家やスマホなどの携帯端末でも簡単にできる。私が海外と仕事をしていたころには想像もできなかった通信手段だ。それが、今回は一時壊れていて、あせりまくったのが、考えてみれば以前はパソコンの故障に備えて常に予備機を持っていたし、同時の複数のパソコンをネットにつなげていたから、仮にメインの機械がおかしくなってもそれほど困らなかった。が、今は機械が複雑になり高くなり、そうも言っていられなくなったのだ。パソコンはメインと含めて4台持っているが、一番古いノートブックはもう10年くらい前の機械ではないだろうか。これはこれで基本的な操作はできるが、到底仕事には使えない。

また今回のトラブルで、図形や表計算なども使えなくなり、これにもかなり応えている。やはりメインと同等の予備機を常に持っておく必要があると感じた。それほど、私はデジタル生活にどっぷりと浸かっているのだ。

by ロクスケ











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デジタル生活 資料をそろえる

商売柄、私は常に最新の電子部品、機械部品、工具、素材などの情報が欠かせず、昔はそのための努力が大変だった。これらの情報は直接秋葉で調べたり、業界の展示会に行ったり、販売店に聞いたり、あるいはメーカーにカタログを送ってもらったりしていた。

それで、カタログの整理が大変で、私にとっては苦手な作業であり、さらに膨大な量のカタログの保管、整理はほぼ不可能と思っていた。

しかし、ネットが使えるようになってがらりと様相が変わったし、販売店との関係も大きく変わった。販売店との関係を言うなら、大手の会社であれば力関係や購入金額のちがいで相当値引きをして買えるのだが、私の場合は量も金額もたかがしれているので、つきあいの長い販売店だからといって特に価格が有利になるわけではない。しかも新製品については販売店でもその知識を十分に持っていなく、買ってみたら説明と違っていたなどが何度かあった。

ネットが使えるようになって、まずカタログを保管し、整理する必要が全くなくなった。いつでも最新の製品情報を検索で調べることが出来、必要な製品は通販で買う。製品情報をメーカーのサイトで調べ、地域の代理店や専用通販業者から買うのだが、そのような機械工具専門のネット業者は一般の販売店のような在庫リスクなどもないため結構安く買える。場合によってはオークションで買ってもよいのだ。

支払いは前払いか代引きだが、口座を作ると〆支払いも出来る場合もある。むろん街の代理店にはそれなりのメリットがあるのだろうが、かつて代理店のあまりのいい加減さに腹立たしい思いをしたこともあり(街の代理店の担当者には本当に質の低い人がいる)、むしろメーカーの情報の方が完全に信用できることも大きい。

情報収集として私の例のカタログをあげたが、別項で書いたように、料理のレシピ、工作方法、旅行案内などネットから得られる情報は無限だ。すこし範囲を広げれば、英語での情報はきわめて豊富であり、工作方法など英語での情報で得た物は数知れない。

スマホやタブレットが普及してネット利用者は爆発的に増えたが、このような情報収集をこのような端末では十分に出来そうもない。やはり、腰を据えて様々な情報を得ることで、相当の時間、経費の節約になり、仕事や生活の質が上がると思っている。

by ロクスケ












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デジタル生活 文書、図形など
今ではパソコンの最大の使用目的はネットであろうし、そのためにネットに特化したパッド、スマホなどが本来のパソコンに取って代わりつつあるようだ。パソコンは、データ処理に専門化しており、ネット目的でパソコンを使い始めた人々はパソコン離れが進んでいるとのことだ。

なにしろ、データ処理がきちんと出来るパソコンは結構高額だし、しかも使い方が難しい。私が使っているパソコンはそれこそ普及型に毛の生えた程度で、図形処理を必要十分な範囲で出来るように構成を作っているが、もちろん上を見ればきりがなく、パソコンといいながら百万を超える機械はざらだ。

私は仕事で図形ソフトを使うが、それが結構高度な画像処理能力を必要とし、通常型のパソコンではろくに動かない。それは画像処理や3DCGソフトを使うときも同じで、しかも近年のソフトウエアはますます重くなって、一昔前なら今の通常型パソコンで十分だったはずが、今ではそれに特化したパソコンを使わなくてはならなくなった。

が、一度環境を整えると、もう絶対に手放せない。パソコンが出来る前は、図面はすべて手描きだった。大きな製図台を架台にかけ、トレーシングペーパーを貼り付け、大昔ならT定規、三角定規、雲形定規、楕円定規、分度器、コンパスなどを使いながら、頻繁に鉛筆を研ぎつつ、時間をかけて図面を描いていった。設計者が自分で図面を描く場合も多いが、設計者が手書きで殴り書きした物を専門の製図屋さんが、本式の図面に起こすわけだ。鉛筆で書き終えた図面は、墨入れをする。烏口というペンに墨汁をつけながら、鉛筆の線の上から正式に墨汁の線を入れてゆくのだ。文字は専門の製図屋さんなら、実に見事な文字を手書きで書く。

複雑な機械の製図は何枚も何十枚も描く必要があり、それだけで専門家が何人も分業で何日も何ヶ月もかけて描き上げ、それらは青焼きという手法でコピーするのが普通だった。

私は製図屋ではなかったが、仕事上自分で製図をし、そのための道具は今でも持っている。製図板はどこかに行ったが、T定規、三角定規、KENTの 製図器一式は今でも記念にとってある。しかし、出番は全くない。すべて、CADというソフトで、パソコン上で行っている。寸法入れも角度付けもすべて自動でソフトがやってくれるし、訂正もあっと言うまだ。昔は、鉛筆段階なら消して書き直せばよかったが、墨汁で墨入れをした物は基本的に修正が出来ない。全部書き直すかその部分のトレーシングペーパーを切り取って新しく描いた物をはめ込むしかない。透視型のコピーなので重ね描きや貼り重ねが出来ないのだ。そんな苦労もCADなら全くないし、文字も完璧だ。

CADが出来て、おそらく大量の図面屋さんが失業したろう。私が懇意にしていた図面屋さんも仕事を失った。ワープロが出来てタイプ屋さんが失業し、プリンターが出来て、軽印刷屋さんが失業した。画像ソフトが出来て、イラストレーターが大きな影響を受け、3DCGが出来て、アニメ産業や映画産業が大きな影響を受けている。昔は人間がやっていた危険なスタントをCGで済ませてしまうケースが増えたし、実際に巨大なセットを組んで撮影していたのが、3DCGで済ませてしまう。それらの作業が、今では一般人がちょっと専門用に作ったパソコンで出来る。むろん、本格的な物を作るには専門家との差は巨大だが、一昔前ならとうてい考えられないことだ。

図形のみならず、文書づくりも同様で、私も昔は手書きで大量に文章を書いていたし、そのために万年筆や原稿用紙、ノートにこったりしたが、今ではほとんど手書き文字を書いていない。コピーも編集も自由自在だ。

その代わり、パソコンがなければ何も出来なくなってきていることは、先日パソコンが壊れたときに痛いほど理解した。

by ロクスケ












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デジタル生活 オークション
私は仕事で使う道具や機械などをネットで買うことが多いが、時にはオークションで探すこともある。ただし、専門家向けの工具、道具、機械に限る。一般人が出品している品には時に勝手失敗することが往々にしてあり、かつて私も失敗した経験があるからだ。

私は被害にあったことはないが、中には全く展示された物とは別の不良品が送られてきたり、送られてこなかったりのいわば詐欺があるのだそうだ。大手のネットオークションでは滅多にないだろうが、それよりも問題なのは、一般人が出品している物には持ち主がその機能を理解していない場合もあり、そんな物を買ってもし不具合があってもクレームのつけようがない。いわば、顔の見えない相手から買うのだから、相手がどんな人かも分からず、いわば賭のような物だ。

しかし、専門性の高い道具や機械なら出品している人間も専門知識を持っていることが多く、またそれを手がけてオークションに出している人は大体品質も対応も信用出来ると考えている。

このような品は、新品を買うと数量が少ないだけに相当高いが、オークションに出ているものはデッドストックだったり型落ち品だったり、売る人間がきちんとチェックして十分使える中古品だったりする。絶対に失敗しないとは言えないだろうが、何度も買っている相手だと信頼出来るし、そしてとんでもなく安い。

何を買うかは人によるだろうが、品物を実際に手に取るわけには行かないのだから、いくら写真で見たとしても衣服や趣味の品、食品などは買ってみたら全く考えていたのとは違うこともあるだろう。だから、私はそのような物はネットオークションでも通常のネット通販でも買わない。買うとすれば、カタログや仕様書をネットで検討し、自分で判断出来る物に限る。

安いと言っても送料や手数料を考えたら近くで買った方がよいということもあるから、何から何まで通販やオークションで買うことはないが、十分に利用出来るシステムだと思う。

ちなみに最近買った物は、新品だと6万円。それをオークションで同等品ながら中古で十分に使える物を送料、手数料込みで4千円ちょっとで 落札した。この手の品は、劣化しないので何十年でも使える。専門性の高い品で、競合する入札者が居なかったからだ。今すぐ使うわけではないが、滅多に出る品ではないので、非常に得をした気分だ。むろん、あればあったですぐに使うが。

by ロクスケ












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デジタル生活 計算式、各種素材

私も仕事上機械設計をしたり電気回路の設計などをするときはそれなりの計算をする。とはいえ、決まり切った計算式があり、それさえ覚えていれば後は数字を当てはめて計算するだけのことだ。たいていは電卓が有れば済む程度のものであり、大げさな計算式というわけでもない。

が、最近はそれもパソコンを使えば瞬時に答えが出るのでもっぱらそれを使っている。そうなると、計算式自体を忘れてしまっているのに気がつく。なにしろ、条件を入れてやると、その瞬間に答えが出るので、式など意識する必要がないからだ。

各種素材とは、たとえば図形、イラスト、写真などのことであり、これらで著作権フリーの物は遠慮無く使わせてもらうし、場合によっては加工して使う。昔なら自分で一つ一つ描かなければならなかったのだからその効率たるや大変な物だ。楽になり作業も早くなったが、自分で格納力は完全に落ちた。これは驚くほどだ。

たとえば誰もが言うことだが、電卓が出来て暗算能力が極端に落ちたとか、漢字が書けなくなったとか、甚だしい場合は、文字がスムースにかけない、文章が書けないという人もいる。昔は何人もの電話番号を覚えていたが、今は自分の番号さえおぼつかない。昔はいろいろな用件を覚えていたが今はPCやスマホを見なければ思い出せないとの自覚がある人がたくさん居る。

人間楽をすると努力をしなくなるし使わない能力は退化する。これを廃用症候群というが、身体だけではなく、知能でもおきる。つまり便利な道具に頼りすぎると脳が使われなくなり、脳の機能が衰えてくる。最近ではこれをデジタル認知症というそうだ。

計算式や素材のことからつい脇道にそれてしまったが、私自身簡単なことでもPCに頼るようになり、例に挙げた計算式が書けなくなっていたり(これでも困らないから問題なのだが)、漢字が書けなくなったり図面が描けなくなったりしている。PCがある間はそれで不便を感じないが、もしPCが壊れたらお手上げなのはつい先日経験した。やはり私もデジタル認知症になっているのかも知れない。

by ロクスケ












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デジタル生活 ネット依存症

関西に住んでいる友人が最近パソコンがクラッシュし、困ったと言っている。彼は、今では会社を定年退職し、社会奉仕活動で毎日忙しく動き回っていて、その関連でパソコンをよく使っているのだそうだが、日頃自分ではパソコン依存症ではないと思っていたのに、いざパソコンが無くなってみると、10日間ほどの間だが非常に不便だったと言っている。

私は彼に比べて明らかにパソコン依存症であり、ネット依存症だと自覚している。それは先頃やはりパソコンが壊れ、予備のパソコンを立ち上げるまでおよそ5日間でもまるで身もだえするような禁断症状に苦しんだ経験でもわかる。幸か不幸か、そのときは予備パソコンが無かった。常に3台のパソコンを持っているのが普通だったが、OSの切り替えを機に一台をばらし、一台はほったらかし、一台は蜘蛛の巣が張っているような状態だったのを、何とか一台を組み立て予備に当て、その間に新しい部品を発注して自分でメインパソコンを組み立てたのだが、パソコンがクラッシュするまで、自分がそれほどの依存症になっているとは思っても居なかった。

これが良いか悪いかは一概には言えない。明らかに私は本を読む量が激減しているが、実際はネットで本をダウンロードしているし、ネット上で様々な情報を得ているので、これは本を読まなくなった代替行為だろう。実際新聞も取っていないしテレビも見ないが、昔より得ている情報量は確実に増えている。なにしろ、昔はやっていなかったニューヨークタイムス、ワシントンポスト、ル・モンド、デル・シュピーゲルなどの記事も日常的に読むように なったのだから。

今、パソコン依存症と言われる症状として、ネトゲ、ツィッター、フェイスブック等々があげられ、一日中ネットから離れられない人間が激増しているのだという。

何を以て依存症というのかは分からないが、技術発展により新しい物がもたらされれば人はそれに依存する生活に切り替えてゆく。今の人々は、冷蔵庫、テレビ、自動車、電話、電気がなければ生活が出来ないだろう。これを依存症と言うだろうか。

一日中ほかのことをしないでネットゲームやスマホにかじりついているのは依存症だが、生活を便利にするためにパソコンやネットに依存するのを果たして依存症というのだろうか。私はそうは思わない。

by ロクスケ












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デジタル生活 ネットショップ出店
私はよく通販を利用する。むろん、自分で手にとって目で見て選ばなければならないものは直接店で買うしかない。衣類や履き物、食べ物などはそうするが、カタログなどで性能仕様が分かるものはネットで買う方が便利だと言える。一番大きなメリットはとにかく安いことだろう。ネットでは在庫管理などが簡単で、テンポスタッフなども要らないのでその分が安くなるだろうし、大量仕入れで安くなる分もある。送料や支払い手数料などがかかるが、有る程度の金額ではそれらがかからない場合もあるし、店で買うにしても大型品は結局送ってもらうし買いに行くにも交通費がかかり時間を取られるのだから、ネットで安い商品を探して買うのが一番楽だしやすくつくと思っている。

ということは、売る方にも大きなメリットがあり、最近では一般人がネット上で物を売るケースが増えている。いわゆるネットショップであり、大手の業者がそのサイトを公開している。業者によって有料だったり無料だったりしているし、個人がやっている場合もある。

個人の場合手作りの趣味の品だったり、自分で並行輸入したものだったりする。個人だから、支払いのトラブル、アフターケアなど不安もあるだろうが、なじみの客がつけば結構うまく行くそうだ。そうなると、一般商店と違い日本中に顧客が居るようなものなので、やりようによっては相当な収入になるし、これを専業としている人もかなりいる。ようするに常連客をつかめさえすればよい。

誰にも出来ることではないかも知れないが、もし自分の趣味で自信があったら業者のサイトに登録してみるとか、あるいは自分でショップサイトを開いてみても良いのではないか。とにかく運営コストがかからないのが何よりうれしい。店舗も要らず、スタッフも要らず、そしてものによるが在庫がいらない。

カタログだけで注文を取り、注文を受けてから商品を手配するやり方もあるのだ。しかし、当然ながら運もいるし手腕もいる。誰もが成功するわけではないが、そうやって小遣い稼ぎをしている人も事実いるのであり、やるやらないは別としてもそういう手段があることは知っていても損ではあるまい。

by ロクスケ












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デジタル生活 商品モニター、クイズ、応募
世の中にはネットで小遣い稼ぎをしている人がたくさんいるらしく、主婦が片手間にかなりの収入を得ているなどのニュースがテレビなどで取り上げられているらしい(私はテレビを観ないので人の話だが、以前は観た記憶がある)。様々な方法があり、前回書いたネットショップなどもその例だろうが、もっと手軽に出来るのが商品モニター、クイズや各種アンケートの応募でもらえる商品、賞金なのだそうだ。

昔テレビで観たのでは、ある奥さんが毎日十数枚程度のはがきで方々のクイズやアンケートに応募することで、様々な賞品や商品券などをもらっていると言っていた。そのために無料で配布されているタウン誌などを集めたり、テレビを毎日欠かさず見続けて募集の情報を集めるのだそうだ。

確かにそれで家電製品や商品券をもらえるなら良いだろうが、そのためにテレビをずっと見続けるなどかなり時間が必要だろうし、好きでなければ出来ないだろうと思った次第だ。

ちなみに私の姉は方々の新聞に投書をしたり、短歌を投稿して結構採用され、図書券や少額の為替をもらったりしている。小遣い稼ぎと言うより、ぼけ防止だと言っていたが、昔国語教師をしていただけあってそのような文章を書くこつをつかんでいるのだろう。

近年はネット上でそのようなクイズ、アンケートが方々にあり、それで応募をして小遣い稼ぎをしている人がかなりいるそうだ。確かに商品を見ると車が当たるなどまであり、結構馬鹿にはならないのだろう。ただし、ネットでの回答は誰もがしやすいため当たる確率は相当低く、時間の割に得られるものが本当にそれだけの価値があるのかとは思う。さらに、応募の際に求められる個人情報が漏れる可能性もあるだろう。

それらを考えた上で、そのような小遣い稼ぎをするのも可能だということだ。

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デジタル生活 資産管理、投資など

私には管理するほどの資産など無いが、世の中には手持ちの資金を株やFXで運用し、億単位の金儲けをしている人の話がよく報道される。億単位は、それこそ365日24時間やらなければならないし、それだけリスクも大きい。

折から日本の景気が持ち直し、株価も相当上がっているが、それに乗じて数百万単位でもうけたという人はそれなりにいるそうだ。ただし、もうけた話は大々的に報道されるが、もうけた人がいるとは損をした人もいるわけで、そのような人たちのことは報道されない。つまりは、株や投資では損をするのが当たり前なのではないかと思う。

今は株の売買もコンピューターがする時代で、瞬時に売買が自動的に出来る。したがって、何も考えずにコンピューターに株の売買を任せている人も相当数存在するのだそうだ。私はとうていそのような事をする趣味もないし、興味も持てない。私は興味の持てないことは全く集中出来ないので、最初からネットによる株の売買、投資などはしないが、出来ると思う人は検討してみても良いのかも知れない。

ただし、素人がやってみるなら、無くしても生活には影響のない一定金額だけで運用し、損をしてもそれを取り戻すためにさらに投資をするような事はしない方がいいだろう。中には借金をしてまで投資をして、焦ったあまりに危ないものに手を出し、にっちもさっちも行かなくなるケースがあると聞く。

あくまで自分の責任でやるのだが、仮に10万円で始めて、それが運良く100万円になり、さらに続けたらその100万円が消えて無くなった場合でも、損をしたのは100万円ではなく、最初の10万円なのだと納得出来るなら、やってみても良いのではないか。そして10万円が20万円になったとき、最初の元金10万円を取り除いておいて、残りの10万円で投資を続ければ、仮にその10万円が消えても元金は残るというやり方だ。さらに投資した10万円が20万円になったら、そこから5万なり10万を元金に加えておけば、気が楽だろう。それで儲けがでるなら十分であり、掛け金を摺っても気は楽だろう。要するに余裕のない金で投資はすべきではないと言うことだ。自分でやりもせずに偉そうなことを書いたが、素人ならその程度で納めておいた方が無難だろう。運が良ければ大もうけが出来るのかも知れないし。

by ロクスケ












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個人情報 今回は趣旨を変えて、小説で書いてみた
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六次の隔たり
 パソコンで何かを見ていた敦子が、ソファの背もたれに寄りかかって缶ビールを飲みながらテレビを観ていた夫の山内周三に言った。
「ねぇ、あなた、私たちが本当は結婚する前から関係があったって知ってた?」
「いや、知らないよ。そんなこと無いだろう。俺は北海道の出身で、君は沖縄の出身で、先祖代々それぞれの土地にいたし、俺たちが初めて東京に来て、俺がたまたま道路でハイヒールの踵を折って困っていた君に、たまたま持っていた商品サンプルのスニーカーを上げたことからつきあいが始まって、去年結婚した。それまで、俺と君の接点なんか、全くないよ」
「わたしもそう思ってたの。でもね、色々調べてみたら面白いことが分かったわよ。あなたのお父さんが勤めていた会社の東京本社で同僚のある人が佐渡島に遊びに行ったとき、温泉旅館で女風呂を覗いてつかまって、あ、これは示談が成立したから警察沙汰にならなかったけれど、その時覗かれた団体客の女性が沖縄出身で、その人はわたしのお母さんのお姉ちゃんの親友だったんだって」
「なんだそれ。そんなことがネットで分かるのか。分かったとしても、そんなの関係があるって言えないよ」
「夢がないわねぇ。私たち、生まれる前から縁で結ばれていたって、どうしてそう思えないの」

 周三は笑い出した。敦子にはそんな子供じみたところがある。とはいえ、まだ二十三才だ。三十才の周三から見ればまだ子供みたいなものだが、そこがまたかわいい。何しろ結婚して一年だ。楽しい最中なのだ。敦子がそう言うならそう言うことにして置いても良い。
 「分かった分かった。不思議な縁だな。俺たちは、出会うべくして出会ったというわけだ」
「ね、ね。そうでしょ。だから、わたしあなたのことが好きになったんだわ。だって、あなたに会う前も何百人、何千人もの男の人を見たわけだし、中にはちょっと仲良くなった人もいるけれど、でもあなたを最初に見たとき、ほんとうにわたし、この人と結ばれるんだ、って直感があったの」
「そうか。それは初めて聞いた。なるほどなぁ」
周三は、ソファに移ってきた敦子の肩を抱いた。

 次の日、昼食時間、周三は敦子の作ってくれたサンドイッチを頬張りながら、ネットで昨日敦子が言っていたサイトにつないでみた。”六次の隔たりチャンネル”というサイトで、自分の名前、住所、簡単な来歴、家族構成、勤め先、友だち関係などを入力すると、特定の誰かとどのような関係があるかを調べてくれるサイトだ。どんなに無関係と思われる人間同士でも、その間に六人を仲介すれば関係があるとされている事実を調べてくれるのだそうだが、つまり、個人情報が全て丸裸になる。敦子はこんなサイトにアクセスしていたのだ。笑い事では済まない。

 敦子が子供っぽいとは思っていたが、ネットに個人情報を流したことでいろいろな犯罪に巻き込まれたりだまされて金を取られたりがさんざん問題になっているのに、まさか、敦子がこんなサイトに個人情報を入力していたなど、さっそく敦子にきつく言い渡して置かなくてはならない。周三はすぐに携帯で敦子に連絡を取ろうとした。しかし、電話はつながらなかった。敦子が勤めている会社ではもしかしたら携帯の電源を入れる事が禁止されているのかも知れない。敦子は受付をしているが、もちろん、仕事中に携帯に出ることは出来ないはずだ。仕方がないから、家に戻ったら敦子に言って聞かせるしかないと思った。

 「なんです、山内さん。そんな難しい顔をして」
隣の同僚、村木和男が声をかけた。周三の三年下の後輩で、いわば周三と一緒に仕事をしている相棒だ。なかなかいい男で、私生活では結構派手だと聞いている。まだ独身だが、色々女性関係が取り沙汰されている男だ。この会社の重役の一人が叔父さんだとかで、遊び半分の仕事でもちやほやされている。人間自体は悪い奴ではないので、周三は別に反感は持っていない。
「ああ、このサイトだよ。個人情報が丸裸になるサイトだ。今時、こんなサイトにだまされて、個人情報を言われるままに入力する奴が居るんだなぁ」
「これね。僕も知ってますよ。今は小学生や中学生なんかが親の名前から会社名、収入、交友関係などなどなんでも入力してしまうみたいですねぇ。でもね、山内さん、考えようによっては、僕たちの個人情報なんて全部丸裸になってネット上に溢れて居るんですよ」
「まさか」
「だって、山内さんだって家や車のローンを組むときなんかかなりの個人情報をローン会社に証しているわけだし、結婚したときも役所にそれなりの個人情報を伝えている。そして、子供が出来れば、その子の全ては役所や、病院、保育園、幼稚園、学校関係のコンピューターに全部入れられちゃうじゃないですか。だから、何百万人もの個人情報が、CD一枚に入っていて売買されるんだし、実際にそれで被害が出てますよ。こんなサイトで驚いていた ら、生きていけませんよ」

 言われてみて、周三はその通りだと思った。一旦個人情報がネットに漏れると、様々な情報を組み合わせあっという間に一人の人間のありとあらゆる情報が、本人の知らない分まで含めて明らかにされる。それがコンピューター社会に生きている現代人の宿命なのだ。

 周三は、敦子にきつく言うのは止めることにした。それでも、出来るだけ気を付けるようには言わなくてはならない。
しかし、帰った周三を待ち受けていた敦子の口から、思いがけない言葉が飛び出した。
「ねぇ、あなた。別れて。わたし、間違っていたことが分かったの。あなたのお母さんの友だちの弟が、私のお父さんの同級生のお母さんの弟をロサンゼルスで殺したのよ。こんなの許せないわ。そして、わたし、あなたの会社の村木和男さんとはあなた以上に強い絆で結ばれていることが分かったの。たった三人しか離れていないのよ。私のお父さんの前の奥さんの子供だったの。だから、あなたと別れて、村木さんと一緒になるわ。さっき、電話で村木さんと約束したの」

by ロクスケ











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デジタル生活 ウィルス


マイクロソフトのOS XPのサービスが今年四月に終了になるとのことでかなり話題になっている。このサービスとは、オンラインでOSの更新を意味するが、通常OSの不具合を改善する為の更新と、さらに大きな意味はウィルスに対する対策だ。

今、ウィンドウズは7が多いのだろうが、すでに8への移行も進んでおり、これらは定期的なオンラインでの更新で常にOSの不具合の修正とウィルス対策が行われている。

言うまでもなくウィルスはネット経由で送り込まれてくるのでネットにつながない限り関係はない。むろん、USBなどでも感染するが、基本的にXPでも単なる事務処理などに使いネットにつながず、USBメモリーなども自分だけで使うなら支障はないので、心配することはない。

ところで、W7や8はサポートがあるので安心かと言えばむろんそうではない。ウィルスは常にワクチンに専攻して造られているので、ワクチンが出来ると言うことはすでにウィルスが実害を及ぼしていると言うことであり、ワクチンが効かない場合も考えられる。それだけ、ウィルスは日進月歩であり、そのために情報を盗まれたり、なりすましの被害にあったり、ブログやSNSを乗っ取られたりする。また、データを破壊されるなどもあり得る。

その対策としてとにかくウィルス対策ソフトは必ず入れておくことと、相手の分からないメールは開かない、怪しげなサイトにはアクセスしないなどが肝心だろう。時にはまともなサイトの振りをして有害なサイトに誘導されることもある。

またあやふやなフリーソフトをインストールしないことだ。安全と確認されているフリーのアプリ、たとえば、アドビとか、グーグルなどは安心だろうが、聞いたことのないあるいは訳の分からないソフトを例しに入れてみるなどは厳に慎むべきだ。実際に出所の分からないフリーソフトをダウンロードして乗っ取りウィルスに侵入され、なりすましで脅迫メールの犯人にされ逮捕された事件も記憶に新しい。

また、最近では中国系のフリーの文字変換ソフトで、入力内容がすべて中国に送られているなどの警告が出たケースもある。

私はファイヤウォールソフトを入れているが、それでもウィルスの侵入を許し、対策ソフトが処理していることが何度もある。パソコンの動きがおかしくなったり、起動しなくなったりなども経験している。

ウィルス感染には最大の注意を払っておくべきだ。

by ロクスケ












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デジタル生活 素材販売 写真、イラスト

最近はパソコンの記憶メディアの要領が非常に大きく、私のPCもメインのHDDは2GB、バックアップ用も同じく2GBであり、数え切れないほどの画像、動画、音声ファイルなどを入れている。ネットの転送速度も速いだけあって、殆ど意識しないで大量の大型ファイルをダウンロードや制作をしているのだが、私がパソコンを始めた頃の記憶メディアと言えばカセット録音テープだった。最初に買ったHDDが、確か5MBくらいだったと思うし、メインの記憶メディアと言えばフロッピーディスクだった。容量は、記憶だが3.5インチで640KBくらいで、後に1.44MBだった。その前の8インチ型や5.25インチの紙製ジャケットのものは、100KBに多少毛の生えたくらいだったと記憶している。

もっとも、当時はネット上に画像も音声どころか動画なども無かったからそれで用は足りたのだろうが、今では100,200MBではOSもインストール出来ない。

話がだいぶそれたが、結局今は爪の先ほどのSDカードで映画などは余裕で録画出来るのだから、ついつい目に付いた画像や動画をため込んでしまう。ため込んだそれらを見ることはほとんど無い。ちょうど録画したテレビ番組は二度と見ないのと同じだ。

簡単に入手出来簡単に保存出来ると、これらのありがたみなど全くないのだろうが、しかしそれでも有料の素材などが売れるとのことだ。サンプルなどを見ると、確かに画質がよく、構図もよく、プロが精魂傾けて造った画像なのがよく分かる。画像や映像だけではなく、文章もまた有料で配布されているケースがある。これも売れる作品は相当売れているとは聞く。

もし、自分に写真やイラストの技術があってそれをネットで売れるならやってみても良いのかも知れないと思ったことがある。私自身にはそんな技術はないが、一般人がUPしているものとプロが造った物の出来は明らかに違う。またセンスがあれば、素人でもかなり作品が売れるようで、女子高生の写真が話題になってプロになってしまったなども聞く。

ネットの楽しみは、こういうところにもあるのではないだろうか。

by ロクスケ












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デジタル生活 ハードウェアを造る


いま家電店などをみると、少し前まで豊富にあった本体が独立したデスクトップ型のパソコンがほとんど無くなり、大半がノートブックか、モニターと本体が一体になった小型のデスクトップしかない。が、ネットサーフィンくらいならこれでも間に合うのだろうが、やはり自分なりの目的で使う場合これでは役立たないので自分で造ることになる。

自作パソコンなら、専門店には様々な部品が並んでおり、その気になれば自分で組み立てることが出来る。PCを自作するのは案外簡単であり、中学生でもやっている。自作パソコンのメリットはなにより、自分専用の仕様で作れ、部品の使い回しが出来ることにある。地方などではこのような自作パソコンの部品を扱っている店はほとんど無いが、今では通販で色々買えるので問題はない。自分で造ったパソコンなら、故障したときに原因を見つけやすく、自分で修理が出来る。

ただし、私自身は何台も自分で造ったが、今使っている物はBTOと呼ばれる特注品だ。色々検討した結果、それまで使っていたパソコンの部品の使い回しではちょっと対応出来ず、いっそのこと特注品の方が安いと思ったからだが、メインがダウンしたときの予備は部品使い回しで全て新規の部品を買わずに組み立てた。

非常にメリットのある自作パソコンだが、上記のようにメリットだけではなくデメリットもある。まず、自分に知識がない場合は手も足も出ない。パソコンがどうして動くのか、そのためにはどのような部品が必要か、どのような組み合わせが出来るかなど最低限の知識はどうしても持たなくてはならないが、言い換えれば故障したときの対処が自分で出来るということでもある。

今自分でパソコンを造るとすれば本体が独立したデスクトップと言うことになるが、その場合必要な部品とは、

CPU
CPUクーラー
マザーボード
電源
RAM
ハードディスク
CD/DVD ドライブ
ケース

オプションとして

グラフィックボード

あたりだろう。

私の場合だが、条件として最初に決めておくのは、OSに準拠していること。自分が今まで使っていたOSが使えないとなると、各種ソフトウェア、それによって造ったデータ、周辺機器が使えないことになる。

私はCADやCGなどをやるので、それが十分に使えるだけのグラフィック機能が必要不可欠になる。そのためには、高速のCPU、十分なRAMメモリ、ハードディスク、そしてそれなりの能力を持ったグラフィックボードが必要になる。

すると、まず、CPU、CPUクーラー、マザーボード、グラフィックボード、RAMなどの順に選択し、それらが全て適合することを確認する。そして、それらを十分に動かせる余裕を持った電源を選ぶ。ケースはそれらを十分に収納出来るサイズにする。

後はドライバー一本で組み立てるだけで、多分2時間も有れば十分だが、慣れなければ半日かかるかも知れない。完成したら接続ミスなどを十分にチェックし、特にCPUがきちんと着いているか、CPUクーラーとはちゃんと密着しているかなど何度も確認してから、モニター、スピーカーシステム、キーボード、マウスを接続し、電源を入れてOSのインストールをする。その際、ハードディスクをどのように分割して使うか、OSのバックアップをどう造るかなども事前に決めて置かなくてはならない。

OSのインストールもおそらく2,3時間と言うところだろうか。それから自分が使っているソフトウエア、たとえば文書、ワープロ、表計算などなどをインストールしてから、ネットにつなぐ。ルーターを使用している場合は自動的につながるが、そうでなければ自分でIPなどを確認しながらつなげなければならない。

それが完成してから好みのブラウザを選択し、メールソフトを設定してメールが使えるようにする。また忘れてならないのはウィルス対策ソフトのインストールだ。また、今まで造ったデータなどもダウンロードしておく。

大体それで完成だが、おおよそ一日がかり、慣れないと2,3日かかる。最初にネットに接続すると、シャットダウン時に膨大な更新プログラムの実行が始まる。まあ、これは寝ていても出来るので、放っておけばよい。

かくしてめでたく自作パソコンが完成するのだが、最初からうまく行くとは限らず、やはり身近にパソコンに詳しい人がいれば心強い。また、事前にネット利用などでトラブル対策などの知識も仕入れて置かなくてはならないし、頻繁にパソコンショップに電話をしなければならないかも知れない。言うまでもないが、自作パソコンについての本なども読んで置いた方がよい。

面倒くさいかも知れないが、一度成功すれば何度でもやりたくなる、それほどおもしろいことは確実だ。

by ロクスケ











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デジタル生活 パソコン、ネット以外

今までパソコンのことばかり書いてきたが、現代ではデジタルはありとあらゆる電化製品に使われている。それこそ、洗濯機、電気釜、掃除機、エアコンなどなど、さらに電車、車、自販機などなど、それこそ電機を使っていながらデジタルと関係のない製品を探すのは難しい状況だ。

が、私がここでデジタル生活と言うからには、それらの一般製品ではなくあくまで生活に積極的に利用出来る製品に限る。例えばデジカメ、携帯電話、スマホ、ICレコーダー、電子メモ、プリンター、スキャナー、音楽プレイヤー、ビデオカメラなどなどいくらでも思いつくが、今回はそのうちのデジカメを取り上げてみたい。

私が使っているデジカメは、おそらく数年前に買った画素数7メガの今ではなかなか見つからない古い機種だが、私の用途には十分答えてくれるので買い換える理由がない。ただし、携帯電話にも今のカメラ機能は画素数ではそれを上回っているが、携帯電話のカメラを使うことは滅多にない。

むろん、デジカメといえども今ではプロ使用の一眼レフカメラなどが数十万で売っているが、私は写真を撮ること自体が趣味でもないのでそのような機種には興味がないが、常に持ち歩きいつでもシャッターを押している。以前も簡易カメラで思いつくままにシャッターを押し、現像に出していたが、デジカメだと数千枚以上の画像を撮れるし動画も撮れるので私の用途には十分だ。

私の用途とは、メモであり、路傍で見た小さな野草だったり、雀の餌争奪戦だったり、人なつこい猫だったり、きれいな夕焼けだったりありとあらゆる物を撮っている。が、気が付いてみたら、撮った写真はそのままで整理はおろか見返すこともしていない。

本当に記憶にとどめたい物は写真にとっては駄目で、あくまで自分の目で見て脳裏に焼き付けなければならないと痛感した。思えば、子供の頃目に焼き付けた風景は未だにありありと思い浮かべることが出来る。国内外様々な場所に行ったが、感動した風景は未だに目に焼き付いている。

カメラに撮ることにどれだけの意味があるか最近考えている。

by ロクスケ











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デジタル生活 ブックスキャナー
最近は電子書籍が非常に増えてきて、私も利用はしているが、電子書籍として手にはいるのは最近出版された本に限るか、あるいは青空文庫などでテキスト分になった物を利用することになる。しかし、本来電子書籍の最大の利点は、場所を取らないことのはずだ。それに持って歩くにしても紙の本なら一冊か二冊を鞄に入れるだけで精一杯だが、電子書籍ならそのリーダーの中に数百冊、千冊以上の本を持てる。

私も結構本を買い、今では部屋一つ占領するくらい有るが、それでもかつてかなり処分したのだ。それでも読みたい本は手持ちの中にもたくさんある。これらが電子書籍なら、リーダー一個に収まるし、おそらくメモリーカード一枚に収まるのではないか。問題は、紙の本は電子書籍ではないことだ。

昔から本をスキャナーで読み込み保存する方法はあったが、なにしろ昔のスキャナーは非常に読みとり保存スピードが遅く、一冊の本を読みとるのに膨大な時間がかかったので、実際は殆ど其の方法は採れなかった。

その後で私がやった方法は、本を120度くらいに開いてクリップでページを押さえ、そのままの形で左右からデジカメで撮る方法だった。デジカメの撮影速度はスキャナーに比べ無視出来るほど早く、また最近のデジカメの画素数は1600万画素などという物が数千円で買える時代だ。それくらいの画素数であれば十分に細かい活字でもくっきりと撮影出来る。

この方法だとかなり厚い本でも撮影出来るし、その画像のまま電子リーダーに保存出来る。これはまた、近年の記憶メディアが桁違いに大きいために画像ファイルで保存しても十分に余裕があるからだ。

実際は、このためのスキャナーがかなり前から市販されていた。非常に高速で自動的に画像のゆがみを補正してくれる機械が、私が知る限り最も早い物が300万円ほどした。到底買えないし、それに、最近までブックスキャナーと言えば、一端本をバラバラにしてページ一枚一枚を読み込むしかなかった。

しかし、技術の進歩はすさまじく、最近ではとりあえずブックスキャナーと称する物が数万円で買えるようだ。だが、ページめくりが自動であるわけが無く、結局手間がかかるのはデジカメで撮影するのとあまり大差がない。ページめくりが自動で出来る物こそ、ブックスキャナーと呼べるのではないだろうか。

そこで、例しに設計してみた。設計しただけで作ったわけではないが、上記の、本を120度くらいに開いて真ん中の変形を押さえ、ページ一枚毎をガラス板で押さえ、左右のページをそれぞれ撮影し、終わったらガラスをはずしてページをめくりまたガラスで押さえて撮影する。この動きが自動で出来れば良く、それほど難しくはなさそうだ。同じ事を考える人は世界中にいるし、それを作った人も相当居る。動画でそれを紹介している人も多い。

それぞれ一長一短があるが、結構役立ちそうな物が多い。おそらく私も自分で作れるのではないかと思ったのも当然だが、本当に作るかどうかは分からない。作ってみたいとは思うが。

by ロクスケ












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健康を得るために 運動

新しいタイトルで書いてみることにする。実は健康問題については、以前健康維持のためにと題して書いたので重複する部分もあるが、以前から続けてきてさらに気がついたことなどを書き足す意味で、新しいシリーズとした。

そこで、私が今一番気を付けている運動から取りかかる。

運動が健康のために必要なのは言うまでもなく、実際にそれを習慣にしている人は大勢居る。また多少の問題、例えば肥満、高血圧、心肺機能低下なども適切な運動を習慣化することで確実に改善するし、また脳の機能も改善される、例えば痴呆症の改善につながるなど運動の効果は枚挙にいとまがない。

どのような運動をどのようにするかは年齢や体力などで決めればよいが、無理なく疲れない、そして運動の後痛みや苦痛が残らない程度で、普段より負荷をかける運動なら大体効果があるし、それも有酸素運動、つまり、激しい運動ではなく持続的な物で、最も簡単で効果的なのが歩くことと普通言われている。

歩くのも一定の速度で決められた時間続けなければ意味がないと昔は言われていたが、そんなことはなく出来るときに出来るだけ歩くだけでも違うし、細切れでも良い。やらないよりはよいと言う程度だが、何かの目的で出来るだけ健康になりたいというならそれなりに時間をとり、決めた目標の時間、速度で歩く方が結局は長続きするようだ。

さて、これは健康改善のための有酸素運動なのだが、運動の目的は他にもある。柔軟性や機敏性、筋力を付けるための運動であり、これも極めて大切だと考えるべきだ。運動をしないと次第に体が固くなり、知らない間に転びやすくなったり躓きやすくなったり、そして転んだ際に体をかばえなくて大けがをすることになりかねない。また、知らない内に筋力が衰えれば、家事労働さえ出来なくなる。

私の場合も気がついたら何かに掴まらなければ靴下が掃きにくくなっていたり、家の中の何でもない段差に躓いたりするようになった。つまり体が固くなり、バランスが採りにくくなっている。

そこで、しばらく前から柔軟体操をするようにした。自分の体で堅くなっている関節を伸ばすように小心がけたが、2,3週間で結構効果が出てきた。 もう3ヶ月くらい続けているが、かなり手応えを感じている。体が柔らかくなればそれだけ自由に動くので、それだけでも楽しいし、転んで怪我をするなどの危険性も減る。

同じくダンベルを持って筋力を付ける運動もやり、知らない間に3回程度しか出来なくなっていた腕立て伏せが何とか10回出来るようになった。30回は出来るようにしたいし、なんなら100回を目指したい。筋力を付けておくこともまた出来ることの範囲を広げるし、これもそれなりの運動で効果がある。

本来ならジムにでも通って計画的にやるべきだろうが、私は気が向いたら何分かでもやることにしているし、何回でも繰り返す。それでもそれなりに効果があることは実感している。有酸素運動と同じだが、やりすぎはいけない。痛みや疲れが残るようなら逆効果だし、何かの疾患を持っているなら医師との相談は欠かせない。

少し今年は畑仕事をして野菜の自給率を上げたいと思っているので、そのためにも柔軟性と筋力を付けておきたいと思うわけだ。なにしろ、体が自由に動き、やりたいことが出来るなら精神的にもかなり効果的であることを改めて知った。

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健康を得るために 運動ー2

私が今までやっていた運動は、有酸素運動であり、つまりはウォーキングだが、もちろんこれだけでも結構効果はある。が、前回書いたように、筋力運動や柔軟運動も非常に大切であることを最近痛感した。まず体が本当に固くなり、先日前屈で指先が床から30センチも離れていることに愕然とした。これは一週間ほど前屈をやったところ、今では床から10センチくらいにはなったが、昔は手のひらが床に着いたのだ。道理で、靴下をはきにくくなったとか、やたらに物に躓くようになったなど、明らかに体の老化が固さで現れている。これは、転びやすくなりしかも体をかばえずに大けがをする可能性が高まっているのであり、命に関わる。幸い、柔軟性はかなり短期間で取り戻せるので、あわてていま柔軟体操をしているわけだ。ただし、骨や関節に異常のある場合は下手なことは出来ないので、その傾向がある人は医師との相談を厳重に行い、できれば専門家の指導を受けながらやるべきだ。

決して無理をしない、弾みを付けない、背中を押してもらうなどの強制的な力を掛けない、痛みなどが残るようだったら止めるなど、十分注意した上で、私がやっているのは、前屈、上体のねじり、体側への曲げ、あとは椅子に足を上げて体を倒したり後ろへ反ったりなどだが、ゆっくりと行い、筋肉が十分伸びてちょっと気持ちが良いくらいの軽い痛みを感ずる程度、姿勢を戻せば痛みが残らない範囲で行っている。一回5分程度、人目がなければ散歩しながらでも出来る物がたくさんある。これを一日二三回繰り返すだけで、早くも一週間目くらいから効果が実感出来る。

また筋力の衰えも体の動きが緩慢になったり生活に支障がでたり、また筋肉の減少は基礎代謝を下げるなど良いことは一つもない。そして、近年の研究では年齢にかかわらず、筋力は増強出来るとのことだ。私自身で言えば、ほんの少し前まで五〇キロくらいの物は持ち上げられたが、最近そんなことをする機会がなかったので、それが出来なくなっていることに気がついていなかった。まあ、普通の人間なら、肉体労働者以外そのようなことをする機会もないから気がつかないのだろうが、知らない間に筋力が相当落ちているのが普通だ。若い人間でも腕立て伏せが出来ない、懸垂が出来ないと言う人が結構いる。単に出来ないだけではなく、これもかなり危険な状態と言っていい。

私も懸垂が出来なくなっていることに驚き、また腕立て伏せも三回でへたるのにがっかりしてから、思いついたときにやるようにしている。腕立て伏せも最初からつま先と腕でやるのではなく、膝を床に着けてやる腕立て伏せから始めればよいのではないか。今のところ、普通の腕立て伏せが10回出来るようになったところだが、贅沢を言えば100回くらい出来るようにはなりたい。

他に腹筋などもやっているが、これは膝を曲げてやる方法が安全だとされている。後はヒンズースクワッドなども気が向いたらやっている。習慣になれば結構効果が上がるが、他の運動同様、決して無理をしない、必要なら医師に相談、専門家の指導を受けるなどが大切だろう。

筋力を付けることで確実にダイエット出来るし、生活の範囲が広がり、怪我もしにくくなる。

そもそも、日本は世界でもトップクラスの長寿国だが、もっと顕著なのは健康寿命が極めて長く、世界で年齢別のスポーツ競技などでは、日本人の高齢者が年齢別で軒並み金メダルを総なめにしている。なにしろ、104歳で100メートルを34秒で走る人がいる。もともと、100歳代で競技会に出る人が日本人以外にはあまりいないのだが、高齢になったらスポーツが出来ないとか、運動しても意味がないなどはあり得ない。スポーツ選手にはならなくとも、生活を快適にするためには、三種類の運動、つまり、有酸素運動、柔軟運動、筋力運動は組み合わせて常に心がけておくべきだと考える。

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健康を得るために 食事

誰でも言うことだが、若い頃と食の嗜好が大きく変わるのはある程度の年齢になれば当然だろう。そもそも食べる量がおそらく青年期の半分にもならない。そして、味の濃い物、動物性の物、脂肪や油の多い物を食べなくなる。別に医者に注意されるからではなく、本当に体が要求しなくなるのだ。

それを差し引いても、私の場合は子供の頃から薄味でありおそらくこれは私自身の体質による物らしい。実家は北海道でかなり味付けが濃かったが、私だけはいつもみそ汁にお湯を入れたり、お浸しには醤油をかけずに食べていた。子供の頃は肉を食べる習慣があまりなく、せいぜい鶏で動物性タンパク質は殆どが豊富にある魚介類だった。家の畑で野菜を作っていた関係もあったのか、食生活がもともと野菜中心だったのが、今も引き継いでいるらしく若い頃も肉食や脂肪の強い物をあまり食べなかった。

今から考えてみれば世界でも健康食とされている和食で育ち、しかも唯一和食の欠点と言われていた濃い塩分も私は例外だった。これを数十年続けていたのはやはり積み重ねとして大きいのだと思う。酒は一時期は相当飲んだが、今は殆ど飲まない。もう一つ私の食生活の特徴として発酵食品を好むことで、漬け物も塩味ではなく乳酸発酵した物をよく食べる。漬け物は塩分が高いので程々にすべきと言われているが、私の漬け物は本当に塩分が薄く乳酸発酵が主だ。これも別に健康志向でそうしているのではなく、もともとの嗜好なのだ。

若い頃と食事の内容はあまり変わっていないと思う。接待やお付き合いで肉食もしたし味付けの濃いものも食べたが本来食べるのは、意識していなかったけれども医者が勧める食生活だと言って良い。結果論だが、結局今若い頃に比べても健康になったと実感出来るのはこの食生活にあると思う。

医師曰く、食生活の改善をするだけで確実に体質は改善されるので、いくつになっても自分の食生活を管理する必要があるとのことだ。

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健康を得るために 呼吸

私がタバコを止めてから40年以上経つが、今ではタバコが大嫌いで、喫煙者の側には近寄りないと思っている。タバコには様々な害があるが、一番の問題は呼吸器を痛めつけることだろう。昔は自分がヘビースモーカーだったことを棚に上げて言えば、最近受けた健康診断でも肺は非常にきれいだと誉められた。何しろ肺活量も健康な若い人の平均を遙かに上回る量だった。4500ccくらいだったと記憶している。

気が付けば私もパソコンに向かっているとき、工作室で仕事をしているときなど結構かがみ込んで姿勢を崩しているが、それでも気が付き次第背筋を伸ばし深い呼吸をするように努めている。また、外を歩いている時なども大きく胸を広げて深い深呼吸を数回繰り返すようなことは頻繁にやっている。これだけでもかなり体の調子が良くなるような気がする。今から10年ほど前か、私と同じ年の人が人間ドックの結果に意気消沈していたのを思い出す。消化器、循環器、呼吸器に全て問題があり、特に肺活量が数字は忘れたが衝撃的に少なかったというのだ。測り方の問題もあったかも知れないが、聞いて驚いた記憶があるから確かに衝撃的に少なかったのだろう。確かに、側に居たくないほど、ひっきりなしにタバコを喫っていた。その人はそれからしばらくして亡くなってしまったが、最後に会ったときは別に病気だと聞いてはいなかったし、本人もそのつもりはなかったろうが、やはり全身が弱っていたのだろう。特に呼吸器の病気ではな買ったような気がする。しかし、それでも肺活量の異常な少なさがやはり印象に残っている。

様々な理由で呼吸機能が落ちて、普段も酸素吸入をしながら生活をしている人が居る。つくづく大変だろうなぁと思うが、自分はやはり自前の肺で最後まで生きていたいと思うし、そのためにも呼吸に意識を配り肺を十分に大切にして鍛える事を続けたいと思う。その第一が、正しい姿勢、深い呼吸、そして腹式呼吸だろう。

by ロクスケ












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健康を得るために 精神

精神年齢を判定するサイトを見つけて、試してみた。

精神年齢測定

標準は実年齢プラスマイナス5%と言うことであり、いわゆるIQテストとは無関係だ。とにかく、おもしろ半分に試してみたところ、実に興味深い結果が出て思わず笑ってしまった。なんと、私の精神年齢は実年齢よりも36歳若いと言う結果だ。

これは喜ぶべきか、全く人生の経験を活かすことが出来ていないたんなる幼稚なのかは別として、私としては喜ぶことにした。また、遊び半分の診断であり、それを前向きにとらえるか悲観するかなら、当然前向きにとらえた方がよい。

体力的なものについては何度も書いているが若い頃に比べ相対的に丈夫になっていると思う。風邪もひかなくなったし、疲れにくくなったし下痢や便秘などと言う問題もない。が、これも何度も書いているように若い頃は不摂生の限りを尽くして最悪最低の体調だったのと比べて、と言う意味であり、実際には年齢による老化はある。目も耳も衰えているし(年齢平均よりは良いが)あちこちにガタが来ていて体も固くなり、無理が利かないし気にし始めればきりがないほどだ。

まあ、それについては今の生活ではぎりぎりまで体力を使って生きているわけでも無し、用は足りているのだから構わないと割り切っている。それより、問題は精神的な若さだと思っている。精神的に若ければ結局は体力も若返ると信じているからだが、その精神的な若さがなんと76歳も若いとは。

36歳はともかくとして、考えてみれば周囲の人間達も当然同年輩の人々が多く、彼等が殆どネットには関心もなければ興味もないし、驚くほど頭が固くて分からない話は聞かない、聞いてもどうせ分からないと思いこんでいるなど、正直言ってあまり話が合わない。とは言ってもあまりに若い人たちとはこれもまた話が合わないのだが。

ただ、今世界で起きていること、日本で起きていること、自分の周囲で起きていることに興味を持ち、何故そうなのかなどを考え、情報の収集、分析をし、自分なりに考えをまとめる事は私は面白いと思っているし、必要に応じて積極的に発言すべきだと思っている。ただ、社会の一線から退いていると思っているなら、そのような必要はないと考えるのはそれも当然なのかも知れないから、全ての人間がそうすべきだと言うのではない。ただ、どんなことにも関心を持ち、新しい知識を得、自分で判断することは精神をみずみずしく保つ意味でも重要だと思う。いくら年を取っても本を読み続けるなどがどうしても欠かせないのと同じくらい重要だと私は思っているのだ。

そのバロメーターが精神の若さではないのか。

70過ぎで短歌を始め、そのために資料を集め、そして散歩をしながら道ばたの草花、天気、人々の息づかいに今まで気が付かなかった新鮮な驚きを日々覚えていると言っていた人が居る。同じ時間を過ごしても、何も見いださないままでいるか、新しい驚きや感動を常に見つけているかで人生は大きく変わる。精神の若さとはそのようなみずみずしさを言うのであり、もし私が本当に36歳年齢より若いのであれば、これほどうれしいことはないし、それが明らかに体力の維持、向上にも役立っていると思う。

by ロクスケ












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健康を得るために ストレス

何か体の具合が悪くなって病院に行くと、どこの医師も口をそろえてストレスは避けてくださいという。しかし、場合によってはこれがストレスになるのではないかと思えるときがある。私の場合は、人間ストレスがあって当たり前、悩みが無くなったら悩みを持つ能力が無くなった時のことだ、と割り切っている。

私の父の話だが、晩年糖尿病、心筋梗塞の2度の発作、高血圧、腎不全などなど、満身創痍であり、医師に体重を減らせ、よく眠れ、あれは食べるなこれは食べるな、あれはするなこれもするなと指示された。もともと几帳面な性格だった為もあり、端から見ていてあれでは生きている楽しみもないだろうと思えるほど節制していた。その分、頭だけは最後まで明晰で、亡くなったのも自室で好きな中国関連の専門書を開いている最中誰も気が付かない間に旅立ってしまった。

父としては最後まで頭脳が明晰であったことで救われていたのかも知れないが、美食や旅行などなど多くの事が出来なかった。口に出すことはなかったが、結構我慢していたのだろうと思う。美食も酒も本来かなり好きだったのだ。考えようによっては、たまに医者の言葉に逆らっても食べたいものを食べ、飲みたい酒の一杯位も飲んだ方がストレスが溜まらなかったのではないか。

医師はどうせ患者が全てを守ることは出来ないだろうとかなり厳しく言う。が、それでストレスが溜まり生きている楽しみが無くなるくらいなら、多少医者の言葉を忘れても良いのではないかと思う。ただし、年がら年中忘れるのではいけないが。

かくいう私は、何度も書いているがかつては不摂生の限りを尽くし、最低の健康状態だった。それから一念発起し、主として食事内容を変え、飲酒を最低限にし、運動を心がけることで、若い頃よりもずいぶん元気になっていると思う。もともとが肉食があまり好きではなく、和食以外に魅力を感じなく、味付けが薄く、糖分を摂らない食生活だったから、食生活を改善と言っても具体的には外食を止めただけのことだ。かつての不摂生は仕事の関係上、毎日外食で済ませ、付き合いや接待で暴飲暴食をしていたのだ。その状態の方が私にとってストレスが多かったので、今の方がよほどストレスが少ない。

一日2食が原則で、たまにお付き合いなどで昼食を摂ると具合が悪い。食事は食べたいときに食べたいだけ食べるが、かなり食べているつもりでも人と比べてみるとかなり少ない方だ。寝るのは眠くなってからで、目が覚めたらそのまま起きる。長いときで4時間程度、短いと2時間くらいの睡眠で、医師はその倍は寝ろというが、寝られないものを無理して寝るのは止めることにした。平均BMIでいうと、多少太めだが、それより減らすと極端に疲れやすくなるのを体験的に知っているので、今の体重を維持出来ればよいと思っている。

健康のために生活を犠牲にしてストレスをためるのは本末転倒だろう。さらに、あまりあれも食べるな、これは駄目、などとこだわっていると栄養不足になり免疫力自体が低下するのでは、これも困る。あくまで自己責任だが、食事制限にこだわりすぎて体力を落としている話をよく聞く。結局、健康のためには医師の言葉を適当にはしょる、ただし、自分でその帳尻は合わせる事で、ストレスを減らすことが出来るのではないか。

by ロクスケ











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健康を得るために 日頃の心がけ

生活習慣病というように、高血圧、肥満、糖尿病などは普段の生活がやはりまずければ誰でもかかる病気だと言って良い。言い換えれば、普段の生活をきちんと見直せばかなりの率で防げると言うことだろう。

これらの生活習慣病だけではなく、心臓、腎臓、肺や消化器官系などの多くの病気、さらに細菌やウィルスによる病気も、同じ環境にいながら免疫力のあるなしで感染したりしなかったり、すぐに治ったり悪化したりする。

何度も何度も書いて恐縮だが、私は自分が若い頃不摂生をして体をこわしていたので、それが身にしみている。すでに意識して生活改善をしてから20年以上経つと思うが、食生活については何度も書いているので繰り返さない。そのほか気を付けているのは薄着を心がけ、冬でもあまり暖房を使わない生活をしていることがある。そのため、真冬など私の部屋は相当寒いが、私自身はもうなれているのであまり気にしない。が、兄姉などは冬は私の家に寄りつかない。彼等は室温が20度でも寒いのだそうだ。私は12,3度有れば別に問題はない。

もう一つ心がけているのは運動だが、もっぱら早足で歩くことにしている。平均一日1時間は歩いている。が、もう一つ家の中でも積極的に歩き回る様にしている。なにしろ体を動かす事を目的として掃除などをするし、さらに台所の動線などもかなり歩き回るようにしている。本当なら無駄な動きをしないために台所の動線は相当考えて設定されているのだろうが、私は調味料一つでも手を伸ばすだけではなく何歩か歩かなければ手が届かないようにしている。また必要な物をわざと高いところに置いたりしているので、伸び上がってとらなければならない。嫌でも体を動かすわけだ。

多少体の調子が良くないと思うときは、すぐに外にでて歩き回ることにしている。昔からそれだけで体調が良くなったし、確実に頭もすっきりする。人が見ていないところでは腿を高く上げて手を大きく振りながら歩く。空気の良いところでは深呼吸などもする。

体を日常的に動かすことを習慣づけることで、かなり体調にも好影響を与えているのではないか。

by ロクスケ












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健康を得るために 服装

前にも書いたことがあるが、私は本来服装にはかなり無頓着だ。会社勤めを止めてから、背広やネクタイを付けたことはほとんど無い。普段などは作業服がもっぱらであり、仕事中はそれこそ油や鉄さびだらけの物を着ているし、外に出るときも新しい作業服が普通だ。作業服は着やすく、丈夫で、好きなだけ洗える。自分で自由に洗えない高価な服を何度も着るよりはよほど良いと考えているし、それでどうしても汚れてくれば仕事用に使う。

むろん、作業服だけを着ているわけではないが、結構地味目のカジュアルくらいが関の山だ。

さて、私にとって好きなだけ洗えると言うことが重要であり、また私自身洗濯は好きな方だ。好きというのは語弊があるかも知れない。おっくうではないと言うことであり、頻繁に洗濯をしている。幸い今の洗濯機は洗濯物と洗剤を放り込んでボタンを押せば勝手にやってくれるので夜中でも外出中でも問題がない。洗剤も又昔と比べてずいぶん良くなった。それと作業服の良いところかなり乱暴に洗っても大丈夫な点であり、襟や前、袖口などは風呂場で広げてブラシ洗いをしてから洗濯をするとそれだけでかなりきれいになる。

結局、私の言う健康のための服装とは、きちんと洗った服を着るということであって、着道楽のことではない。私も年齢を重ねてくるとそれこそ加齢臭がしているのだろうと思うが、残念ながら自分では気が付かないし、また人も面と向かって臭いとは言わない。結局服装は十分に洗濯をした物を着ると言うことしかない。

尤も、姉などに言わせると、年の割に私は匂わないそうだ。姉の基準がどれだけの物かは知らないが、酒も飲まずタバコも吸わず、野菜中心の食事をしていればたしかにそれほど臭いことはないのではないかと思っている。これは、ちょっと言葉にするのは憚られるが、排泄物のにおいがそれほどしない事でも言えると思う。

高齢になって加齢臭を気にするあまりオーデコロンや整髪料などで1メートル先からにおいをさせている人が居るが、あれは近づきたくない。服装と言いながらかなりずれてしまったが、私としては高価な服を何度も着るよりも簡単に洗濯の出来る服を普段から着ている方が精神的にも楽だということだ。

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心の健康をケアする 体の健康を保つ

今まで健康を保つにはどうしたらよいか、私なりに実戦してきた方法を書いた。が、むろん、人間の健康とは、体だけではなく、心の健康も含まれるべきであり、体が不健康であれば自ずと心も沈みがちになる。体と心は切り離せないものであり、体の健康と心の健康を保つことで、真の健康が獲得出来ると言えるのではないか。

健全な魂は健全な肉体に宿るというが、これは無論嘘で、健全な体の極悪非道な人間や虚弱な聖人君子もいる。この場合、健全な魂とは善を行う魂というのではなく、活動的ではつらつとした魂という意味だろう。善人になる方法など私には分からないが、少なくとも身体が健康であれば活動的ではつらつとした気持ちになれるとは思う。

その意味で、身体を健全に保つ努力は、精神を健全に保つために欠かすことの出来ないものだと言い切れるわけだ。

私事で恐縮だが、何度も書いているように、私は30,40代の頃は不摂生の限りを尽くし、体力は最低だった。常にどこか具合が悪く、疲れやすく、医師にも何とかしないと長生き出来ないと脅されていた。当時は高をくくっていたが、いよいよ年齢がかさんでくると、確かに身近になってきた高齢者達の人生が健康状態で天地ほども開いていることを見聞きするようになった。

日本は世界でもトップクラスの長寿国だが、もっと大切なのは世界でもダントツの健康寿命の長い国なのだ。つまり、自力で生活出来る状態の高齢者が非常に多く、世界の高齢者競技会でも、日本人が極めて多くの高齢者記録を独占している。103歳で100mを36秒で走る人が居るが、これはとんでもなく大変なことなのだ。

私が一大決心をして体調の管理を始めてからおそらく20年は優に超しているが、その甲斐は十分にあったと断言出来る。殆ど風邪をひかなくなり、疲れなくなった。この2,3日歩数計を付けて歩き、毎日1万2,3千歩を歩いているが、殆ど疲れない。ただし、かつては1時間に6キロが私の平均速 度だったが、昨今5キロに落ちている。年のせいかもしれないが、これくらいなら元に戻せると思っている。

健康診断では血圧はモデルケース、糖尿も、腎臓もパーフェクトで、医師によく自己管理が出来ていると言われた。今私は自分の工作室で物作りをしているが、十分動けるし、10キロ程度のものなら片手で問題なく持ち上げている。これは精神状態を実に良くしてくれる。

年齢が重なるに連れ周囲の人間も高齢化してゆくが、微熱が採れない、風邪が治らない、歩けない、食べられないなどなど聞く。何より、精神的に活力が失われてゆくのが気になる。おそらく今からでも生活改善をして体力が上向けば精神的な活力も取り戻せるのではないかと思うのだが。

どんなに健康状態が良くても死ぬときは死ぬ。私も確実に死ぬ時期に近づいているわけだが、だからこそ今充実した生活を送りたいと思う。一日を何もしないで何も出来ないでぼんやり過ごすのはまっぴらごめんであり、精神的に活力が有ればこそ、あれもしようこれもしたいとの気持ちを持ち続けている。そのためにも精神に活力を与えたいし、そのために体力を向上させたいと思うわけだ。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 本を読み文章を書く


悲しいことに、人間怠けると(ということは、悲しいことではないのだろう、当然の報いとして)身体も心も不健康になり弱ってくる。そこで、一念発起して身体を鍛え直し、健康管理をし体力を取り戻す、以前よりも強健な体を作るなどは多くの人がやる。成功するかどうかは別として、そうしなければならないだろうと考える人が殆どだろう。

が心を鍛え直し、鍛錬し以前よりも精神力を高めなくてはならないと考える人は、目に見える体力回復増強を考える人ほど多くはないと思う。実際は、心の不健康ははっきりと目に見えるのだが、いかんせんそれを見分けるには心が健康でなければならないから見えても分からない。

身体が鍛錬で丈夫になるように、心も鍛錬で丈夫になる。これは全く例外無しにそうなのだ。遺伝的に、また生育環境から生まれながらに虚弱体質があるとすれば、精神にも生まれながらに虚弱な状態もあるのだろう。または、怠けたために虚弱な精神になった場合もあるだろう。それに気が付いたら、具体的にどうすれば鍛錬出来るのだろうか。

体力不足解消は食事を管理し、ジョギングなり筋トレなりをし、姿勢を正し呼吸を整え清潔にしなどなどいくらでも具体的な方法があるしそれについての情報は周りにあふれているが、精神力不足を解消する方法は殆ど情報が見あたらない。

ことわざに、苦労は買ってでもしろ、とか若い内にする苦労は財産になるなどがあるが、耐える力がないところに過大な苦労が押し寄せると、人間は簡単につぶされ非行に走ったり人間不信になったり最悪の場合自殺に終わったりする。怪我や病気をすれば健康になると言っているような物だ。

鍛錬と言うからには、自分でコントロール出来る負荷を自分の精神にかけるのでなければなるまい。体を鍛えるトレーニングがその人それぞれに合わせてプログラムされるようなことが精神を鍛えるトレーニングにも無ければならないはずだ。

前置きが長くなったが、まず精神は脳に宿ることを前提として、その入れ物である脳を鍛えることから始めなくてはなるまい。一にも二にも読書をすべきだと思う。幸い私は幼い頃から親兄弟が読書を当たり前の日常に取り入れていたお陰で、文字を読めるようになるかならない内から読書をしてきた。最初は母親などに読み聞かせをしてもらい、自分で絵本を読むようになり、文字がたんなる記号ではなく文字を追い言葉を自分に取り込むことで自分が興奮したり感動する物だと言うことをごく自然に受け入れていた。本を読むことで、自分が経験しようのない事柄を経験することが出来ると知っていたから、好奇心の赴くままに、手当たり次第に読める本から読んでいた。

それが後年どれほど自分の精神形成に役立っていたか(自分の精神に満足しているという意味では無論ない)気が付いた。またじぶんの心の中で形作られたものを表現するために、私は書くようになった。最初は日記などからだが、私の場合、事実を書く日記から空想や自分の考えなどを書く物に変わってきており、多分数十年それを続けたが、なし崩しに終わってしまっている。

代わりに小説を書くようになったり、また様々な主張を文章にするようになり、今では毎日必ず原稿用紙数枚程度は最低書いている。殆どパソコンで書いていたことから文字を忘れたり、文章がいい加減になってきていることを自覚して、この一月ほどだが手書きの日記を始めた。忘れていた文字があっという間に書けるようになり、文章の味もPCとは全く違い、改めて手書きの文章の大切さを認識している。

私が読書や文章書きでどれだけ精神が成熟したかは人とも比べようがないが、私自身では未だに好奇心が旺盛で感動も出来ると思っている。笑い話だが、つい最近の精神年齢チェックをネットでやって、私は29歳相当だそうだ。地域の医療活動の一環として高齢者を対象とした認知症検査などがあり、受けてみたら全く問題はなく、実に若々しいですと医師に言われた。29歳はともかく、多分10-20歳は若いだろうと都合良く解釈しているのは言うまでもない。

精神を鍛錬するには、自分でコントロール出来る方法でなければならず、読書と文章書きは最適な方法だと思っている。

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心の健康をケアする 趣味を持つ

私自身は会社を辞めたあと、時間が余って仕方がない等はあり得ないが、そういう高齢者案外多い。私の周りにも結構いる。が、私にはそれが理解出来ない。

年を重ねるに従い、時間の経過は加速度的に早まる。思えば私は子供の頃札幌にいた事があるが、ずうっとそこで過ごしていた、少なくとも十年は其処にいたと長い間思いこんでいた。が、後から考えてみて、ほぼ一年しかいなかったことを知りびっくりした記憶がある。

が、今、時間の経過の早いこと、2,30年前のことがまるで昨日のようだ。これほど時間が早く過ぎるのに、その時間をもてあますなど到底考えられない。貴重な時間をいかに大切に使うかがいつも気にしていることだ。

同じ早く過ぎ去る時間、尤も、これは年輩になってからの話だけではなく、人生は短いとの痛感を年輩者がする事が多いと言うだけの違いだろうが、少年老いやすくであって、常に時間は早く過ぎ去ってゆく。

大分脱線したが、その足早に過ぎ去ってゆく時間を充実させることで人生も充実するし、精神も充実すると私は信じている。

時間をもてあますくらいなら、趣味を持てばよい。それこそ、いくら時間があっても足りなくなる。常に工夫をする必要があり確実に頭の訓練になるし、金をかける必要などさらさらない。趣味だから目標は無限の遠くにあり、いつでもそれを目標にしながら着実に進歩していることを実感出来ればそれでよいと思う。

何度も書いて恐縮だが、私はいくつかの語学を折に触れて学習している。今の私にとって語学は就職や仕事に役立つわけではないが、確実に実力向上が自覚出来るという点で、さらに金がかからないと言うことで良い趣味だと思っている。英語はユーチューブなどをそのまま見聞きして別に不自由はないが、これがフランス語やドイツ語で部分的にでも聞き取れると実にうれしい。

文章書きもおそらく趣味だろう。これで金になるわけではないが、全く苦労せずに好きなだけかけるのは結構楽しい。ただし、書きっぱなしではなく推敲もしなければならず、書くよりもむしろこの方が難しい。

読むのは趣味と言うより、食事と同じと考えている。

料理は趣味と実益だろう。自分で料理することで確実に自己管理が出来、健康に役立っている。

健康作りも、私にとっては趣味の部分がかなりある。かなり積極的に歩き、筋トレなどをすると身体は正直に反応し、軽々と動けるようになる。これを実感することはかなり精神状態を良くする。

様々な物を作るのも大好きで、金をかけずに工夫するという物作りは趣味と実益を満足させてくれる。今家の改修を自分でやっているが、これで古く狭い家が使いやすくなる。

未だにネットを楽しみ、必要な物の多くをオークションや一般通販で買っている。今ではこれがないと不便だし、兄や姉に頼まれて通販で物を買うこともしている。今日も姉に頼まれて本を発注した。新品が3000円の所、新古本で、1700円だから、姉も喜んでいる。古本屋で棚を見て歩くのも楽しいが、自分が欲しい本をネットで安く買うのも楽しい。これも普段ネットを趣味にしているから出来ることだろうし、同年輩やもっと若い人たちがデジタルデバイドに陥りネットに全く興味を持たないのも、私から見ればずいぶん損をしているように思える。ネットだけではなく、ワープロや表計算は必要不可欠だし、画像処理ツールは無くてはならないし、製図ソフトやCGソフトも使えると本当に世界が広がる。

私の場合は、自己満足のために時間を忘れて一心不乱になる。金はかけなくとも良い。しかし、次々とやりたいことがでてきて、年を取るなどもったいなくて出来ない。先日ネットでやった精神年齢テストで29歳というのは案外本当かも・・・?

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心の健康をケアする 感動する

良く聞くことだが、10歳の頃は毎時10キロの速度で時が過ぎ、20歳では、20キロ、50歳では50キロ、70歳では時速70キロで時が過ぎるという。つまり、祖父母と孫、ひ孫では同じ場所で生活をしていても経過時間が全く違って感じられるということだ。

思い当たることがある。前回の記事でも書いたことだが、幼い頃札幌で過ごした時期があり、自分では10年もそこに居たような気がしていたが、後から考えてみると、4歳から5歳までの1年ほどしか居なかったことに気が付きずいぶん驚いた。今、年輩になってみると、改めて幼い頃が本当につい最近であったような気になる。振り返ってみてなんと時間のたつのが速いことか。そして、毎日毎日驚くような速さで時間が過ぎてゆく。

心理学的にそれは証明されているのだそうで、時間に対する評価の違いなのだとか。幼年期は見る物聞く物全てが全く新しい体験であり、それぞれを深く心にとどめるから、時間をそれだけ強烈に受け止めているのだが、年を取るに連れて同じ経験をしてもそれを意識にとどめなくなる。雲を初めて見たときはその形の不思議さ、色の不思議さなどなど強烈に心にとどめるのに、大人になってから毎日電車の窓から見る空の雲は全く感動を覚えない。つまり、少なくとも雲を見ているときの心は何も動いていないから、その間に経過する時間も意識していない。幼児期に比べ、老齢機になると意識する時間が極端に少なくなり、一日でも意識する時間だけをつなげてみるとそれだけ短いと感ずるわけだ。

芸術家には驚くほど長寿の人が居る。それは毎日感動しながら生きているので時間の経過が幼児並みに遅いからなのだそうだ。これは、政治家や実業家など年を取っても若い頃と同じ活動を強いられている人々に共通なのであって、その反対が定年退職をして家でごろごろし始めたとたんに急速に老け込む人が多いことでも言えるのだろう。

前回、趣味を持つべきだと書いたが、それは新しいことに挑戦することで毎日感動をし続ければそれだけ時間を意識し、結局幼い頃と同じように時間を長く感ずるようになるという理由もある。

私は自分でも始末に困るくらい趣味を沢山持っているし、毎日歩くようにしているその時はカメラを持ってゆくのが普通で(デジカメになって本当に助かっている)目に付いた路傍の草花、猫、雲、変わった趣向の家、車、余所のお宅の庭の花など手当たり次第に撮っている。むろん、それを撮るだけの理由があるからだが、単にそれらを見過ごして歩くよりも今まで見過ごしていた新しい発見が日々ある。

先日も珍しいほどきれいな虹を見て、早速撮ったが思いの外色がきれいに出ている。実物は何倍もきれいだったのだが、それこそほんの数分で消えてしまった。その数分の間に目にした虹が未だに脳裏にくっきりと残っている。その間、私は確実に時間を意識していた、つまりその間私は生きていたということだろう。

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幼児期のような感動をしていたら日常に支障が出るかも知れないが、日常にそれぞれ意識を集中し時間を評価して行けるなら、それだけでも生きている事がずいぶん楽しくなる。同じ時間を過ごすのなら、ぼんやりと意識しないで過ごすのではなく、感動し喜びを感じながら生きている方がよほど良い。

by ロクスケ












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心の健康をケアする 人と接する

物の本によると、孤独は人間にとって一番大きなストレスになり、社会から孤立した人間は精神的に不安定になり長生き出来ないそうだ。どうも耳が痛いが、私自身について言えば、私は人との関わりが苦手な方で、一日他の人と口を利かなくても全く苦にならない。

しかし、人見知りかと言えば自分ではそうは思わない。近所の人たちと外で立ち話もするし、スーパーでレジの人と二言三言言葉を交わすのも普通だし、散歩の途中、全く知らない人と話すこともある。私が苦手なのは、生活にくちばしを突っ込んでくる人であり、無論私も人の生活にそんなことをする趣味はない。

したがって、上記の、孤立はストレスになり短命になると言われてもあまりぴんと来ない。むしろ、人間関係で苦労をする事が多かっただけに、それから解放されている今の方がよほどストレスが少ない。だから、私の場合は例外なのだろう。それに、距離を保ったままの人との交流については全く抵抗はない。

本来、人間とは集団生活をする動物であり、だからこそ互いの意志の疎通が必要不可欠であるため言語を発達させ、その言語による思考、記録が出来るようになってさらに文化を蓄積出来たことが、現在の人の在り方に通じる。故に意志の疎通は人間らしさを保つために必要不可欠なのだろうが、その程度はおそらく人それぞれなのだろう。意志の疎通が人間らしさを保つとして、意志の疎通がストレスを生み出しているとすればそれは本末転倒だろう。

全く引きこもっていてもいずれ生きては行けるが、意志の疎通が行き過ぎて人の意志を尊重することで自分を追いつめることもある。結局、自分が一番居心地の良い立場で生きてゆくのが最良の方法だと思うのだが。

あと、人との接触が絶対欠かせない理由として、自分の思考を柔軟にするためだろう。自分の考えていることが最善かどうかは、自分では分からない。あくまで客観的に検討してみなくてはならないが、そのためには人と接する必要がある。社会生活をするためには絶対に必要であり、これが出来なければ致命的だといえる。

が、リタイヤして自分の生活圏が極めて小さくなり、敢えてそれを広げようと思わないなら、自分の生活圏だけで過ちがなければ別に支障はない。

結局どれだけ人と接する必要があるかは自分の生活圏で決まるのだろうが、それに適した範囲、及び自分でコントロール出来る範囲で人と接することは確かに心の栄養になるようだ。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 頭を鍛える

人間は理論的には120歳まで生きることが出来るそうで、それは脳の寿命なのだそうだ。他の体の機能は、手入れや生まれながらの資質により多少のプラマイはあるものの、大体100歳前に最低レベルまで落ちその後死ぬまで向上することは無いともきいた。その最低レベルも理論的な健康体であればと言うことであり、その時点で歩くこともきくことも見ることも出来ないと言う意味ではない。それなりに歩くことも見ることも聴くことも出来るがその能力が向上することはないと言う意味だ。

しかし、脳だけは、120歳までその機能が向上するという。当然ながら、何もしなければ120どころか50,60で向上しなくなる。身体もそうだが、脳も鍛えることで機能が向上するのであり、身体は100以降鍛えても機能は向上せずただ低下を押さえることがある程度可能なのだが、脳は120前なら鍛えて機能を向上させることが出来るというわけだ。

まあ、年齢の根拠はともかく、脳とは機能が死ぬまで鍛え方によっては向上し続ける唯一の器官だとはかなり以前から言われていた。真相はどうでも私はその説を事実として受け止め、それならばいくつで死ぬか分からないが、それを試してみようと思っている。

実際、年を取ると何も分からなくなる、判断力が落ちると昔から言われているが、そう決めつけているからなのではないのか。確かに社会的責任から解放されることでトラブルを解決する必要が無くなる、新しい刺激が無くなる、自分で苦労しなくても誰かが面倒を見てくれるなどなど、脳を使わなくても生きて行けるのであれば、脳を鍛えることなど無くなる。

とうぜん、鍛えなければ脳の機能は衰えてゆくだろう。身体だって、鍛えなければ維持は無論、機能向上など到底望めないのだ。したがって、心の健康のためには脳がきちんと機能しなければならないことを常に意識して、鍛える様に心がけるべきだ。これは年を取ってからの話ではない。年齢がいくつであろうと、身体と同様脳も鍛錬しなければ衰えてゆく。徹底して衰えてしまえば、その機能回復は極めて難しいし、そもそも機能を回復しようとする意欲さえ失ってしまう。

今回の記事で、外を歩いても色々な物に目を留めることで脳に刺激を与えることを書いた。前回のこの記事では感動することが大切だと書いた。いずれも脳に新しい刺激を加え続けることで脳の機能が活性化されるからだが、方法は色々あると思う。人と積極的に接して話をするとか、趣味に没頭するとか、新聞を丹念に読んで国際問題、政治問題に関心を持つとか、とにかく色々無数にある。テレビを観ていても脳は刺激を受けるではないかと言うかも知れないが、人間は慣れてしまった物はそれほどの刺激として受け付けない。脳が重要ではないと判断すると自動的にシャットアウトしてしまうのだ。だから、一心不乱に観ているならともかく、単に漠然と観ているだけなら、観たあと何を観たかすっかり忘れてしまっていることは往々にしてある。観ているつもりで脳はシャットアウトしてしまっているのだ。

単に受け取るだけの刺激ならそういう物だ。刺激に対し認識し反応しなければ脳は受け付けない。毎日歩いていて、脚の出し方を誰も考えていないが、リハビリで歩行訓練をする場合は脳に脚の動かし方を教えなければならない。刺激を意識して脳に教え込む過程があって初めて脳は刺激として処理する。

だから、学習はその意味で極めて効果がある。私が実用性のないフランス語やドイツ語を学んでいるのもそのためであり、それは暗算の練習でも書道でも何でも良い。今出来ないことを出来るように努力することが、脳に対する極めて効果的な刺激と言うことだ。そして、それは何歳から始めても、どんなに細切れでも役に立つ。年と共に衰えるとされている記憶力さえ、訓練次第では信じられないほど向上する。

脳の機能が高まれば意欲がわく。新しい刺激を脳が積極的に受け入れるようになる。丁度世界が刺激に満ちていて常に新鮮な感動を味わっている幼い子供のような心を持てると言うことだ。

by ロクスケ












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心の健康をケアする 身ぎれいにする、掃除をする

本当は私はこの話題をあまり胸を張っては言えない。自分ではまあまあと思っていても、世間一般の基準から言えばどうも身ぎれいとか掃除については合格点ではないと自覚しているからだ。が、これも判断はあくまで自分がする物と考えて書くことにした。やはり、大切なことなのだし、昔に比べて気をつけているしそしてその成果は上がっていると思う。まあ、あまり人の基準で考えるよりも、自分が納得出来るかどうか、以前よりも向上したかどうかで考えるべきだと思う。

私はとにかく掃除が苦手だった。汚いのが好きなのだとかはもちろんあり得ないし、汚いのが気にならないと言うのも当たらない。人並みにきれいに整理整頓した環境で過ごしたいと思い続けており、自分なりに改善してきたと思っている。

自分の進化を見るために昔の部屋の写真が保存してあるが、本当に目も当てられないほど乱雑だ。ある時、これでは自分もおかしくなると一大決心をし、とにかく時間をかけ徹底して片づけ掃除をしたことがある。おそらく毎日の目標を書き出し、多分家の中全てを一月以上かけて掃除をした。掃除をしている間にも、先に片づけた場所が又乱雑になるなどはあったが、何度かそのようなことをしている内に次第に家の中が片づいてきたし、そして乱雑になることが少なくなった。

要は、毎日こまめに片づけ掃除をすると言うことに尽きるし、使わないと見極めた物はとにかくこまめに捨てる、そして可能な限り買わない事を決めた。今でも時々片づけなければならないと感じるように散らかることはあるが、それでも大昔の写真のようなひどい有様になることはない。

身だしなみについては、会社勤めをしていた頃はワイシャツ、スーツが欠かせなかったが家に帰れば身近にある物をまとうし、又会社でも現場に出れば作業服が当たり前だった。とはいえ、作業服だから汚くて良いと言うのでは決してない。作業服なりに清潔でなければならないから、複数の洗い替えを用意し、宿屋や工場の洗濯機で毎日洗い、それが出来ないときは風呂場で手洗いした。油や錆などの汚れが作業服についてそれがきちんと取れないのはやむを得ず、洗ってさえあれば無論誰も何とも言わない。が、勘違いして汗くさかったり垢がついているような作業服を着ているとあきれられる。それは私もやったことはないが、時々全く選択などしたことがないのではないかと思えるような不潔な作業服を着ている人が居て驚いた。作業で汚れるのは当たり前だが、不潔な作業服は仕事の内容さえ信頼されないからだ。

それは今でも私の習慣になっており、普段作業服でいることが多いが、それは簡単に洗えるからだ。作業服も新しい内はそれで近所を歩くこともする。着易く、ポケットがたくさんあり、軽く丈夫なので、ジーンズ感覚で、着ている。汚れが落ちなくなったら仕事用に使う。

仕事で汚れた物は洗濯さえしていればよいが、高価で簡単に洗えない物を不潔なまま着ているくらいなら、簡単に洗える安い衣料をきちんと洗いながら着る方がよほどすっきりしていると思う。

下着は、私は黄ばんでいる等は気にしない。漂白剤の悪影響を考えると、洗ってさえあれば黄ばんで多少よれよれでもその方が気持ちがよい。

整理整頓、常に洗濯した衣類は確実に精神的にも良いと確信している。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 技術を磨く

私の周囲には高齢者でやることがない、何をするのも面倒だという人がかなり居る。前にも書いたと思うが、それこそ一日起きたら食べるかテレビを観るしかしない。動けない病人でもそれはないだろうと思う。意識が有れば出来ることはそれなりにあるし、病気でもないのに食べてテレビを観て寝るだけの生活ならあっという間に老け込み頭も働かなくなり、体も動かなくなるのは当たり前だ。年を取ったから出来なくなるのではなく、そんな生活をするから頭も体も動かなくなり、そして動かす意欲もなくなる。

これは年を取ったからそうなるのではなく、若くても、食っちゃ寝、テレビにパソコンで勉強も運動もしなければあっという間に使い物にならなくなるだろう。

自分の専門分野の仕事で、おざなりで給料さえもらえればよいと言う人間は、会社としても真っ先に首にしたいと考えて当然だろう。最大限の努力をして自分のスキルを高めることが仕事への意欲を高め、人の役にもたち会社が大切にしてくれる。これは喩えリタイヤしたあとでも同じ事ではないのか。

役にたたない人間などこの世に存在しない。自分で、もう年だから、何をやっても出来ないからやるだけ損だと考えるなら本当に何も出来なくなるし、生きている甲斐もないのではないか。喩え仕事をしていなくても、趣味を持ちそのスキルを高めることは十分生きている意味を持たせる。

仕事、趣味、家事でもとにかく自分なりの最善を求めることは、絶対に心の健康を高める。なにしろ、それがなければ、心も体も早晩衰え病んでゆくしかないように、人間は出来ている。

by ロクスケ












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心の健康をケアする 周囲に関心を払う

これも実は私にとって極めて不得手な事なのだが、他者との関わりを積極的に保つことは心の健康にとって欠かせないことだという。元来人間は集団生活をする動物であり、社会性を保っていることが心の安定に欠かせないからだ。

私は昔から人間関係を築くことが苦手で、近くに他の人が居ると落ち着かない。それは肉親でも同じであり、一人で要る方がよほどリラックス出来る。むろん、社会生活を営むにはそれでは成り立たず、会社つとめをしていた頃は私も可能な限り人付き合いに努力をしていた。実際に人からどう見えていたかは分からないが、案外近づきやすい人間に観られていたのではないか。

実際私が一人で居ることを好むとしても、むろん、私は無数の人々のお陰で生きているのであり、私も又社会的動物である人間であることに変わりはない。毎日買い物に行くし、道では色々な人にあり、家の外では近所の人たちと顔を合わせる。そのような場合、私は積極的に会話をする。

どの店にはいるときでも、入り口でスタッフに今日はと声をかけるし、レジを済ませるとありがとうと言う。それだけで、相手の態度は目に見えて柔らかくなり、私も気分が良くなる。近所の人を見かければ先におはようございます、良い天気になりましたね、寒いですねなどと挨拶をする。別に近所付き合いは積極的にする方ではないが、にこやかに挨拶をしておけば気が楽だ。

また、電車の中などで隣り合った人と目的地まで話しをすることもある。これは自分で積極的にそうしようと決めたことなのだが、仏頂面でいるよりもおそらく精神上の好影響があるのだろうと思っている。人間何処で誰の世話になるかも知れないが、積極的に人との関係をこのような形で普段からならしておくのは精神状態のためにも良いのではないか。人に不機嫌な顔を見せない、不機嫌な声をかけないようにしておくだけで、精神的にも余裕が持てる、私はそう思っている。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 人の役に立つことをする

人間は言うまでもなく集団生活をする動物であり、集団の中で認められている状態が一番居心地が良く精神的にも安定する。これは実感出来る事実であり、また心身共にもっとも大敵なのはストレスであって、そのストレスの最大の物は孤独感だと言うことだ。

人間が集団の中で居場所を得るのは、その存在が集団の中で役にたっている、他者のために働いていることが必要だろうし、そうであることで自分が必要とされている、すなわち集団の中の大切な一員であることが実感出来る。普通の人は社会に出れば就職するなり自営業に就くなりで社会に役立っている。しかし、言うまでもないがそのような仕事をするだけが社会に役立っているわけではない。

家事も子育ても、そして物を買うのも社会のために役立っているのであり、結局自覚するしないは関係なく、大部分の社会人は社会のために働いている。

そう思えば、自分が社会から孤立していると考える理由はないのではないか。趣味で人とつながる、社会活動をする、近所付き合いをするなどもあるだろうし、むしろ、社会と全く没交渉で生きてゆくなど不可能に近い。無人島で一人生きているような状況など、実際には出来ないだろう。

つまり、社会から孤立している人間は居ないと考えれば、もっとも人間を傷つける孤独に陥ることはないだろう。そして、それが理解できれば、人と話をする、挨拶をするなどでも結構人の役にたっているなぜなら、誰かの孤独感をそれでぬぐっているからだと思えるのではないか。

私はコンビニやどこかの店に行くときは入り口で必ず挨拶をする。今日はでもいいだろうし、今日は寒いね、でも良いだろう。またスーパーのレジでも時々だが言葉を交わすし、何かをしてもらえば必ずありがとうと言う。見ていると、一言も口を利かない客が大勢居るが、もったいないのではないか。せっかく人との距離を縮めるチャンスなのだが。

近所の人と会えば挨拶もするし立ち話もする。散歩の途中で全く知らない人と話をすることもある。これも孤独なら出来ないことであり、こんなことで社会とのつながりを自覚出来るなら積極的にすべきだろうと思う。そして、そうすることで他の人の孤立感を和らげているならそれも立派に役立っているのだと考えられないか。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 好奇心を絶やさない

人類が現在まで進化し全ての動物の頂点に立ったのが、極めて高い知能によることは言うまでもない。さもなければ、爪も牙も運動能力も劣る人間が今の地位に就く事など不可能だったろう。実際、猿人から人間に進化した系統は十いくつもあるが、現人類を残して他は全て絶滅している。それほど、知能だけで生存競争に勝つのは難しいことだったのだ。

現人類はなぜ成功したのか。様々な理由があるのだろうが、好奇心がとりわけ強かったからだとの説がある。あくまで推論でしかないが尤もと思えるのは、知能の高さが極めて複雑に分類されるからだ。たとえば、記憶力でいうなら、鮭の稚魚は生まれた川の臭いを覚えていて戻って来るという。しかし、鮭の脳みそはそれこそ豆粒ほどの物だ。鳩は地形を覚えてそれを便りに巣に戻ってくるそうだ。到底人間に出来る芸当ではない。カラスは餌を土に埋めてそれを何ヶ月も経ってから掘り出すという。その記憶力は並の人間では及ばないがカラスの脳といってもせいぜいクルミ程度の大きさしかない。

瞬間的な把握、記憶力は人間は到底チンパンジーには敵わないとの実験結果が出ている。さえずる小鳥、鳴禽類は音の起伏やリズムを実に正確に親からならうし、オウムや九官鳥は人間の言葉、動物の鳴き声から機械の立てる音まで本物と区別が付かないほどまねることが出来る。すなわち、正確に記憶出来ると言うことだろう。

それぞれが紛れもなく脳の機能であり、上記の能力は到底人間が敵わないレベルなのだが、人間が他の動物を引き離している脳の機能と言えば好奇心に尽きるのではないか。好奇心とは知る意欲であり学習の元と言える。むろん、他の動物も学習する。本能だけではなく、親や仲間の行動から食料の見つけ方、隠し方などを学ぶ。動物も年齢を重ねれば学習によって得た知恵が生存をしやすくする。そうやって動物も進化している。が、その学習はあくまで生存に役立つ項目に限られ、それ以外には興味を持たない。

一方人間は、生存に無関係な現象に興味を持ち、なぜそうなるのかを知ろうとする。太陽の周りを地球が回っていることを知ろうが知るまいが生存には関係がないだろうし、地球が丸いことも、万有引力があることも知らなくても生存には関係がない。が、人間はそれらを何万年、何千年もかけて調べその理由を解明してきた。それがつもり積もって今の人類の共有知識となり、その蓄積量にしたがって人類は加速度的に進化してきた。

好奇心こそ人間を人間たらしめる要素なのであって、これを失えば人間の形をした非人間ということになりかねない。話が大きくなったが、私たちの日常生活でも、あらゆる事に興味を持ち、なぜそうなるのかを自分で調べ考えることが、人間として最も脳を、ひいては精神を活性化させると思う。じっさい、何かに没頭している人は本当に生き生きしているしまた若々しい。

by ロクスケ












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心の健康をケアする 適当に遊ぶ

年齢を重ねてくると色々考えて一番大切な物は健康だと改めて思う。或程度の金が必要なのは言うまでもないが、いくら金があっても身体が言うことを聞かなければ金を使う事が出来ない。これは、同年代の知人を観てつくづくそう思う次第だ。知人の中には私などお呼びも着かないほどの資産を持つに至る人間がいるが、身体が思うように動かず、飲み食いも厳しく制限され、目もかすみ、何をする気力もなくなって日永家に閉じこもりテレビを観て過ごすしかないという者が要る。趣味をしたくても健康がそれを許さず、頭が働かなくなってきたし、考えるのが面倒くさくなりテレビで馬鹿な番組を見て笑っているのがせめてもの時間つぶしだというのだ。

老後に金がないのも考え物だが、或程度あるなら身体が思うように動き、色々な物に興味を持ちそれを学べる状況にあることがどれだけありがたいことかつくづく思う。しかし、健康はそれほど大切で出ありがたい物だが、その健康を得て何をするかを考えたとき、健康は手段であって目的ではないとの認識が無くてはならない。

ジョークで、健康のためなら命も要らないというのがあるが、時に本当にそう思っている人が居るのではないかと思える。年がら年中健康のことばかりが頭を占め、ジムに通って運動し、毎日ウォーキングやジョギングをし、大量のサプリメントを買い続け、徹頭徹尾カロリー計算に神経を使い、口にする物は有機栽培の野菜だけ・・これはもう病気だとしか考えられない。

健康を維持し増進するためには或程度の克己心を持ち或程度の制限を自分に課し、努力をしなければならないのは当然だが、なんのためにそうするかは、結局有意義な人生を送ること、生活を楽しくするためなのではないか。もちろん、上記のような健康お宅がそれに邁進することが人生の目的だというならもちろん他から口を出すことではない。しかし、健康を得るために精神的に追いつめられるなら本末転倒だろう。

もし楽しいと感じるなら、美酒に酔いしれ美食を求め、夜更かしをし、麻雀パチンコをするのも良いだろうし、あまりおおっぴらには出来ない楽しみも良いだろう。それにおぼれない、コントロール出来る場合に限るが。

ちなみに私は酔うのが嫌い、満腹感が嫌い、味の濃い物脂っこい物が嫌い、肉が嫌い、パチンコ麻雀興味なし、賭け事昔からやったこと無しで上記の事々には興味がないが、別に健康お宅という自覚もない。

結局、健康は大切だが全てを犠牲にして健康だけを手段ではなく目標とする生き方は間違っているのではないだろうか。

by ロクスケ












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心の健康をケアする 悪い習慣を断つ

人間誰でも品行方正に生きてゆこうと仮に願っていたとしてもそうはいかない。あまり自慢出来ない、むしろ人には言えない悪癖や習慣を持ち、自分で早めようと思いながらなかなかそれを断つことが出来ない場合がある。まして、自分であきらめていて止めようと思っていなかったり、もともと止める必要がると考えていなかったり、さらにはそれを自慢するようになってはもはや対処のしようがない。

しかし、すくなくとも止めた方がいいと自分で思っていることがあるなら、何故止められないのか、止められないために被っている損失、止めた場合に得られるメリットを十分に考え、それなりの苦労と努力をして抜け出すべきではないのか。

前回の記事では、たまには羽目を外しても良いのではないかと書いたが、それは自分でコントロール出来る場合に限るのであり、耽溺した過去があるなら絶対に二度と手を出してはならないのは言うまでもない。これらの習慣は麻薬と同じで一度手を出せばあっという間に元の状態に戻ってしまうからだ。

これらの習慣としては、ギャンブル、深酒、セックス依存、もっと深刻であれば危険ドラッグや覚醒剤、虚言、暴力依存などなど犯罪レベルの物まである。

ドラッグや暴力、盗癖など犯罪はもってのほかだが、ギャンブル、飲酒、セックス、喫煙などは法律に触れるでもなくまたおぼれるレベルでなければ普通の生活にありふれた物だ。

が、それらが高ずれば確かに生活や健康、精神状態に影響をもたらし家庭を破壊するなどにまで至るので、一般の人は程々にしているのだが、何かの拍子に依存症にまでなってしまうことがある。これらは自分でも気づかない内に深刻なレベルになっていることがあり、自分はどうなのかとチェックしてみる必要があるだろう。

私で言えば、ギャンブルは一切関心を持ったことはなくこれについては全く無関係と思っているが、かつて毎日一升酒をあけるほどの酒飲みであり、またタバコは一日3箱を開けるほどのヘビースモーカーだった。

がタバコはもう数十年前にぴたりとやめ、酒は20年ほど前に全く断酒し、今は少し週に1,2度、1合程度をたしなむ。今、自分で考えてみて耽溺している悪癖、悪習慣はないと思っているが、人から見たらどうなのかは分からない。しかし、ギャンブルに無関係でも深酒をしなくてもタバコを喫わなくても全く精神的な不安などないし、言うまでもないが健康のためには計り知れない効果がある。

ストレスになるくらいなら多少の悪癖悪習慣もコントロール出来る範囲で構わないとも思っているが、それは個人差が大きいだろう。タバコを止めるのも私は一日で全くあとを引くこともなく止めたし、一時の完全断酒も全く苦労しなかった。それまでは、自分はアルコール依存症ではないのかと心配していたくらいだし、医師に脂肪肝になっているから酒を止めろと言われたのがきっかけで止めるのになんのためらいもなかった。今は一寸たしなむ程度に飲むが、毎度の健康診断では全くその影響はないし、肝臓も全く異常がない。しかし、そのように簡単に止められるのは極めて珍しいそうで、禁煙に失敗した話は無数に聞くし、アルコール依存症になってしまえばそこから抜け出すのは生半可な努力では出来ない。

だから、そうなる前に最初から手を出さなければよいのではないか。危険ドラッグや覚醒剤など、ほんの興味からやってみたなどでは済まないだろう。

やはり、周りを見て最初から手を出さない方がよいとおもえる習慣には一切手を出さないのが懸命なようだ。

by ロクスケ











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心の健康をケアする ストレスを管理する

どの医師に言わせても、健康関連の本を読んでも、ストレスをためないことが大切だとある。むろん、誰もストレスなど持ちたくはないだろう。が、人間ストレスを感じない状況などあり得ない。もしあるとすれば全くの赤ん坊か、ストレスを感じる能力が失われた人だけなのではないか。

人類は進化したのは、他の動物との生存競争に勝ち抜くために知能を高めてきたからだ。他の動物に比べ、足は遅く、泳ぐことも出来ず、空も飛べず、牙もなければ爪もない、力もなく視力は弱く、嗅覚は他の動物に比べれば無いにも等しく、聴覚も極めて弱い。

考えてみればこんな生物が良くまあ生き残ってこられた物だと思う。人間以外にこのような生物が居るとは到底思えないし、仮にいたとすればひっそりと隠れて生きているからだろうが、そのためには敵の接近をいち早く知るための能力、敵より速く逃げられる運動能力が要るはずだ。つまり人間のような全く無防備な生物は居ないのだが、その人間がよりにもよって全ての生物の頂点に立つほど進化出来たのだ。それも高々10数万年というほぼ瞬間的とも言える短期間にだ。

ゴキブリは1億年も今と同じ姿、同じ生き方をしているし、それほどでなくとも他の動物は数十万年では殆ど姿を変えていない。地球で生物が初めて誕生したのが35億年前であり、最も人間に近いチンパンジーでも500万年ほど殆ど今と変わっていない。 現代人が進化した20万年足らずなど、殆ど瞬間的な時間なのだ。

随分話がずれたので、元に戻す。

こんな短期間で人間が進化出来たのは、まさに何も持たなかったからだと言える。獲物を捕る能力、点滴から逃げる能力、運動能力、感覚器官の能力等々、全てが他の動物より劣るから進化出来た。つまり、それらの生存のストレスを克服するためには必死で頭を使わなければならず、その結果知能が発達し、今の地位を築いたということで、結局はストレスが人間を進化させたのだ。

一人の人間でも、全くストレスを感じなければ頭を使うことも出来ないだろう。つまり頭の機能が急速に衰えることになる。ことわざに、「可愛い子には旅をさせろ」「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とあるのは正にそのことだ。

ストレスから逃れるには、ストレスを無視すればよい。ストレスを感じなくなればよい。が、それは脳を衰えさせる。結果として心の健康を破壊する。

ストレスに目をつぶるのではなく、ストレスを積極的に克服するためにファイトを燃やす、その方がよほど心の健康に役立つのではないか。ただしあくまでこれは自分の意志によるのであり、誰かにストレスを与えることがその人のためだなどと言うのはとんでもない。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 目標を持つ

私の同年輩の人たちはほとんどが退職し、趣味などを充実させている人が多い。また社会奉仕活動に生き甲斐を見いだしている人も少なくない。が、中には何もやることが無く、時間が余って仕方がないといっている人がいる。

年を取ってくれば体の調子も衰えてくるのが普通だが、それを補うためにも自分で健康管理をしなくてはならない。そして精神的な健康管理も当然必要なはずだが、それをしない人がいるのはどうにも理解できない。いや、その必要性を理解していないのではないかと思うのだ。

先日地域の高齢者対象の(私も一人前の高齢者だが)健康指導の集まりがあった。このような集まりに出てくる人は積極的に自分の健康に気をつけている人なのだろうと思うが、精神的な健康についてはどうも理解がない人が目に付くし、そして健康指導にしても食事や運動などについての改善点はあるが、精神的な健康についての指導がないのに驚いた。

体が健康なのはもちろん大切なことであり、これに留意するのは当然大切だが、生きていて楽しくなければ長生きの意味もあまり無いのではないかと思う。そこで、個別面談の時にそのことを話してみた。そうしたら帰って驚かれたことにこちらが驚いた。そのような面で健康管理をする人は滅多にいないというのだ。元々、集団検診の結果を参考資料として個別面談では使っているが、自分の血圧くらいは気にしている人も、中性脂肪、肥満率、コレステロール、血糖値、尿タンパクなどについては指摘されて初めてびっくりする人が結構いるそうだ。

まして、自分のメンタル面を気にしている人は居ないというのだから驚いたわけだ。むろん、地域でも認知症などの発見やケアについての指導はあるとのことだが、これは家族や自分で気になる人が対象だという。

私は体も当然ながら精神的な健康を非常に大切に思っている。だから去年認知症のチェックを受け、全く問題がないと言われて大いに安心できたし、またその折医師に言われたのが、私があらゆる事に興味を持ち、目的を持っていることは本当によいことだ、目的を持ち続けるのはどんなに年を取っても必要だといわれた。

本当にそう思う。だから、同年の人々の中に今から何をやってもどうせ長生きするわけじゃなし、苦労していろいろ勉強するのもどうかなぁ、という人が信じられないし、そして例外なく非常に老け込んでいる。当然体の健康も芳しくない人が多い。たとえ明日死ぬことがわかっていても、それまでに何かやることを持っている方が私はよほど楽に生きられると思うのだが。

by ロクスケ












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心の健康をケアする あきらめない

前回も書いたが、世間一般の基準では、私は高齢者の部類であり、幸い健康ではあるがそれでもむろん昔は出来たことが今は出来ない事が無数にある。つくづくそれを実感したのは、最近パソコンが壊れて、自分で部品を買い修理したのだが、その仮定でさんざん苦労し、昔なら確実に数時間で出来たはずのことが数日かかっても出来なかった。理由は、パソコン関連の技術開発が加速度的に早くなり、知識の習得がとうてい追いつかなくなっていることだ。

自分でパソコンを作ったことのある人ならわかるだろうが、主要部品としてパソコンの頭脳であるCPUやそれを動かすマザーボード、メモリー、ハードディスク、電源パックなどなどがあり、ほんの少しの間に互換性が全くなくなっていて、結局は全部買わなくてはならない羽目になっていた。それも、私が今のパソコン技術にとうてい追いついた知識を有していなかったからであり、そしてそれらを組み立てソフトウエアを組み込んでも今度はワープロや表計算のソフトがうまく入らなかったりネットにつながらなかったりで、実は今も完全に動いているとは言えない。

とはいえ、それらを学びなおして完全なパソコンを組み立て動かすにはおそらくとんでもない時間がかかるだろう。

次回は全く新しいパソコンを買った方がよいかも、と思っているが、ピンキリで何とか使えるパソコンから好きなように使えるパソコンまで値段も天地の差がある。となると、どうしても自分で部品を選んで組み合わせ好きな仕様で作ってみたいと、今遅まきながら勉強をしているところだ。

これで、今から覚えるのはとうてい無理だとあきらめてしまえばそれまでなのだが、必要だから学ぼうと決めれば、結構覚えられる物だ。このような知識は、たとえばパソコンショップの専門スタッフなどが良く知っていて教えてもらうことが多いが、今回はバラバラに部品を買ったのでまとめて聞く相手が居ない。これも自分で学ばなくてはならないと思った理由だ。

覚えるのは無理だとあきらめるか、学ぶかで結果は大きく違う。何か不具合が起きても自分で何とかなる。その安心感は大きい。それにやってみると、それこそ何から何まで覚える必要など無く、要点だけでよいこともわかる。とはいえ、曲がりなりにも今までやってきた蓄積があるからだろうが、いずれにせよ、あきらめる必要はない。やってみるとけっこうできるものだ。そしてその安心感や満足感はやはり何物にも代えられない。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 何かを学ぶ

たぶん二十歳代の頃だと思うが、誰かかなり年長の人に、若い内に学ぶのはその後人生を円滑に過ごすためなのであって、それ以後に学んでも間に合わないしあまり役に立たない。だから、若い内に学んでおけ、ということだった。

そのときはなるほどと思っていたが、いよいよ社会に出ていろいろな仕事をするにつけ学ぶことの連続であって、過去に学んだことが直接役だったことはほとんどなかった。ではそれは無駄だったかと言えば、むろんそんなことはなく、学校で学んだことがそれ以後社会で学ぶ事柄の基礎になっているのだが、それ以上に気がついたのは、学ぶことで勘が養われると言うことだった。

勘、とはよく言われるが一言で言えば意識しないで考える能力なのではないだろうか。何でもそうだが、専門家が自分の仕事をする際、ほとんど考えることなしにやっていることが無数にある。職人が手触りだけで真っ平らに板を削り正確な直角を作り隙間のないほぞ組で板を組み合わせる。見ていると、何も考えていないようであり、実際聞いてみると、体が覚えているから自然に出来るよ、誰でも何十年も同じ事やってれば出来るんじゃないの、ということだ。

体を使う仕事だけではなく、営業のベテランにしても初めてあう人を一瞬で判断し、その人の知りたいこと、興味のあることを話題にして注文を取る。これも長年の経験で出来る勘の技だ。

これは、仕事だけではなく、私たちの生活一般に言えることであって、人生には初めて経験することが無数にあるのだが一番効率の良い選択をし、効率の良い手順で処理しなければならないのが普通だ。試行錯誤の時間はない。そして、年齢を重ねると結構それが出来るようになる物だ。無数の経験が結局学びになっているわけけだ。言い換えるなら、何を経験してもそれを学びにしなければ新しいことを経験するたびに試行錯誤をしなくてはならないことになる。

その意味で、学ぶとは、意識して新しい経験を自分の物にする行為、即ち勘を身につける行為だと言えるのではないか。そう考えると、いくつになっても学ぶことには意義がある。特定の作業に熟練したいならその作業を繰り返すしかないだろうが、すべてのことについて勘を養うなら、何をその方法にしても良いと思う。

学ぶと言う行為が、勘をとぎすませるならそれ自体が目的になっても当然だと思うのだが。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 年齢変化を受け入れる

何度も書いてきたことだが、年齢が重なってくると、昔出来たことが出来なくなる事に気がつき愕然とすることが間々ある。昔はもっと早く長く走れたのに、今は少し走ると息が切れる、重い物がもてなくなった、すぐ何かにつまずくようになった、体が固くなった、疲れやすい、体のあちこちの具合が悪い、物が覚えられない、すぐに忘れる、根気が無くなった、意欲がなくなったなどなど、言い出せばきりがない。

しかし、これらが本当に年を取れば必ずこうなるのかと言えば、そんなことはないと私は言い切れる。むろん、体力的な衰えを否定はしないが、健康ならその時点で十分生活できるほどの体力は維持できるし、増強も出来る。年齢による衰えは当然だし、それは受け入れても、何もかも出来なくなる、向上は望めないなどと考えるべきではないだろう。

精神面でもそうなのだが、先日兄と電話で話をしたときに、以前約束したことを全く覚えていないのに驚いて、どうしてそんなに無責任なのか、とちょっととがめ立てをしたら、年を取れば誰でもそうなるからあきらめろ、と言われた。

年を取らなくても時に物忘れをするのは人間だから当然だろうが、それを自覚すればこそ、私はメモを取るし、行動予定を常に把握するようにするし、約束は手帳に記し、カレンダーに記し、いつでも目にとまるようにしている。そのような努力は、若い頃から興味のないことをすぐに忘れる傾向の強い私はとにかくメモ、スケジュール管理で乗り越えてきた。おそらく今でもそれで失敗したことはほとんど無いと思う。

また、いろいろなことに興味を持ち、実際には生活に役立たないと思えることでも新しく学ぶことはしているし、結構興味を持てばそれに関する限り意欲も根気も、そして記憶も特に衰えたとの自覚はない。自覚がないだけかもしれないが、自分ではうまくいっていると言うならそれでよいのではないか。

兄が、もう年だから物覚えが悪くなって当然だというのを聞きながら、内心それを当然だと思うのでは本当に衰えるだけであり、年と共に衰えることを受け入れるなら、それを克服する努力や気概を持つべきではないのかと言いたかった。年齢による劣化を受け入れるからこそ、それを克服する気にもなると私なら考える。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 記憶力を鍛える
人間の記憶力は通常7,8才をピークに衰え始め、30もすぎると、めっきり物覚えが悪くなったと言う人が多い。そのころはまだ子供の頃の記憶力がはっきりと実感できているからそれと比べれば衰えているのは当然なのだが、そんな事も50,60,70と年を重ねてくると、30代の頃の記憶力などその年齢からすればまさに天才的な記憶力だったのだと改めて実感する。

しかし、年齢と共に記憶力が衰えるのは脳の成長の当たり前の現象であり、とにかく幼少時は見る物聞く物全て選り分けることなく全て頭に詰め込み、成長するに従って記憶する必要のないことを自動的に判別するようになり、無駄な記憶をしなくなる。

そうやって、とにかく子供時代に無制限に詰め込んだ記憶は、その後の成長に従って整理整頓され、不要な記憶はほとんど除去されてゆくが、人間にとっての脳の使い方とは単に覚えるだけではなく、覚えたことを生活に役立てる事にあるのだから記憶するためだけに使っているわけには行かない。理解し判断する能力が高まってくるのが当然なのだ。

一説によると、人間の臓器は全てある年齢をピークに後は衰えてゆくだけであり健康状況によってはその衰えを可能な限り遅らせたり、それまでに使いこなせていなかった能力を高めて臓器の機能が見かけ上良くなることはある。が、基本的に年齢と共に体は衰えてゆくのだが、ただ一カ所、脳だけは人間の最大限の寿命、現在では120歳くらいと言われているがその時点まで使い方によっては機能を保ち続け、場合によっては高まる可能性があるという。

さて、人間が(人間だけではないが)幼少時に膨大な情報を無制限に記憶し、そのあと情報を整理し、その情報を使って判断する能力を高めるのは生物として当然なのだが、困ったことに現代の環境は人間の一生の間に激変してしまい新しい事が毎日毎月現れてきて、それを理解しないことには生活がまともに出来なくなる。これほど環境が激変することはあらゆる生物にとって初めての事であり、人間もその激変する環境になれるには常に新しいことを記憶する必要が出てくる。大昔、生活が何十年も同じだった頃は、子供の頃に覚えた知識だけで一生過ごせたのに、今ではそれが通用しないのだ。

現代はコンピューターが無ければ生活が成り立たないが、そのコンピューターがこれほど人間の生活に食い込んできたのはせいぜい2,30年くらいのことだからそれ以前に成長してしまった人々にとって、コンピューターについての知識はまさに記憶力が低下してから覚えなくてはならないし、それが出来なければ時代から取り残される。

今の激しく変わる時代においては、大昔のように子供時代の記憶だけに頼ることが出来ないので、年齢を重ねても記憶力は高い状態にして置かなくてはならない。つまり記憶力を鍛える努力は必要不可欠なのだ。

と言うことで結論だが、記憶力は訓練で高めることが出来る。トレーニングでどんな年齢でもそれなりに運動能力が高まるように、訓練すれば記憶力は高まるのだ。方法はいくらでも探せるが基本興味を持っていることは記憶しやすい。つまり、何かに集中し興味の対象にして記憶力を高めることで、他の記憶も出来るようになる。

私の周りの高齢者達の中でも、若々しい人たちは例外なく何かに打ち込み実に記憶力に優れている。

若々しいから記憶力が高いのではなく、記憶力を高めているから若々しいのだと私は思う。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 年と共に幸福度が上がる

今の日本では、なにか若いことが無条件で価値があるかのような風潮が強すぎる。むろん、若いととは可能性があるということであり価値があるとすればそれくらいしかない。可能性の中には、考え方が柔軟であるから新しい発想を生み出す事も可能だ、との要素も含む。

まあ、それは人それぞれで、若い内から目標を失ったり頑固だったり無気力だったりなど、若いからこそ陥りやすいもろさも持っている。つまり抵抗力や適応力が極端に少ない若者も大勢いるのだ。

結局、若いことが幸福なのではない、どれだけ人生を楽しんでいるかが幸福につながるのではないのか。これを裏付けるおもしろいデータがある。年輩者に聞くと、今が一番幸福だと考えている人が非常に多いのだ。若い人間は、年輩になった自分を経験していないから、今出来ることが出来なくなるなどの不安が先立ち、年を取ることにおそれを抱いているのだろうが、年輩者は若い頃の自分を知っているので、それと比較して今の方が幸せだと答えるのだから、それには根拠があると言える。

子供の頃に還りたいと言う人は多いが、それは今の自分を知っているからであり、子供の頃の無邪気で無責任で何をしても許され甘えることも許されていた記憶だけが全てではあるまい。子供の頃には、問題を自分で解決することも出来なければ、問題を理解することも出来ず、自分の運命をどうすることも出来なかった。私は、子供の頃のことは楽しかった思い出だけとして、絶対に戻りたいとは思わない。その延長かもしれないが、若い頃に戻りたいともあまり思わない。

もちろん、人生において後悔はいろいろあり、若い頃にそれを知っていたら決してそんな後悔はしないだろうと言うのはたんなる屁理屈であって、それをしない代わりに別なことをして後悔をするかもしれない。そんな繰り返しをするくらいなら、今までの経験を活かし、今まで身につけた問題解決能力を今の人生に活かしたいと考えるべきだろう。

私自身で言えば金儲けとは縁がなく、まあはっきり言って金に恵まれた覚えはないが、若い頃に体力をとことん損なっていたこともあり、年を取って一番困るのは、金がないことよりも体が思うように動かないことだろうと考えていた。なにしろ、当時から多くの年輩者が金には困らなくとも大病をしてどこにも行けない、何も食べられない、動く気力もない、病院から離れられないと嘆いている人を大勢見てきたのだ。

幸い、数十年かけて体力を保ち健康を保つ努力をしてきた成果が今はっきりと現れている。若い頃よりも体は動くし、定期的な健康診断以外病院とは無縁でいられる。具合の悪いところは全くと言っていいほど無い。

これは年を取っていなくてもかなり快適なのだが、年輩になってみるとつくづくありがたいと思う。

年輩になることを積極的に評価し、その経験や知恵を活かして生きてゆける体力を保つなら、年を取ることをおそれる理由は何もないと言えるのではないか。

by ロクスケ












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心の健康をケアする 年を取ること、劣化ではない

これも以前に書いたことの繰り返しになるが、人間誰でも年をとる。それがまるで災厄のように考えている人がかなりいる。年をとれば何も出来なくなると本気でおそれている人もいるようだ。

個人差はあるのだろうが、年をとることで体が動かなくなると言うのも日常生活を基準に考えればそんなことはないと私は思う。確かに、20代の頃は100メートルを十数秒で走れたろうが今はおそらく20秒くらいかかりそうだ。が、そもそも私の日常生活で100メートルを走る必要性などないし、今でも信号の変わり目にダッシュして道路を走ることがあるが、精々2,30メートルだろうし、それで息が上がるなどはない。

40キロくらいの物なら問題なく持ち運びできるし、物覚えが生活に支障が出るほど悪くなった実感もない。必要なことはメモしているし、特に何かが思い出せなくて困ったこともない。どうせ昔だって何かを忘れることは多々あったのだ。

理解力が衰えた自覚がない。気がつかないだけなのかもしれないが、ネットで新しい物事に触れてもとりあえず必要な理解はしていると思っている。

となると、体力や精神力でぎりぎりのところまで絞り出すなら確かに20代、30代の頃には及ばないのかもしれないが、幸い今の生活でそのような必要性はない。さらに、若い頃には無かった経験が今は計り知れない力になっている。

とはいえ、視力や聴力は衰えたと思うし、昔ほどの声も出なくなった。柔軟性もなくなったし、機敏性も無くなっている。が、そもそも、昔夢中になっていた様々なことに今は興味が無くなったから昔持っていた能力を今必要とすることもない。

生活の内容は確かに若い頃とは大きく変わった。が、生活の内容の質が変わったとは到底思えない。昔は見向きもしなかったことに興味を持ち経験を活かして味わうことが出来るなら、それは年を重ねたたまものだと、私には思えるのだが。

by ロクスケ












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心の健康をケアする 高齢者による犯罪が話題になっている

一般に年を取ると角が取れ丸くなると言われているが、実際はそうではないことは自分が年輩になってみるとよく分かる。自分自身が決して角が取れ丸くなったなどとは思わないが、ただつまらないことに突っかかる事が無意味であることを経験から学んだだけだ。

が、実際は高齢者の犯罪は決して低くはない。報道でも、ほんのつまらないことで家族を殺したとか、喧嘩をしたとか、暴れて人を傷つけたとか詐欺をしたとか盗んだとか、それも常習者ならともかくそれまで普通の生活をしてきた高齢者達が何でそんなことをと驚くような犯罪を犯すことが間々あるのだ。

せっかく積み上げてきた生活を根本から破壊し、人間関係を失い下手をすればその年で刑務所に入る。若い頃からそのような生活をしてきたならそれが染みついているのだろうが、今までそんなこととは全く無縁だったはずの人がそのような犯罪を犯す。

これは私の想像だが、病的な物をのぞいては自制心も老化によって衰えてくるのではないかと思う。判断力と言っても良いだろうが、俺俺詐欺の被害者のほとんどが高齢者であり、何でそんな分かり切った詐欺に引っかかるのか、年輩なら経験でそんなだましくらい見抜けるだろうと思うのは間違いのようだ。老化によって、肝心の判断力が衰えているのではないだろうか。

老人は頑固だと言われるが、自分の経験以外の事を受け入れることが出来ず、場合によっては無視する傾向がある。俺俺詐欺など昔にはなかった犯罪も自分の経験にはなかったことから新しい知識として受け入れることが出来ないのではないかと考えるわけだ。

それなら、せっかく積み上げてきた生活や人間関係を全て失う犯罪を犯してしまうのも、やはり老化の故にそのような判断が出来なくなっているのかもしれない。

そう考えてみると、私は大丈夫かと心配になる。自分で老化を自覚できていればよいのだが。

by ロクスケ











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心の健康をケアする 老成、老熟を評価する

どうも老いが私の関心の中心になっているようだが、それを考えなければならない年齢だからだろう。が老いとは、人により千差万別なのだ。これはその年になってみればよく分かる。

年を取ったら体が動かなくなる、病気になる、記憶力始め知的能力が衰えるなどなどあまりに強調されすぎているような気がする。今の日本の高齢者は世界でも最も健康状態が良く、かくしゃくとしている人が多い。知的にも、高齢者であるからこそ深い人生経験や熟練で若者が到底及びもつかない業績を上げている。

現在、65歳以上の人の7人に一人が認知症なのだそうだし、数年先には5人に一人になるそうだ。が、考えてみればそれだけしか認知症にならないと言うことではないのか。悲観的に考えれば何を見ても悲観的になるだろうが、それまでに築いた知的財産、経験、熟練、人間関係などなど、高齢にならなければ手に入らない物が無数にある。

また加齢に伴って失われる体力や健康なども、それなりに気を遣い努力をすれば思ったよりも維持できる物だ。それでも失われる物があるだろうが、得られる物の方が大きいなら加齢を嘆くことはないのではないか。

以前も書いたが、老成、老熟とは単なる気休めの言葉ではない。衰える高齢者への慰めの言葉ではない。加齢によって失われる物を最大限に引き留め、得られた物を最大限に活用することで、人生は豊かになる。そして、実際多くの高齢者が、今が一番幸せだと考えているのが統計上でも明らかになっている。

by ロクスケ











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健康のための食事 体は食物から出来ている

食事は楽しみの一つでありそれを無視することは出来ない。が、好きな物を好きなだけ食べるのが良いわけではない。体のための食事をしながらそれを楽しむ方法を考えてみる。

とはいえ、本当は私には食を楽しむなどと偉そうに言える資格はないのかもしれない。以前にも書いたことがあると思うが、私は食事を楽しむ、旨い物を食べるために苦労をいとわないと言う趣味がない。以前は仕事で日本中を回り、また海外にも行き、それぞれの場所で名物とされる物もいろいろ食べたとおもう。一部のグルメのように金に糸目を付けずに最高級のレストランを食べ歩いたなどということはなかったが、仕事で接待したりされたりが頻繁にあって、それなりに普段自分では食べようとも思わないものを食べたのは事実だ。その結果、自分は絶対に美食追求の趣味はないと確信した。

もちろん、私もまずい物よりは旨いものを食べようとは思うが、その基準が人とは全く違うようだ。そもそも北国で塩っ辛い物が食べられる地域で子供時代を過ごしたが、ご多分に漏れず家でも、後から思えば極めてこい味付けが普通であって、私は家でも一人だけどうしても濃い味になれることが出来ず、お浸しや納豆に醤油をかけず、みそ汁はお湯でわっていた。母も、煮付けや濃い味がしみこむ料理については私の分だけ取り分けて薄味にしてくれるのが常だった。同じ家族で私だけ味覚が違っていたのはどうしてか分からないが、それは今でも同じだ。

私が作ったものを食べた人は異口同音に味がしないという。が、私自身は十分に味付けをしているつもりなのだ。煮物一つにしても、一般に食べられているものは甘すぎたりしょっぱすぎたりで苦手な場合が多い。外食はその意味であまり好きではない。また肉はあまり、というよりほとんど食べない。ただし、鶏肉は好きな方だ。その鶏肉も滅多に食べない。食べるのはほぼ100%和食であり、それもほとんど野菜であることが多い。5,6品食べる ときでも、気がついたら動物性は卵だけだったなどはよくある。卵は意識して食べるようにしている。

醤油は使ってもほんの少し、みそ汁は好きだが、椀の底が透けて見えるほど味噌が少ない。砂糖やみりんは使わない。塩は漬け物以外使わないが、薄塩で発酵させた物であり、塩分は極端に少ない。

本当に糖尿病や肝臓病、高血圧のための病院食のようだが、自然にそうなったのであり、調味料を使わないことで野菜本来の味が楽しめる。

食事は通常一日朝晩のみ。間食はしない。品数は多いが、それは作り置きを毎日食べるからであって、同じものを何日食べても全く苦にならないから、煮付けなどは毎回加熱し、具や出汁を足しながら数ヶ月続けて食べているし、野菜炒めは毎日食べている。

このような食生活を、兄などは食事ではない、餌だと言うが、全くかまわない。本当を言うと、食べずに済むならその時間を他に使いたいが、食べなければ生きて行けないから食べているだけのことだ。

意識してそうしているわけではないが、結果として医師には理想的な食事だと言われているし、実際先日受けた検査では、血液検査、尿検査の項目で何一つ異常が無く血圧なども理想的な範囲に収まっている。

苦労して味気ない食事管理などしているつもりはないが、薄味で本当に味を楽しめるなら、そして同じ物を365日食べ続けて飽きないなら、本当に便利だと思っている。

少なくとも薄味になれてみれば、食材本来の味を堪能できると思うのだが。

by ロクスケ











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健康のための食事 小食は寿命を延ばす

私は自分ではそう思っていなかったが、時々人に指摘されることがある。ロクスケさんはずいぶん小食なんですね、ということだ。昔は動けなくなるほど食べたこともあったが、元々は満腹感が嫌いで、程々食べればすぐ満足してしまう。

間食はほとんどしないし、今は酒を飲まないので、酒の肴に食べることはない。おかずの品数は多い方だと思っているが、それぞれのサイズは確かに小さいようだし、ご飯は普通の茶碗に六分目くらいでお代わりなし。多い品数で胃袋を満たしている。満腹になるほどは食べない。多少の空腹の方が気持ちがよいようで、一日二食が普通だ。


いつからそうなったか知らないが、気がついたらそうで、たまに同年輩の人たちとおつきあいで食事をするが、中には本当に良くまあ入るなぁと思うほど食べる人がいる。ひっきりなしにお菓子などのつまみ食いをしている人がいる。

私自身、時々もう少し食べないとならないかなと、多少無理して食べてみることがあるが、長続きはしない。まあそれで結構体重はチョイデブくらいではないか。骨量が多いので、人並みのBMIにすると減らしすぎであり、何度も試してみた結果、今くらいのBMI25プラスαくらいが、一番体調がよい。

気のせいで体調がよいのではなく、定期的に受けている健康診断でも全く異常が見つからない。血圧は夏は低めになるが、下が大体70-80、上が 100-120で安定しているし、動脈硬化、コレステロール(ちょっと低め)中性脂肪、血糖、尿タンパク、腎機能、そして尿酸値が一時高めだったが今は完全に正常値に収まり、つまり全く問題がないし、運動機能も正常、肺活量は5000以上とこれも問題がない。

自分では、毎日欠かさないウォーキングや工作室で過ごす体の動かし方や、食事内容もさることながら食事量が少ないことが助けになっていると信じている。意識はしていないが、粗食であることとも併せて、食費がきわめて少なくて済むのは助かる。その分好きな工作につぎ込めるからだ。

食事量が少ない、カロリーが低めであることは長寿につながるとの研究結果があるし、かなり確実性が増しているとのことだ。これはネットなどで調べてみると、無数にヒットする。食べ過ぎは寿命を縮め、病気の要因になる、免疫力が低下するなどといくらでもでてくる。

自分で意識していたわけではないが、自分の体の状態から、たぶんそれは本当なのだと思っている。

美食は人によっては人生の目的であり、それをあきらめるくらいなら寿命が縮んでも良いと言う人に私の食事方法を押しつけるつもりは毛頭無い。が、黙って短い寿命で死ぬならともかく、食べ過ぎで病気になり、最悪寝たきりになるよりは、自由に体が動かせ、好きなことが出来る喜びを棄てるのはどうかと思う。まあ、それも人それぞれの選択なのだが。

by ロクスケ











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健康のための食事 人間は雑食動物
人間が今のように進化して生物の頂点に立てた一つの要因に、人間が雑食性だったということにある、との説があるそうだ。だからこそ世界中の何処に進出してもその地で自由に食物を見つけることが出来たし、それによって、活動のための十分なエネルギーを地球上の何処ででも得ることが出来たというわけだ。

確かに、ほとんどの動物は限られた土地でしか生息していないし、人間が連れ出さない限り他の地域へ進出することはない。鼠などは、人間が居なければ真っ先に都会から居なくなるとさえ言われている。何処ででも生きているようだが、都会の鼠は食物を完全に人間に依存しているのだ。

もっと極端な例としては、コアラなどは人間が世話をしない限り、オーストラリア以外の土地では野生では生きていけないが、それは彼らが食べるユーカリ、しかも限られた種類のユーカリが他の土地にはないからだ。ユーカリしか食べないし、しかもそのユーカリは毒を含んでいるので他の動物と食べ物を争う必要がない。食べ物を巡る争奪戦から開放されることをコアラは選んだし、パンダは笹を食べることで、他者との競争を免れている。

アリクイは、蟻しか食べないので、蟻だけを食べるために口や舌がそのように特化して進化し、足も蟻の巣を壊すような道具になっている。蟻はきわめて栄養価に富んでいるし、比較的得やすい餌なので、苦労せずに食物にありつける進化を遂げたわけだ。これでは、他の可能性を得るためにチャレンジをするなどあり得ない。

人間は、何でも食べることで限られた食物を他の動物と争う必要がなかった。その代わり、食物をよりよく獲得するためにいろいろな工夫をし、集団で他の動物を狩る事もするようになったし植物を育てて自ら食物を作る様になった。食物を自ら作る生物は、キノコを育てるハキリアリなどごく限られた種類しか居ない。

だいぶ回り道したが、その結果、人間の消化器はありとあらゆるものを食べ消化できるように進化したし、またありとあらゆるものを食べないと十分な栄養を得ることが出来なくなっている。

雑食性の人間が限られたものしか食べないと確かに健康には良くないだろうから、まんべんなく食べることで本来の人間の能力を発揮できると言える。

結論として、偏食はだめだと言うことなのだが、実は私は昔から肉が苦手で、食べられないことはないが決心しない限り肉を食べることがない。若い頃からそうだったが、近年は気がつけば数ヶ月肉を口にしていないことなどある。先日は思い立って、肉のかたまりを買ってきて焼いて食べたが、具合が悪くなった。体がそうなってしまっているのだと改めて驚いた。精々200グラムくらいで具合が悪くなるなど、昔はなかったのだ。しかし、健康診断では全く問題がないのだから、まあ良いかとは思っている。

by ロクスケ











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健康のための食事 味覚を麻痺させないための薄味

何度も書いているが、この2,3年、私は欠かさず毎日おでん、正確には煮付けかも知れない、を食べている。以前は冬だけだったが今では通年になっている。理由は簡単だからだが、とうぜんまとめて大鍋に作り、毎日加熱し、時折具を足し、出汁を足している。具は、生揚げ、高野豆腐、コンニャク、薩摩揚げ、小揚げ、干し椎茸、昆布などの定番に、大根、にんじん、里芋そのた季節ごとの野菜なども入れる。最近では焼いた鶏手羽が加わることが多い。時には小揚げにいろいろな物を詰め込んだ袋物も入ることがある。

そして気が付いたのだが、最近はろくに醤油を入れず、ほとんど出汁以外の味付けをしていない状態で食べているが、まったく問題がない。以前から極端な薄味で、人に因れば味がないと言われるほどだったのだが、最近では知らない間にどんどん薄味が進んできて、最後には出汁や具を足しながら醤油を足さない状態にまでなった。そして、それなりに味を楽しんでおり、塩味とは単に慣れで要求している物だと改めて思った。

そのためなのか、血圧はかなり低い。夏は特に低くなるのだが、今毎日朝夕測って記録し、収縮期、即ち上の血圧が100台。高くても110台であり、120を超えることは滅多にない。拡張期、即ち下の血圧は普通で60台、80を超えることはほとんど無い。一月くらい前だったか、上が86、下が53でさすがに驚いた。が、別に体力的に問題はないから気にしないことにしている。

塩分を控えることは確かに血圧には良い影響を及ぼしているのだろうが、折から夏であり、塩分の極端な不足は命に関わる。その分は糠漬けで補うようにしているのだが。

by ロクスケ











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健康のための食事 カロリー悪者説

日本人の平均摂取カロリーは、男性成人で2500Kcal/日、女性で1800Kcal/位だとされている。それは世界ではかなり低い方で、米国人などでは3000Kcalくらいは当たり前、10000Kcalほども採る人が大勢いるとか。そのためか、日本人は世界でも最も肥満率が低く、韓国と並んで3%台だという。

一方、米国などは35-40%が肥満だというのだから驚くが、たしかに米国では2,300Kgsの人が普通にいる。町で出会うと、まるで壁が歩いてくるような光景だ。ただし、アジア人は骨格の構造から極端な肥満になると歩けなくなることが多く必死になって減量しなければならないのだが、アメリカ人などは2,300Kgsになっても動けるから減量が深刻に採られていないそうだ。

昔は、日本でも中年男性など、でっぷりと太っているのが貫禄があって好ましいとされていたこともあり、庶民はろくに食べられず体を酷使していたので太ることが出来なかったのに対し、金持ちの商人などはむしろ太っていることを自慢していたようだ。正確な記録はないが、生活習慣病で動けなくなったり早死にする人は多かったろう。一方、庶民は庶民で栄養不足で早死にしたようだ。

いま、日本は何年も連続して女性は世界一の平均寿命、男性も3,4位くらいの寿命を保っていて、それも高齢になっても自立できている健康寿命が極めて高いことで知られている。むろん、肥満率が低いことが大いに役立っているのだが、しかし、肥満はともかく痩せ過ぎも当然ながら寿命を縮める。特に若い女性、それも10代前半や小学生の頃から太りすぎを気にする女性、近年は男性でもそういう人が多く、育ち盛りにそのような状態であれば、大人になってもかなり深刻な影響があるとのことだ。女性は不妊などが深刻にとらえられているという。

子供は大人と違い成長に多くのカロリーがいるし、それを消化できる能力があるが、その時期に十分に食べずにいると一生健康になれないとの警告が発せられている。子供の肥満も無論大問題だが、子供の無用なダイエット、そして大人でも無用なダイエットは百害有って一利無しだろう。

まるでカロリーが完全な悪であるかのような風潮は絶対に間違っている。過剰なカロリーがだめなのだ。また、同じ食べるにしても、当然ながら偏食無く規則的に良く噛んで食べ、過度な甘みや辛み、塩などを摂りすぎないのは言うまでもないが、ただカロリーを摂らないことだけを心がけるダイエットなど緩慢な自殺と考えた方がよいようだ。痩せるのがよいのではない。無駄に太りすぎないのが大切なのであり、けっしてカロリー制限だけで事足りるわけではない。

by ロクスケ











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標準体重は本当か

BMI指数というのはもう説明のようもないほどだろうが、体重/身長の自乗であり、22が標準、25以上が肥満とされている。多くの生活習慣病が肥満を原因としているので、BMIは25未満が望ましく、22に近づけるべきであるとの意味がある。が、平均的人間とは実際には存在しないと考えて良い。同じく体重が多くても、脂肪による体重なのか、筋肉が多いのかでは意味が違うし、生まれつきの体格、即ち足が長ければ同じ体重でも身長は高くなるだろうしその逆もある。近年の日本人はどんどん身長が伸び、それも足の長さがのびてきたからだが、それとは全く無関係の我々が同じ指数を当てはめるなど不合理そのものだろう。

また若い世代では身長こそ伸びたが骨が細く筋肉も少ないために身長の割に平均密度が低い。一方年輩者には骨太で筋肉量が多く足が短く顔が大きいとなれば、到底同じ人間として同じBMIを当てはめるわけには行かないだろう。

長々と書いたが、私のBMIは25を越しており、地域の健康診断などではもう少し体重を落とせと言われる。が、実際に体重を落とすとてきめんに体力が落ちるのを何度も経験しているので、結局今の体重が最も適正体重なのだと決めている。実際、他の生活習慣病を示す兆候は全くない。血圧は理想値、コレステロール、中性脂肪、血糖値全く問題が無く、血球量も腎機能も全く問題がないのだから、BMIを理想値に近づけて体力を落とすなどばからしいと思っているのだ。

前回も書いたが、BMIはあくまで目安であり、からだの構造も違う世代の違いも無視して標準とするやり方は間違いだろう。その上で、確かに日本は世界でも最も肥満率の低い国であり、それは世界トップクラスの平均寿命、健康寿命の長さと無関係ではあるまい。だが、BMI、すなわち肥満率とはあくまで自分の状態をチェックし、最も体力があって、各種の検査項目が正常値に収まっている状況が一番自分にとって最適の値だと、私は思う。

by ロクスケ











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健康のための食事 毎日同じものを食べる

何度か書いているが、私は毎日ほとんど同じものしか食べない。ご飯、卵、納豆、みそ汁(具はわかめと油揚げ)、糠漬け、野菜炒め、煮物。それに時折小鉢や、たまには焼き魚煮魚刺身などを足す。ただし、野菜炒めなどはそれをスープにしたり、みそ汁に入れたり、麺類に使ったりとかなり応用はしている。基本はパン食ではない。麺類は時折食べる。外食はほとんどしない。

なぜこういう食べ方をするかというと、第一の理由は美食に興味が無く、したがって、何を食べても同じという傾向があるし、食事に時間を費やしたくない。同じものを毎日食べると、調理はきわめて簡単になる。それが良いし、面倒くさくなって加工食品や外食になることもない。

兄などは、それは食事ではなく餌だなどとひどいことを言うが、実際には私の健康状態はきわめて良好だし、食餌管理も同じものを食べていることで簡単になる。まあ、美食追求で時間も健康も犠牲にする人がいるのは知っているし、それはその人の生き方なので私がとやかく言うようなことではないが、かつて仕事で海外や日本国内いろいろなところに行き、仕事柄おつきあいでいろいろ食べた。が、特にそれで忘れられない思い出もないし、特に海外では肉食が多くてまた脂肪分が多く、スパイスが効きすぎて辟易していた。おそらく今の食生活はその反動ではないのかと思うくらいだ。

たまに、おつきあいなどで肉を食べると決まって具合が悪くなる。多分に精神的な物なのだ。

繰り返すが、何を生活の楽しみとするかは人それぞれだ。が、私は自分の食生活、つまり、毎日同じものを食べている食生活が今の健康状態を支えていると思っているし、同年代の人々の多くが病院通いに時間を費やし、思うように動けず薬漬けになっているのを見ると、年輩になって金がないのは無論困るが、身体が思うようにならないのはもっと困るだろうと考えていたことは間違いなかったと思う。

毎日毎日健康を考えて食事を作り食べるのでは早晩嫌になる。それなら安心して食べられる同じものを毎日食べ続けた方がよほど健康的だと思う。なお、栄養学的には毎日30品目食べなければならないと言われているが、全く気にしていない。多分10種類以上は、ただし同じものを毎日食べているが、問題は自覚していない。

by ロクスケ











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健康のための食事 調理に時間をかけない

たまに外食で旨いものを食べるのも良いだろうが、毎日食べるものを外食に頼るのは感心しない。栄養的に偏るし、経済的にもかなりの負担になる。費用に糸目を付けないならば味覚を満足させるのも良いだろうが、一般庶民には毎回出来ることではないし、第一どんな美味珍味でも飽きる。

そこで、普通は自分の家で作るのだが、そのためにかけられる時間は限られるだろう。調理に何時間もかければ確かに旨いものが出来るだろうが、それではまともな生活が出来ない。そこで、私が考えたのはいかに調理に時間をかけないかだった。前回書いたように、毎日同じものを食べることにすれば、結果として大いに時間の短縮になり、それなりに品数多く食べられる。また、時間をかけすぎると面倒くさくなりつい外食にたよりがちだが、外食もそれなりに時間がかかるのだ。着替えて出かけて、注文してから待って、食べて帰ってくる、その時間も馬鹿にはならない。したがって、私は調理時間には20分以上はかけないことにしている。それが毎日同じものを食べる方法につながっているのだが、他に食べるとしても、たとえばにんじんをカッターで千切りにし、電子レンジで加熱し、それにオリーブオイルやマヨネーズ、ポン酢などをかければ一品ができあがり、千切りキャベツや大根に塩昆布などを混ぜれば一品ができあがる。小揚げや厚揚げを焼いてショウガ(チューブ)と醤油で一品できあがるなど、ご飯を温めている間に出来る。毎日食べ続けているものと合わせればかなりの食事があっという間に出来る。

調理に時間をかけすぎると調理が面倒になるし、更に食べるのも面倒になる。いずれ健康を害するので、わたしはとにかく調理に手をかけない、あるいは何か他のことをしながら調理できる(以前書いた保温調理など)ものを選ぶ。

調理に時間をかけないことが結果としてより豊かな食生活につながると思うのだが。

by ロクスケ











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健康のための食事 棄てる物こそうまい

先日、大風の後に無数に落ちていたナナカマドの実を大量に拾うことが出来た。真っ赤な小粒の実が房状に実る木で、鳥がよくこの実を食べているが、人間が到底食べられるような味ではない。だから、完全に観賞用として植えられているのであり、食べようと思う人はいないから風で落ちた実もいずれ掃集められ捨てられる。

その実をおおよそ1kgくらい拾ってきたので、ほぐして実をバラバラにし、水洗いをしてから陰干しをした。そして、広口ガラス瓶に砂糖と共に入れ、35°の焼酎を入れてつけ込む。3ヶ月から半年位で飲めるという。

ナナカマドはそのままでは食用にならないが、果実酒にすると風味のある変わった物が出来るとネットで見たので、落ちているナナカマドを見て作ってみることにしたのだ。



去年はリンゴ酒を作ってみた。去年作ったのはリンゴをそのまま四つ割りくらいにしてそのまま砂糖と一緒に焼酎で漬けたのだが、飲み終わったリンゴ四分の一のかけらを刻んでカップに入れ熱湯を注ぐとかなり香りの良い飲み物になる。あるいはジャムにしても良い。

その前に作ったリンゴ酒は、あらかじめ砂糖入りの焼酎を瓶に入れて置いて、リンゴを食べるたびに前もって良くあらい、皮を剥き、芯を取って実は食べてから皮と芯を用意した焼酎に次々に漬けてゆく方法を採った。おそらく必要な量の皮や芯が入ったのは3ヶ月後くらいだろうが、この方が風味や香り豊かなリンゴ酒が出来る。

リンゴの皮といえば、剥いた後干してからからにした物は、漬け物や紅茶に入れると風味が楽しめる。

要するに捨てる物を上手く利用すると思いがけない楽しみ方が出来ると言うことであり、大根の皮を干して於いて別に、水で戻してから油揚げなどと一緒に煮ると、歯ごたえの良い一品が出来る。おそらく金を出しても乾燥大根の皮を買っても良いくらいの価値がある。

野菜などは本当に捨てるところはないし、魚も骨がでたら焼いて出汁を取るなど骨の髄までしゃぶり尽くす。もったいないからと言うより、実によい出汁になるからだ。

私はほとんど食べ物の屑を出さないようにしているが、もったいないからというより、旨いからと言う方が正しい。

もったいないという観点からも、日本の食糧自給率は40%位であり、それなのに年間で廃棄される食料が1000万トンを超えるという。100%無駄にしないというのは不可能かも知れないが、何とも複雑な気持ちになる。まずいのを我慢して食べるのではなく、工夫次第で旨い食材になるのに、工夫する価値は十分あるのではないか。

by ロクスケ











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健康のための食事 欲するものを食べる

食べたいものを食べるのは健康には良くないのではないかと思うのではないだろうか。私もそう思う。塩辛いもの、脂っこいものが好きだから好きなだけ食べるのでは、当然生活習慣病へまっしぐらと言うことになるだろう。

私がここで言うのは、食べて問題のない物を好きになると言うことなのだ。何度も書いていて恐れ入るが、私は脂っこい肉類を食べない。自分では特に嫌いだと思っていなかったし、海外に行っていた頃はそれが主食のようなものだった。しかし、この2,30年か、かつて大量に食べていたほど肉を食べなくなり、この最近は意識しない限り肉を食べなくなった。時には食べた方がよいのかも知れないと、肉をまとめて買ってきて調理し食べるが、あまり食べると具合が悪くなる。多分精神的に肉を拒否するようになっていたらしい。実は魚も意識しなければ食べない。自分では好きだと思っていたが、また実際食べると旨いと感ずるし別に退潮に悪影響もないが、だからといって頻繁に食べることもない。

今日は魚を食べようと決心しなければ食べなくなっている。買ってきた魚も食べきれない分は半年くらいも冷凍庫に突っ込まれたままで、結局捨てることもある。

結局、私が好きなのは野菜なのであり、それもきわめて薄味にした野菜類なら毎日食べて飽きない。つまり私が言う、欲するものを食べるとは、身体が欲するものであり、自分自身の嗜好は身体が欲するものと言うことになる。

とうぜん、外食はあまり、と言うよりおつきあい以外はしない。例外なく味が濃すぎるし油濃すぎるからで、しかも調味料の使いすぎが明らかに分かるものは到底食べられない。

先日もおつきあいで評判のスペイン料理の店に何人かでゆき、結局パエリアや何か名前を知らない料理がたくさん出てきて、みんなで銘々皿に取り分けて食べるやり方だったが、私が食べたのはほとんどサラダだけだった。ずいぶんもったいないことだと思うが、自分の好みで注文できるならもう少しましだったろう。一口食べたパエリヤなどは油臭くて喉を通らなかったが、他の人々はさすが有名な店だから旨いと口々に言う。私も同じ感想を述べたが、知らない間にずいぶん嗜好が変わってしまったのだとつくづく思った。その店は初めてだったが、以前もパエリヤは食べたしスペイン料理も何度か食べていて、楽しんだ記憶があるのだ。

今、自分が食べたいものを食べるとは、薄味の野菜や海草類などに限られていることを改めて知った。食の楽しみがないのかとも思うが、実際食べたいものを食べていて私自身は楽しんでいる。それで、体調は良いのだから、まあそれでも良いと思うし、決して我慢をして食べたくないものを食べているわけではない。

by ロクスケ











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健康のための食事 日本食が健康食と言われるわけ

今世界中で日本食がブームと言われていて、先年世界文化遺産に登録された。私は日本人であり、生まれたときから日本食で育ち、カレーライスが洋食だと思っていた子供時代、自立前は本当の西洋料理を食べた記憶が無く、母が見よう見まねで作るオムレツくらいが西洋料理の認識だった。とにかく、自立して自分で外食をするまで本当の(本当に近い)西洋料理を食べるまでは、日本食以外を知らなかった。

特に海外に行って、日本人向けにアレンジされていない現地の料理を食べ、到底自分には食べ続けることは出来ないと思った記憶がある。接待を受け、それなりの良いレストランに連れて行かれても、非常に旨いとは言ったが本心ではなく、自分では日本食レストランを探しては行ったりしていた。

特にあの油の濃さ、味のくどさ、おおざっぱな味など到底なじめず、長期で滞在するときなどは梅干しや塩昆布などたくさん持っていった。

知っての通り、日本人は世界で最も長生きをする(小さな国などでは日本より平均寿命が長いところがいくつかある)し、健康寿命もトップクラスだ。肥満率も世界最低で、生活習慣病も他の先進国よりはよほど少ないし、途上国などのような栄養不良、感染症などもほとんど無い。

日本は周囲を海に囲まれ四季があり、山は平野などが入り組み、南北に長いなどから自然がきわめて豊かであり、非常にバラエティに富んだ食材が豊富にあるし、昔から世界でも希有なほど衛生概念が発達して、他国では到底口に出来ない生魚大昔からを食べる習慣が根付いているほどほどだ。仏教の影響で肉の多食をせず、それが今でも色濃く日本食の特徴となっている。何しろ、国によっては三食キロ単位の肉を食べているように見え、野菜など食物と思っていないかのようだ。

日本人が健康で長生きし、そして見かけでも若々しいのはすでにイメージとして定着しているが、それが食事と結びついていると考えるのは当然だろ。それほど、海外の食事はひどいのだ。この場合の西洋料理とは、私たちが知っているフランス料理やイタリア料理の事ではない。そんなレストランで出されるような料理を彼らが毎日食べているわけではないことは、私たちが毎日寿司や天ぷらを食べているわけではないのと同じだ。彼らの日常の食事が日本の日常の食事と全く違うのだ。

むろん、私は日本人で生まれてから今に至るまで日本食で生きているから味覚も嗜好も日本食に染まりきっている。だから、味覚や嗜好で今更西洋料理が旨いと思わないのも当然だろうが、それより、実際に自分の体調が海外で高々2,3週間食事をしただけで変調を来すのはやはり食事の質が健康とはかけ離れているからだと思えて仕方がない。

by ロクスケ











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健康のための食事 たばこは味覚を殺す

昔、私は一時期かなりのヘビースモーカーで、当時のきついハイライトを毎日3箱、あるいは50本入りの両切りピース一缶を喫っていた。ただし、後から考えてみると、精々2年くらいだった様だ。当時は、何を食べても脂臭く、食べ物の味など全く分かっていなかったのだとこれも後から思った。

完全に喫煙してからもう数十年経つが、喫煙してから数年経って食べ物の味が分かるようになっていた。ただし、私自身はグルメの趣味など無いので、美食を求めてあちこちに行くなどはしないが、それでもまずい物よりは旨いものを食べたいのは人と同じだ。

そして、次第に私の味覚が人と異なってきていることに気が付いた。他の人が旨いという料理が私にとって味がくどい、油臭い、甘ったるいなど気になってきた。まあ、そういう食べ物でも多くは仕事上のおつきあいで食べるわけで、自分の趣味で選んでいるわけではないので、本当に旨いですね、と相づちは打っていたが、自分では選んで食べないだろうなと思うことが多々あった。

名物に旨い物無しというが、地方に行けば土地の人は自慢の郷土料理などを食べさせてくれる。まずいとは言わないが、自分一人で食べに行くことはなかった。

たまに、自分で見つけた店で食べることがあったが、むしろその方がなかなか旨いと思う事が多かったように思える。さて、その原因を考えてみて思い当たるのがたばこではないかと言うことだ。

当時私は喫煙習慣を完全に絶って何年も経っていたが、仕事上で付き合う人たちの多くが喫煙者で、その人達が好む店はほとんど決まってたばこの煙が店の中に立ちこめていた。今でこそ、禁煙席と喫煙席が分かれていたり、完全禁煙の店が多いが、当時は非喫煙者が遠慮して入る店が特に地方には多かったようだ。

そこで出される料理は、喫煙者でも分かる非常に味の濃い物が多かったのではないかと今では思う。

今、私はほとんど外食をしないし、食べるものは自分で作っている。必然的にきわめて薄味になり、たまたまそれを食べた人は異口同音に味がないというが、私自身は野菜にしても魚にしても、醤油や砂糖で濃い味付けをして本来の味を分からなくしているやり方はしない。調味料は本来の味の引き立て役の筈で、何を食べているのか分からないほど味付けをしてしまうのは邪道だと思っている。日本料理は本来の材料の味を活かして作るのが本当だと何かで読んだが、本当に今の日本料理がそうなのかは疑問だ。

たばこをやめて何年か経って、素材の味を活かすとはどういう事か、私なりに納得したと思っている。

by ロクスケ











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健康のための食事 コレステロール、尿酸、中性脂肪、血糖

最近、若いのに突然亡くなる人のニュースが続いている。大相撲の北の湖理事長が亡くなったのも62歳だから、今の基準で言えば若死にだろうし、大動脈破裂で亡くなったひと、心筋梗塞で亡くなった人など、思いがけない早死にをする人が相次いでいる。

彼らばかりではないが、この様な人たちに多いのが日頃の不摂生故ではないかと思えるケースが多く、非常に残念に思っている。もちろん、誰もが病気にはなりたくないし、それこそ本人にはどうしようもない遺伝性のもの、原因の分からない難病など無数にあるが、生活上の不摂生が招いたケースも非常に多い。誤解を恐れずに言うなら自ら呼び込んだ病気も非常に多いと言うことだ。

タイトルにあるコレステロール、尿酸、中性脂肪、血糖は端的に生活習慣病の故に悪化する。ただし、念のために繰り返して置くが、遺伝性や原因不明でこれらが異常値を示すこともあるので、全てが本人の不摂生、責任等と言うことではない。あくまで自分の努力でこれらの数値がコントロールできる場合のことを言っている。

コレステロール、尿酸、中性脂肪、血糖などは老化現象に伴い悪化する傾向があるが、それもやはり個人の努力で天地ほどの開きが生ずる。実際、4,50代でこれらがレッドゾーンを超えそれでも本人が高をくくって改善の努力をしなければまず確実に寿命を縮めるだろうし単に早死にするだけではなく寝たきり状態になったりすることを考えれば、努力はすべきではないのか、家族や社会にかける負担を自分の努力で軽減し、何より自分の生活の質を高めることこそ最優先すべきではないのかと思う。

一にも二にも食餌の改善、普段からの適切な運動でコレステロール、尿酸、中性脂肪、血糖は極端に変わるし、単に数値上の変化だけではなく、はっきりと自覚できるほどの体調改善がある。

食事が単なる栄養補給手段であるだけではなく生きてゆく目的の一つとさえ言える美食の楽しみであることは否定しないし、その楽しみを捨てるべきだとも言わない。が、その楽しみに耽溺する代償はあまりに大きい。

健康であるから美食も楽しめると思うのだが。

残念なことに美食の大半が生活習慣病の原因となる。多くの美食追求家や料理人が短命であることは動かしがたい事実なのだ。ラーメン評論家で一日4,5杯もラーメンを食べていた人やグルメリポーターなどでびっくりするほど早死にしている人が結構いる。

健康で空腹なら、何を食べても美食だと私は思っているし、結構楽しんでいる。運動もしているが、それで医者が太鼓判を押すほど健康ならこれ以上良いことはないと思うのだが。

by ロクスケ











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健康のための食事 空腹は最良のソース

私の身長はこの年代ではまさに全国平均だが、今の20代などからすればかなり低い。私自身は別にそれで不自由をした記憶はないし、子供の頃は平均よりかなり大きかったのが先に成長してしまったためか、成人頃にはずいぶん周囲に追い抜かれていた。むろん、身長は遺伝もある。なにしろ、私の両親も兄弟も決して大きくはなかった。が、それでもその子孫で今20代くらいの子供達孫達は、私たちよりは平均してかなり大きいのだから、遺伝だけで体格が決まるわけではない。結局は栄養摂取の違いだ。

 私の子供の頃はまだ終戦後の色濃い時代で、なにしろ食べるものが少なかった。親はずいぶん苦労をしたろうが、いつも腹を空かせ食べることばかり考えていた時期もある。同世代はほとんど似た様な物だったろう。それでいて、運動量は今の子供達とは桁違いに多かった。外で遊ぶ以外に遊ぶ方法がなかったのだから当然だろうし、その結果、贅肉はなくみんながりがりだったが、筋力や骨はかなりしっかり付いていたようだ。成長期に身長を伸ばす為よりも筋力や骨を作る方に栄養分が優先して使われたためだと考えられる。

 今の子供達は確かに大きいが筋力やスタミナがないケースが多いと聞く。私の甥っ子が高校生の頃自転車で30キロ走って完全にグロッキーになった話を聞いて驚いた。私は今でも50キロくらいなら普通に走るし、走った後ほとんど疲労も感じなければ筋肉痛もない。その甥っ子は私より頭一つ大きい。体重は私より軽い。

 その食べっぷりは私の三日分くらいを一食で食べるのではないかと思うほどだ。食べたものがそのまま出ているのではないか。聞けば、いつも腹が減っていると言うが、嘘だろうとしか思えない。

 今の時代、食べ物がないとの状況は日本ではあり得ない。冷蔵庫を開ければ食品が詰まっていていかに食べないかに工夫をしないと、つい食べ過ぎ焦るという話を頻繁に聞く。また、テレビなどの大食いチャンピオンなどが数キログラムの食品を平らげるのを観ると、あんなまねをしたいとは到底思わないが、仮にしたら到底からだが保たずあっという間に病気になるだろう。

 本来人間が食料を確保できるようになったのは、其の歴史の中ではごく最近に過ぎず、大半は飢えて過ごしていた。むろん、それで長生きできなかった面もあるのだが、基本的に食べ物とは空腹になってから食べる、あるいは食べられなくとも絶えられるように食いだめをするものであって、空腹でもないのに不必要に大量に食べるものではないだろう。人間の身体はそうは出来ていない。食べ物が足りなければ身体を大きくは出来ないとしても、生活に優先されるべき筋肉や骨はちゃんと出来る。食べないことで病気になることはほとんど無いが食べ過ぎで病気になり、早死にする例ならいくらでもある。

 人間が空腹を感じるのは、身体が要求するからであり、要求もされないのに供給されれば無駄に蓄えられたり身体を痛めつけたりするのは至極当然だと思うのだが。

 誰が言ったか、空腹は最良のソースとか。腹が減っているときは何を食べても旨いと言うことだが、それは身体が真に要求しているからといえるのではないか。

 そう考えると、腹が空かないのに食べるのは間違っている、習慣に従って食べるのは間違っていると言うことになる。一日三食も不必要であり、空腹になったら、空腹を感じなくなる程度に食べるのが正しいと言うことになるだろう。実際は社会生活をしている以上、好きなときに食べるわけには行かないし、三食もその意味では必要だが、あくまで身体のために理にかなっているわけではなく、その三食でも自分の空腹度合いを確認しながら調整する事は必要だろう。空腹は最良のソースとは、身体が要求していることを表す言葉と考えるべきだと思う。

by ロクスケ











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健康のための食事 腐敗と発酵

日本は世界有数の発酵食品大国であり、古くからある味噌、醤油、ミリン、酒、酢、鰹節、納豆、塩から、漬け物、糠漬け、なれ鮨などなど無数にある。海外から入ってきた物にも、チーズ、ヨーグルト、アンチョビ、ワイン、ビール、ウィスキー、パンなどなど無数にある。

昔の人は微生物の働きなど知らなかったから、理由は分からないが特定の環境で特定の時間をかけると食品が旨くなる事に気づき、おそらく人類発生時期と発酵食品の発生時期は同じと考えて良い。

発酵食品は味が良くなるだけではなく、いわば微生物によって消化されていると言って良いので、消化吸収も良くなるし、本来含まれていない栄養素を微生物が付け加えていることもあって、元々の状態よりも栄養価が高いケースが多い。栄養価が高く消化吸収がよいとなればきわめて効率の良い食品だと言える。

日本にいれば知らない内にも発酵食品をかなり摂ってはいるが、積極的に摂る努力をすべきだろう。とはいえ、味噌醤油酒を大量に摂ることは出来ないが私の場合は漬け物などを利用する。浅漬けではなく私は乳酸発酵した酸っぱい漬け物が好きで、それらなら塩分もきわめて少なく大半の塩分は水に溶けて出てゆくので、非常に薄塩で様々な野菜を漬ける。また糠漬けも常時食べている。

更にヨーグルトは自分で作り、そのヨーグルトを調理にもつかう。たとえば野菜炒めなどにはかなり入れる。

幸い身体が丈夫なのは発酵食品のおかげもあるのではないかと思っている。

さて、発酵と腐敗は実際は全く同じ現象で、人間にとって有益な物を発酵、有害な物を腐敗と分けているのであり、その判断は習慣による物も多い。納豆は日本人にとっては食物だが、西欧人の多くにとっては腐った大豆であり捨てなければならないだろう。

北欧のシュールストレミングは世界で最も臭い食品だそうで、それを知らなければ食べるなどとんでもない、絶対に直ぐ捨てて地下深く埋めなければならないと考えるのが当然だ。

が、本当に身体に有害な腐敗も無論たくさんある。発酵だと思って口にし、命を落とすこともあり得る。発酵食品を造ったつもりで腐敗させてしまうこともあるだろう。

発酵と腐敗の区別は難しいが、十分に注意をして利用する必要はあるだろう。が、売られている発酵食品なら心配はないので出来るだけ摂りたいと思う。

by ロクスケ













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健康のための食事 臭い物

これは前回の発酵食品につながるが、発酵していなくとも臭い食べ物はあるようで、良く知られているのがドリアンだろう。新鮮だが強烈なにおいがする。とはいえ、私は食べたことがない。これはタイなどでは普通にある果物だそうだが昔知り合いのタイ人に聞いたら、自分は到底食べられないと言っていた。タイ人でも苦手な人が結構多いそうだ。

ほやなどは好きな人は大好きで、私もほやの酢の物などは大好きだが、大抵の外国人はあの臭いが我慢できないそうだ。魚なども、新鮮なのに普段食べない国の人達などは我慢が出来ないと言う。

臭いとは不思議な物で、人や習慣により好き嫌いが極端に分かれる。食べ物ではないが、私は洗濯洗剤の一部の銘柄の商品がとんでもなく臭くて我慢がならない。が、メーカーはそれを故意に付けているのだ。もっと極端なのは、化粧品の匂いなどで当人は良いと思って使っているのだろうが、到底近づきたくないものすごい臭いの人がたまに居る。普段その人の近くにいる他の人達は我慢をしているのか慣れてしまったのか。

匂いと言うのは直ぐになれてしまうから自分では気が付かない。自分の体臭はまず気が付かないし自分の家の匂いも気が付かない。人の家に行くとその家独特の臭いがするが、それを気にしてかやたらに消臭剤などを使っている家がある。当人達は慣れているのだろうが、慣れていない人間にとっては大変だ。そして、それは国単位でも言えることで、外国に行くとその国独特の臭いがする。飛行機が空港に近づき減圧していた機内に空気を取り込むとき最初に気が付く。中には、こんな中で過ごせるかなと思うほど強烈な匂いの国があるが、都合良く直ぐになれる。そして、日本に帰ってくると、出国するまで気が付かなかった日本独特の匂いに気が付く。生まれてからかいでいる臭いなので懐かしい良い臭いだ。

さて、話がだいぶそれたが、嗅覚とは最も原始的な感覚で、動物が最初に獲得する感覚は嗅覚だ。それは、自分にとって有害か無害かを知る最も確実な方法が臭いで区別するからで、動物は何かを食べる前に必ず臭いをかいで確かめる。

人間はもともと嗅覚がきわめて貧弱なのとありとあらゆるものを食べているので臭いで有害か無害かをかぎ分ける能力がきわめて低いそうだ。本来食べてはならないものを食べて食中毒にかかったり、運が悪ければ死んだりする。あらゆる物を食べる好奇心は良いとしてそれにもある程度限度を設け、時には本能で臭いをかぎ分け食費の安全性を確認する能力を取り戻す必要があるのではないだろうか。

by ロクスケ











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健康のための食事 調理の衛生管理

調理をする時いつも気を付けているのは衛生管理だ。幸い私は経験がないが、食中毒は一年中あるし、子供や高齢者などがそれで命を落としたりしている。油断は出来ない。

当たり前のこととしては調理前に十分念入りに手を洗っているが、人によっては殆ど手を洗わないことがあると聞き驚いた。何でも、火を通すからばい菌は消毒される、気にしてもきりがない、人間には抵抗力があるなどなど。しかし、全ての食品に火を通すわけではないし、加熱してからさめる間に微生物が入り込むこともあるだろう。また、食器に微生物が付いていれば同じ事だ。微生物には一寸の加熱では死なないものもある。

手を洗うのは最低限の条件だが熱湯消毒は出来ないので結局石けんで念入りに洗うし、今はやっていないが昔は逆性石けんなどを使っていた。エタノールを手に噴射することは今でもやっているし、熱湯消毒出来る調理器具や食器などは良くやっている。

また、食器や調理器具は自然乾燥で布巾で拭くなどはしない。あれは微生物を塗りつけているようなもので、やるべきではないと思っている。

結局食材は熱湯消毒も消毒薬も使えないケースが多いので、あとは調理器具、食器の消毒になる。これが功を奏しているのかどうかは知らないが、記憶のある限り食あたりはしたことがない。

ただ、人間には免疫力があり、微生物の取り込みを完全に阻止することは出来ないし、呼吸一つにしても空気中には無数の微生物が浮遊しており、人間の身体はそれらを無毒化できるのだからあまり神経質に消毒滅菌をやるとからだの免疫力自体が低下するので、あまり神経質にやることはないとの話も頷ける。

結局自分で納得すればそれで良いかとも思うのだが。

by ロクスケ











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物作りの奨め

子供の頃から物作りが好きだった。私が子供の頃はまだ戦後の貧しい時代で、今のように物があふれている時代ではないし、ゲームはおろかテレビもなかった時代、遊ぶと言えば外で走り回るだけだった。それが今の健康の大元になっていると思うが、同時に今の物作りが好きになった大元にもなっていると思う。

玩具など買ってもらえる事もなかったので、当時の多くの子供達がそうであったように自分で作った物が非常に多い。今と違い、当時の子供は小刀や肥後の守と呼ばれるナイフを普通に使いこなせていたし、リンゴ箱の木片や、木の枝などを削って自転車のチューブを細く切った物を使ったパチンコ、ボートのような模型、ミシンの糸巻きと割り箸と輪ゴムで戦車、笹竹等を使って空気鉄砲を作るなどは朝飯前だった。

その気になれば、空き缶や空き瓶、ボール紙などいろいろな物を作る材料はいくらでもあったし、仲間内には本当に器用にいろいろな物を作る者も居た。

そんな環境で育てば嫌でも工夫して自分で作ることが当たり前になる。長じてからは電子工作に興味を持ち、真空管アンプやラジオを作るようになり、トランジスタからICの時代になって、折から知られるようになったコンピューターを部品を一つ一つ集めて作ったりした。ハードディスクは無論、フロッピーディスクもない時代、記録はカセットテープを使い、モニターなどは無いので、点滅するLEDランプがモニターとして使われていた。

今は、どういう訳か木工に凝っていて、自分の工作室を作り、様々な機械を置いて色々作っている。家具は置き場所もないので作らないが、今これを書いている机は自分で作った。あと古い家のあちこちががたがたなので様々リフォームしたり、襖や障子など沢山作っている。家の外壁も自分で塗った。これらリフォームや建具、外壁塗装など業者に頼めばいくら金があっても足りないが、自分でやればどうと言うことはないし、何より楽しい。

とにかく自分で作る。これはいくつになってもいつからでも始められるし、コスト削減もさることながら、とにかく楽しいしうまくいけばうれしい。

あり合わせの材料、手持ちの材料、廃物リサイクルなどを駆使すれば、殆ど費用もかからない。今私のプランノートには数十件の製作予定が載っている。実際はその内のいくつを作るかは分からないが、テレビなどをぼんやり観ているよりはよほど充実している。ちなみに今はテレビは持っていないが、いかに無駄に時間を棄てていたか、テレビを棄てて分かった。物作りは私にとって最大の時間と精神の有効活用だと思っている。

次回からは、具体的に物作りについて書いてみたいと思う。

by ロクスケ











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物作りの奨め 見回せば宝の山

いきなり物作りをしようと言っても、さて何のために何を作るのか、買った方が安い物を何のために作るのか、他にやることがあるだろう、自分にはそんな技術もない、道具もない・・・

全部尤もだが、作ること自体が楽しみになる、色々頭を使い手を使い、頭の老化防止になるなどなど効用はたくさんある。ただ、今何を作るのか、作りたい物もないし、時間と金をかけて作っても直ぐにゴミになるだけだという懸念も尤もなのだが、まず考え方の順序を逆にしてみるのも一方法だろう。

ホームセンターなどに行けば材料は何でもそろうが、わざわざ買ってきても工具がなければ仕方がないから工具も買う、が技術がないから出来損ないになって全てゴミになるのであれば、むろんゴミづくりに時間も金もかけられない。

それなら、ゴミから物を作ればよいし、失敗しても別にゴミに戻せばよいのだ。工具なども何処の家庭にも有るであろうカッターやはさみ、糊、それに今では100円ショップで買った物が結構役立つ。

材料は別にホームセンターに行かなくとも周りに無数にあるはずだ。思いつくままに挙げてみると、段ボール、針金ハンガー、ペットボトル、菓子箱、新聞や雑誌、古シャツ、発泡スチロール、レジ袋、ポテチ袋などなどその気で見回せば周りは本当に材料にあふれている。

たとえば、子供のためのいろいろな物は、子供が直ぐに成長してしまうので長く使うことがない、用済みになればゴミになる物がかなり多い。それなら自分で作ってしまうなど大いに考えて良いのではないか。玩具入れの箱は、車を付けて子供でも簡単に動かせるようにする、何段にも引き出しにして箪笥のようにする、あるいは子供が入って自動車ごっこが出来るようにする、なんなら段ボールで自動車を作って子供を乗せるなどなどが可能だ。段ボールそのままでは味気ないので、色を塗ったり絵を描いたりきれいな包装紙やネットで見つけたきれいな模様をプリントアウトして貼るなど工夫すればまさかボール紙とは見えない物がいくらでも出来る。

段ボールを何枚か縦横に貼り合わせると極めて丈夫になり、大人が座れる椅子やベッドまで作れるのだから、子供が上に乗ってもびくともしない物を作ることが可能だ。ただし、十分にそれを理解した構造と作り方をしないと思わぬ事故につながるかも知れないから、自信がないなら子供が体重をかけるような物は作らない方が良いとは思う。そして子供が成長して使わなくなったら段ボールに戻して資源回収の日にでも出せばよい。

なにも子供のためとは限らない。きちんと作れば数十年は問題なく使える家具などが簡単に作れる。道具はカッター一つでよい。段ボールはたとえば電気屋などに頼めば丈夫な物をもらえるだろう。

たとえば従来使っていたペンスタンドが薄汚れているので、長短に分けてさせるペン立てを段ボールで作り、ネットで千代紙を検索し、気に入った柄をカラープリントした物を貼って新しく作った。使い勝手も良く、満足している。


市販のカラーボックスなどでも一寸大きいのは数千円もするが、2,3百円でもっと使い勝手の良い物が出来るならその方が当然得だと思うが。その手で、ワードローブやテレビ台、本棚、ベッド、デスク、椅子などこんな物がと思うような作品を作ることが出来る。最初は無理だろうが工夫を重ねると自分でも驚くような作品ができる。失敗を恐れることはない。失敗したら資源ゴミで出せばよいだけのことだ。道具は本当にカッターだけでよい。

by ロクスケ











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物作りの奨め 頭を使う楽しさ


私自身は本来は電気屋で、昔から趣味で物作りをしては来たが、アンプやラジオ、様々な電子部品を使った工作などが主であり、それに伴うケースなどの工作で多少金属板加工などをした程度だった。が、今は、主として木工や、金属の加工、プラスチックや布、川などありとあらゆる物を使っていろいろな物を作っている。全てあくまでアマチュアの楽しみとしてやっているのであり、何十年も修行してきた木工職人や金属加工職人とは次元が違う。また使用する工具や道具、工作機械なども当然本職が使う本格的な物ではなく、アマチュア向けの安い物ばかりだ。したがって、できあがった物も到底商品になるような物ではないが、ただ、自分で使うには十分だし、満足するレベルと思っている。

そもそも、家具一つにしても本格的な家具なら材料からしてとんでもなく高額だし、その高額な高級材を加工するのにアマチュアレベルの加工技術では材料自体が無駄になる。だから、私が家具を作るにしてもホームセンターで買う安い材木や廃材を使い、それなりに自分が使い勝手の良い家具を作っている。

作る目的は自分が使うためでもあるが、何より作る過程が楽しいからだ。まともな技術や工具がないなか、いかに工夫をすればよりよい物が出来るか。本来なら棄ててしまうスクラップや廃材をいかに活かしていろいろな物を作るか、本来使うべき専門の機械がない場合、どのように加工するかなど等、物作りは非常に頭を使う。これが楽しいのだ。

創意工夫こそ物作りの醍醐味だと思う。

前回段ボール工作の事を書いたが、それなりに技術を駆使することで本格的な家具が出来るし、あるいは目を疑うような精密模型などが作られたりする。ネットで検索すると、段ボールで実物大の蒸気機関車を作ったり、鳳凰堂や五重塔などの精密で美しい模型がヒットする。

物作りで、自分が使いたい物を作るのも一つの目的だろうが、到底出来ないと思える様なものを工夫して作り上げる事でどれだけ頭を使うかが最も大きな目的になるのではないか。そして成し遂げた時の喜びは金で買えるものではない。

紙で作った蒸気エンジンが本当に動いたり、紙だけで作った時計が実際に動いて時を刻むのを動画サイトで観ると、是非自分で作ってみたいと思うが、そのような楽しみは、おそらく物作りだけが与えてくれると思う。
by ロクスケ











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物作りの奨め 田中久重の天才

私が子供の頃はまだまだ日本は貧しく、人々は必要に迫られて物作りをしていた。私の母などは、子供達の服を自分の着物で作ったり、毛布で冬のオーバーを作ったりしていたし、父は家の修理などもそれなりにやっていた。今思えば二人とも不器用だったと思うが当時は偉いと思っていた。いや、今でも偉いと思うが。

それが大きく私の物作りへの興味をかき立てたと思うし、またエジソンやレオナルドダビンチの本などを読んでは自分で何かを発明したいと憧れるようになっていった。そして、中でも私が夢中になって読みふけったのは田中久重の伝記だった。幕末の発明家で、からくり儀右衛門として知られているが、中でも万年時計は日本の技術史に於ける至宝といえるだろう。

私も国立博物館でその実物を見たことがあり、当時は故障していて誰にも直せないと書いてあったと思う。ただし、おそらく10年以上前だが国のプロジェクトとして分解しレプリカを作る事業があり、多くの技術者達が参加したという。今はオリジナルの万年時計も修理され、内部が完全に解明されてレプリカも作られたとか。が、たった一人の、それもまともな工作機械もなければ材料も知識もなかった幕末時代に、たった一人で現代の専門家が寄ってたかってやっと解明できた時計を作り上げたという事実に私は計り知れない感動を覚えた。

今物作りと言っても材料も工具も、そしてその技術も実に簡単に手に入る。それでも私は物作りの楽しさの大半は工夫にあると思っている。すでにある物をコピーするにしても当然ながらそれを可能にする技術がいるが、私は何処にもない物を自分で工夫して作ることに魅力を感じているのだ。家の修理なども自分でやっているが、何しろ私は専門家ではないので、とにかく自分で学び工夫しなければならない。壁の色なら間違ってもたいしたことはないだろうが、土台などの修理なら下手をすれば安全に関わる。だから、年には念を入れて安全を確保して工事をするのだが、その工夫が物作りの醍醐味だと思うわけだ。

何事でも工夫をすることで人間は進化してきたがそれは個人でも同じだろう。頭を使えば頭の衰えは進まないだろうし、私の場合は昔出来なかったことが出来るようになっている事も非常にたくさんある。特に工夫をするという点で著しいと思っているのだが。

by ロクスケ











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物作りの奨め 役に立たない物を作る

私もそうだが、多くの物作り愛好家のホームページなどを見ると、あまり役に立たない物を作っている人が多い。むろん、時間をかけ専門家と見まごうばかりの見事な家具などを作っている人もいるが、私などは使わなくなった家具の処分に困っているほどで、家具を作っても置き場所もない。売れればよいが、人様のためにお金を貰って作るような技術など無い。

この様な状況では必要に迫られて作ることは先ず無いし、大抵の物は作るより買った方が安い。私の場合、また同じような人達の場合、必要はないが作ってみることを楽しむために作るという人が実に多い。

日本でも精巧な木のおもちゃや、無用マシンといわれる一連の機械などがある。とにかく奇妙な動きをするが結局は何もしない機械だとか、マーブルマシン、つまりビー玉が様々な動きをする機械だとか、作っても実際の生活には全く役に立たない物をそれこそ何年もかけて作る人がいる。作ることが目的なのであって使うことが目的なのではないわけだ。

私も様々な機械を作っているし使えば使えるのだが使って何かをする目的など無い。つまり、とにかく使える機械をいかに上手に作るかを楽しむわけだ。

これはアマチュアの特権であり、プロならばそうはいかない。もちろん工夫は欠かせないだろうが、それを楽しむために物作りをするわけではなくあくまで使う人が満足するために作るのだから、自分でその出来を評価するなど出来ない。あくまで評価は使う人、即ち客がするのであり、評価が落ちれば生活に響く。

自分の評価さえ高ければ良い自分の製作物は、なにしろ頭を最大限に使い、できあがった喜びを得るなど生活そのものにずいぶん張り合いが出来る。生活に張り合いがあることは人間を若く保つ・・とまあ、こんな理屈を付けているのだが、じっさい私はそれで生活を豊かにしていると思っている。それに、そのようなことに打ち込んでいればパチンコや麻雀、それでなくともテレビを見続けて人生を無駄遣いする事もない。夢中になるのは物作りだけではなく実際時間が足りなくなるほど色々あるが、物作りは形が結果として見えるだけにことさら充実感があるのではないかと思う。

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物作りの奨め 何処にも無いものを作る

今の時代、下手に作るより買った方が安い物が多い。特に近年は通販でそれこそ世界中から気に入った物を買うことが出来、私は大いにそれで助かっている。海外からも買っている。

また、今は全く事情が違うが、少し前まではパソコンの完成品は極端に高く、自分の好きな使い方をするためのパソコンなど車を買うくらいのコストがかかった。そこで、もっぱら私は部品を組み立てて自分専用のパソコンを作っていたし、作り替えるときもその前の部品を流用できればかなり安く作り上げることが出来た。今では、まるまる買った方が安い場合が多い。

それはさておき、欲しいけれどどうも既製品では満足できない、あるいは既製品に見つからない物はどうするのか。諦めるしかないのかと言えば、そんなことはない。作ればよいのだ。

今、これを書いている机は自分で造った物だ。パソコンが余裕で置け、プリンターなども簡単にアクセスでき、必要な書類も文具類もきちんと収納できる引き出しを備えた机は色々探してみたが無かった。そこで、自分で造ったのだが、実に使い勝手がよく、また部屋にマッチするデザインで気に入っている。正に自画自賛だが、自分で造ったのだから自画自賛も許されるだろう。

いつもお茶やコーヒーを飲むためのお湯を入れておくエアーポットを乗せるポットワゴンを探してみたが、既製品ではどれもこれも大げさで邪魔であるいは安っぽくて気に入らず、これも自分で造った。大いに気に入っている。

居間で使うテーブルが今までのは低すぎて大きすぎた。そこで高さの調節できる、大きさが三分の一くらいで高さ調節の出来るテーブルを作った。下には様々な物を置ける棚を付けた。実に使い勝手が良くこれも自画自賛している。

物作りの良いところは、自分が欲しいもので市販されていない物が手に入るということだ。大体に於いてコスト的にもかなり安上がりだが、なんと言っても自分専用の他にはない物が使えるのは本当に気分がよい。

出来上がりは専門工場で職人が作る物と比べても仕方がないが、何しろ自分で造った物だから文句の出ようがない。これもまた物作りの醍醐味ではないのか。

by ロクスケ











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物作りの奨め 工夫が楽しい

いろいろな物を作っていて毎回最初から上手く行くはずもなくまた予想とは全く違う物が出来てしまうこともかなりある。これが同じ物だけを作り続けて何十年も仕事を続けてきた職人ならそんなことは全くない。この様に作ると作業をすればそのように出来るし、そうでなければプロとは言えない。

しかし、私たちアマチュアの場合は、そんな制約など全くない。作り上げた物が全く予想とは違うひどい物でも別に責任を感ずる必要など無く、次は何処をどうすれば旨く行くかを考えれば良いだけだ。これが楽しいのだ。自分さえ楽しければ何をどのように作っても自由であるから、自分を満足させるために色々工夫しなければならない。

大げさに言うなら、人類が最初に石を削ったり磨いたりして道具を作り始めた頃は、自分が必要とする道具を自分で造らなければならず、ただ本来の起用不器用そして工夫の出来る人間が他者のための道具を頼まれて作るようになり、その代わり狩りや果物集めに参加できない分、道具の制作を依頼した人間から肉や果物を貰うようになった。その方が、即ち道具作りが得意で狩りが下手な人間は、狩の上手な人間のためにより使いやすい狩りの道具を作ったほうが、自分でやるよりよほど多くの肉を手に入れられる。

結局それが専門家の誕生であり、分業の発生であってそのときから文明が始まったとされる。

さて、アマチュアが物作りをするのは誰かから多くの肉や果物を貰うためではな く、自分が作りたいから作るというだけのことであって、社会全体、どころか自分のための生産効率には一切関与していない。ごくたまに趣味で始めた物作りを職業にしている人がいるが、それは例外であり、アマチュアの本分は自分で造りたい物をいかに自分が満足するために作るかであって、それには自分を満足させるための工夫が要る。これが本来のアマチュアとしての物作りの目的であろうと思う。工夫する事が人間を進歩させる・・ちょっと飛躍だが、自分の満足のために工夫をする、技術を磨くことが自分の生活を豊かにしていると思えばどうして自分が物作りに夢中なのか分かるような気がする。

by ロクスケ











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物作りの奨め 家のリフォーム

前回、役に立たない物を作る事を書いたが、むろん役に立つ物も沢山作るのも物作りの目的になる。その最たる物が、家のリフォームと考えている。

私が今住んでいる家は建ててから50年になんなんとする建物で、当然ながら方々に傷みが出ている。はっきり言えばぼろぼろなのだが、今まで何度も改修修繕をしてきた。むろん本職の大工さんに頼むことが多かったが、今では自分でやることも多い。

一昨年だが、初めて家の外壁を自分ですっかり塗り直しとりあえずきちんと出来たので自信を深めた。その乗りで、仏間の改修を全て自分で行い、すっかり腐っていた土台を取り替え、床を張り直し、壁を塗り直し、襖を自分で造って今では完全に直っている。隣接しているサンルームの窓が味気ないカーテンだったのでこれも全て障子に交換した。こんな障子は建具屋さんに頼むしかないと思っていたが、やってみて駄目なら諦めるか頼めばよいと思い、自分で障子を造ったところなんとうまくいった。

調子に乗り、居間の土台も直し床を張り直してついでに畳敷きにし、カーテンでごまかしていた部分をアコーディオン式の障子にした。むろん、この障子も自分で造った。

未だ家の改修が全て終わっているわけではないが、近い内に玄関の改修、玄関などの床の貼り替え、叩きの作り替え、壁の貼り替えなどなど計画が目白押しだ。

これらを仮に専門家に頼むと、ン百万単位の費用がかかり到底その気になれずに自分でやったのだがおそらく2,30分の一のコストで済んでいる。まあ、仕上げを言えば方々にけちは付けられるが、自分でやった仕事にけちを付ける気にはならず、十分満足している。

物作りの目的は、私にとっては最大の要素が楽しみであり、近年は節約の要素が極めて大きくなっている。ただし、たとえばかつてはパソコンを自分で造っていたのは必要な性能を既製品に求めると極めて高かったから自分でその用途に絞ってコストを抑えるためだった。それなら、部品も使い回しでかなり安くあげることが出来たが、今では普通のパソコンの性能が十分高くなりかつ安くなって、自作品より既製品が安くなった。

電子工作も私の物作りの範疇であり、省エネのためにLED照明なども自分で造っていたが、今では買った方が10分の一くらいのコストで済む。アンプなどもそうだが、自分でコスト削減のために造ることは今ではあまり無い。その数少ないメリットが家の改修では十分に得られる。

家を直すなど、最初から無理と決めつけず、今では参考記事もネットにあるし本もあるし材料も豊富にホームセンターなどで買える。考えても良い物作りだろうと思う。

by ロクスケ











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物作りの奨め 作ってみたいから作る

前回は役に立つ物作りについて書いたが、私の場合、作ってみたいから作るケースが殆どで実用性は大半のケースで考えていない。たとえば、子供の頃挑戦してどうしても作ることが出来なかった模型などを今ではそれなりの経験や道具、機械などがあることで作ることが出来る。そんな理由で、作ってみた物がたくさんある。が、当然ながら実用性など全くない。それでも作れたことが楽しくて室内インテリアのようにして飾ったりしているが、それを見た人は、口には出さないが何でこんなガラクタを・・・と思っているようだ。

今、発作が起きたかと思うくらい作りたくなって実際に作っているのが電源装置だが、家庭に来ている交流100ボルトを直流に変えて電圧を自由に変えられる装置をいくつか作っている。一番低い電圧は三ボルトくらいから、かつては数万ボルトの物を作り、空中で放電させて喜んでいたものを再度もっと強力で高電圧の物を作ろうとしている。冗談ではなく、一つ扱いを間違うと完全に死ぬ代物だから、それなりに徹底的な注意がいる。

が、知識が有りさえすれば数十万ボルト程度の高圧発生器は作れる。難しいのはその管理であり、それを出来る自信がないなら絶対に手を出す物ではない。で、私はそれを作ってみたいわけだ。

ネットなどで検索するとそのような物を作って実験している人などが世界中にいるし、その動画を発表している人も大勢いる。事故の動画はないが、中にはこんな安直な扱いではきっと事故を起こすのではないかと思えるような動画も多々ある。

話がずれたが、こんな物を作るのは正に作ってみたいから作るのであり、実用性など100%無い。実は、私が作っている物にはこんな物が結構ある。

日本でも全財産を費やして飛行機などを作る人がいる。仮に飛行機(模型ではなくちゃんと人が操縦して飛べる物)を作ったとして、飛行許可が下りるはずもなく、第一作った本人は免許も持っていない。どうしてそんな物を作るのか、と訊くだけ野暮だろう。作ってみたいから作るのであり、免許が無くても飛行許可が取れなくても最初からそんなことは問題ではなく、絶対に飛べるはずだと思える飛行機を自分で造ったことで満足できるのだ。その気持ちは私にも分かる。大体が趣味とはそんな物だろうと思うが。

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物作りの奨め 買えないものを作る

前回、作りたい物を作ると書いたが、その中には売っていない物は作るしかないという理由で作る物もたくさんある。私は電子工作をするが、そのためには様々な測定器が必要になる。基本的な物は既製品を買うが、特殊な測定をするための器械は市場には売っていない。需要がないから当然であり、メーカーなどは自社でそのような測定器を作るのが常だ。それはアマチュアでも同じであり、昔から専門誌などにはそのような測定器の作り方などが紹介されている。

また近年ネット上のそのような分野でも、市販されていない製品を自作する人が多く紹介されている。しかし、べつにそれはいまはじまったわけではなく、たとえば人と同じ物を着たくない人達が自分で着る服を作ったり、変わったものを食べてみたい人が自分で創作料理を造ったりするのは昔から普通にあった。

私の物作りの一番専門的と言えば電子工作だろうが、大昔アマチュア無線の免許を取ったのは中学二年の頃であり、当時アマチュア無線用の無線機や受信機などは売っていなかった。仮に売っていても到底中学生に買える代物ではなく、地域の同好会に顔を出して大人の人々から色々部品を貰ったり作り方を教えて貰ったりして自分で造った。

当時は自分で造った無線機などは電波監理局の審査を受けて合格しなければ使えず、いい加減に作るわけにも行かなくて何ヶ月もかけてこつこつ作り申請して審査を受けた。メーカー製の既製品はその苦労がなかったが、とにかく到底手の出る値段ではなく、殆どのアマチュア無線家はそのようにして自作していた。そのころから、売っていない物あるいは買えないものは自分で造る事にしていた。

その後、アマチュア無線用の器機が安く出回り殆どのアマチュア無線家は市販の機械を使うようになって自作する人が殆どいなくなったが私は自分の経験が非常に貴重な物だと思っている。

それはパソコンが高嶺の花だった頃、自分でパソコンを造った時も事情は同じだった。今ではパソコンは既製品を買った方が自分で造るよりも安い。しかし、自分でパソコンを造ると、何か不具合が起きても大概自分で直せるのが何よりも有利な点だ。

その意味で、今市販で売っていない各種の測定器や工作機械などを自分で造ることはそれらを使いこなせると言う意味でも貴重なことだと思う。

by ロクスケ











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物作りの奨め 完全を求めない

言うまでもないが、私はアマチュアの趣味として物作りをしているが、自分の技術を高める努力はそれなりにしている。が、世の中にはため息の出るような技術を持っている専門職人が無数にいるし、例えば江戸指物の職人など、よくこんな事が人の手で出来るものだといつも感心している。が、自分でそのような技術を身につけようとは金輪際思わない。まず、数十年の修行をする時間は私にはないし、そもそもそのような技術で生活を為すつもりもない。したがってあこがれはするが、今自分が身につけている技術はいかにごまかして見かけを良くするかと言うやり方だ。使う道具もそれを使いこなす技術も全く専門家とは違うのだから目指す結果も当然違う。だから、仕上げを良くするやり方も当然違うわけだ。

幸い、今は接着剤、塗料、研磨材料などが昔と比べて格段に進歩し、例えば継ぎ目なども昔なら使い物にならないほどがたがたの加工しかできない場合でも慌てることはない。たっぷりと接着剤を使い、出来た隙間にはパテを詰め、研磨剤でならし、塗料を塗れば継ぎ目など最初から無かったくらいに仕上げられる。私が作る物は全てこのやり方だ。完全無欠な継ぎ目を作れる技術を身につけたりそれを加工できる道具を手に入れるよりはよほど簡単であり、多くのアマチュアが同じやり方をしている。

このやり方のもう一つのメリットは、材料費が極端に安いということだ。比較的最近だが、今まで使っていた机がどうも小さくなり、複数のパソコン、モニター、プリンタなどを置くにはどうしても不便だし、更になんと言っても古くてがたが来ていたので新しくした。当然ながら自分で造ったのだが、本格的な机のための木材を買うとなるととんでもなく高額であり、材料代だけで数十万円もする。安いフラッシュ構造はあれなりに技術がないとまともに作ることが出来ないし、いかんせん安っぽすぎる。

で、一番安い建築材、ツーバイフォーを使った。これは安いが節だらけだし曲がっているし直ぐに狂ってくる材料だ。が、もともと木目は好きなのでそれを利用し、狂いは強制的に修正して固定し、経年変化は金物で防止し、隙間はパテで埋めそれなりの机を作って今満足している。

完全を目指さず、ごまかしテクニックに磨きをかけると、十分満足する製品が出来るものだ。そこが、人生そのものとは違う点だ。ただし、安全面では、ある意味プロよりも神経質に完全を期することは付け加えて置かなくてはならない。

by ロクスケ











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物作りの奨め 他に方法がない

 これも物作りの範疇なのだろうが、私は電化製品などは極力自分で修理する。以前の話だが、石油ストーブが2台続けざまに壊れ、泣きっ面に蜂でトイレの自動洗浄装置が壊れてしまった。業者に修理を依頼したところ、古いタイプでメーカーが無くなっており、修理できない。むしろ今は修理するより新しい製品を買った方がよほど安上がりです、と言われた。申し合わせているのではないかと思えるほど、トイレ洗浄機メーカーも同じ事を言う。

確かに今は日本製品は滅多に壊れないし、壊れたら修理するより買った方が安いのが普通なのだが、電化製品などは決まって同じ時期に壊れる。で、自分で、駄目元で直してみた。そうしたら、全部一日で直ってしまった。それぞれ、本当に簡単な場所の故障であり、ちょっと分解したら直ぐに分かったし、部品を購入する必要もなかった。トイレに至っては、電池の接触不良で、ただ電池の入れ替えだけは解決せず、接点の部分の裏側が錆びて断線していただけだったが、これもばらしてみなくては分からない。

新しい物を仮に買っても、古い壊れた物を捨てるにもかなりの費用がかかる。単に買い換えれば済むわけではないので、本当に駄目ならしょうがないと修理してみたのだが、そう思ったのも自分が普段から物作りをしているからだろう。頭から駄目と決めつけないのが大切だし、また修理する道具なども持っていたのがそう考えた理由でもある。

やはり普段から物作りをやっていると、普通にこの様な判断が出来、実行できる。むろん、今回は簡単な修理で済んだからこんな事が言えるのだが、実際この様な故障は実に簡単な部分であることが多い。それは車などでも言えることで、免許を取るとき車の構造なども学ぶはずだが、実際には唯のバッテリー上がりなどでお手上げというドライバーが多いそうだ。やはり、最低限の整備知識くらいは身につけておきたいし、それが安全につながるだろう。その基礎は、物作りにあると思うのだが、飛躍だろうか。

by ロクスケ











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物作りの奨め 頭の訓練

物作りをする人達の目的はそれこそ様々だろうし、目的など無い、ただやっているだけという人も結構いる。私も子供の頃から色々物を作るのが好きで、それが今も続いていること言うことなのだが、尤も子供の頃は欲しいものを買うことが出来ず、また自分で色々造るのが当たり前だったことも理由だろう。私と同世代やそれ以前の人々では、普通にポケットにナイフを持っていて木や竹などを削っていた。

それはともかく、色々物を作る場合、当然最も作りやすい、最も役に立つ、最も頑丈な物を作るために色々工夫をするが、考えてみたらそれが結構頭を使う作業だ。

一方、職業で物を作る人達は、私たちが到底まねの出来ない技術を有しており、それこそ数十年同じ仕事をして身につけた技術だが、私にはそんな技術はない。となれば、そのような技術が無くてもそれなりの物を作るためには工夫をしなくてはならない。それもまた頭を使わなくては物作りが出来ない理由だ。

で、自分では意識しなかったが、その工夫が楽しくて物作りをしているようだ。確かに、何も考えないではろくなものが作れない。限られた材料をどのように加工してどのようにまとめれば最も良い結果が出るかを、作る前から色々頭の中で考えるわけだ。逆に、ろくに考えないで作った物は、結果としてろくな物が出来ない。

職人と違って、私は同じ物をいくつも作るなどはせず、ありとあらゆる物を考えつくままに作るので、それこそありとあらゆる加工法を考えなければならない。これもまた考える作業につながる。

身体は年と共にどうしても衰えるが、頭は年齢と比例しているわけではなく使えば使うほど衰えも遅れるし、それ以上に良くなる事が明らかになっている。その点で、物作りは本当に役立っているのではないかと、最近思うようになっている。

一例だが、一寸遠出するときは、いつも40年来使い続けているショルダーバッグを使うのが常だったが、本来仕事用に買ったバッグであり、今は入れるものがない。昔は本を2,3冊入れたりしたが、今では読書端末が一個有ればよいし、あとは折り畳み傘、カメラ、手帳、たまに音楽プレーヤーくらいのものだ。それに気が付き、自分で小形のバッグを造り、結局4個ほど作って、小さいながら必要なものがきちんと入るバッグを作った。既製品では気に入った物がなかったのだ。自分の用途に合わせたものは、こうやって自分が工夫するなどして作るのが一番だと、つくづく思うが、これがまた頭の劣化を防いでいると思う。

by ロクスケ











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物作りの奨め 廃物利用

 今は、方々にホームセンターや工作材料などを売っている店が無数にあり、材料はまずどんなものでも買える。無論、何かを作るためにはそれなりの材料が要るのであり、何かを作ろうとすればそのような材料をそろえることになる。ところがえてして、計算してみたらずいぶん費用がかかった、しかし思った通りの物が出来ない、理想と現実があまりに違って、作っては見たけれどがっかりした等と言うことが無数にある。

 昔と違い、あまりに材料が何処ででも簡単に買えるから、そう言うことになるのだが、あんまりそんなことばかりをしていると、気が付いたら材料代がとんでもなく高く付いていることに気が付いて、その割に作った物が貧弱で嫌になるなどはこれも頻繁にあることだ。

 その点、私が子供の頃はそのような材料など売っていなかったし、売っていても買う金を持っていなかったから、勢い唯で手に入るものを積極的に利用した。それが自然に生えている木や竹、拾った空き缶、リンゴ箱の板など様々な、いわば棄てるはずのゴミを利用する廃物利用が当たり前だった。

 それは今でも、好きなだけ使えて金もかからない工作には通用するやり方ではないのか。ネットの動画などを観ると、本当に棄てるだけのゴミ、例えばペットボトル、段ボール箱、牛乳パック、アルミ缶、新聞紙、ありとあらゆる物が、まさかと思うような見事な工作物になっているのを見ることが出来る。スナックなどが入っている箱を切り開いた紙だけで、目を疑うような見事な戦艦大和を作った人の動画などは、おもわずうなるほど見事だし、段ボール箱4000個で実物大の蒸気機関車模型を作った記録なども感心する。もっとも、実物大の蒸気機関車など、普通の家では作れないだろうし、置き場所もないし、運ぶことも出来ないだろうが。

 で、今私が感心してよく見ている動画が、新聞紙を細長く切り、細い竹串などをつかって、直系3mm程度、長さ300mm程度の管を沢山作り、それを絵の具で染めた物をちょうど籐細工のように編んで、様々な篭、皿、ライトの傘など様々な形を作り、最後にラッカーを塗って乾燥した作品だ。細い竹で編んだ作品のように見えるが、着色によってはまったくべつのものにみえる。いろいろな技法があり、到底これが唯の新聞紙で出来ているとは思えない見事な作品が無数にある。おそらく、これですだれなども作れるだろうし、障子のような形などにも出来るのではないか。

 材料と言えば本当に只のような物だが、ほんの一例であり、段ボールで整理棚などを作り本格的にニス仕上げをした物などは、安物のカラーボックスなどよりもよほど頑丈で見栄えがする。

 金をかければ良い物が出来るのではなく、工夫をして技術を磨けば、唯のゴミから家具でもインテリアでも好きな物が出来る。これもまた物作りの醍醐味ではないだろうか。

by ロクスケ











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物作りの奨め 実用品を作る

私は確かに趣味として物作りをしているが、時には実用性のある物を作ることもある。アンプだとかパソコンなどは、今では既製品を買った方が断然安いし、またカメラなどは昔は十分作れたが、今ではデジタル方式で材料すら買うことも出来ない。結局、多くの品は作るより買った方が安いのだが、むろん売っていない物もたくさんある。

前にも書いたことがあるが、測定器など一般用の製品でなければ仮に売っていてもとんでもなく高い。使用頻度を考えると、100万円もする測定器をおいそれとは買わないし、年に二、三回しか使わない物に到底そんな金はかけられない。

需要がないから高いだけであり、実際にはそれほど大した物でもない事が多いし、そんな場合は自分で造る。すると、手持ちの部品を組み合わせるだけで、結構使い物になる測定器などが殆ど只で出来てしまう事もあるのだ。最近は電圧を自由に変えられる直流電源を作った。基本的な材料は古いパソコンの電源を三つほど組み合わせてそれに他の回路を自分で組み立て組み合わせ、自分で造ったケースに収めて完成したのだが、買った物はゼロ。つまり、全くコストをかけずに作ったのだが同じ様な製品をネットで確認してみると30万円位するようだ。

見かけは酷いが、人に自慢をして歩きたいくらいだ。

また、インバーターという機械があるが新品は6,7万円する。しかし、ネットで規格はずれのインバーターを確か3000円で仕入れ、自分で改造したらちゃんと使える物が出来た。

2,3年がかりだが、工作機械を作りかけている。完成品は100万を軽くこすが、それほどの完成度も精度も要らないので、自分で金属材料を集め、加工して作りかけているのだ。完成すればどの程度の精度が出るかは分かるが、予定では私がたまに使う試作品製造などには十分な物が出来る予定で、こちらの方は材料代だけだとおそらく数万円を切ると思う。

単なる趣味だけではなくやはり実用性のある物をこの様な形で作ることが出来るのもやはり物作りを続けているおかげと思っている。

by ロクスケ











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物作りの奨め 思いつきで造る

私の場合は、一般の人に比べれば物作りが仕事にも関わるし趣味でもあって、それなりの工作室や様々な工作機械などを持っている。またそれなりの材料もかなりあるし、その意味で普通の人が造ることの出来ない物も結構造ったりしている。

が、いつもいつも機械を駆使し工作室にこもって造っているわけではない。先日散歩をしている途中で、道端に木の枝が落ちているのを見つけて拾ってきた。ちょうど良い大きさのYの字の枝で、それを見た瞬間に有る物を連想したのだ。そう、ゴムパチンコだ。

で、拾ってきたその枝を、ナイフで削り、皮を剥ぎ、なめらかにしてから太いゴムと革の切れ端を組み合わせ、パチンコを造った。子供の頃、同じ事をして、小さな石ころなどを飛ばし、人に当ててしまってものすごくしかられた記憶がある。今の年でまさか、石ころを飛ばすつもりはないし、本当はそんな物を作っても全く使ったり遊んだりするつもりはない。ただ、ちょうど良い枝の切れ端を見つけて、何も考えずに造ったような物だ。

今日は今日で、思い立ってパソコンのハードディスクベイを造った。私が使っているパソコンのハードディスクのデータを項目別にいくつかの外部ハードディスクにバックアップするため、パソコン内蔵の他に4個ほどのハードディスクを使っている。この置き場所が結構ごちゃごちゃしているのでそれらのハードディスクを壁に取り付けてしまうためのラックを造った。あり合わせの木ぎれを適当に切ってのり付けし、塗料を塗って完成。一時間もかからない。


しかし、たったこれだけで、机の上に乱雑に置かれていた3台のハードディスクが綺麗に壁に掛けられ、ケーブルもすっきりして気持ちがよい。

思い立ったらその場で造る。これも物作りの一つのやり方だろう。以前、筆立てが不便だったのであり合わせのベニヤ板を組み合わせて使いやすい物を作ったのも同じで、そのときはネットで見つけた千代紙の柄をプリントして貼り付け、一寸見かけの良い物が出来た。材料費は端材を使ったので只。

日頃から物作りの習慣があると、一寸便利な、一寸造りたいと思った物がその場で直ぐに出来る。これも物作りの醍醐味の一つだろう。

by ロクスケ











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物作りの奨め 金儲けになる?

かなり前から定期的に発明ブームというのがある。曰く、どこそこの普通の奥さんが一寸した日用品を発明してそれを企業が採用し、何百万もの収入を得たとか、どこそこの小さな会社が画期的な発明をしてあっという間に大企業になったとか。

むろん、現在の私たちが享受している現代生活は、無数の発明に支えられているのであり、誰かがそれまで無かった新しい物を作りだしてみんながそれを使って豊かな生活を営んでいるのだ。

しかし、と考えてみて私がそのような貢献をしたことがあるかといえば、無い。全く、無い。むろん、私としても毎日いろいろなことを考えているのであって、それまで無かった物を考えつくことは無数にある。前回紹介してハードディスクを壁に取り付けるハードディスクベイなどもそうだろうが、この様な製品がかりに売り出されたとして需要があるかと言えば何とも言えない。もし需要があればとうに製品化されているだろうと思う。

昔、上記の発明ブームに踊らされて色々新しい物を考えだして、いくつか企業に売り込んだことがあった。例えば自由に焦点距離を変えられる一枚レンズなど自分で造ってみるとそれなりに便利なので、夢中になって企業に売り込んだ。結果はペケだった。その理由は、一枚レンズで出来るのは結構だが、それを動かしたり支えたりするメカニズムに金がかかるので、従来通り2枚のレンズを使った方がよほど簡単で精密で安くできるというものだった。つまり、専門家はとうに考えていてだめだから商品化しなかったのだ。

長時間マウスを使っていると腕が疲れるし腱鞘炎になるし、手首を痛めたりしかねないので、アームレストを考えた。むろん、普通の枕のようなアームレストはあるが、使い慣れないとじゃまくさい。そこで私は自分では画期的と思われるアームレストを考え、やはり関連企業に売り込んだ。これはある程度取り上げてくれて社内で検討してくれたのだが、結果はペケだった。物が大げさすぎ、長時間使ってみると大きくマウスを動かすときむしろ邪魔になって却って疲れる。短時間なら問題もないが、それなら別にこれを使う理由もない、と散々だった。

つまり売り込みに成功して大もうけにつながったことは無いのだが、時々これなら売れるのではないかというアイデアを思いつく。そうするとまたむらむらと売り込み虫が騒ぐのだが、昔と違いそのようなことは今はない。

確かに小さな発明で大きな収入を得たり会社を興したりする人は今でもいるのだろうが、どういう訳かそのようなつもりが無くなっている。年のせいか、欲が無くなったのか、金はもう要らないのか・・そんなわけはない。

いずれにせよ、もしかしたら物作りの過程で本当に一寸したアイデアが金儲けになるかも知れないとの夢も結構価値があるだろうと思う。何しろ、人生夢は必要だ。

by ロクスケ











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物作りの奨め 段ボールで実用性のある物

これは以前も書いたことがあるが、必要に応じて、自分の欲しい仕様の物が作れるのは大きな物作りを趣味としているメリットだろう。何かを整理するために整理棚のような物が有ればよいが、とはいえ大げさな物を買う迄のこともなく、結局カラーボックスなどを買って済ませ、あとから邪魔になってそれを壊して棄てるなどがある。子供が生まれ、大きくなりその過程でおもちゃ箱や衣類などを整理して入れる棚のような物が要るが時期が来ればその棚は要らなくなる。

そのような場合は、段ボールで作るなどがある。単に段ボールに突っ込んで重ねておくような事を言っているわけではない。ネットなどで段ボール家具とかcardboard furniture等で検索すると、既製品の段ボール家具も出てくるが手作りの仕方などが沢山ヒットする。

もともと、段ボールは使い方によってはかなり丈夫で耐久性もあり、たとえば災害時の避難所などで多く使われていたりするし、当然ベッドや洋服箪笥のような物でも段ボール製がある。

この場合は最初からそのように作られていて必要に応じて組み立て用が済むと棄てるわけだが、これを最初から耐久性と見た目を重視して作れば、そんじょそこらの低価格フラッシュ構造家具などよりもよほど立派な物が出来る。

材料としては、電気屋などでもらえる2枚貼りの丈夫な段ボールがよい。これらを使って本格的な箪笥やワードローブ、勉強机、椅子、整理棚など様々な物が作れるし、その上から本格的な塗装をしたり粘着シートなどを貼れば、木製の物と耐久性も見た目も変わらない。私も嘗て作ったことがあり、何十年も使っている物があるにに気が付き、驚いた。

蝶番や引手などは既製品を買ってくればよいだろうし、硝子をはめ込むことだって出来る。作り方によっては、ン万も出して買う家具と遜色がないし、何よりデザインも規格も自分の思い通りに出来るのがよい。

それこそ、嫁入り道具も段ボール家具で間に合うのではないか・・・と言うわけにも行かないだろうが、決して段ボールだから安っぽい、貧弱という物ではない。

ネットで検索してみれば、言われない限り段ボール製とは絶対に分からない見事な家具がたくさんある。特別な道具も要らないし、材料は基本的に只、飽きたら簡単に棄てられる。

一寸試してみて絶対に損はない。

by ロクスケ











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物作りの奨め 芸術作品を作る

今はネットで世界中の出来事が分かるが、私が好きなのはやはり物作りに関した物で、特に動画サイトが驚くような映像を見せてくれる。昔、私は他の人が作った工作物などは精々雑誌に載っている写真か、たまに各種展示会などで見る実物を見るだけだったが、今では世界中の人の作品が動画で見られる。そして、中には想像も出来ないほどの精密精巧な作品を作る人達が居るのを見ることが出来る。

アマチュアが作る模型は、実際は実用性など無いのだが、例えば片手で持てるような12気筒ガソリンエンジンを全く部品から手作りで作っている人とか、全ての部品を一つ一つ手作りし制作したジオラマなど、正に目を奪われるような作品が無数にある。

それぞれ、その趣味を何十年も極めた名人技を駆使して一つの作品に数年以上かけているのが普通だ。そのために加工のための旋盤やフライス盤などと言った工作機械を駆使しているケースもあるが、一方全く手加工だけで作り上げている人もいる。材料も、まさかこんな物と思うような木の切れ端、空き缶や空き箱、ハンガーなどの針金、ヨーグルト容器のような材料等々、普段なら棄ててしまうような材料を加工して、まさかと思うような作品を作っている。

そのような作品を見るたびに、自分でも造ってみたいと思うが、むろん、そのようなスキルがないし、そもそもそのようなことを数年間も続けられる集中力もない。結局自分には出来ない工作だと思うから憧れるのだろうとは思う。

が、道を究めれば信じがたい作品が出来るのは素人も同じで、最近では新聞紙を細い紙縒状にした物を着色して各種のバッグやバスケットなどを編み、ニスで塗装した作品などが、まるで高級な竹細工、籐細工のような作品になっているのを見てこれも感心してしまった。本当に唯の古新聞が材料なのであって、それを様々な工夫と技術で、目を奪われるような見事な作品に仕上げている。

工夫すれば何でも出来る、金をかければよいのではなく、工夫をし仕上げる楽しさはこの様な作品によって為されるのだろうと私は思っている。

by ロクスケ











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物作りの奨め 修理も物作りの内

私はカラープリンターとモノクロプリンターを使っている。双方ともレーザープリンターだが、先日モノクロの方が紙詰まりが酷くなり、そして印字がかなり薄くなってきた。そこで、新しく買い換えようかとネットを検索してみると、今では数千円で新品が買えるし、へたにトナーを買うとその方が高かったりする。ちなみに、私が初めて買ったモノクロレーザープリンターは20万以上した。20年以上前だと思う。その前は、熱転写プリンター、その前は感熱紙プリンターで、更にその前はドットプリンターだった。とにかく、いつの時代もプリンターは極めて高価で、そして直ぐに壊れ泣く泣く買い換えていたのだが、それがとんでもなく高い買い物だった。それが、今ではそこそこ使えるプリンターが1万未満で買える。そこで、発注しようとマウスをクリックしかけて待てよと思った。

思い出したのだが、トナーを前回買ったとき確か二本セットだった。その一本が残っているはずだ。チェックしてみると、ちゃんと手つかずのトナーがあった。おそらく、今のプリンターなら一台買えるくらいの値段でトナーを買ったと記憶しているが、とにかくトナーが残っているなら、何とかプリンターを修理してみようと思った。

プリンターの修理などしたことはないが、紙詰まりとは結局各種のローラーがどうにかなっているか、紙の経路に何か引っかかっているのだろうと当たりを付け、分解してみた。思った通り、中にある紙を送るローラーの脇に紙の小片が絡まっていたので、それを取り除き、ついでに各部ローラーをアルコールで拭き、組み立ててトナーを入れたら完全に動くようになった。印刷もクリアに出来る。

やってみる物だとつくづく思った。これが、最初に買った当時の20万以上もするプリンターなら何とか修理をしようとするだろうし、保証期間が切れていてもメーカーに送って修理を依頼しただろう。が、今では修理を頼むより、それ以前にトナーを補充するより、新品を買った方が安い。私も何も考えずにそうするところだった。が、危ないところでトナーのことを思い出し、修理をしてみる気になったのだ。むろん、プリンターの修理などしたことはないが、駄目もとでばらしてみて非常に簡単に直ったのは運も良かったのだろう。が、思うに、日頃から物作りをしていたことも大きかったと思う。なにしろ、物を分解したり組み立てたりは日常茶飯事だし、そのための道具も持っている。

思いがけなく、この様なときに物作りが役立ったのだと、つくづく思った次第だ。

by ロクスケ











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物作りの奨め 手作りの技術

私もそうだが、アマチュアで物作りを楽しんでいる人は、専用の機械も無いしそして経験も技術もなく、つまり専門メーカーや職人とは全く違う環境で物作りをしている。当然ながら、できあがった作品が熟練の職人の作品を越えることはほぼ無い。ほぼ、というのは、実際には到底素人が作ったとは思えないような見事な作品を作るアマチュアがいることだ。

むろん、そのような人達はアマチュアとは言え何十年も同じ趣味を続けているからそれなりの技術があるし、また道具や機械にもそれなりの物をそろえている事が多い。それにしても、殆ど手作業だけで目を奪われるような作品を作るのにはほとほと敬服する。

ネットで動画を観られるようになって、そのような作品を多数見るようになったが、途上国で、工具や機械は無論、電気も来ていないような場所でびっくりするような見事な物を作っている人々がいる。中には密造拳銃のようなとんでもない物もあるが、最近、例えばenable micro enterprises等というシリーズでは、インドで職人達が全く手仕事だけでバケツや様々な道具を作っている動画が気に入ってよく見ている。彼らは本職の職人で、それこそ地べたに座り込み、本当の手道具だけで日用品などを作っている。例えばブリキのバケツを手で切り、ハンマーで叩き穴を開けリベットで止めて作っているのなどは、ほれぼれするような手さばきだ。

無論、日本の職人も昔ながらの道具だけを使って、目を奪われるような品を作っているのだが、結局道具や機械がどうであれ、毎日同じ物を作り続けて手が仕事を覚えてしまえば、機械と変わらないもの、あるいはそれ以上の物を作ることが出来る。

私は別にそのような職人を目指しているわけではないが、手で作る物の可能性には限界がないとつくづく思う。

職人ではないが、以前書いたように紙工作で実際に動くエンジンを作ったり、お菓子の空き箱で戦艦大和の大型模型を作ったりする人がいるのを見ると、そのような技術は身につけたいと思う。それらの人々は別にインドの職人のように同じ物を作り続けているのではなく、その作品だけを作った結果、目を奪われるような作品を作ったのだ。

そのような技術は、と言うより根気と器用さの産物だろうが、いくらかでも身に付けばと思っている。

by ロクスケ











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物作りの奨め 必要だから作る
今、私は木工旋盤を作っている。木工旋盤とは、木材を高速で回転させそこに刃物を当てて様々な形を作る機械で、日本では昔からこけしや駒などを作るろくろと言う機械がそれに当たる。

私自身は木工旋盤で工作するようなことは無いのでこの機械を買う気はなかったし、今も無い。ただ、あり合わせの材料を組み合わせれば簡単な木工旋盤が出来るので、作ってみる気になった。と言うのも、ちょうど今作りかけている地球儀の柱に旋盤加工の物が欲しくなったからだ。

とは言え、地球儀だって気まぐれで作っているだけで、木工旋盤をわざわざ買って作るような工作も殆どしないから、作ってみる気になっただけだ。作ることが目的のような物だが、材料と言えば、あり合わせの木片、ゴミ箱から引っ張り出して鉄の棒、洗濯機から外したモーターなどなど金を出して買った材料もない。つまり労力だけで金を使わずに旋盤が出来るから作っているのだが、もしこれくらい(予定している能力)の木工旋盤を買うとなると、ネットで調べた限りでは10万前後する。それがロハなら作らない手はない。

今までも作ろうかと思ったことはあるのだが、なにしろ図体が大きく私の工作室は狭いので置き場所がない。それでなくとも様々な機械や材料や工作台などがあるのだ。

しかし、今作っている木工旋盤は使わないときはばらして狭い場所に突っ込むことが出来る。精度は落ちるが、どのみち私が作る物に限って言えば精度は問題ではない。幸いなことに、私の技量では、精度を云々する必要がないからだ。

いずれにせよ、思い立ってからざっと図面を描き、工作室のガラクタ箱を引っかき回して使えそうな材料をそろえ、色々加工して組み合わせ、おそらくあと2,3日でできあがるだろう。私のことだから、地球儀の足を作った後、拾ってきた木の枝やいろいろな木片を削ってひとしきり遊んだ後、ばらして(この旋盤はばらして小さくでき、使うときは簡単に組み立てられる)どこかにしまい込みあとは忘れるだろう。だが、作ることが楽しめればそれ以上の目的はほとんど無い。

必要だから作るというのは、作ることが必要だと言う意味で使うことが必要だという意味ではない。

by ロクスケ











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物作りの奨め 頭の訓練になる

今は何でもかんでも金で買える時代であり、へたに作ると却って高く付く。が、それでも作るのは、それが極めて頭を使う作業であるからだ。先日だが、木工用の旋盤を作った。材料を回転させ刃物を当てて削る機械であり、木工用でも買えば数万以上する。が、私の使用頻度と、スキルと、そして収納場所を考えると木工旋盤を持つ気にはならなかったのだが、先日様々な動画を参考にして自分で作った。材料は例によって手元にある木材の切れ端、壊れた洗濯機から取ったモーター、ガラクタ箱にあった金物スクラップなどを組み合わせてめでたく木工旋盤を作り、今では様々な物を作っている。

一番気に入ったのは、散歩の途中で拾ってきた木の枝が何年も物置に転がっていたのをこの機械で加工してみた。とはいえ、別に何かを作るために動かしたわけではなく、この旋盤がちゃんと使えるかどうかを確認するためだけに動かしたのだが、とりあえずはこけしを作ってみることにした。そして、出来たのは、夜中に子供が見たら泣き出しかねない怖いこけしだったが、自分でガラクタを組み合わせて作った機械がきちんと機能することは確かめた。

いずれ、独楽、けん玉、ヨーヨーやボウルなどを作ってみようかと考えたが、実際は旋盤を作ることが目的だったので、それらを作るかどうかは分からない。ただ、今回旋盤を作った主目的が、別に作っている自作の機械の部品を作るためだったので旋盤自体が無駄になることはない。

さて、話がだいぶずれたが、自分が何をしたいか、そのためには何が必要か、しかしそのためにコストをかける必要があるかを考えるとき、コストはかけないとの大前提があって、しからばコストをかけずにどのようにするかなどなど、さまざま考えることになる。この考えることが楽しいし、形になって表れることで満足もする。

単にお金を出して買えば何でも解決するが、頭を使い体を使いこの様に解決してゆくことで私が得られる満足は桁違いに大きいと思う。

by ロクスケ











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物作りの奨め 作ること自体を楽しむ

前にも書いたことだが、私が物を作るのは何かを作って使うためよりも造る工程を楽しむためだと言っていい。むろん、使うために作ることもあるが、唯でさえ家の中がごみごみしているのに物を増やす事もないはずなのだが。

造る工程を楽しむためには、自分の頭と腕を最大限に使うことが大切であり、特に私の専門の電子関係では自分で作るよりも買った方が安いのが普通だ。今例えば私がテレビを作るとしても(実際に作れると言うことではなく、あくまで仮にの話)材料をそろえ、道具をそろえて作るとして、どのくらいのコストがかかるか予想してみたことがある。その結果、恐らく最低100万、多分200万以上はかかるのではないかと言うことになりびっくりした。この作るというのは単に部品を買い集めて組み立てることではなく、可能な限り部品も作り、そのための道具や機械も造ることを含んでいる。単に部品をかき集めて組み立てるだけなら10万もかからないだろうが、それでも今一番安いテレビは多分新品で1万円を切るだろう。

部品だけではなく、それに費やす時間を設計段階から含めれば私の人件費を加算しなければならない。多分300万位かかるのではないかと予想したが、むろん実際作るつもりはないからそれが30万でも話は同じだ。

が、それでも作ることを楽しむためにはテレビを作ってしまおう、と言う人達が世界には無数にいて、恐らく私もその中に入っている。テレビは作らないが、測定器などは自分で結構作り、結果として半値もしない既製品にも及ばない性能の物しかできない。

まして、私が作っているいろいろの物はもし買えれば100円ショップでも買えるだろう。電動工具を使えば簡単に出来る仕事を、一切手道具と熟練だけで作ってしまう人の動画をよく観るが、注文家具などを作っているらしい。当然非常に高額になるだろうし今の工業水準だと機械で製作した物も見栄えから仕上がりまで劣らないと思うが、手作りと言うことに価値があるようだ。

私の技術はそのような職人の足元にも及ばないが、手作りで、自分の手で作ったという満足感は何物にも代え難い。結局、私が物作りをするのはこの醍醐味を味わいたいからだと思う。

by ロクスケ











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健康で生活するために 健康の意義

誰でも健康に暮らせたらよいと思っているだろうが、実際に健康に暮らし、天寿を全うする人はごく限られている。そもそも、天寿とは何歳で自然死することを言うのかは分からないが、まあ平均寿命を健康で過ごせればそうなのかも知れない。

が、唯それだけで長生きするのを私は天寿を全うするとは考えていない。例え平均寿命に至らずに死んだとしても自分で満足できる人生を送っているなら天寿を全うしたと言えるのではないか。むろん、病気や事故で死ぬことは除外するが。

私の目標は、長生きすることでなく元気で長生きすることだ。私自身、まだ高齢者とは思っていないが、世間の認識ではそろそろその領域にさしかかっている。それとは別に、私自身が嘗て決めたことがある。すなわち、年を取るのを止めようということだ。

生物学的にも社会の認識でも私は毎年一歳ずつ年を取っているが、自分では全くその気はない。なにしろ、年を取るのを止め、病気になるのを止めたからだ。止めると決めたのだからそれでよい。

私もそれなりの人生を歩み、大金を得て豊かな老後を望まない訳ではないが、そもそも金があっても寝たきりになったりやりたいことが出来ないのであれば金を持つことに何の意味もない。むろん、食べて行けないほどの金もないのは論外だが、私にとって最も大切なことは、ある程度の金があったらあとは何を置いても健康であることだと思っている。それも体だけの健康ではなく精神の健康も当然必要であり、そのためにはそれなりの努力も時間も必要だと思っている訳だ。

幸い、今のところだが、私は自分でやりたいことをやれる体力は十分に持っている。2,30キロを早足で歩き通し、翌日疲れも筋肉の痛みも無いのであればまず良かろうと思うし、ネットで情報発信をし、ブログやホームページを開設維持し、新しい知識を学び、語学などの勉強でも積極的に進め確かに毎年上達していると自覚している。読書量も減らないし、行きたい旅行などには全く躊躇することなくいける。

結局やりたいことが出来、知りたいことを知り、学びたいことを学べる状態を維持していられるなら、私が年を取らないと決めたことは間違っていないのだと思うわけだ。

次回からは、具体的な方法を書いてみたいと思う。

by ロクスケ









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健康で生活するために 決めつけない

此処では老化に伴う体力や気力の劣化にどう対処するかを書いている。むろん、若いときでも病気になったり気力が衰えることはあるだろうが、それは人それぞれでそれぞれ対処すべき問題だろう。が、老化は例外なく生きている限り誰にでも起きることでそれをどう対処すべきかを書くのが目的だからだ。私自身、老化は人ごとではない。若い頃は自分が年を取るなど全く実感はなかったが、今は日々それを実感している。なにしろ、私の周囲というより付き合う人間達の殆どが高齢者やその手前の世代だからだ。

さて、年を取ることは誰にも避けることは出来ないが、自分で年を取らないと決めそのために手を尽くすことは出来る。しばらく前のことだが、私より高齢の人が、去年まで出来たことが今年は出来ないと気が付いたときのがっかり感は尋常ではない。こうやって出来ないことが増えていって、最後には何も出来なくなるのだと思うと本当に寂しいと言っていたのを聞いて、そうではないだろうと内心思った。

私自身、去年出来なかったことが今年出来るようになったとか、以前より身体が楽に動くようになったとか、もっと端的な例では、最近有った顔のシミが気が付いたら消えていたなど小さな事がたくさんある。

年を取るから出来なくなるのではなく、年を取ったら出来なくなるのは仕方がないと思い努力をしないことが問題なのではないか。

数十年前まで、私は年がら年中風邪をひき、疲れやすく腹下しをしやすく、時に仕事をするのもつらかった。が、今、全くそんなことがない。風邪の引き方を忘れてしまったし、トイレはほぼ一日おきにすっきりとでる。なにしろ、尾籠な話で恐縮だが、座ったら2,3秒で出てしまう。後始末で何分かはトイレにいるが、3分も有れば十分に済ませられる。

数年前は、一日10キロ歩けば翌日には足の痛みや疲れが出た。しかし今は20キロくらい早足で歩いても翌日に残ることなど無い。

2,3年前はフランス語の会話など殆ど出来なかったが、今では日常生活を送るレベルくらいなら出来る。現役中は仕事に関係した話なら英語で論争できたが、一般論ではしなかったし出来なかったと思う。が、今では政治の話、趣味の話、哲学の話などもそれなりに英語で論争できる。

むろん、昔は出来たが今は駄目と言うこともあるが、そもそもそのための努力をしなかったからであり、それは昔もそうだろう。今は趣味として物作り、それも木工などをしているが、そのための機械や道具などを自分で作りそれによって工作の範囲も広がった。木工のホームページを開設し、英語と日本語で発信している。別に政治ブログを続けており、そのための勉強もかなりしていると思う。人から見れば分からないが、自覚する限りに於いて精神的にも私が老化したという自覚がないのだ。無いだけかも知れないが。しかし実際に以前は出来なかったのに今は出来ることが有れば、そう思うのも無理はあるまい。

年を取るから出来なくなるのは当然、なのではなく努力をしないから出来ないのだ。それは年齢にかかわらずそうなのではないか。その上で絶対的な体力の後退はある。

昔は1qくらいは泳げたが、今は全く水に入らないし、泳ぎたいとも思わないし、へたをすれば10メートルも泳げないのではないかと思う。が、日常生活で全くそれで不自由を感じない。

若い頃は不健康だったが確実に当時の私より今の私の方が健康で体も動くし楽に生活が出来ている。昔の私を基準にすればそうだという話で、一般的な若い人を基準にしているわけではない。

年齢による劣化とは別に、気持ちの持ち方と努力で体力も気力も能力も決して劣化はしないと思い込む事が一番大切ではないのかと、私は思う。

by ロクスケ











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健康で生活するために 日常生活の運動習慣

今号の一般記事では脳の訓練に語学学習が役立つのではないかと書いたが、むろん、身体の運動も必要不可欠だ。私自身は取り立ててスポーツと名の付く物をやった事がない。走ったり飛んだりボールを追いかけたり等の運動はしないが、ただ日常生活では体を動かしている方だと思う。エスカレーターなどはあまり使わないし、数キロなら早足で歩く。車などは使わない。そして、よほど天気が悪くない限り、一日最低30分、気が向けば2,3時間早足で歩く。時には小走りもする。

この様に歩く事を習慣としている事で、体の調子は極めて良い。むろん、歩く事だけが体調維持のためによいわけではないだろうが、少なくとも毎年受ける地域の健康診断では特に問題が出た事はない。ただし、近年冬になると少々血圧が高めになって気にはしているが、春になると結構下がるので、神経質になるほどでもない。

食生活などもそれなりに気を遣っているが、やはり日常的に動く、それも早足で歩く習慣が極めて有効である事に間違いはない。20キロ以上歩いても特に疲れなど感じないし、去年だが一週間毎日20キロずつ歩き、つまり140キロ歩いたときも全くペースを落とさずに歩き回れたので自信につながった。過信は出来ないにしても、体を動かす事は極めて生活の質を上げると思う。

歩くのもだらだらではなく、結構早足で歩き続けるし階段や上り坂でもペースは落とさない。朝布団から抜け出して直ぐに普通に動けるのもそのおかげと思う。

家の中でも気軽に動けるし、動く事が億劫だと思った事はない。

まともなスポーツをやるのも良いのかも知れないが、毎日とぎれることなく気軽に歩くなどの運動を生活に取り入れる事は極めて生活を快適にする。同じ生きているなら、動くのが面倒になるような生き方など全くご免だと思う次第だ。

by ロクスケ











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健康で生活するために 文章を書く

健康を語るとき忘れてはならないのは、頭の健康だろうと思う。体の健康は、それなりに気を付ければ一応大丈夫だろう。現実に私はこの30年以上風邪一つ引かないし腹もこわさないし、なにより病気をした記憶がない。2,30Km歩いても全く疲れないし、同年輩の人からは元気だねぇと言われる。数十Kgの物なら持てるし、日常生活で全く身体に不安はない。無論、それでも知らない間に癌などにかかっているかも知れないが、毎年受ける地域の健康診断では特に問題を指摘された事はない。

だが、体の健康は自分でチェックできるしまた健康診断などで異常を発見できるのだろうが、自分で気が付かない内に精神的な衰えが起きていたら、これは悲惨だ。認知症や鬱病など、精神面の問題も外から見て気が付くならまだ手の打ちようがあるかも知れないが、知らない内に精神的に健康を失っているならそれは大変だ。

で、私は自分なりに自分の精神面の健康をチェックする手段として、一つは以前も書いたように語学の勉強をしている。そして嬉しい事に、確実に能力が上がっている事を自覚している。フランス語などは、2,3年前は自分で話す事が片言でも出来ていたし、或いは相手が十分にゆっくりとはっきり話してくれるなら理解できる程度だったが、今ではフランス語の映画などを観て所々だが聴き取れる様になった。英語の場合は、もっと顕著に聞き取り能力が向上したと思うし、Youtubeなどで、英語の動画を観てもまず理解できる。明らかに能力が向上していると(思っているだけだとしても)感じている。

で、書く方はどうかも大切であり、以前は仕事で英語など毎日書いていたが、今ではそのような機会もなくなっており、去年の春から自分で開設したホームページを日本語と英語両方で続けている。それに関し、海外ともメールのやりとりをしているがきちんと通じているようだ(多分)

同時に、3年ほど前まで毎日短編小説を一編ずつ書いていたが、それが1000編に達した時点で一区切りした。が、今は、全く別の事、即ち上記とは違う別のブログで結構書いている。書くと言う事は、自分の頭の中の言葉を形にして表す行為であり、つまり自分の考えをまとめるためには非常に効果的であり、頭の訓練になる。それが衰えていなければ、自分の脳みそも衰えていないと言う事だろう。まあ、我ながら自分の文章はくどいとは思うが、脳の訓練にはなっているだろう。

身体は訓練によって状態が良くなる。頭も同じであり、訓練しなければ急速に衰える。

健康に暮らすためには身体も頭も鍛え続けなければならないと私は思っている。

by ロクスケ











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健康で生活するために 酒は程々に

現在の私は殆ど酒を飲まない。殆どとは、全く呑まないわけではなく、感覚的には一度に呑む量として日本酒なら1〜2合、ビールならショート缶一本、ウィスキーなら水割り2杯程度を月に2回から週に一回程度、但し、おつきあいなら日本酒で5合程度までは呑むが年に一回あるかないか。医師には全く問題がないと言われている。

しかし、嘗て私は底なしの酒飲みであり、多分三十代、四十代の頃は、付き合いもあって毎日飲み明かしていた。ほぼ一升酒を毎日飲み、あるいはウィスキーならボトル一本を当たり前に空けていた。そのせいもあったろうが、とにかくそのころの体力は最低であり、風邪をひいていない時が思い出せないほど年がら年中風邪をひいていたし、身体の節々は痛むし脂肪肝だと言われるしで散々だった。

今の私はおそらく健康には問題がないが、そのためには努力をした。その努力のきっかけになったのは、ある時出張で行った地方で、有名な神社の石段を登ろうとして2,30段も上れない事にショックを受けたからだ。ただ、仕事柄接待酒は止める事が出来なかったが、少なくとも自分一人で呑むときは量を減らし、付き合い酒も量は可能な限り控えた。出張の連続で毎日外食しかできなかったが、出来るだけ野菜中心に摂るように心がけた。が焼け石に水だった。

会社を辞め、自分で仕事をするようになってからは一時完全に酒を止め、外食も徹底して避けるようになった。そして毎日一定時間必ず体を動かす事を心がけた。

嬉しかったのは多分自分はアルコール依存症だろうと思っていたのが、一回で、全く酒を断つ事が出来た事だった。それは嘗て一日三箱を喫うヘビースモーカーだったのが、一日で一切禁煙が出来たのと同じで、まさか自分にこの様な禁酒禁煙が出来ると思っていなかっただ。

恐らくその全てが有効だったのだろうが、いずれにせよ私にとって禁酒は今の健康のためには欠かせない事だったと言える。まあ、止めたなら完全に止めればよい物を、自分で確実にコントロールできる事を自覚した上で、上記のように月に何度か少しのアルコールを楽しめる。酒自体は別に嫌いではない、と言う理由だけだが。確かに自分でどぶろくを作ったり果実酒を作っているのだから酒が嫌いだとは言えない。

アルコールをたしなむのはあくまで楽しみのためであり、あくまで自分がコントロールできる場合に限るべきだろう。そうでないなら、やはり酒は百害有って一利なしと心得るべきだろうと思う。

by ロクスケ











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健康で生活するために 好奇心を持ち続ける

子供の好奇心は時として大人にとって煩わしい事さえ有るが、けっしてその好奇心を積むような真似をしてはならないのも常識だろう。誰もが経験有るだろうが、子供の頃は見るもの聞く物全てが好奇心の対象になり、それが知識欲につながるのだから当然なのだ。私も子供の頃、蜘蛛や蛙などをポケットに入れてきて母親に悲鳴を上げさせていた。それでも母は決して怒る事はなかった。

それから何十年も経ち、私自身到底子供の頃の好奇心は持っていないが、それでもこれだけ変化の大きな時代、私が見た事も聞いたこともないことが次々と出てくる。それを一人の人間が受け入れるなど到底無理な、膨大な量であり、子供の頃初めて見聞きした物よりも多いだろうと思う。大人と子供では、接する世界の大きさが違うのだから当然なのであり、したがって、人間の好奇心の対象が無くなる事など有りえないのだが、それでも子供の頃の好奇心を失っているのは事実だろう。

とはいえ、あまりに物事に好奇心を持たない人が多すぎるような気もする。好奇心を持ち続け、常に新しい発見をしているからこそ、わくわくし柔軟な心を持ち続ける事が出来ると私は思う。

しかしその私は、他の人が情熱を注ぐ、興味を持つ、探求する多くの物に興味を持たない。グルメを追い求める気はさらさら無く、衣服に凝る趣味もない。スポーツ観戦もしないし音楽や文学美術などにのめり込む事もない。そんな私が、好奇心を持ち続ければ心がわくわくと言っても説得力はないのかも知れないし、当然ながらグルメ探求、服飾探求、スポーツ探求などなどにのめり込む人をとやかく言うつもりなどさらさら無く、それはそれで人生が充実しているのだろうと理解している。つまり好奇心の対象が違うのだが、ただ、散歩をしていてふと目に留めた小鳥や花などに好奇心を向けるなども単に見過ごすよりはましだろうと言うくらいの意味だろう。むろん、無理に鳥や花や虫に無理をして心を止める必要はないが、気が付いたらそれに見入っていた、観察していたという心の在り方はいつまでも保っていたいと思う、そう言う事だ。

by ロクスケ











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健康で生活するために 新しい事もやってみる


精々3,40年前から見ると現代は非常に様々な者が急速に変化している。私が会社勤めをしていた頃は、会社にはコンピューターなど無かったし、むろんメールなんかもなかった。電卓さえ、出てきたのはずいぶん後になってからだし、結局は現在パソコンでやっている事は全て手作業だった。複雑な計算も全てソロバンや計算尺で紙に書いた表にまとめていたし、国内向けの文書は殆ど手書きで、コピーは殆どカーボンペーパーで取っていた。海外向けの文書はタイプライターを使い、それもカーボンペーパーでコピーを取っていた。少し後になって、複写機が出てきてかなり便利になった。ちなみに現在同文を多くの相手に送る場合に使うccとはカーボンコピーの事。

文書を送るのは封筒に入れて切手を貼って郵便局に出しに行き飛行機便で返事が来るのは大体一週間の後であり、緊急の連絡は電話、テレックス、ファックス、電報等だったが、今はそれらがあった事を知らない人も多い。海外との連絡も瞬時に文書や計算、動画も音声も出来るのだから、とうぜんそれらが無くなっても全く当然だろう。私も会社勤めの最期の頃はコンピューターを会社で入れたが、それを扱える人間がいなかったというおまけまで付いている。入れれば誰かが使い方を覚えるだろうと言う甘い考えで入れたらしい。

その後、ポケベルが出来、携帯電話が出来、今ではスマホが当たり前になっている。私は現役の会社勤めではないので上記のOA化はあまり縁がないが、自分個人ではおそらく最大限に利用していると言えるだろう。けっこう、それで収入を得たりしていた。

今は、仕事につなげるためにホームページを開いており、その情報をよりよく広げるために動画サイトも利用し始めている。ただし、動画撮影をしていると本来の仕事に集中できず、気が散るのであまり積極的には使っていなかった。最近はヘッドマウント式のカメラを使い、これだと意識せずに自分の視界そのままに動画が撮れるので、後で編集し、ナレーションを入れて、例えば、youtubeに動画を上げたりし始めている。

試しにやってみたら、結構便利なので今は本格的に撮影と編集、ナレーション(無謀にも英語でのナレーション)を計画しているのだが、考えてみると昔は到底一人では出来なかった作業が余裕を持って出来るのだからやらない手はない。それにしばらくあまり本腰を入れていなかった3Dソフトで図面や3D画像を作りそれを動かして動画サイトに載せれば、居ながらにしてほぼ伝えたい情報を伝える事が出来る。

こんな事が今では簡単に出来る事を今更ながら知ったのだが、そこで本題。この様に新しい事にためらわずやってみる事は非常に精神的に有意義ではないのかと思った次第だ。出来ないかも知れないなど考えた事もない。出来るのだからやろうとしか考えなかったが、それを同年輩の人達は信じられないと言う。多分私は若いのだろう。

by ロクスケ











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健康で生活するために 出来るか出来ないかを考えない

先日ある人と話していた時だが、私は年を取らない事に決めている、と言ったら、その人は驚いていた。私より四歳年上の人なのだが、年を取る取らないは、意志とは関係がない、いやでも年を取る、と言う。無論その通りで、私も生物である以上、経年による老化から免れるはずはなく、私だけが自然の摂理を逸脱できるわけではない。が、私が言う、年を取らない事に決めている、とは結局出来ないのを年のせいにしないと言う事だ。

去年出来た事が今年は出来ない、とよく言う高齢者が居る。むろん、私にもある。十代の頃は1q泳げたが、今は多分泳げない。試した事がないので分からないが、まず泳げないだろう。そんな事はいくらでもあるが、十代二十代の頃に出来なかった事が今は出来るなど無数にあるし、そもそも去年出来なかった事が今年は出来るようになったなどもある。

つまり年のせいでできなくなる事は確かにあるだろうが、年を重ね経験を積む事で出来るようになる事も無数にある。何かを学ぶには確かに記憶力が重要であり、そして年を取ると若い頃の記憶力はなくなる。が、記憶するのは記憶力だけが必要なのではなく、整理し取捨選択する能力が非常に重要であり、つまり無駄な事を排除し、必要な事だけを瞬間的に選び出して取り入れる能力が、記憶には必要なのだ。そしてその能力は年をとるにしたがって強くなる。

これは私自身経験している事であり、だからこそ年を取らない事に決めていると言えるのだ。私の同年輩の人に、私がネットを開設しブログをやり、ユーチューブに動画を上げていると言うと、自分は全く分からないから興味も無いという人が結構居る。が、私は、それなりに高齢になってからそれらに触れたが、別に年を取っているから理解できないなどと考えた事がない。で、実際に、一応使っている。出来ないと決めつけるのではなく、どうすれば出来るかと考えるべきなのであり、だから、その意味で年を取ったから出来ないなどと考えない、即ち年を取らない事に決めていると言う所以だ。

また、実際精神的な余裕が出来たためか、昔出来なかった事が今出来るようになった事は結構多い。出来なくなった事もかなりあるが、そもそも必要としていないから別に構わない。メンタルな事だけではなく、私個人について言えば、現役時代極端に体力が無く出来なかった事が、今では体力的にもできる事が結構ある。むろん、これは私個人が若い頃極端に体力がなかった故であり、だれもが同じと言う事ではない。

by ロクスケ











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健康で生活するために 脳を育てる

人間は動物、特に哺乳類の中でも突出して長生きをするそうだ。確かに身近な犬や猫でも精々長生きして二十年、野生動物でも似たような物だし、そもそも天寿をマット薄々る事など無い。餌が採れなくなると飢え死にしたり補食動物に殺されたりするのが普通だ。

その点、人間は理論的には百二十歳くらいまで生きるそうだ。日本でも平均寿命が八十歳を超えている。平均なのだから、実際には九十歳の人も珍しくはない。

さて、それだけ長く生きる人間も、単に生きるだけではなく、生きる理由がなければなるまい。どんなに健康でも、身体は衰えてゆく。力も速さも持続力もなくなり、もし野生状態なら、恐らく人間は今の半分も生きられないだろう。なぜ人間は、自力で生きられないと思われる年齢から更にそれ以上の年月を生きる。

むろん、それには理由がある。身体が動かなくても頭の成長は止まらない。これも理論的には人間の脳が百二十歳まで成長し続けるからだとのことだ。むろん、身体同様、脳も使わなければ衰える。つまり脳は百二十歳まで使い続ける事が出来ると言うわけだ。そして、それまでに蓄えた知識を若い世代に伝える事で人間は集団として発展してきた。

人間以外の動物は、生殖が終われば後は同種の負担になるだけなので死ぬ以外の選択肢がないが、人間は生殖が終わってもまた生殖しなくても同種の発展に無くてはならない存在として生き続けられる。これが人間を此処まで進化させたのであり、そのために動物としては例外的に長寿なのだ。

高齢になってもむろん、体の健康を保つのは大切だが、脳の健康を保ち成長させる事が生きる意味を創り出す。私はそう思っているから物忘れや物覚えの悪さ、頑迷さを年のせいには絶対にしたくない。そして、その気になれば、記憶力などが衰えているという自覚がないのだ。自覚がないだけでなく、実際にIT関連でも語学でも物作りでも確実に進歩している。即ち学んだ事が身に付いている。

私が体の健康同様、精神の健康を大切にし鍛える事を続けているのはそのためだ。

by ロクスケ











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健康で生活するために 筋肉を鍛える

当たり前だが、自堕落に生活をしていると身体がなまる。すると動くのが億劫になり、ついでに考える事すら億劫になる。現実に身体がなまると頭もなまるのは避けられない事実のようだ。

また頭がなまるのはともかく、身体がなまると疲れやすくなるし動けなくなるし病気になりやすくなる。良い事など一つもないので、私は身体がなまる事は極力避けたいと思っている。そのためには食事に気をつけるなどむろん当たり前だが、これについては元々が菜食中心、薄味好みで外食嫌いであり、結構理に適っているとは思っている。

だが、これだけでは駄目なので、もう一つ私が意識しているのは体を動かす事だが、今から筋肉ムキムキになるつもりはない。あくまで自分が必要な時に身体が言う事を聞く状態に保ちたいのであり、結局やっている事と言えば歩く事が主になる。

下手に筋トレなどをしてみたところ、筋肉を傷めこれは直ぐに止めた。やるとすれば柔軟体操から始めなくてはならないのだが、自己流でやるより、きちんと方法を学び身につけてからにすべきだと思う。が、いずれ、体が固いのは自覚しているから、何とかしたいとは思っている。誰でも年を取り、私も例外ではなく、昔よりも格段に体が固くなっている事を実感する。体が固いと、ふとした物に躓いて転んだり、必要な時に高い物を取ろうとして筋や関節を痛めたり酷いときはぎっくり腰になったりでろくな事はない。普段は体が固い事で不便も特に感じないが、ただ何でもないときに体が固い事で怪我をしたり自己にあったりする。体操選手並みの柔軟性は要らないが、自分で十分だと思うくらいの柔軟性は、事故を防ぐ為にも筋肉をつけ新陳代謝率を上げひいてはダイエットのためにも是非必要だと痛感している。

今のところ血圧も低いし血糖値やコレステロール等々全て異常はないが、これも大半は歩く事にあると思っている。まあ、今の状態を保てれば、良いかとも思うのだが。しかし身体が柔軟になればもっと健康の幅が広がる。

だから、もう少し身体を柔らかくし、筋肉をつけなければとも思っている。

by ロクスケ











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好奇心を保ち続ける

好奇心については何度も書いているが、また何度も書きたくなるほど大切なことだと思う。別項でも書いているが、今私は旅先であり、宿で普段使い慣れないタブレットでこれを書いているが、私が旅行をするのも単に好奇心を満たすためだ。ただ、名所旧跡を巡ったり温泉に浸かったり名物料理に舌鼓を打つためではない。そんなものは今の時代ネットでも見られるし、また今まで行ったこともある場所が多い。が、私の好奇心の対象は、人々の日常の生活であり、そのためには観光の対象になっていない路地裏や小さな店をのぞくなどが対象になる。そのためには親からもらった二本の足で歩き回ることになる。

幸い足は丈夫で、スマホの万歩計によると一日数時間、10-20キロくらい歩いているようだ。確かに疲れるが、おかげさまで熟睡できるし、なにより足で稼いだ景色はきわめて鮮明に脳裏に焼き付く。

昔は単に見て歩くだけだったが、今ではカメラでとにかく写真を撮るし動画も撮る。が、後からそれを見返すなどはほとんどない。結局足で歩いて目で見たものだけが脳裏に焼き付くようだし、結局私の旅の目的、好奇心を満たす目的にかなっているようだ。

by ロクスケ











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健康で生活するために 頭の体操

つい最近読んだ記事だが、84歳で4万桁の円周率を暗唱し、ルービックキュービックなども目を閉じたまま秒単位の速さで完成する人がいるという。

一般に年を取ると記憶力が無くなり、甚だしいと昨日誰とどんな話をしたかも曖昧になるらしい。らしい、とは私は今のところそうではないからだが、基準としては高齢者の部類にさしかかっている。やはり、記憶力が衰えてきたかのかと不安になる事はあるが、それで生活に支障を来している事はないと思う。まあ、自分で気が付かないだけかも知れないが。

しかし、84歳で上記のような事が出来る人がいるのは、むろん例外だからニュースとなるのだろう。ただ、人間の理論的寿命は120歳であり、それに至る以前に身体の老化は様々な部署で始まり、眼球の老化は8歳からだという。内臓、骨、筋肉、皮膚、血管などなど様々な部位がある年齢でピークを迎えあとは老化し行くだけだというのだが、脳だけは例外で、理論的な寿命一杯進化し続ける様に出来ているとの事だ。

ただし、言うまでもないが脳の機能は年齢によって変化してくる。幼児期においてはとにかく見聞きした物を全て無条件に記憶するように出来ており、その時期を過ぎると、記憶する内容を要不要でふるいにかけ必要な物だけを記憶するようになり、その次は記憶した情報を脳の内部で整理し組み合わせ複雑な意味を理解できるようになる、つまり理論的な機能が発達するというのだ。そして、それらは当然ながら訓練や経験によって大きく異なる。

幼児期に誰もが母国語を覚えるが、まともに使えるようになるにはとにかく無条件で記憶した言語が無ければ不可能なのであり、何らかの原因でその時期に母国語を記憶する事が出来なかった人は、その後生涯にわたって理論的な思考が出来ない。インドなどで捨てられた子供が動物に育てられ後に発見されたなどの報道があるが、それらの子供は死ぬまで言葉を覚えられなく、そして思考力が育たない。

身体も訓練をしなければ、あるいは正しい手入れをしなければあっと言う間に老化し、若くても使い物にならなくなる。これは私自身体験しており、3,40代の頃はとにかく最低最悪の身体状態で、それをつくづく痛感したからとにかく健康を取り戻す事に専念し、幸い今では当時とは比べ物にならない健康を手に入れ、少なくとも日常生活に於いて全く支障はないと思っている。

一方、頭の方も年を取ったから物覚えが悪くなったとの自覚は今のところ無い。一週間前に何処で誰にあってどんな話をしたなどもきちんと覚えているし、要点ならこの数年のことは恐らくきちんと覚えている。なにより、語学やパソコン関連などで、去年出来なかった事が今年は出来るなどがたくさんあり、去年は聴き取れなかったフランス語の映画が、今年は部分的にでも聴き取れる、去年出来なかった作図が今年はもっと早くできるなどなどたくさんある。

つまり、自分なりに頭を鍛える事を続けてきたからだろうと思っている。身体も積極的に鍛える努力をしないと一方的に衰えてゆくばかりだが、頭も同じと言う事だ。

誰もが同じ事をするべきとは言わないが、自分なりに自分に適した方法で頭の体操は積極的にすべきではないのか。

だから、私の場合は、と言う事に限って言えば、

1)本を読む
2)文章を書く
3)語学を学ぶ  ー 実用性があるなしではなくあくまで頭の体操のため
4)物作りをする ー 嫌でも工夫が必要であり、これも頭の体操になる
5)パソコンやネット、作図、画像など最新の技術を積極的に学び物にする
6)テレビなどは絶対に観ない。あれは全く物を考えない時間つぶしに過ぎない
7)パチンコ、競馬、競輪など脳にダメージを与える物と認識する
8)ありとあらゆる物に興味を向け、取り入れるかどうかを取捨選択する

等があると思う。そして、体の健康を維持し向上させる努力が上記の前提として欠かせないから、食事、運動、薄着、禁酒禁煙などだろうか。

よく言われる「人と接する事」は私には当てはまらない。余計なストレスをため込むだけだから。

いくら健康でも新しい事に興味を持てないとか記憶できないなら健康の意義も半減する。体の健康と脳の健康のために、双方とも運動が欠かせないという所以である。

by ロクスケ











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健康で生活するために 洗濯はこまめに

背広を着なくなってずいぶん経つ。昔仕事で背広を着ていた頃は、身だしなみはやはり仕事上気を遣わなくてはならず、よれよれや汚れた服装はしなかった。

今、背広は着ないが、それ以外のあまりまともな物も着ないようになっていて、一日中、一年中作業服を着ている。むろん、家にいるときや工作などをしているときと、外にでる時は替えているが作業服であることは変わりない。冬も夏も、アンダーシャツの上に作業シャツ、それだけだ。以前はそれなりにポロシャツやカーディガンなども着ていたが、それもやめた。

なにより、金がかからない。作業服は相対的にやすいし、結果として多数もって頻繁に洗濯ができる。最初は外にでるときに着て、洗濯しても汚れが消えなくなったら家の中で着て最後に作業場で工作するときに着る。いよいよ最後は、雑巾として役立ってくれる。

着る物はおしゃれのためにもあるのだから、あくまで私はそうしているというだけのことだが、これで別に困ったことはない。むろん、人様からみればまた別の見方や評価があるのだろうが、私の知ったことではない。

今の私にとって、洗濯が気楽に頻繁にできることが最重要なのであり、汚い格好でさえなければよかろうと割り切っている。

人生割り切らなければならないことはたくさんあり、食べ物にしても趣味にしても私なりに割り切って楽に生活できているならそれでよいと思っているし、そして実際にそれで困ったこともないと思っている。

by ロクスケ











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健康で生活するために 勉強の奨め

恥ずかしながら、私は子供の頃から勉強嫌いだった。自分の好きな事しか集中できず、結局学校での勉強など集中できなかったからだ。むろん、大人になってからはそれではまともな生活も出来ないので、自分の専門分野についてはかなり打ち込んで勉強したし、それなりに生活に役だった。

今は生活のためではなく、自分の生き甲斐のために勉強をするようにしている。何度も書いているが、語学を今になって学んでいるのはそのためだ。実際には仕事で外国語を話していたときは、話せなければ仕事に差し支えるから真剣に学んだが、今は別に外国語が仕事に必要なわけではない。ただし、ネットなどをやっていると、外国語の知識が有れば情報収集の範囲は数十倍以上に広がると言っていい。そして、外国語を学ぶ手段がネット上にたくさんあるのも非常に助かる。ということで、会社を辞めてからかなり衰えていたと自覚している外国語がこのところそれなりに回復しているような気がする。あくまで気がするだけだが、先日もある集まりで外国人と英語、及びフランス語で会話をし結構通じているので嬉しくなった。明らかに、能力が上がっていると感じたのだが、これがまた学ぶ励みになる。

頭の訓練は外国語だけでは無論無いし、持論として日本人が外国語を学校で学ぶ必要など無いと思っている。好きな人或いは必要な人が自分で学べば良く、特に必要ならかなり短い期間で外国語は身に付く。私の場合はかつて身につけたからそれを再度やっているだけの事だが、先に書いたようにメリットは極めて大きい。

私のこれは趣味だが、各種の電子工作などがあり、アンプや各種の電子機器を自分で作っているし、パソコンなども自分で必要な機能を高めた物を組み立てている。日進月歩の技術革新があり、到底追いつけないが、追いつこうとも思っていない。ただ、必要な知識が抵抗無く身に付けばよい。今年スマホデビューしたが、数日で必要な機能は全て使えるようになっている。同年輩の人達で、スマホが使えずガラケイしか持たない人がいるのも事実だが、難しいから諦めているだけのような気がする。

諦めたら何も出来ないが、出来るはずだと思い込んでやってみると結構できる事はあるものだ。外国語でもパソコンでも料理でも何でも良い。全く新しい物を頭の体操と何より楽しみのために学び身につけてみてはどうだろうか。その努力がかなり頭の体操になると思うのだが。

我ながらそれなりの成果があると思うが、それなども語学学習のおかげではないかと思っている。

by ロクスケ











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健康で生活するために 生活の規格化

人間には日頃から考えなければならない事がたくさんある。しかし、考えなくても出来る事は考えないようにする事で、それだけ他の事を考える事が出来る。これは極めて当たり前の事だろう。毎日歯を磨き顔を洗い風呂に入り服を替える。これについて毎日どのように歯を磨こうか、今日は石鹸をタオルにつけようかそれとも顔につけて洗顔しようか、風呂に入ったら先に洗おうかそれとも湯船に入ってから洗おうか・・・などなど毎日考える人はいない。誰もが半ば無意識にやっているはずで、改めて昨日顔を洗ったろうかなどと考える事もない。洗ったに決まっているのだ。

もし、毎日これらの事を一々考えながら方法を決めてやっているとしたら、かなりの負担になるだろう。

しかし、それでも毎日無意識に出来る事を色々考えながらやっている事はたくさんある。何度も書いているが、私は年中同じ物しか着ない。肌着の上にシャツとズボン、それだけで夏でも冬でも過ごす。新しい内は外で着て、一寸古くなったら家の中で着て、もっと古くなったら作業着として着る。そうなると、毎日何を着ようかなどと考える必要がない。無意識で出来るし、それからとにかくそうするようになって衣料費が極端に減った。洗濯も実に簡単になった。それで、着る物に時間を取られる事が本当に減ったし、無駄に考えて時間を過ごす事もなくなった。

私は毎日同じものを食べる。すると、何を食べようか何を買ってこようかなどと考えなくとも半ば自動的に食事が出来る。なにしろ毎日同じ物を作り、或いは大量に作った物を時々足して置けばよいだけだから。これにより、食材の無駄がなくなり、何を食べようなどと考える必要もなく、それについての時間の無駄もなくなった。半ば無意識に食事が出来るので考える必要もない。これにより、時間とコストの削減はかなり大きな物がある。

そして、それが主目的だったが、数十年風邪一つ引かない健康状態を保ち、今私がしたいと思っている事は体力的には問題なくできる。

時間は貴重であり、無駄には出来ないと年齢を重ねるにしたがって思うようになったその解決策としてかなり前から上記の生活スタイルを取るようにしたのだ。

その分、好きな工作をしたり本を読んだり文章を書いたりネットをやったり語学をやったりしている。ついでだが、新しい言語を学ぶ事は、脳の活性化に極めて有効だと最近読んだ。年を取ったら頭が鈍くなると決めつけ諦めると実際に鈍くなる。世の中にはスーパーエージャーと称される人達がいて、80,90歳でも20代並みの記憶力を保っている人がいる。また、先日105歳で無くなった日野原氏は亡くなる直前まで現役の医師だった。

私も確実に年を取っているのだが、どう考えても記憶力や学習能力体力が10年前より劣るとは感じていない。感じないだけかも知れないが、ただ、去年出来なかった事が今年は出来るようになっているなどを自覚するのはいくつになっても極めて嬉しい。そのために、余計な事に時間を使わなくて済むように、着る物、食べるものを決めてしまったのは正しかったと思っている。

無論、年を取っておしゃれやグルメが生き甲斐という人もいるだろうから、誰もがそうすべきだ等とは言わないが、もっと生活を楽しむための取捨選択として考えても良いのではないだろうか。

by ロクスケ











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健康で生活するために 自家製食品

日本は世界でも突出した発酵食品大国であり、近年それが世界で注目されつつあるという。発酵食品とは、カビや細菌の力を借りて加工した食品だが、この様な物は世界中にある。チーズやヨーグルト、酒類などは代表だろうが、日本はその種の食品が突出して多い。

例を挙げるなら、味噌、醤油、ミリン、酢、鰹節、塩から、なれ鮨、フナ寿司、酒、納豆、古漬け、糠漬け、くさやなどなど。むろん、日本でもチーズやヨーグルト、パンなどもよく食べられている。

そもそもが、人間が様々な食品を食べて消化するためには腸の中にいる無数の細菌の力を借りているのだから、ある意味体内で発酵させているともいえる。さて、前置きが長くなったが、日本は高温多湿であり、それを利用すれば自分でも発酵食品は極簡単に作れる。

私の場合、味噌、酒、古漬け、なれ鮨、糠漬けなどを作っているが、極めつけはヨーグルトではないだろうか。夏場などはごくごく簡単に作る事が出来るので、毎日大量にヨーグルトを食べている。まず、牛乳パックを大きく開く。私の場合は脱脂乳を使う。それに、無糖のヨーグルトを適当にそそぐ。その際、さじなどを使わず、大きく開けた牛乳パックの上から直接ヨーグルト容器からそそぐわけで、まさに適当量でよいが感じとして大さじ数杯分か。牛乳パックを閉じて目玉クリップなどで留めてから零れないように十分に振って混ぜ合わせ、窓際に置く。27,8度になるのが望ましいが、30℃以上あっても大丈夫で、半日から一日で振ってみてもチャプチャプ言わなくなる。全体が固まったらそれでOKであり、後は冷蔵庫に入れて普通に食べる事が出来る。次々に牛乳パックに継ぎ足してゆけばいくらでも出来るが、数回に一回はオリジナルのヨーグルトパックから入れた方がよいようだ。

とにかく雑菌を入れないために、さじなどを使ったり別の容器に移したりしない事が肝心だが、どうしても別の容器やさじを使いたければ、それらは火であぶったり熱湯をかけて消毒できる材質の物に限る。そして、十分に消毒した後冷やしてから使えば大丈夫だろうが、それならパックに直接入れて振り回すやり方が一番確実で楽だと言える。

それはともかく、ヨーグルトを時にはびっくりするほど食べるが、結構身体にも良いようだ。と言うより発酵食品自体が極めて優れていると言えるのだろう。せっかく日本の気候が利用できるなら、利用しない手はない。納豆でもなれ鮨でも味噌でも本当に簡単に出来、買った物よりも確実に美味である。

by ロクスケ











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健康で生活するために 安全を確保する

私自身、昔からうっかりミスが多く、それなりに問題だし、仕事上でそのための失敗を何度もしている。そのために、メモパッドやスケジュール表をつくって持ち歩いたり、パソコンを使うようになってからアラーム付きのスケジュール管理を欠かさないようにしている。しかしそれでもうっかりミスが無くなるわけではないし、どんなに気をつけてもそれが繰り返される。

先日もガスのつけっぱなしで鍋を焦がし、盛大に火災報知器が鳴ってやっと気がついた。この様な失敗は数え切れないほど繰り返しいくつもの鍋を駄目にしたが、鍋が駄目なる位で済む内は良い、火事になったら取り返しが付かず、火の始末はそれこそ頭に染みついているはずだったのにまた繰り返した。むろん、火災報知器があって助かったが、それ以外にも様々な対策をしているし目に付くところに火の用心を書いて貼ってある。だが、それが当たり前になると意識に昇らなくなるのだ。顔を洗うのを一々意識せず、半ば無意識で毎日繰り返すようになるのと同じ、毎日繰り返していると意識しなくなる。洗顔や歯磨きなどはそれで良いが、火の始末はそれでは困る。

で、色々考え、意識しなければ火がつけられず、そして意識しなくとも火を消せる方法を考えた。煮炊きはガスでおこなっているので、ガスの元栓を電気で開閉する様にし、タイマーを入れない限りガスが出ない、つまり着火出来ないようにした。そして、設定時間、例えば10分とか煮込みなどは1時間などの設定をし時間が来るとガスが止まるようにする事にして、必要な部品をネットで発注したところだ。

これだと、ガスの消し忘れはなくなる。一旦タイマーが切れると、再びタイマーを設定しなければガスに火がつかないのだから、嫌でも意識せざるを得ない。他にも色々考えたが、これが一番確実なようで、部品が届いたら自分で工事をする。幸い日頃これくらいの工事は出来るだけの設備も道具も知識もある。人間のうっかりミスがどうしても治らないなら、技術で補うしかあるまい。健康に生活する事とは少し違うかも知れないが、命の危険が減るのだから、同じカテゴリーと考えて良いのではないか。

by ロクスケ











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健康で生活するために 長生きをするために

今更ながらの感もあるが、漫然と生きていると知らない間に時間が経ってしまい、気がついたら1年経っていた、10年経っていた等と言うことになる。思えば子供の頃、時間とは無限と同一の意味を持っていた。とにかく、見る物聞く物触る物に全てが初めての経験の連続であり、またそれが事実かそうではないかなどを考える事もなかったし、善悪すら考えていなかった幼い頃は、自分がいずれ大人になるのだとの意識すらなかったような気がする。

私は幼い頃札幌市で過ごした。最初の頃は自我が芽生える事で全く記憶がないのは当然だが、おそらく最初の記憶が有るのは3歳頃の事で、札幌を離れたのが小学校に入る直前だったから、記憶を持って札幌で過ごした期間は2年未満だったはずだ。

しかし、長い間、私は札幌で十数年は過ごしていたとごく自然に思っており、ある時それがほんの2年だった事を知って驚いた記憶がある。今でも、あの2年の期間が感覚的には本当に2年だったのかと疑いたくなるようなほどだ。

今現在、知らない間に2年などあっと言う間に過ぎている。本当に2年なのかと考えてみれば、いろいろな記録から間違いなく2年なのだが、感覚としては数ヶ月、時には2ヶ月ではなかったかと疑うほどだ。

結局、幼い頃の時間経過の感覚と、現在のそれが違うのは、どれだけ自分が接している物に対する意識の仕方が違うのかにかかっているのだ。

初めて自我を持った頃などは、雲を見ても雨を見ても猫を見てもハエを見ても等しく興味を持ち、観察し記憶に留める。今はそんな事はしない。雲も雨も猫もハエも日常的に見るが、意識にすら止めない。この違いが、時間経過の感覚の違いとして表れるのだ。

物理的な時間経過は幼くとも成人してからも変わらないが、その時間の評価は、周囲に対する意識や評価の仕方で大きく変わる。

いま、時間を意識しないまま過ごしてしまうのはあまりにもったいないと思っているのだが、今から幼い頃の感覚を持つ事は出来ない。とすれば、自分が感動し評価出来る物を自分で作ればよいのではないか。

テレビを観て1時間過ごすのも、自分で知りたいと思っている事を本やネットで調べて1時間過ごすのも物作りをして過ごすのも同じ1時間。しかし、充実度は全く違う。ちなみに、私はテレビを全く観ないし、テレビ自体を持っていない。これにより、自分が集中し充実出来る時間がかなり増えている。何かを工夫しながら作り上げる、家の改修をする、文章を書く、それで過ごす時間と、テレビ画面を見て過ごす時間は比べ物にならない。

誰もが同じく持っている時間を、どれだけ意識して過ごせるかは本当に大きな違いを生むと思う。むろん、私も長生きをしたいし、100歳までも生きたいが、ただ何も考えずに何もせずに100歳まで生きるなら、やりたい事を集中して80歳まで生きる方が何倍も実質的に長生きしているのだと思う。

一番望ましいのは、充実しながら長生きする事なのだろうが。

by ロクスケ











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健康で生活するために 具体的な目標を持つ

誰にも言える事だが、目的無しに何かをやっても長続きしないし、単に時間の無駄でしかない。むろん、遊びなら時間つぶしと言う事もあるのだろうが、生活全てが時間つぶしではない。

学校で学ぶなら、良い成績を取る、良い学校に進学する、希望の職業に就く、知識を深めるなどなどの目標があるはずで、もしそれがなければ到底勉強に身が入らず、長続きせず、早晩授業について行けなくなり学校がつまらなくなり、そしてドロップアウト。

仕事でも、嫌々時間だけ過ごしている社員など何処の会社も置いておきたくはないだろうし、仕事のプロフェッショナルになり、任される責任の範囲が増え、そして会社や社会の役に立つ、そのような目標がなければこれもまた人生を棒に振りかねない。

目標を持つか持たないかで人生が大きく変わるのは生きている限り常にそうなのではないだろうか。

今年7月、105歳で亡くなった日野原重明さんは、死ぬまで現役として目標を持ち続けて生きていた。死の直前、死への恐れはあったと言うが、それでも十分に充実して生きた人生だと思う。

私自身むろん長生きはしたいが、唯生きているだけなら意味がない。充分生きたと思えるような生き方をしたいのであり、そのことはいつも考えている。幸い体力は有る方だし、健康も今のところ特に不安はない。自分では、知的能力も落ちているとは自覚していないが、むろん自覚していないだけかも知れない。それでも、現在急速に進化しつつあるネットやコンピューターは自分が使いたいと思うだけ使っているし、新しいソフトやアプリを使っても別に不自由なく使い方をマスターしている・・・と思う。

私はむろん心身をよりよい状態に保つためにそれなりの努力をしているが、それは生きている実感を持ちながら生きていたいからだ。毎回引き合いに出す語学も、現実に生活で使う事はないが、脳の刺激にはなるし、またネットを使うようになってから日本だけではなく海外の情報もそれなりに自由に利用出来るようになっているのは非常に有りがたい。

今はブログやホームページも作っているし、英語で作っているサイトもある。

身体能力も衰えた自覚はないし、知的好奇心が衰えた自覚もない。これはよりよく充実した生き方をすると言う目的があるからだろうと、自分では思っている。それがなければ、心身の健康維持もつまらなくなって止めてしまうのではないか。

生きているだけではなく、よりよく充実して生きるには何をするにしても目的をしっかりと持つ事が大切だと思う。

by ロクスケ











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