★目次 ★

 ■ 軽度発達障害者ママには育児サポートが必要だ!    Rosamonde
 ■ 連載 1 僕は子供の国から来た浦島太郎だったのかな むん
 ■ 最近の公の取り組み                 musica
 ■ 連載   第20回   言い訳、愚痴、あきらめ    ロクスケ
 

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■軽度発達障害者ママには育児サポートが必要だ!

 つい最近、某軽度発達障害者(AD/HD&AS)の自助グループのオフに行って来た。今年最初のオフなので、新年会を兼ねてのオフだった。今回のオフは子供連れの親の参加が目立ったのだ。子供はと言うたら半分以上が軽度発達障害を持つ子供の参加だった。本領発揮だなぁと思う場面が多々。自分ワールド全開と言った感じであるのだ。会場には育児ボランティアがいないので、親が自分で子供の面倒を見なくてはいけない状態になっていて、なかなか“大人の時間”がないのが少々気になった。

 ある程度大きい子供だったら自分たちで遊んだり出来るのだが、幼稚園に入るまでの子供が参加したら大変だ。目が離せない状態が続くのだから。あるAD/HDと診断された女性が子供を連れての参加となったのだ。その子供と言うのが2歳になった子供で目が離せないのである。2歳の子供の相手をしてたら大変である。女性が言うには「言うことは2人前」とのこと。2歳のお子ちゃまですから色々注文をつけるのはまあ当たり前だと思い、お子ちゃまに合わせて相手をしてたら大変だと言うことが分かった。

 今回のオフに参加しているあるアスペと診断された女性が「家事と育児の同時進行は絶対出来ない」と前々から言っていた。要するに2系列のことが出来にくい自閉圏の場合は家事と育児と言う同時進行が入ると家事している時に育児をしようとすると到底無理な話だと言うことなのだ。彼女はIQが高い為、何も手帳がもらえないのだと言う。私は「障害者手帳」をもらっているが、彼女の場合はIQの高さゆえ何も取得出来ない状態になっているのだとか。結局、育児ボランティアを呼ぶことになったそうだ。家事をしている間に育児ボランティアに育児をしてもらうことになる。

 2歳のお子ちゃまのママであるAD/HD女性は「障害者手帳」を取得したばかりである。彼女自身も育児の難しさから約1年前に子供も保育園に預けることを決意した。

 約1日だけ、2歳のお子ちゃまの相手をして思ったことは私には家事と育児の同時進行は絶対出来ないと言うことである! 育児だけでもの凄く体力と精神力を使うと言うことがわかったのだから。アスペのママとAD/HDのママは毎日必死になって家事と育児の同時進行をしようとしていることを知った。

 今、軽度発達障害児対策が動き始めているが、親になった軽度発達障害者の育児サポートが絶対必須アイテムになってくるのではないかと思った。今の状態では彼女たちの家事&育児の難しいまま、誰かに支援したくても支援がない体制なのである。ママたちもモチロンだが、パパたちの育児サポートいやファミリーサポートが今すぐ必要ではないかと思った。これは声を大にして言って行かないと大変なことになることは間違いないから。

by Rosamonde

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■連載 1 僕は子供の国から来た浦島太郎だったのかな

僕は今年の6月で40歳になります。でも、外見はともかく、こころ、というか、僕の人格は、子供のある一時期からまったく変わることがなく存在し続けているのです。

もちろん、社会人として、一度は社会に出た身ですから、経験によって、あるいは職場の人間関係の中で身に付けたスキルというものはありますが、なにせ、不注意優勢型ADHDなので頭の中には、いつでも何かを映し出すモニターがあってファンタジーの中にすぐに入り込んでしまいますし、(いろんなイメージがどんどん形を変えて思いもかけないものに変化するんですよ。まるで、メタモルフォーゼするサイケデリックなアニメーションを見ているようです。)思い付いたら、というのは子供の行動パターンそのものです。

また、自閉っ子ゆえのこだわりもしっかりあります。社会人として働いているとき、自分の奥底に沈めていたはずの幼さが、家にいて、自由に時間が使えるようになって、なぜかゆらゆらと、心の表面に漂い出てきたような感じがします。きっと、我慢したり、辛くても耐えるということに疲れ果ててしまったからなのでしょう。

その証拠に、自宅療養を始めて一年半の間にすっかり堪え性が無くなってしまい、感情がストレートに出てきやすくなっています。朝でも夜でも一人で居られるところなら、よく泣いていますし、(1歳になる愛犬ルナはそんな僕を慰めてくれるので、よく話し掛けていますし、とても愛しく頼りになる存在です。)

最近は不安を感じることが多くなって、家でも、デイケアの最中でも、頓服の抗不安剤が欠かせなくなりました。(デイケア中に悲しくて臥せって泣いてた日もあったなぁ。)

さて、心に秘めた幼さは態度に表れやすいようで、朝晩は布団の中でわけもわからず不安になって泣き、こだわりを妨害されたりすれば、不快になって不満を言い、やりたくないことを強要されれば駄々をこねて自分の居場所に逃げ込みます。これ、自閉っ子特有の反応ですが、それをなかなか人は理解しないんですよね。

そう、なにせ、僕を含めて自閉っ子は、自閉星人なんですもん。地球人と違った生態と文化をもった一種族と考えてもらって結構なんです。(ニキ・リンコさんの受け売りですけど、僕はすごく共感しています。)

で、その自閉星人が何を悩んでいるかというと、年齢と人格の不一致、年齢相応、ということなんです。

ネンレイソウオウ・・・。それって、何なの?年齢にあった言動や振る舞いを表す言葉のようですけど、そんな事、いったい誰が決めたことなんでしょうか?

もし、僕にその言葉を当てはめるとしたら、言動はともかく、振る舞いはソウオウとは言えないでしょう。

僕は今39歳。後4ヶ月ほどで40歳になるにもかかわらず、大人の会話ってできません。子供が喜びそうなことばかりが僕に中には詰まっているみたい。

大人と話すときは、一応大人の顔して話してみたりしますが、子供モードが切り替わらないので、あの人はなに小難しい事、話してるんだろうってな顔して、聞いていたりします。

最近思ったんですけど、今の僕の心境と、玉手箱を空けてしまった、浦島太郎が周りの人と接した時の感じって似ているような気がします。だって、若かった浦島太郎は一瞬にしてお爺さんになってしまったけど、僕は、リアルタイムを生きて来たにもかかわらず、外見は若作りというか、センスのおかしな格好をした40おじさんなんですもん。中身はといえば、10代のころ考えていた事と、ほとんど変わらない事を考えているんじゃないのかなぁ・・・。

そうそう、後は過去の思い出にすがって生きているようなところもあります。だって、就職したとき、学生のままでいたいってとても思いましたし、小学生の頃から、過去に戻りたくて、ファンタジー(雑念)の中に自分を遊ばせてたようなこともありましたし。

気が若い、といえば聞こえはいいですけど、実社会の中で生活するには、不安だらけです。うん、あの、TVでやっている始めてのおつかいの子供たちのように、自立するために乗り越えていくことにはびくびくしています。

どうしたら、楽しく、明るく生きていけるんだろう?、お金の心配は要らないのかな?、一人で寂しくなったらどうしよう・・・。考えている事はとってもレベルの低い事ばかりなんですよね。

でも、反面、のん気に構えすぎてるところもあるんですよ。子供は無邪気で無防備です。自閉星人も同じ…。素直すぎるから、損をしてもどうにもできない・・・。

自分と浦島の事を考えてみたとき、そういえば、自分は年齢の事を考えるのが嫌になってるなぁと思いました。

ここ数年、そんな気持ちになるようになって、去年の誕生日には、年齢をカウントするのを止めようと思いました。今年は39+1歳でもいいのですけど、アフリカだったと思いますが、ある部族は年齢を数えて、ある年齢になるとまた0歳からカウントし直すというのを思い出して、うん、それもいいなぁと思っています。

でも、何でカウントするのを止めたかというと、日本人の寿命は80歳ぐらいですよね。ということは、僕は人生の半分をつまらない辛い事ばかりしていたような気になって、残りの40年分まで灰色に見えてしまうからなんです。

時間の事を考えるのも怖いですよね。そこのない暗闇の中を落ちているような感じがして、それも、どこから落ちたかも知らず、どこまで落ちるのかもわからない…。そんな感じがするんです。

以下次号

By むん
 


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■最近の公の取り組み

文科省で、小・中学校におけるLD(学習障害)、ADHD(注意欠陥/多動性障害)、高機能自閉症の児童生徒への教育支援体制の整備のためのガイドライン(試案)というのを1月に出した。全100ページを越える膨大なものである。これを印刷するだけでも、かなり時間がかかった。日本として、遅ればせながらと言っていい内容である。ここ参照。しかも、教育行政担当者用、校長用、特別支援教育コーディネーター用、教員用、巡回相談引用、専門家チーム用、保護者用、本人用(ルビ入り)と細かく分かれており、一律に一方的な見解を出さなかったことは評価できる。

 ここ、2年で、どどどっとこういった類のものが文科省や東京都教育委員会などからでるようになった。とりわけ、目をひくのはADHDや高機能自閉症がクローズアップされてきたことである。実際、情緒学級などでは、アスペルガー症候群やら高機能自閉症が学習障害よりもずっと多くいると聞く。ADHDもこれから増えていくであろう。

 うちの子供のときは、担任に「どっか転校したらどうですか」と言われる始末だった。だから、最近の動向は目を見張るものがある。そして、自治体も目を見張るほどではないが、少ない予算をなんとかして、新しい支援学級や通級指導学級を作る動きが少しずつでてきている。

 なんだろうか。昔私の子どもの時代は、公立の教師と言うのは、もっと悠長だったのだろうか。こういった軽度発達障害を持つ子どもはたくさんいたはずだ。いや、現実にいた。だが、普通のクラスで、まあすこしいじめられることやからかわれることがあったかもしれないが、なんとか生き延びてきたのではないだろうか。

 それが、学力重点教育になってきて、加速していたころに、不登校やら、いじめやら、学級崩壊が多発したように思えてならない。

 そこで、いろいろな出口を作ろうとしているのだろうか。一方で学力偏重教育だったのに、学力が落ちているという反比例現象、陰湿ないじめによる年少の子どもの自殺、思春期の子どもの犯罪が増えて、日本の教育はいかにも堕落してきたように思える。

 特別支援教育が誰のために何のために行われるのか、私はこの目で確認したい。ボトムアップだとしたら、呆れてしまう。軽度発達障害の子どもたちが、学力に偏重しないで、豊かにおおらかに自信をもって生きれるようにしてほしいものだと思う。

 by MUSICA
 

折しも前号に一般投稿で公の取り組みが遅いというのがあり、認識の違いだけではなく、偏りが大きいのだろうと思います。つまり、両方の意見が正しいのでしょう。

 昔はLDもADHDもASも無かったのかというのは、強制的に教師が生徒を力で押さえつけてしまったし、ついてこられないものは放って置いたからでしょう。昔でも授業中に立ち歩きをしたりよそ見をするようなことはあったでしょうけれど、そんなばあい、教師はその生徒をぶん殴り、バケツを持たせて後に立たせたり廊下に正座させたりしたんです。わたしもやられました。授業中に全く無関係なことをいったりしたもんですから。

 親も、教師の体罰を当たり前と思ってましたし、だから、学級崩壊などあり得なかったんでしょう。

 今の所私見ですが、学校でも自閉症の方がADHDより多いというのは、基本的に両方を併記しないからではないでしょうか。これは日本だけなのか海外でもそうなのか調べてみようと思っていますが、ASとADHDは共存しないとされ両方が認められる場合はASが優先するとのことです。だから、ADHDであってもそう見なされない結果ではないかと思います。

 これが医師の都合でそうなっているなら本末転倒だと思います。ASもADHDも神経伝達物質の不具合ということで、前頭葉の機能が落ちているとの事ですが、おなじ神経伝達物質の不具合で現れる症状が異なると言うことは具体的に前頭葉のそれぞれ異なった部位に対する影響が大きいと言うことでしょう。どの部位かはまだはっきりしていないと思うのですが。

 近視で老眼の人がいます。つまり、遠くも近くも見えないんですが、外界に影響されやすい状態と外界とのつながりが薄い状態が同時に存在することはあり得るのではないでしょうか。相反する状態をもたらすASとADHDが共存するはずがないというのは医師の都合だけのような気がするのですが。

 この点は海外の方が正確な情報が得られそうなので、調べてみます。
 
from ロクスケ

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■ 連載   第20回   言い訳、愚痴、あきらめ

 私は時々電話で姉と話す。この姉には子供の時以来じつにかわいがってもらったし、世話になっており、未だに頭が上がらない。子供の時は、いつ何処へ行ってしまうか解らない私にいつも付き添い見守ってくれたし、周りと諍いを起こしがちな私をかばってくれた気丈な姉だった。
 
 その姉も年とともに、しかも最近夫を亡くし、かなり気弱になっているのが気になっている。それは義兄が生きていたときからそうなのだが、電話で話すとまるで明日にでも死んでしまいそうなほどあそこが痛いここがだるいと言い、子供は親のことを無視し、親たちも同僚達も自覚が無く(姉はずっと学校教師をやっている)何もかもうまく行かない、と愚痴を聞かされる。
 
 確かに、昔から体は丈夫ではなかったし、仕事は大変で忙しいときは家に仕事を持ち帰り、毎日真夜中まで仕事をしたり生徒の家庭訪問のために義兄が車で送り迎えをさせられるなどを知っていたから、大変なのだとは思っていたし、愚痴を聞く度に本当に心配したものだ。
 
 ところが、たまに帰郷して姉に会ってみると案外元気で、私がのんびりしていたりするとさっさと掃除でもしなさいと発破をかけられる。義兄も、なぁに、元気元気、心配ないよ、と言っていた。
 
 義兄が亡くなってから一年ほどして昨年末またあったのだが、それ以前の電話の様子からかなり落ち込んでいるのだろうと思っていたのとは裏腹に結構元気だった。
 
 結局、姉にとって気を許せる私に愚痴ることは憂さ晴らしでありストレス解消の手段なのだろう。むろん、姉の状況が何もかもうまく行っているとは言えないが、それは誰でも同じ事であり、探せば私にも愚痴の種はいくつでもある。ただ、私は昔から人に愚痴を言うのはあまり好きではなかったし、たまになんとなく愚痴を言っている間に自分自身がそれを信じ込んで落ち込んでしまうような事が多い気がしていたからだ。つまり、愚痴を言うことは私にとってはストレス解消手段ではなく、新しいストレスの種でしかない。
 
 人それぞれであろう。愚痴は愚痴、実情は実情とはっきりたてわけられれば親しい人間に愚痴を言うのもストレス発散の手段になるのだろうし、それならば愚痴も必ずしも悪くはないのかも知れない。
 
 ただ、気を付けなければならないのは、リラクゼーション法としての愚痴の範囲を超えてそれが言い訳になったり、そしてあきらめになってしまうことだ。
 
 個人差は勿論あるが、人間とは案外暗示に影響される。とくに、自分自身に明確な価値観がなかったり、確信がなかったりしたり、相手に権威を認めている場合などは簡単に暗示に影響されてしまう。もっとも気を付けなければならないのは自分で自分に暗示をかけてしまうことであり、自分ではそのつもりでなく気軽に口にしているはずの愚痴が自己暗示になって自分の心をむしばんでゆく事があるのだ。
 
 言うまでもなく、何か新しいことをやろうとするとトラブルが発生するのが普通であり、そのトラブルを一つづつ解消してゆく事で物事は達成する。そのトラブル発生の度に愚痴を言っていたら、いつの間にかトラブル解消の努力をする前に言い訳を始めてしまいあきらめてしまいかねない。トラブルが発生したら原因を確かめ、解消方法を探り、実行する。そのために反省は必要だが、後悔は百害あって一利無く、まして愚痴はそんなときこそ意識から消してしまうべきではないだろうか。
 
 暗示は、うまく使えば本当に威力を発揮する。楽観の効用を前号の編集後記で書いたところ、BBSで同感ですという書き込みを戴いた。これも自己暗示がうまく働いた例であり、愚痴を言うより楽観を口にした方が結果は天と地のさほどある。
 
 楽観の効用が暗示のプラス面であるとすれば、愚痴はマイナス面だ。やはり、プラス面を採用した方が良い。鬱状態の時などは解っていてもそうは出来ないのが問題なのだが、やはり忘れてはならないことだろう。

by ロクスケ

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★編集後記★

 ■ 最近東京は全く季節はずれの暖かさが続き、それはそれで嬉しとしてもやはり何か地球に異常が起きているのではないかと気になります。異常は気候だけではなく、世界中で紛争が続き牛のBSE、鯉がヘルペスで大量死したと思っていたら鶏始め多くの鳥がインフルエンザで死んだり処分され、そして人間に感染しています。SARSも相変わらず油断がならない状態であり、この2,3年新しいウィルス感染症(BSEは違いますが)などが猛威をふるい始めています。
 
 ■ 地球ガイア説というのがあり、地球は巨大な生物であり、その新陳代謝が人間という微生物に冒されて病気になっている、だから、いま治療をしないと地球は死んでしまう、という事を言う人が居ます。
 
 ■ 科学的に言えば地球は無生物であり、まるで奇跡のように保たれているこの絶妙なバランスは味気なく言えば単なる偶然のたまものであり、高々数十万年位の一瞬の事だから、そのバランスも人間的な視野で言えば今の異常と見える状況も単なる微妙な揺らぎの内に入っている、異常気象も天変地異も、人間の生産活動とは関係がない、と言う人もいます。地球温暖化は人間の出す炭酸ガスとは無関係、石油は枯渇しないで日々新しく自然に生成されている、大気汚染ガスは火山活動や有機物の腐敗から発生する量に比べて人間の排出する量は無視しうる云々と言うわけです。絶滅生物が増えているのも自然現象で、過去にも何度も大量絶滅があったとも言います。
 
 ■ 地球が科学的には無生物だというのは事実です。ただ、心情的に地球は生物だと考えることも誤りだとは言えないでしょう。そう考えるからこそ、地球を傷つけない生産活動を考えるのは無駄ではないでしょうし、なにより人間だけの地球ではなく、他の生物と共存しなければ人間自身も生存出来なくなるのは疑いもない事です。
 
 ■ どうも身近のことに気を取られ、大局的な視野を失い勝ちだと、最近思うようになり、自分の周りの事にも関心を持たねば、と思ったら、やはり地球の現状が気になった次第です。
 
 ■ 今号の画像はアメリです。


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