★目次 ★ ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ ---------------------------------------------------------------------------- ■ついている人とは? 面白い記事を見つけました。その内容は、大学の一流教授達が、“ツキ”について調査しているそう です。極めてついている人、そして極めてついていない人、400人を選び、彼らの人生について、仔 細に研究しているそうです。以下は彼らの結論です。 “運のよい人生”を送っている人は、思考方法に特徴があり、四つの基本原則に従っているのだそうです。 1) 機会を最大限有効活用する。 2) 直感に従って行動する。 3) 幸運に恵まれることを“期待”する。 4) 悪運に見舞われても、それを幸運に替えることが可能だと信じている。 なるほどな。と思いました。自分の可能性を信じていく。そういうことですね。がんばりたいと思います。 by ナオニャム 一つ一つ、昔から言われてますね。 1)幸運は後禿と言われてましてね、幸運が来たらすぐ前髪をつかんで自分に引き寄せなければ、行き過ぎてから髪を捕まえようとしても後禿なのでつかめない、という意味です。 2)うだうだ考えるより、とにかくやってみて失敗しても次に活かせるという意味です。考えるばかりで実行しない方が、あとで公開することが多いと言うんですが、まあ、程度によりますね。衝動にも通じます。 3)プラス思考ですね。息詰まったときなど、とにかくうまく行く、絶対うまく行くと自分に言い聞かせると、本当にうまく行くということ。理屈抜きでそう思いこむことが大切だとはよく言われてます。 4)後悔はしないこと。反省をして次に活かすと言うことですね。 400人を選んで調査したそうですが、何千年も前から言われている法則です。事実だったというわけですね。 私も実行していますが、ただ自分をまだ信じ切れない面があって、うまく行かないときがあります。けっきょく、自分を信ずると言うことにつきるんじゃないでしょうか。 from ロクスケ ----------------------------------------------------------------------------- ■人体改造・装飾という趣味 自分の体に穴を開けたり、彫って色を入れたり、体に金属を埋め込んだり。そういう趣味の人がいます。かくいう私も、つい先日TATOOを入れました。そこで、今回、そういう人体装飾について、ちょっと書いてみたいと思います。 最も一般的なピアスは、耳に開いている分にはどうにか市民権を得たようですね。でも、ここでとどまらないのが、人体装飾趣味。ピアシング趣味の人は、耳に幾つも穴を空け、向こう側が見えるほどに、穴を大きくしてみたり、鼻、臍、唇、眉、瞼、舌、指、乳首、性器へとエスカレートしていくことも多いようです。 少なくとも、耳に5,6個の穴が開いていれば、そしてそのピアスが太ければ、その人はピアシング趣味であり、まだ自分ではそこまで行かない・・・と思っていても、いつかは耳以外の場所に空けたくなってしまうのです。ちなみに、ピアスはボディーピアスなどをやってくれる、きちんとしたショップがあって、素人がいきなり臍とか鼻とかに自分で開けたりはしません。念のため。 さて、TATOOですが。市民権など全く得ていないTATOOは、生活に制限も生まれてしまうため、かなりの熟慮が必要です。基本的には消えないですし。TATOOアーティストの人たちも、よく考えて決めて下さい。といいます。 私は10代の頃からずーっと考えていて、30すぎて、初めて入れました。いろいろと不運なことやイヤなことがあった2003年に、厄というかそういうのを落とす意味と、2004年こそ、本当に生まれ変わりたいという気持ちを込めた絵柄を彫りました。人として、一人でもしっかりと立って生きていく覚悟。そういうものが生まれたので、彫ったのですが、背中なので、気に入ってはいるものの、しょっちゅう見れるわけではないのが玉に瑕です。 TATOOは、皮膚の深い部分まで傷を付けて、その傷の中に色素を入れ込み、肌の上に絵や模様や文字や記号を表現していくものです。従って、それなりの痛みはあります。これが、耐えられない人も結構いるらしく、何故か男の人の方が弱いという。女の人はやっぱり痛みに強いらしいですよ。色んな表現をされるのですが、私が背中に彫った時の痛みは、鈍い刃先で引っかかれるような感じ。部分部分で酷く痛い場所があったのですが、全体としては耐えられるレベルでした。虫歯の治療の方が、よっぽど痛いです(苦笑)。 体の場所によっても痛みの感じ方は違うらしいのですが、二の腕などは比較的痛くない場所なのだとか。二の腕当たりに彫る人は案外多いですしね。で、最初の一つを入れてしまうと、これまた、次はどこへ入れようか、と思ってしまうもので。日常生活を鑑みて、とりあえず、半袖を着ていれば隠れる場所にしようとも思うのですが、彫ってしまうと見せたくなるのが人情(?)夏にはタンクトップとかキャミソールとかを年甲斐もなく着てしまうのでしょう。もっか、TATOOを入れて困っていることといえば、親に温泉に誘われても一緒に行けない・・・てことですね。 ところで、金属を体に埋め込む・・・というのは、正式な名称は私も知らないのですが。骨と皮の間に、セラミックや金属を埋め込み、まるで、角が生えていたり、異形の骨格をつくるというものです。最近ではさらにエスカレートして、スキンヘッドや額から、鋲が生えているような人もいるようです。私はまだ見たことはないんですが、大阪にいるらしく。怖いけど、ちょっとみてみたいような。 人体装飾は、基本的には痛みや傷を伴う、危険な行為です。だからこそ、自分もきちんと勉強をして、ちゃんとした施設や設備のある場所で、プロにお願いしなければいけないと思います。よく考えて、軽々しくはせずに・・・とかいいつつ、春には二の腕にまた何か彫ってしまおうかと考えている私でした。 by 小町 *私が彫ったのは、サラマンダーと呼ばれる想像上の生き物です。火より生まれ、燃えさかる火の中で再生すると言われ、錬金術などでは、忍耐と再生、純血の象徴と言われています。 画像はtatooです。 ----------------------------------------------------------------------------- ■遅れ勝ちの公の取り組み 一般投稿 東京LD親の会連絡会講演会教室の中の気になる子どもたちに行ったり大人でアスペの外国人の方のお話を伺ったりして、ご報告しようと思っていたらPCが壊れて..すっかりご無沙汰してしまいました。(^^; 1/31に東京都心身障害教育改善検討委員会最終報告に関する説明会なんって言う長い名前の説明会に行ってきました。皆さん鼻息が荒かったですよぉ。かなり厳しい指摘も相次ぎました。だって中間報告書を配って、「最終報告書にはこんなことを付け加えました。」って説明じゃわっからないですもん。「最終報告書を配って欲しかった。」と言う意見に対し「予算がなくて..」ってなんでしょ?だったらなんで中間報告書があんなにいっぱい残ってるの?って腹が立ちました。だいたいこれからを担う大事な子供達の教育に予算てなにさ!って。「配らないんじゃなくて、これから作成して、1部100円くらいで売る。」ってだったら作っとけ!買ったるわい!!って感じです。それに予算がないのは、お偉いさんを委員に入れすぎだからではないかと。お偉いさんばっかりで話していてもお金と時間がかかるだけだです。無償で協力する保護者はたくさんいるし、なぜ現場で実際に見ている教師さえも入れないのか?毎日、向かい合って戦ってる(この表現が合うんだなぁ)教師はたくさんいます。なのに..何がしたいのか..質問をする予定はなかったのですが、つい手をあげてしまいました。(^^;1番前のど真ん中で手をあげりゃ目に付きますよね。「これからを担うだいじな子供達の事だから、皆さん知りたくてここに来ているんです。それを予算がないという理由できり捨てられるのは理解も納得もできません。」って言ったら後ろから拍手が起きて..はっ!と我に返りビビリました。それから心臓バクバクで震えが..やっちまいました。f(^^; 終わってから教育庁?の指導部主任指導主事(特別支援教育担当)の方と直にお話させていただきました。今はAD/HD、LDの子が養護学校の高等部に入ってくると言うことだったので「デンマークには専門の高校があるし、他の国でもそういう子には特別措置で試験時間をずらすとか休憩を多く入れるようなこともしていますが、そういうお考えは?」と聞くと、「何年か先には..」って。「うちは5年生です。早く動いていただかないと。」とお願いしてきましたが、重い腰は上がらないんでしょうね。わたし達はこれからの子のための道作りをしているだけでぇ..いいことなんでしょうが..自分の子はどうなるのか不安です。 それから、わたしのところには学校からはお知らせがこなかったんですが「全校に配布している。」というお話で..その足で学校に行き教頭と話すと「忙しくてつい。。」深々と頭を下げるので「今後はせめて通級(情緒障害児学級)している保護者には..」と帰ってきましたが夏休み中に行われた区の説明会のお知らせももらえなかったんです。学校としてはそんな対応なんだぁ。。って寂しいです。中高一貫のプリントはよくくるのに..(−−# そうそう!指導部主任指導主事の方に、制度の前に全教師の意識改革をすれば「AD/HD、LDの子に関しては通常学級で十分対応できるはず。」と言うと「同意見です。」とただ、やっぱり昔ながらの好調クラスの頭が固いとのことでした。わたしもそう思っていたので、少しすっきりできました。学校って、わたしもそうでしたが親を来させればいいみたいな考えなんです。わたしも行ってましたが、息子をいじめてた子達がわたしまでしっかり露骨ににらむんで渇を入れてしまって、校側も困ってスクールヘルパーを付けてくれましたがスクールヘルパーが来るとなったら、あっちもこっちもになって週2回来ていましたが、2時間づつでした。たいした役に立ってないような..同じ学校に通わせているお宅なんて出産後数時間のママの元(入院中の病院です)へ電話がかかってきたそうです。子供が何かやらかしたとしても、病院に電話しなくったって。。そういうことすら考えてもらえないのが現状です。親の要望は、こっちが恐縮して遠慮するようにもっていくし何年か前に小4の男の子(神戸?)AD/HDで、十分の将来を悲観して飛び降り自殺したって話がありました。そうなってからじゃないと動いてくれないんでしょうか?というかぁ、前例があるぢゃん!みたいな。。目の前で起きなきゃ実感しないのかな?先行きがとっても不安になった今日この頃です。。 参考資料です。↓ 東京都心身障害教育改善検討委員会の最終報告について 小中学校におけるLD、ADHD、HFA支援ガイドライン(試案) 2001年に神戸の方で10歳のAD/HDの男の子が自分の将来を悲観して自殺。 by みゆき 一方最近公の取り組みが早くなってきたようだというご意見もありますので、次号で掲載したいと思います。 ----------------------------------------------------------------------------- ■連載 第19回 責任をとると言うこと ADHDを説明するとき、まず協調されるのは、ADHDとは生まれつきの脳の障害であり、その言動が普通と異なっているとしても決して本人の責任ではなく、また親の躾が悪いためでもないという点ではないだろうか。また、当事者本人の言葉としてもADHDは個性だから認めてしまえば良いではないか、悩むことはない劣等感を持つこともない、自分はこのような人間なのだと納得すれば楽になる、云々。 確かに一理あるが、気を付けないと単なる甘えになるのおそれがあるかとおもう。確かに、脳の仕様が普通と少し違うために注意の集中が出来ない、人の言うことをきちんと聞けない、時間が守れないという不具合が出てきて、自分が困るだけではなく人にも迷惑をかけている。脳の仕様はたしかに本人のせいでも親のせいでも、他の誰のせいでもなく、そのこと自体には罪悪感も劣等感も持つ必要はない。これは何処ででも言われている。 ただ、脳の仕様が原因となって人に迷惑をかけていること自体には責任はない、とは言えない。迷惑をかけられている人にとって見れば、その理由が脳にあろうが親の躾のせいであろうが、本人の性格の故であろうが関係はない。迷惑を被った事実に違いはないのだ。 ADHDの子供を持った親の言葉として、自分の子供には障害があるのだから、授業中うろうろ歩き回っても教室を飛び出してもクラスメートとトラブルを起こしても、それは仕方がない、この子はそういう子なんだからとがめないでくれ、ということがあった。しかし、障害があるのだから単にしかりつけるのでは効果がないので障害を理解して対処の仕方を考えてくれ、と言うべきではないのだろうか。障害は勿論責められるべきではなく、理解されるべきだが、その結果の不具合はやはりたださなければならない。授業中に立ち歩きをしても、外に飛び出してもそれは悪い事じゃないだろう、などと言っていたらその子は一生同じ事を続けるのではないだろうか。 障害は本人の責任ではなくとも、その結果生ずるトラブルには責任を持たなくてはならない。そのことをもっと意識する必要があるのではないだろうか。授業中に飛び出しても残った生徒は事業を続ければよいのだし、飛び出していった生徒は障害のためだからしょうがない、というのは間違っている。まして、親がそれを当然視するのはもっと間違っている。 大人になってから万が一会社の会議の最中にうろうろ立ち上がったり会議室を飛び出して、それは障害のためだから他の人間は容認する必要があるとは言えない。むろん、ADHDでも通常の知能があるから自らを社会に適応させて、会議中に立ち歩きをしたり部屋を飛び出したりはしない。大人になれば自然に治るから子供の内は授業中に飛び出しても良いではないかという事にはならない。それなら、子供のADHDは一切放置して置いても良いと言うことになる。むろん、それがどんなに大きな問題を引き起こしているかは、当事者も親も痛感しているはずだ。 障害を持っていること自体には一切責任はないが、それを放置し社会ルールが守れなくそのためにトラブルを引き起こしているとしたらその点については十分に責任を自覚する必要がある。子供がそうなら親や教師が責任を持たなくてはならないだろうし、大人になれば自分が責任を持たなくてはならない。個性だから認めてしまえばよい、というのは完全に無責任ではないだろうか。 それと、自分で責任を引き受けるという意識を持てば、その方が個性だからと認めるよりもよほどスッキリする。よほど前向きに考えられる。ただでさえ、自分のせいではないことでも責任を負わなければならないことは社会にはいくらでもある。不必要な責任をかぶる必要はないが少なくとも取るべき責任範囲はしっかりと見極める必要があると思う。 ただし、責任さえ認めてしまえばそれで良かろうというのでもない。それだけなら単に開き直っているだけのことだからだ。責任を取るということは、自分で解決出来るという事であり、だからこそ意味がある。 by ロクスケ ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ ★編集後記★ ■ 最近多分テレビで観たんだと思いますが、悲観は気分の問題で楽観は計画だと言う言葉があったような気がします。長い人生の内にはうまく行くときとなんでも悪くなる方に行ってしまうときがあります。それには、それなりの原因があるのでしょうが、今私自身を振り返ってみると、悪く行ったときはそれをくよくよ考え、自分のせいではないと考え、次にまた悪くなる理由を様々考えているのではないかと思います。 ■ うまく行かない理由を前もって考えておけば、本当にうまく行かなくても言い訳が出来るというものです。しかし、これは逃げでしかないし、逃げ腰ではうまく行くものも行かないでしょう。 ■ ところで、うまく行くこともあります。運が良かった場合もあるでしょうが、よく思い起こしてみると自分がその結果をしっかりとイメージしていたときのようです。うまく行ったとしても何でもかんでもスムースにすんなり行くわけではなく、幾つかのトラブルを克服しながらうまく行くことを確信していると、最終的にはうまく行くということです。これが楽観の効用です。 ■ 勿論話はそんなに簡単ではないとしても、失敗する言い訳を用意しているようでは何事もうまく行かないのは当然ではないかと思います。言うまでもないことですが、本人はそんなつもりはないでしょう。曰く、体の具合が悪い、タイミングが悪い、人が理解しない、猫が鳴いた、自分はADHDだから根気が続かない、ASだからこだわってしまうなどなど。その中にはもっともなこともあるだろうし、不可抗力もあるでしょうけれど、だからこそそんなことを考えてみても仕方がないでしょう。うまく行かない理由が50あるなら、うまく行く理由を屁理屈でも100考えた方がよほどやる気が出ます。自分は幸いADHDだからひらめきがある、自分はASだからこだわりを持って集中出来るなどのほうが建設的です。 ■ やる気が出て、興味が出て、目標がはっきり見えて屁理屈でも(全部屁理屈のはずはないにしても)うまく行く理由がたくさんあるなら、その方がよほど気が楽だし仮に多少のトラブルが出ても殆ど気にならないでさっさと片づけてしまうでしょう。 ■ 出来ないだろうと先に悲観してしまうより、出来るはずだと楽観した方がよほど気が楽で、端から多少とやかく言われても気にしないで済むし、そして結果もうまく行くと考えた方が良いと思う次第です。 ■ 実は悲観より楽観が良いとは誰でも知っているのでしょうが、知ってはいても出来ないのが問題なのであり、また鬱状態がひどいとなおさら悲観に傾いてしまいます。ただ、頭の片隅にでも悲観より楽観の方がより現実的な利益があることをとどめておくべきだと考える次第です。 『WING BRAIN 第52号』でまたお会いしましょう♪ |