Wing Brain メールマガジン 第407号
2017/10/01(日)発行



目次
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● 意見の発信 ロクスケ
● 先延ばしについて考える(95) なさ
● 癖付けに関する経過報告(46) なさ
● 連載 第373回 健康で生活するために 長生きをするために ロクスケ
○ 編集後記




● 意見の発信
このサイトでは政治的な発言は一切しないし、保守革新なども一切関わらないが、私自身はかなり強烈な政治信条を持っている。そこで、自分自身のブログなどではかなり意見を書いているが、自分では特に偏っているとは思わないし、単に思いこみだけの主張はしていない。少なくとも集められるだけの資料を集め、読み比べそして現実に起きている社会や国際関連の情報を付き合わせて自分なりに判断している。

国内の資料は無論、かのうな限り海外の資料にも目を通し、集め保存している。実は同年輩の知人達は年齢を重ねるに従い政治的な事に関心が無くなったと言っている人が多い。むろん、人それぞれの関心の対象は違うから、それはけしからんと言うつもりはないが、ただ私自身最も生で激しく動く日本や世界の動きを追い続ける事はそれなりに頭の訓練、思考力の強化に役立つと思っている。

何に熱中するかはそれこそその人が決めればよい事であり、私が関与する事ではないが、政治問題に関心を持つ事は、現実として自分の生活に関わっている事の筈だし、そして自分一人が何を言っても政治が変わるわけではないというのではなく、何らかの主張をすることで、同調者が集まったり反対者との論争になったりする。

だから、ブログやSNSは自分の思いを単に発するだけではなく、討論をする場所でもあり、そのためには尚更自分が理論武装をしなければならない事になる。これが頭の訓練になると思っているわけだ。

趣味に頭を使うなら私もそうしている。語学や物作りなどがそうだろうが、これらは人と意見を交わすことがない。誰がどのように外国語を学ぼうが、物を作ろうがその人のやり方でやればよい事、他者がそれに賛成したり反対したりするような物ではない。が、政治問題は、それが有る。そこが単なる趣味とは違うと言う事だ。

同年輩の知人達が、政治問題などに興味が無くなったとは、人との論争、自分の理論武装、ひいては絶え間ない知識のリニューアルに耐えられなくなったからではないのかと思うのだがどうなのだろうか。

by ロクスケ




● 先延ばしについて考える(95)
引き続き、前回までに引き続いて、2009年10月に小生が執筆したWing Brainメルマガ198号〜199号の記事「先延ばしについて考える(1)〜(2)」について再考察を行います。今回も引き続いて、原因の6つ目、即ち

>6.シミュレーション力の欠如
>
>これは上の5.と切っても切れない面もあるが、敢えて区別した。
>
>普通ならば、物事の筋道を立てる場合、頭の中でシミュレーションをするのだろうと思う。そのシミュレーションが適切でない場合、あるいはそもそもシミュレーション自体をやらない場合、このまま行くとまずいという予見ができなくなり、何でも行動が場当たり的になり、失敗を招くという流れが考えられる。
>
>場当たり的な行動という意味では、上の2.も関係はしていると思う。すなわち、衝動、欲望を抑えきれず、発作的、場当たり的な行動をついしてしまうということである。今述べている6.はそれとは少し違うものである。
>
>これも、脳科学の面からの知識が今現在無いので、追々勉強してゆきたい。

について考えます。



370号において、シミュレーション力を養うための訓練のあり方について考察を行い、普段から観察力、記憶力、特に知識・経験などを連想的に結び付けて頭の中で整理する能力の3つを普段から地道に鍛える必要があると述べた。その上で、371号からは観察力の鍛え方について考察を始め、まずは観察力の構成要素(色合い、輪郭、大きさ、位置)について考察を行っている。

これまで、色合い・輪郭・大きさに関して鍛える方法を、実践結果も交えながら考察を行っている。396号までに、顔等の特徴を大げさに描く似顔絵に着目し、人間の頭の中での顔の輪郭等の捉え方についての考察を行ってきたが、397号からはさらに進め、顔の各パーツ等への注意力の配分度・興味関心度という面に着目している。特に、興味関心の凹凸が観察力の凹凸にもつながっていると考えられることから、観察力を偏りなく適正にするため、根幹要因と思われる興味関心の偏りを是正する方法について考察を進めている。



前々回、脳の記憶の仕組みの原理を応用して、好きなものと嫌いなものとの同時想起を繰返し、それにより好き嫌いを是正・克服する手法に関して、いくつかの疑問点を挙げた。前回はその疑問点の1つ目について、答えを探る方法を考えてみた。今回もそれを続けたい。

前回までに述べたように、自問自答するにも、「今の気分はどうだい?」と漠然とした質問よりも、「今落ち込んでないか?」とより具体的な形の方が効果的と言える。その効果について、以下でより踏み込んで述べる。



改めて、時計の秒針を見ながら自分自身で実験してみると、例えば「今の気分はどうだい?」と自問自答すると、自分の中のもう一人の感情的な自分からの返答があるまで、平均5秒程度はかかるが、「今落ち込んでいないか?」という自問自答であれば、平均2秒程度で返答を得られている。ざっくり所要時間が半分以下という結果は非常に興味深いものがある。

5秒が2秒になっても、3秒縮まるだけではないかとの指摘もあるかもしれない。だが、自分自身の精神状態の特性を踏まえると、この3秒の違いは無視できない違いにつながっていると感じている。

というのは、小生は意識がすぐあちこちに飛んでしまう特性があるからである。「今の気分はどうだい?」と自問自答しても、5秒なら5秒経たないうちに、別の物事に意識が飛んでしまい、返答が無いうちにその自問自答自体を忘れてしまうことが度々あったのである。それが2秒程度に短縮することで、すぐ返答を得られるため、意識が飛ぶ前に確実なセルフチェックができる。大げさかもしれないが、この3秒の違いは小生にとって飛躍的な進歩になった。



…今回はここまで。次回も引き続き、本記事の考察の続きを書きます。

by なさ




● 癖付けに関する経過報告(46)
361号まで「先延ばしについて考える」のシリーズ記事の中で述べてきた癖の付け方に関する経過報告を、2016年始後の362号から独立して別のシリーズ記事として執筆しています。本号でも引き続き、経過報告を行います。



361号までに述べてきたように、感情モニタリング法のセルフチェックを頻繁に行う癖を身に付けるべく、数か月前から継続的に取組みを行っている。毎時00分にスマートフォンのアラームが鳴るようにセットし、アラームが鳴ったらチェックを行うようにしてきた。きっちり毎時00分にチェックができたかを記録するまでには至らなかったが、頻繁に思い出してチェックを行うことはできるようになり、目標とした毎時1回よりもはるかに多い頻度にまでなった。手前味噌ながら、2015年末までにほぼ癖付けとしては成功したと言える。

2016年始からは、より一層の癖付けのため、常時セルフチェックを行いながら他のことを行えるように訓練をしてゆくと宣言したものの、年末までに一度は身に付いたセルフチェックの癖付けの頻度が落ちてしまったことから、再度2015年末までの状態に戻せるよう立ち返って癖付けを再度行うことにした。

2016年末頃からセルフチェックの頻度が再び飛躍的に上がったことから、その頻度を今後も永続的に維持するよう努めつつ、さらに別の癖付けも身に付けるべく、同年末頃より新たな取組みを始めている。今回もその経過報告を行いたい。



この部分を執筆しているのは09/17(日)だが、この2週間、特に最初の1週間は、前回までと比べて、少しだが精神的にやや不安定ではあった。今回の直接の原因は、セルフチェックの頻度もあるが、変動の激しい気候のせいか風邪気味、鼻詰まり気味であり、睡眠時間は普段と同じでもやや眠りが浅かったことではないかと考えられる。対策として、薬を服用するようにしてから、眠りの浅さは無くなり、それ以降はかなり安定している。

その上でだが、前週末にあたる9/10(日)頃、前回述べたセルフチェックの現状の課題(チェックの頻度自体は上がったものの、チェックの質が落ちている点)を克服する方法を重点的に考え抜き、早速実践してみた。結論から言えば、完璧とまでは言わないにせよ、かなり克服できるようになってきた。その点について以下で詳しく述べる。

従来は、チェックリスト・チェックシートを作り、それを高頻度に読み進めながら、項目一つ一つをチェックするようにしていた。それを改め、チェック項目を体系化し、完全に暗記するようにし、かつチェック項目をジャンル別にグループ分けし、各グループに項目何個ずつという数字も併せて暗記するようにした。こうすることで、チェックシートをいちいち読み進めなくとも、頭の中で項目が連鎖的に思い出せ、チェックシートを読み進めるよりもかなり早くチェックできるようになった。手前味噌ながら、かなりの進歩であるように思う。



…今回はここまで。次回も引き続き、本記事の考察の続きを書きます。

by なさ




● 連載 第373回 健康で生活するために 長生きをするために
今更ながらの感もあるが、漫然と生きていると知らない間に時間が経ってしまい、気がついたら1年経っていた、10年経っていた等と言うことになる。思えば子供の頃、時間とは無限と同一の意味を持っていた。とにかく、見る物聞く物触る物に全てが初めての経験の連続であり、またそれが事実かそうではないかなどを考える事もなかったし、善悪すら考えていなかった幼い頃は、自分がいずれ大人になるのだとの意識すらなかったような気がする。

私は幼い頃札幌市で過ごした。最初の頃は自我が芽生える事で全く記憶がないのは当然だが、おそらく最初の記憶が有るのは3歳頃の事で、札幌を離れたのが小学校に入る直前だったから、記憶を持って札幌で過ごした期間は2年未満だったはずだ。

しかし、長い間、私は札幌で十数年は過ごしていたとごく自然に思っており、ある時それがほんの2年だった事を知って驚いた記憶がある。今でも、あの2年の期間が感覚的には本当に2年だったのかと疑いたくなるようなほどだ。

今現在、知らない間に2年などあっと言う間に過ぎている。本当に2年なのかと考えてみれば、いろいろな記録から間違いなく2年なのだが、感覚としては数ヶ月、時には2ヶ月ではなかったかと疑うほどだ。

結局、幼い頃の時間経過の感覚と、現在のそれが違うのは、どれだけ自分が接している物に対する意識の仕方が違うのかにかかっているのだ。

初めて自我を持った頃などは、雲を見ても雨を見ても猫を見てもハエを見ても等しく興味を持ち、観察し記憶に留める。今はそんな事はしない。雲も雨も猫もハエも日常的に見るが、意識にすら止めない。この違いが、時間経過の感覚の違いとして表れるのだ。

物理的な時間経過は幼くとも成人してからも変わらないが、その時間の評価は、周囲に対する意識や評価の仕方で大きく変わる。

いま、時間を意識しないまま過ごしてしまうのはあまりにもったいないと思っているのだが、今から幼い頃の感覚を持つ事は出来ない。とすれば、自分が感動し評価出来る物を自分で作ればよいのではないか。

テレビを観て1時間過ごすのも、自分で知りたいと思っている事を本やネットで調べて1時間過ごすのも物作りをして過ごすのも同じ1時間。しかし、充実度は全く違う。ちなみに、私はテレビを全く観ないし、テレビ自体を持っていない。これにより、自分が集中し充実出来る時間がかなり増えている。何かを工夫しながら作り上げる、家の改修をする、文章を書く、それで過ごす時間と、テレビ画面を見て過ごす時間は比べ物にならない。

誰もが同じく持っている時間を、どれだけ意識して過ごせるかは本当に大きな違いを生むと思う。むろん、私も長生きをしたいし、100歳までも生きたいが、ただ何も考えずに何もせずに100歳まで生きるなら、やりたい事を集中して80歳まで生きる方が何倍も実質的に長生きしているのだと思う。

一番望ましいのは、充実しながら長生きする事なのだろうが。

by ロクスケ




○ 編集後記
■ 毎年同じ事を言っているような気がしますが、どうも異常気象が続いているようです。東日本以南では残暑が続いているようですが、東北、北海道などは例年より寒くなっているようで、8月に最低温度が3,4℃等という地域もあったし、記録破りの豪雨被害が相次ぎ、記録破りの台風が続けざまに来たりしています。

■ 地震や火山も増えたようで、これが気象異常と関係があるとも思えませんが、もしかしたら有るのかも知れません。いずれにせよ、人間にはどうしようもない事で、とにかくそれらの災害に備え、災害が来ても被害が最小限になる為の努力をするしかないみたいですね。
(この項までロクスケ)

■ この編集後記を執筆しているのは9/20(水)です。例年、9月と言えば、末頃まで残暑が続くことが多く、半袖のシャツで過ごすのが普通ですが、今年は8月から気温が低く、9月初頭には朝晩は長袖のトレーナーを着ています。本号が発行されるのは10/1ですが、日によっては朝起きて肌寒く、コタツやストーブが欲しくなることもありました。

■ 先日、昼間にも関わらず曇天であまりにも冷えるので、遂に居間のエアコンを暖房にして使いました。記憶の限り、9月に暖房を付けたことは殆ど記憶がありません。今の時期でこれですから、今年の冬、来年の夏はどうなるのでしょうか。もっとも、今年の春先は「今年の夏は猛烈な暑さ」という予報でしたから、予想外の展開になる気もします。こればかりは神のみぞ知ることです。
(この項、なさ)



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